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第十二話:悪魔の鏡

 本当に長い一日だった。

 ナーサリアとの面談に始まって、始業式での挨拶と職員同士の顔合わせ。うんざりするほどの予定を消化し終えた後での礼拝堂訪問。

 未知の経験は人の体感時間を引き延ばすというが、確かにその通りだった。


 高揚の余韻燻る精神と安息を求める体。そんな微妙な心身の不一致を感じながら、割り当てられた寮の部屋に入る。するとそこには俺を待つセシルドの姿があった。

 ナーサリア付きのメイド長である彼女が何故こんな所にいるのかといえば、それは屋敷に残してきた俺の荷物を運ぶためだった。

 最初にその申し出を聞いた時、もちろん俺は固辞した。これからナーサリアを裏切ろうとしているのに、そんな自分がこれ以上彼女たちの世話になるのは不誠実だと思ったからだ。

 これまで散々世話になっておきながら、今更そんなことに拘るのはおかしな話かもしれない。しかし俺は別に人でなしになりたい訳ではないのだ。

 ただ一条と二見のためであれば、外道に堕ちることも厭わないというだけで。


 どちらも俺のエゴの産物ではあるが、似ているようで大きな違いが二つの間にはある。

 強くなければ生き残れないが、優しくなければ生きる資格がないそうだ。

 確かにナーサリアは見ず知らずの俺に食事を与えてくれた。住まいを提供してくれた。この世界での人権すら保証してくれた。

 そんな大恩人が何よりも大切にしているオルドミア学園を、俺は蹂躙しようと企んでいるのだ。

 一条と二見がどれだけ俺にとって代えがたい存在とはいえ許される所業ではない。

 しかし俺は二人を蘇らせる方法を知ってしまった。知ってしまった上で二人の命を諦めるなんて選択も俺にはできないのだ!

 そもそもナーサリアにしたところで学園、ひいては大陸の未来のために非情な手段を取ることを厭わなかった。

 大を守るために小を捨てる。理屈としては間違っていない。

 けれどその理屈を人の命にまで当てはめてしまうと感情との間に齟齬が生じる。

 幾ら理性が犠牲を容認しても、感情がそれを良しとしないのだ。

 大義名分を掲げたところで罪悪感は消えてくれない。選択には常に後悔が付き纏う。

 特に犠牲を伴う選択においては——


 ――それでも人は選択を迫られるのだ。


 決して正解しようのない選択を


 結局、俺にとっての最善とナーサリアにとっての最善が、悲しいまでに食い違っているというだけの話だ。

 斯くして俺は、ナーサリアを可能な限り誠実に裏切るよう腐心していた。

 自分の心だというのに本当にままならない。


 「ご指定の御荷物を持参いたしました」


 そう言ってセシルドが示した先には、三つのバックパックが仲良く並んでいた。

 部屋の調度品の中でそれらが酷く浮いて見えるのは、まるで焼け跡から掘り出されでもしたように焼け焦げていたからだ。小さからぬ穴も数ヶ所あり、もはや実用に耐え得る代物でないことは一目瞭然だった。

 中身にしたって大したことはない。大部分が登山に必要な道具であり、あれば便利だが無いからといって日々の生活に支障を来すような物ではなかった。

 それなのにわざわざセシルドに運ばせたのは、元の世界から俺たちが持ち込んだ唯一の物であったからだ。そして何より、二人を失う前の思い出がその品々には詰まっている。

 たとえ大金を積まれようと手放す気はないし、ましてや形見になど絶対にさせてなるものか!


 「他に御入用の物はございませんか?」


 セシルドに尋ねられた俺は横に首を振る。


 「俺のいた世界では庶民の暮らしが普通でした。むしろこれまでが恵まれ過ぎていたのです。セシルドさんにも大変お世話になりました」


 それに対して彼女は「主人の言いつけに従ったまでです」と簡単に返す。

 微動だにせぬ表情は一見すると冷淡なようにも受け取れる。けれどそれが彼女なりの気遣いであることを俺は知っていた。

 俺たちの間には埋めようのない溝が横たわっており、またそのことを互いが了解している。

 だからセシルドは、余計な私情を挟まずにあくまで業務の一環として俺と接しようとしているのだ。

 そんな加害者の臆病な態度に救われていないと言えば嘘になる。僅かな間でも罪悪感から逃れることができるのだから。

 たとえそれが傲慢な被害者であるという新たな負い目の温床になろうとも。


 「それではわたくしは失礼しますが、その前にこちらをお受け取り下さい」


 そう言って彼女が差し出したのは小さな革袋だった。

 不審に思いながら受け取ると、ずっしりとした重みを手の平に伝わる。


 「これは……金ですか? それにしては多すぎるようですけど」


 揺らした時の金属音から中身の見当をつける。


 「左様でございます。ミカミ様がアーネンベルク邸を出られるならば、個人で自由にできるお金が必要だろうとお嬢様が用意されたものです」


 思わずため息が漏れる。何から何まで面倒を見ようとするあの人も大概苦労人である。それでも何とかできてしまうからこそ、より多くの労苦を背負いこんでしまうのかもしれないが。

 そして挙句の果てに裏切られる。


 (報われないよな)


 自分のことを棚に上げて随分な言い草だと思う。でもこれは侮蔑や憐憫ではない。

 アーネンベルクという家に生まれた彼女は、貴族たるに相応しい才覚で大陸の未来に貢献している。頭が上がらないほどに本物の貴族だ。

 しかし——


 ――彼女が高貴なる者の義務を果たし続けたとして、一体どれだけの人間にその真価が理解できる?


 弁証法に則れば、人類を次のステージへと止揚する超人の出現は、諸手を上げて喜ばれるはずではないか。

 それなのに現実はどうだ? 三守秋途という人類の敵を野放しにしたままだ。

 ならばこの感情はやはり怒りなのだ。


 正しさを求めてしまったがため、無知な大衆と出鱈目な世界の中で俺たちは孤独だった。


 「そこまでしていただく訳には……と言っても持って帰ってはくれないのでしょうね」


 諦めを滲ませた声で俺は言う。

 目の前の従者が決して譲らないことを既に知っているからだ。


 「これはミカミ様の門出を祝いたいというお嬢様の気持ちです。私がこのまま持ち帰れば叱責を免れないでしょう。御不要ということでしたら、ミカミ様が直接お嬢様にお返し下さいませ」


 セシルドはそう言うが、その主人にしたところで尤もな理由をつけて、決して受け取ってはくれないだろう。


 「それでは有難く受け取らせてもらいます。感謝していますと、そう学園長に伝えてもらえますか?」

 「それにつきましてもミカミ様の口からお伝え下さいますよう。その方がお嬢様も喜ばれます。それと、」


 そう言ってセシルドは鞄から二つの箱を取り出した。


 「こちらは私とアンドレイからでございます」


 思いがけぬ事態に反応できずにいる俺にそれを押し付けると、相も変わらず模範的なお辞儀を残してセシルドは部屋を出ていった。

 扉の前でしばらく立ち尽くしていた俺だったが、やがてその視線が手元へ落ちる。心にも影が落ちる。ナーサリア、セシルド、アンドレイ。俺を心配してくれる人たち。


 (こうして余計な柵ばかりが増えていく。本当に欲しいものは零れ落ちていく癖に)


 屋敷の人たちからの餞別をまとめてサイドテーブルの上に放ると、俺は疲れ切った身体を長椅子に横たえた。


 「さて――」


 これでようやく一人になれた。俺に干渉する者は誰もいない。


 「――いや、まだいたな。聞こえているか?」

 『ああ、聞こえている』


 室内は無人であるにも関わらず即座に応える声がある。

 それは俺の内から直に響いてくる。


 「ナーサリアの監視からは離れた。これでようやくアンタの力を借りることができる」

 『だが気を抜くな。我との関係を決して余人に悟られてはならない』

 「分かっている。俺がアンタと契約していることが知られれば、流石のナーサリアも俺を許さないだろう。俺と彼女の利害は対立しているからな」

 『そして我々の利害は一致している。世界石を欲する限り、我は汝に力を与えよう』


 魔王ベルサリウス・ブレアマインド。それが声の正体だった。

 親友たちを失い、自閉した精神世界に引き篭もる俺に奴はこう言った。


 『我と契約せよ、異邦人。さすれば失った者を取り戻す力を汝に与えよう』と。


 迷う余地などなかった。

 たとえこれが悪魔の囁きで、悲願成就の代償に魂を求められようとも、今より悪い状況などあり得なかったからだ。

 それにベルサリウスの言う通り、確かに俺たちの利害は一致していた。

 一条と二見を救うには世界石と呼ばれる高濃度結晶体が必要だが、当のそれは学園迷宮の奥深くに安置されている。武器も魔術も満足に扱えない一般人が、運だけで辿り着けるような場所ではないのだ。

 だから俺は奴の力を利用することにした。太古より存在した魔王の知識・魔力・魔術の全てを。

 代わりに奴を世界石の封印から解き放つ。それが俺たちの交わした契約であり、契約を介して俺たちは繋がっていた。だから呼びかければ応えてくれる。


 『これからどうするつもりだ?』

 「迷宮の攻略に必要な面子を揃える。そうしなければ教師である俺は迷宮に入れないからな」


 迷宮攻略はオルドミア学園が生徒に課している義務である。卒業するための必須条件といっても良い。

 最深部までの攻略は求められないが、より深い階層を制覇するのは自己の能力と名誉を示すまたとない機会である。評価対象はあくまで生徒であり、俺は監督役という形でしか関わることを許されない。

 強行突破の手段も考えはしたが、迷宮の管理は厳重を極めていた。

 入り口には常に厳戒体制が敷かれており、鼠一匹通り抜けることは叶わない。

 それに強行突破したとして、一度の挑戦で最奥まで至れる保証もないのだ。たとえ魔王の力を借りられるといっても、俺の肉体的限界・行動原理・状況判断力は凡人の域を出ないのだから。

 万全を期すならば多少迂遠であっても、実力のあるパーティーを利用するのが最も成功率の高い方法だ。問題はどうやってそれだけのメンバーを集めるかだった。


 『我にできることはあるか?』

 「パーティーは四人一組を原則としている。候補者の情報を集めたい」

 『実力者を選別すれば良いのだな。直ちに使い魔を放って探らせよう』


 ベルサリウス曰く、知能の低い動物であれば使役することは難しくないそうだ。


 『有力な生徒を集めたとして、そう上手く監督役になれるものか?』


 奴の懸念は尤もだが、それについては俺も答えを持たない。


 「それは俺にも分からない。だから俺がいなくても動いてくれる忠実な駒であることが望ましい」

 『成る程。パーティーが汝の支配下にあれば、監督役が誰であろうと最深部を目指してくれるという訳か』

 「そうだ。何度か迷宮に潜っていれば俺にお鉢が回ってくる機会もある。何にせよ元手がなければ始まらないだろう?」


 俺たちが求めるのは高い素養と依存心を併せ持つ生徒だった。


 『我にはその者の人間性まで見極めることはできない。もとより存在が違いすぎる』

 「それは俺に任せて貰おう。戦闘力さえ調べてくれれば文句はない」

 『汝には勝算があるようだ。聞かせてもらおう』


 一呼吸の後に俺は話を切り出した。


 「魔王のアンタに聞くのも変な話だが、人間が人間であるための条件は何だと思う?」

 『知性だと考える』


 間髪入れない答えに軽く驚く。


 「俺もそう思う。まあアンタという例外を除けばだが」


 俺とベルサリウスは互いに皮肉げな笑みを浮かべた。

 実際に目の前にいる訳ではないのに、何故か奴の表情まで思い描くことができる。

 これが契約を結ぶということであるらしい。


 「一説によると、人間は理性という病に侵された動物であるらしい」


 感心したように奴は唸る。


 『理性が病とは、興味深い表現だ』

 「理性があるからこそ人は疑いを持つ。疑うから物事を完全に肯定することができない。理想や現実、家族や他人、果ては自分すらも疑わずにいられないのだから、病的な生き物だと思わないか?」

 『確かにそう言われると病のようでもある。しかし何故疑うのだ?』

 「信じたいからだろう」


 ベルサリウスは訝しんだ。


 『矛盾ではないかのか?』

 「そうさ。理性とは破壊衝動の一種。真相を解明するには対象を切り刻まなければならない。だがそれは、破壊しきれないものを見つけたいという願望の裏返しでもある。もしも自分という存在に疑いを持っているのなら、それは自分の存在に確信を持ちたいからだ」

 『肯定には苦悩が不可欠ということか』

 「苦悩を突き抜けてこそ歓喜に至れる、と、まあ受け売りだが。人間の生はいつだって逆説的にできているのさ」


 肩をすくめて俺は傍観者を気取った。


 『汝の言いたいことは理解した。しかしそれが勝算にどう関わってくるというのだ?』

 「さっきも言ったが、人は誰だって自分の存在に確信を持ちたがっている。ではそのために何が必要だと思う?」

 『苦悩という話だったが』

 「どうして苦悩が生まれるのか考えてみろよ」


 しばしの沈黙。その時間を利用して俺はセシルドから渡された箱の中身を検める。そこには銀色に輝く懐中時計と一本のダガーナイフが入っていた。


 「……」


 自然と溜息が出たと思えば、どうやらそれはベルサリウスのものだったらしい。


 『我には分からない』


 気を取り直して奴との会話を再開する。


 「他者の存在だ」


 人は一人では生きられない。

 それは物理的な面に限った話ではなく、人は必ず他者という写し鏡を必要とする。

 だが肝心の他者が鏡として十分な役割を果たしているとは言い難い。

 誰にだって主義主張があるし、自分のために生きていない人間など存在しない。白雪姫の物語よろしく、物言う鏡など腹立たしいだけだ。

 それでも等価交換の法則に基づくなら、不本意であっても鏡としての機能を果たすより他ない。自分の話を聞いてもらうためには厭々であっても他人の話に耳を傾ける必要があるのと同じだ。

 そのように恣意的な鏡なら鏡面が曇っていることもあるだろう。それでも鏡以外に自分の姿を確認する方法がないのであれば、そんなものでも我々は頼らざるを得ない。自分の目が狂っていないのを信じて。

 他者との歪な関係を通してしか自己の輪郭を確認できない我々は、自ずと肯定と否定の狭間を彷徨うこととなる。



   これが私だ。

   いや、こんなのが私であるはずがない。

   それでも自分であると信じるしかない。

   認めない。絶対にどこかが間違っているはずだ。



 そんな葛藤に我々の存在は引き裂かれ、乱れた自我は不確かさの中へと導き入れられる。

 要するに人は、憶測としての自己を生きているに過ぎないのだ。

 「自分らしく」生きているのではなく「自分らしい」存在を模倣して生きる。


 そうやって矛盾の上に成立している。禁断の果実に手を付けた人類に相応しい原罪ではないか。

 しかし心を不安で蝕もうとするこの原罪こそが、俺にとっての要諦であった。


 「どうすれば人は自分らしく生きられると思う?」


 魔王が答える。


 『汝の話を聞く限り、狂いなき眼と完璧な鏡であると…………そういうことか!』


 気が付いたようである。


 「そうだ。俺が完璧な鏡であると信じさせてやれば良い」


 葛藤の解決を放棄する――現実と折り合いをつける――ことを成長と呼ぶのなら、思春期とは葛藤の真っただ中にいる時期のことだ。


 「俺が奴らを自己矛盾の苦しみから解放してやるのさ。そんな連中にパーティーを組ませれば掌握するのは容易い」

 『精神支配か』

 「そんな大層なもんじゃない。これは体験談だが、幸福を知らなければ不幸であることに耐えられる。しかし一度でも幸福を味わってしまえば、以前の不幸に戻ることはできない。奴らは俺が提示した自己像に追従し始めるだろう」


 自分らしく生きているのだと、俺の前だけではそう錯覚させてやろう。

 俺の欲望に従って徐々に自己像が歪み始めた時、奴らはどちらを信じるだろう。

 自分の眼か? それとも鏡か?

 もしも俺が奴らの欲望を十全に映し出していれば――主客転倒――主体じぶんよりも客体かがみを大事にする盲目的人間が出来上がりである。


 『悪魔的だな』

 「悪魔の方が契約に忠実なものと相場は決まっている。俺はアンタを裏切らない。だからアンタも絶対俺を裏切るな」

 『元よりそのつもりだ。我にとって汝の代わりは存在しない。汝の世界の言葉を用いるなら、文字通り我らは一蓮托生だ』


 そうであってもらわねば困る。少なくとも一条と二見を蘇らせるまでは。



 一蓮托生というのなら俺たちだってそうだ。何の因果か、俺だけが生き残ってしまったが。

 しかし蓮の花は泥中にこそ咲くと聞く。汚濁を飲み込んで尚、美しく咲き誇るのだという。

 なら極楽の池に蓮が浮いている理由はきっと――――。


 醜い世界で耐えるだけの人生はもう終わりだ。

 俺は俺たち三人が手に入れた正しさを信じている。

 理想とは与えられるものではなく、汚泥を舐めてでも獲得するものであった。

 大を守るために小を捨てる。確かにそれは道理だ。

 だが何を大事とするのかは人によって異なる。

 いつまでも自分が守られる側に入れるとは思わないことだ。





 (そうだろう? ナーサリア・フォン・アーネンベルク)


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