第一話:日常その1
ジャンル変更に伴い、不調法ではありますが再投稿させていただきました。ご了承下さい。
人の命に限りがあるように、人が理解できることにもまた限界がある。
そして世の中には理解できないことの方が圧倒的に多い。
どれだけ文明が発達しようとも、世界は未だ未知に満ち溢れている。
人はさながら、大海に浮かぶ一艘の小舟のようなものだ。
望みを持とうとも、どこへ向かえばよいか分からず、行きたい方へも進めない。
ただただ潮の流れに身を任せ、空の高さと海の深さを思い知るしかない。
井の中の蛙大海を知らず。
されど井戸より出でたとて、大海の果てなお知れず。
それでも希望はある。
無二の親友と巡り会うことができれば、旅の困難ですら絆を強めるよすがとなる。
旅の本質は、どこへ行くかではなく誰と出会うかにある。
確かな絆は標となり、海に注ぐ月明かりのように天までの道を形作る。
運が良いことに僕に二人の親友がいた。二人と一緒にいられることが僕の最大の喜びだった。
たかだか二十一年の人生ではあるが、そう断言することができる。
この先の世界がどれほどの理不尽と不条理に塗れていようとも、三人でならば生きていくことができる
……そう思っていた。
この上なく贅沢で、それでいてささやかな望みだったのに――
そんなある日だった。僕が二人を失ったのは。
思い出すのに半年、理解するのにさらに半年の時間を要した。
理解などしたくなかった。けれど、どれだけ頭で否定しても体の傷と心の痛みが僕に現実を突きつけてくる。
それが紛れもない真実であり、何よりもう終わってしまったことなのだと。
二人のおかげで、僕は至福の時間を味わってくることがきた……だから気付けなかったのだ。
世界がとても気紛れで、
とても良い加減なものだということを。
世界は決して僕たちのためにあるのではなかった。だから僕は一人になった。
三守秋途に二度目の春が訪れようとしている。
◇ ◇ ◇
「ミカミ様」
冷厳なる声が僕を呼んでいる。しかし肝心な内容は
本日はどちらでご朝食をお召し上がりになりますか?」
「おはようございますセシルドさん。ナーサリア様はもう出かけられましたか?」
「いいえ、まだ食堂にいらっしゃいます」
「それじゃあ僕もそちらで食べることにします」
「かしこまりました。それでは食堂でお待ちしております」
そう言うと、セシルドさんは目が覚めるほど綺麗なお辞儀をして部屋を出ていく。
僕は軽く身支度を整えると、彼女の後を追った。食堂に入ると、そこには食後の紅茶を楽しんでいる屋敷の主の姿があった。
「おはようございますナーサリア様」
「ご機嫌よう。昨夜も遅くまで部屋の明かりがついていたけれど、相変わらず本の虫なのね?」
確かに僕は、できるだけ多くの本に目を通すことを自分に義務付けている。
その理由が記憶喪失という僕の境遇に起因しているため、夜更けの読書がもはや日課のようなものになっていたのだ。
「自分の記憶がないというのがどうにも落ち着かなくて、少しでも空いた時間があると本を手に取ってしまいます。もしかしたら僕は御迷惑をおかけしているのでしょうか?」
不安になった僕は自分の懸念を表明した。するとナーサリア様は、何でもないことのように首を振って答える。
「そんなことはないわ。ただ、それほど焦る必要はないと思っただけよ。体もまだ本調子ではないのでしょう?」
「以前に比べると大分動けるようになりました。それもこれもナーサリア様に助けていただいたお陰です。本当に感謝しております。何か少しでもお返しができると良いのですが、いかんせん自分に何ができるのかすら碌に思い出せない状態ですので、記憶がはっきりするまではお屋敷に置いていただければありがたいと、そう……思うのですが……」
都合の良いことを言っていると自分でも思う。気後れからつい語尾を濁してしまうが、そんな無作法にも屋敷の主は寛大だった。
「別に気にしなくて良いのよ。貴方は怪我を治すことに専念してちょうだい。生活面のことも心配ありません。大体この家は広すぎるのです。確かに貴族としての体裁も必要だけれど、ただ余った部屋を遊ばせておくよりは誰かに使ってもらった方がずっと良いわ。人の役に立ってこそ物には価値が生まれるのだから」
ナーサリア様の含蓄ある言葉に自然と頭が下がる。
少女のように可憐な容姿をしている彼女の方が、僕なんかよりもよっぽど大人びた存在に感じられたからだ。
この方のおかげで、今日まで僕は生き延びてくることができていた。
「ミカミ様、お待たせ致しました」
セシルドさんの呼びかけで顔を上げると、既にテーブルの上には豪華な料理の数々が用意されている。
純白なテーブルクロスの上に並べられたそれらは、もはや芸術品のように僕の目に映った。
一つの皿を作品と見立てての食材の配置や色遣いなど、食べる者の五感すべてを楽しませる工夫が惜しげもなく凝らされていると分かるからだ。
一月前に病床で摂った食事とは全くの別物だった。
あの時の食事は本当に生きるための糧という感じがした。
とにかく素朴で、何より咀嚼したものが血となり肉となっていくという実感があったのだ。
それに比べると、今僕の前に用意されている食事には娯楽の要素が多分に含まれている。
人ひとりの命を繋ぐためならば、本来これほどの手間をかける必要はないはずだ。しかし意図的に加えられた手間――つまりは余剰――が、喜びとなって僕たちの生活を彩ることもまた事実なのである。
喜びとは人が生きる上で必要不可欠なものであり、ナーサリア様が当主代行を務めていらっしゃるアーネンベルク家には、その余剰を許すだけの力がある。
その恩恵に与れることを、僕はただただ感謝するばかりなのであった。
「お言葉を返すようで恐縮ですが、僕の部屋の明かりが点いていたのをご存知だったということは、ナーサリア様も同じ時間まで執務をしていらしたたということではありませんか? お忙しい身であることは重々承知しておりますが、体を壊してしまっては何にもなりません」
「そんなのはいつものことで、もう好い加減慣れてしまったわ。ですからわたくしにそのような気遣いは不要です」
それでも僕の隣に座っているこの大人物が、その華奢な肩にそぐわない重荷を負っていることを思うと、どうぞご自愛下さいと言わずにはいられないのであった。
「そんなことより、今日も貴方はアンドレイと稽古をするの?」
アンドレイさんはアーネンベルク家の門衛だ。ここ暫くの間、僕は彼から剣の手ほどきを受けていた。
尤も剣とはいっても、一般的にダガーと呼ばれるナイフのようなものである。
なぜかそれを握る度に、どこか懐かしい気持ちになる自分がいたのだ。
稽古をつけてくれるアンドレイさん曰く、僕の動きに武術の心得は見られないそうだ。
だが手にした金属片から来る正体不明の感覚が、不器用ながらも今日まで僕に訓練を続けさせてきた原動力であることは間違いなかった。
「ええ。ようやく駆け出しの冒険者くらいにはなってきたとアンドレイさんも褒めてくれました」
「それは褒めているのかしら?」
「冒険者というぐらいですから、駆け出しだとしても強い人たちではないのですか?」
「確かに荒事を生業としている者たちだけれど、それでも新人の仕事は探し物とか材料採集なんかの人助けが主だったのではないかしら?」
すぐ傍に控えているセシルドさんが小さく頷いて、主人の言葉を肯定する。
「……つまり、僕はそれ未満だったということですか」
記憶がないのに力もなしとは我ながら情けなくなってしまう。記憶を失う前の僕は一体どうやって暮らしていたのだろう?
「貴方が続けるというのなら止めはしないけれど、くれぐれも無理はしないようにして頂戴。それでは、そろそろわたくしは学園に向かいます。セシルド?」
「馬車の用意はできております」
セシルドさんが持って来たコートを羽織ると、ナーサリア様は優雅な足取りで食堂を出ていった。
一連のやり取りから、二人がお互いを深く理解し合っていることが分かり胸の中が温かくなる。
だが同時に不安にもなった。
僕にだって友人の一人や二人はいるのだろうが、少なくとも思い出せない間は天涯孤独の身と呼んで差し支えなかったからだ。
ナーサリア様は僕にとても良くして下さるが、友人でもなければもちろん家族でもない。
だからだろうか?屋敷の中で不意に身の置き所のなさを感じる瞬間があるのは。
ナーサリア様の仰る通り、確かにこの屋敷は広すぎた。
ならば一人で生きていくのにも、きっとこの世界は広すぎるに違いない。
◇ ◇ ◇
「ミカミ様、この後はいかがなさいますか?」
ナーサリア様の見送りから戻ったセシルドさんが、今後の予定を確認してくる。
「アンドレイさんに稽古をお願いしようと思っています。その後はやっぱり図書室ですね」
「かしこまりました」
稽古と読書。それがここ一か月ほどで築き上げてきた僕のルーチンだった。
ナーサリア様から聞いた話だと、瀕死の重傷を負った僕は丸三か月ものあいだ眠り続けていたそうだ。
(なぜ僕は死にかけていたのか?)
理由は分からない。ナーサリア様からも「それについては後日改めて話しましょう」と告げられたきりである。
ただ、僕の左腕に残る生々しい火傷痕や、抉られたような胸の刺し傷からするに、火事場泥棒に襲われたのではないかと推測はしている。
まさか僕が強盗の一味であったなんてことはないだろう。そうでなければ、ナーサリア様がかけて下さる温情の説明がつかないからだ。
自分が誰なのか分からないことに不安を感じないではない。
だが、まるで自分の事のように親身になって下さるナーサリア様や、昏睡していた僕の世話を一手に引き受けてくれたセシルドさんたちと共にいられる日々を幸福だとも思うのだ。
もちろんこのままで良い筈はないのだけれど、こんな生活がこの先も続くことを考えると、「自分が一体何者であるのか」なんていう悩みが取るに足らないもののように感じられてくる。
(ナーサリア様も焦る必要はないと仰っていたではないか)
何より、記憶の手掛かりが殆どない現在、僕にできることは限られていた。
取り敢えずはリハビリを兼ねて剣の稽古を。そしてアーネンベルク家の蔵書を読み漁って記憶への取っ掛かりを得るのが順当だった。
どちらも自分のための課題ではあるが、せめて全力で取り組むことでナーサリア様の恩義に応えたいと思う。
そうやって気合を入れ直した僕は、アンドレイさんに会いに行くべく食堂を後にした。
◇ ◇ ◇
「そうだ! 軽いからといって手首で振るんじゃない。手から肘、肘から肩、肩から背筋を経由して腰に至るまでの繋がりを意識して振るんだ!」
アンドレイさんの注意を守りつつも、それでいて大仰な動きにならないよう気を付けながら僕はひたすらダガーを振るう。
いくら武器が軽いとはいえ、二時間も素振りばかり続けているのと流石に腕が上がらなくなってくる。
それでもダガーから受ける奇妙な感覚は消えてくれない。
そもそもこの感覚が、自分にとってどれほど重要なものなのかを当の僕自身が判断しかねていた。
それでも訓練を続けることで何かが見えてくるかもしれないし、たとえ自分の正体とは無関係だったとしても鍛えておいて損はないはずだ。
「よーし、いったん休憩だ。最初の頃と比べると格段に進歩したじゃねえか」
「それは……最初が……目も当てられないほど……酷かったと……言いたいんですか?」
僕は肩で息をしながら、恨めし気な視線をアンドレイさんに送った。
駆け出し冒険者と酷評されたことへの意趣返しである。
ところが彼はあっさりそれを認めた。
「まあな。あの時の動きは今思い出しても笑えるぞ」
そう言って豪快に笑うアンドレイさんに、すっかりこちらの毒気が抜かれてしまう。
「そんなお前さんでもいっちょ前に武器を扱えるようになったってことだ。喜べ喜べ!」
がっしりした手で肩を叩かれるが、呼吸を乱された僕は、嬉しさよりも咳き込む苦しさしか感じられなかった。
貴族宅の門衛に就くだけあって、アンドレイさんの体格は僕なんかより一回り以上大きい。
人柄の方だって、「門の前に突っ立ってるだけじゃあ体が鈍っちまうからな」などと下手な言い訳を添えながら、毎日僕の稽古に付き合ってくれる度量の広さを持っている。
本人はそのように表現されることを好まないが、要するにガタイのいい気さくなオジサンなのだ。
「言われた通りにずっと素振りを繰り返してきましたが、本当にこれだけで良かったんですか? 運動がてらやっている僕が言うのもなんですが、もっとこう……対人戦とか型なんかを教わるものだと思っていました」
そうなのだ。武器の使い方を習い始めてかれこれ一ヶ月になるが、体力作りを除けば、未だに僕は素振り以外をしたことがない。
今さらではあったが、ずっと抱いていた疑問をアンドレイさんにぶつけてみた。
「まぁ普通はそういうことをしたりもするんだが、いかんせんダガーという得物の特性がなあ……」
そう言って、アンドレイさんは困ったように頭を掻く。
「コンパクトで取り回しの良い武器ではないんですか?」
「確かにそうなんだが、他の武器と比べると圧倒的にリーチが短いだろ? だから初心者でも扱いやすい反面、下手すりゃ長めの棒一本で無力化されちまう。特殊な状況下を除いて、正面切ってダガーで戦おうとする奴なんざいないだろうよ」
せっかく身に付けた動きが役に立たないものと知って、先ほどまでの達成感が急速に萎む音が聞こえる。
「そう落ち込むな。だから俺はお前さんに身を守る方法を教えたんだ。いいか? おんなじ強さの奴らが正面からやり合った場合、ダガーで有利をとれるのはせいぜい相手が素手の時だけだ。ダガーであれば互角、長剣ならまず勝てない。よって相手の攻撃を避けながら、逃げる隙や反撃のタイミングを見つけることが必要になってくる。そこで大事なのが、お前さんに練習させてきた攻撃を払う動作だ。実戦でもそれができれば致命傷は避けられるだろうよ」
アンドレイさんの説明は理に適っていたが、それでも最初からこちらの肉を切らせる覚悟をしなければならないという、余りの目標の低さに唖然とする僕がいる。
武器にさえこだわらなければその限りではないのだろうが、あいにく僕の過去と何らかの関わりがあるらしいのだから仕方ない。
「自信のなさは経験で補え。次は俺が実際に打ち込むから、お前さんは打ち込まれた棒をさっきの要領で防いでみせろ」
「それって……」
こうして打ち身覚悟の訓練が再開されたのであった。