75.賢明な判断。
昇降口に取り残された三嶋舞は、すでに姿が見えなくなった音無千鶴と一緒に行けば良かったと後悔しながら土で汚れた上履きに視線を落とす。
「とんだ災難だったな」
背後からかけられた声に振り返る。
(そうだ、この男がいた……)
舞は体の向きを変え、声の主である桐谷千里に正面から向き直った。千里は舞をまるで観察するような目で見ていた。
「とばっちりだろ? ちいと一緒にいるのが怖くなったんじゃないのか?」
もう見慣れた胡散臭い笑みを浮かべ、千里が訊ねてくる。
「ねえ、あなたは私の事嫌いでしょ?」
「唐突だね。自分の上靴が泥だらけにされて自暴自棄になってる?」
僅かに哀れむような眼差しを向けてくる。思いのほか、ムカつく男だと舞は思った。
「別に、これぐらいで自暴自棄になんてならないわ。そう感じただけよ」
「やはり、君は強いんだな」
千里は感心したように呟く。
「俺は、君の事を嫌ってなんていないよ」
穏やかな声だった。彼に少しでも好意がある者なら、その後の言葉を期待したかもしれない。
「ちい以外の人間なんてどうでもいいだけ」
本当にどうでもいいのだろうと思わせる表情に変わった千里の姿を見て、舞は気付いてしまった。
「ちづを孤立するように仕向けてるのは、あなたなんじゃないの?」
質問ではなく、確認だった。千里が笑みを深くした。
(これ程冷たく笑えるものだろうか……)
舞は初めて目の前に立つ男を怖いと感じた。
「面白い事を言うんだな。……俺がちいを孤立させる理由は何?」
「弱ったちづの心に入り込むため……とか?」
突然、笑い声が昇降口に響いた。千里が声を立てて笑いだしたのだ。
「……もし、そうだ。って、言ったら? ちいに言うのか?」
笑いをおさめても、まだどこか楽しんでいるように千里は聞いてくる。
「……今は、言わないわ。あの子、人間不信になっちゃう」
「賢明な判断だ」
そう言うと、千里は舞の目の前までゆっくりと歩み寄ってきた。舞は長身の男を見上げる。
「一つ、親切ついでに言っておくよ。君は俺達の事を何も分かっていない。俺はちいの心の中にすでにいる。今更入り込む必要なんてないんだよ」
蔑むような眼差しで千里は微笑んだのだった。




