74.昇降口。
10月9日に加筆訂正しております。
体育館では女子バレー部の部員達がポールを立てたり、ネットを張ったりと練習の用意に専念していた。顧問の小谷が体育館に姿を現すと、近くに居た音無千鶴に声を掛ける。
「音無、職員室の俺の机の上に笛を置いたままだった。悪いが、取りに行ってきてくれ」
「はい!」
元気な返事を残し、千鶴は体育館を飛び出した。職員室へ向かう道中、昇降口の近くを通る。ふと視線が向いた先では女生徒が四人一カ所に集まっていた。他に人影は無い。生徒達はすでに帰宅しているか、部活に行っている時間だからだ。彼女達は何かに集中していて千鶴の存在に気づいていなかった。クスクスとどこかほの暗さを感じる笑い声が漏れ聞こえてくる。その中の一人が仲間達に見えるように両手で何かを掴んで持ち上げた。
千鶴の瞳に、土で汚れた上靴が映る。その瞬間、千鶴の心臓が痛みを共なう程、大きく脈打った。その上靴は千鶴のいる場所からでも分かるほど、中に土が入れられている。
「どんだけ入れてんの」
「ウケる〜」
ゲラゲラと耳につく笑い声がコンクリートで囲まれた昇降口に響いた。千鶴の足は床に縫い止められようにその場から動くことができない。汚れた上靴を戻そうとしている場所は、千鶴の親友である三嶋舞のところだった。
「何してるの?!」
考えるより先に駆け出していた。笑っていた女達が一斉に振り返る。千鶴は飛びかかるように舞の上靴を掴んだ。
「な、何するのよっ!」
上履きを掴んでいる女が叫んだ。その顔は良く知るもの。同じクラスの笹山だった。
「どうして、こんな酷い事するの?!」
感情のまま発した言葉は質問だが、語気は責めるもの。笹山はそれを感じとり、不快感を露わに眦を上げた。
「あんたの上靴じゃないのに、何を必死になってんの? バカなんじゃない?」
「馬鹿でもなんでもいいわ。返して!」
「はあ? 意味分かんないだけど!」
笹山は千鶴に取られなまいとして上履きを掴む手にさらに力をいれる。
しかし、千鶴も上靴を取り戻そうと必死で掴んで離さなかった。しばしの間、上靴を挟んで笹山と千鶴との無言の引っ張り合いが続いた。
「ちっ、こいつウザい! 押さえつけて!」
突然の事に、あっけにとられていた残りの女達が弾かれたように千鶴の腕を掴んできた。両腕を拘束された千鶴は笹山から離される。
だが、千鶴は三人の女達を引きずるように笹山との距離を縮めていく。その姿に恐れを感じたのか、笹山は後退りはじめた。じりじりと後ろへ下がりながら笹山は自分が掴んでいる上靴に目を止める。
「こ、こんな靴!」
笹山は癇癪を起したように、舞の上靴を床へ叩きつけた。中に入っていた土が周りに飛び散る。土で汚れた床の上に転がる上靴を笹山が踏みつけようと足を上げた。それを目の当たりにした瞬間、千鶴の中で何かが弾け飛んだ。自分の腕を掴んでいる者達を振り払い笹山へ飛び掛かった。
しかし、千鶴の手は笹山には届かなかった。指先が宙を掻く。誰かが千鶴を背後から羽交い絞めにしているのだ。
「落ち着け! ちい!」
背後から聞こえる声は男のもの。
だが、激高していた千鶴にはその声が届かない。自分の体に回された腕を外そうとただ藻掻く。
「離して!」
千鶴は力の限り暴れた。
だが、解放されるどころか、背後から体を拘束する力がさらに強くなるだけだった。どれほど手足をばたつかせても、千鶴の体に回された逞しい腕が外れる事は無かった。だんだんと息苦しさを感じ、周りの音が小さくなっていく。遠のく意識の中で、とても優しい声を聞いた気がした。
「もう大丈夫だ。後は、俺に任せろ」
桐谷千里は千鶴を強く抱きしめたまま彼女の耳元に寄せていた唇を離す。腕の中で暴れていた千鶴が急に大人しくなった。千里は千鶴が体を預けてくれていると感じていた。千里はしっかりと千鶴を抱き寄せる。
「き、桐谷……く……ん──」
譫言のように呟く声に、千里はゆっくりと顔を上げた。目の前に立つ女に視線を向ける。女は千里の事を好きだと言ってきた笹山だ。千里は自分が纏う空気がすっと冷えていくのを感じた。いつも貼り付けている人好きする笑みなどすでに霧散してしまっている。
「また、おまえか」
思わず唇から零れ出た声は千里自身でさえ驚くほど低くかった。
「ち、違う。この子が勝手に──」
笹山の顔は傍から見て分かるほど蒼ざめている。
「次は、ないよ」
千里が発した言葉に、笹山は滑稽なほどガタガタと震え出した。千里はつと床に視線を落とす。彼女の足元は土で汚れていた。
「……ここの掃除はおまえ達でしておけよ」
笹山は壊れた人形のように首を縦に何度も振る。
「何やってるの?」
足音に振り向けば、三嶋舞が駆け寄って来た。千鶴の事を心配して追って来ていたのだ。
千里の視線が舞へ移った途端、笹山は脱兎のごとく逃げ出した。それを追うように残りの女達も駆け去って行く。その後ろ姿を舞は不思議そうに見つめていた。
そして、床に転がった泥だらけの上靴に気付くと無言で拾い上げた。形の良い眉が僅かに寄る。
「これ、私の上靴……?」
汚れた上靴が自分のものだと分かった舞は言葉を失う。その姿を横目に、千里が口を開いた。
「泥だらけにしたのはあいつらだ。それを千鶴が取り返そうとしていた」
「え?」
「相手がどれほど悪くても、怪我をさせれば千鶴の立場が悪くなるからな。俺がそれを止めた」
「ちづ……が? って、ちづ? ち、ちょっと! ちづが、ぐったりしてる!! ちづ?!」
千里の両腕の中で、千鶴がまるでぬいぐるみのようにだらりと両腕を伸ばしたままピクリとも動かない。声をかけても何の反応もしない。千里は慌てた。
「ちい? うわっ! 強く抱き締めすぎた!」
「抱き締めすぎたじゃないわよ! 気絶してんじゃない! 保健室! 急いで保健室へ連れて行きなさいよ!」
千里は急いでぐったりとしている千鶴の体を抱え直そうとした瞬間、千鶴がゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした目で覗きこんでいる舞を見る。
「……舞?」
「ちづ! 良かった!」
舞は千里の腕から千鶴を奪い取った。
「……えっと……? 私……」
まだ頭がふらつくのか、千鶴は右手で額を押さえている。
「私の上靴を守ろうとしてくれたんでしょ?! ありがとう!」
「……あ! 上靴!」
千鶴は辺りを見回し、舞の上靴を探す。
「探しているのは、これか?」
千里は舞が落とした上靴を拾い上げ、千鶴に手渡す。
「!」
千鶴は舞の上靴を受け取り、千里を見つめ返した。
「千里が取り戻してくれたの? ありがとう!」
「聞いたよ。ちづが頑張ってくれたんでしょ?」
舞はちづの頬を両手で挟み、強引に自分へ向ける。
「でも、こんなにドロドロになってる……」
千鶴は涙ぐむ。
「洗えば済むだけよ。ちづ、ありがとう!」
「舞……」
千鶴と舞は涙を浮かべ抱き合った。
「あっ! 笛! 取りに行かないと先生に怒られる!」
ガバっと立ち上がった千鶴は顔色を無くしている。
「ちょっと、待ってて! すぐに取って来る!」
「あ、うん」
まるで嵐のように走り去って行く千鶴を舞は少しほっとした表情で見送ったのだった。
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