70.保健室。
「うわああああああっ!」
静かな室内に、突然絶叫が響き渡った。
音無千鶴は自分の叫び声で目を覚ました。ガバッと上半身を起こし、目を見張る。視界のすべてが白かった。
床。
カーテン。
布団。
枕。
自分がどこにいるのかすぐに分からない。
「ちい?」
とても近くから聞こえてきた声に、弾かれたように顔を向ける。
「千里……?」
千鶴がいるベッドのそばの椅子に千里が座っていた。『大丈夫か?』と、心配そうな表情を浮かべて手を伸ばしてくる。
「すごい汗だ」
茫然としている千鶴の額を指先で触れ、そのまま千里の手は滑るように頬へと下りてくる。
「夢……?」
千里の顔を凝視したまま、千鶴は呟く。
今もまだ夢を見ているのかもしれない。頭の中は真っ白な状態で、記憶の中の姿より随分と大人びた顔を見つめる。
「夢、って?」
右手は千鶴の頬を包むように触れたまま、話を促すように千里が問いかけてくる。
「……うん。私が凄いモテているの。たくさんの男子達が付き合ってくれって、大群で押し寄せて来て……」
「ふっ、残念だったな。それは夢だ」
笑みを浮かべた千里の顔に、『ああ、私の知っている千里だ』と心のどこかが安心している。
「え?! じゃあ! 男子達4人に囲まれていたのも?」
縋るような勢いで千鶴は千里に問う。
その時、千鶴の頬に触れていた千里の掌がピクリと動いた。
「それは……夢じゃない」
一瞬言い淀み、千里は答えた。
千鶴の顔が青ざめ、そのまま俯く。思わず手の下にあったシーツを握り締めていた。
「ちい?」
再び千里が手を伸ばし、千鶴の頬に触れてきた。と、その瞬間、千鶴はビクッと体を震わせ、怯えた眼差しを千里に向けた。千里は驚いた表情を浮かべ、動きを止める。
「ちい……」
「あ……、ごめん。なんだか、思い出しちゃって……。今まで、男子を怖いなんて思った事なかったんだけどな──」
ふいに傷ついたような表情を浮かべた千里から視線を逸らす。
「……俺の事も、怖い?」
千鶴はフルフルと頭を左右に振った。
「……千里の事は怖くないよ。ちょっと、成長した姿に慣れてないだけ……」
「そうか……。じゃあ、早く慣れてくれないとな」
そう言うと、千里は千鶴の頭を両手でぐしゃぐしゃと撫で回す。
「ち、ちょっと! 止めてよ! 髪の毛がぐちゃぐちゃになっちゃたじゃない!」
頭を両手で押えながら千里の手から逃れる。いたずらっ子のように笑う千里をキッと睨めば、千里は笑うのを辞め、スッと表情を真剣なものへと変えた。
「?」
窓から入って来た風が千鶴の体を優しく撫でていく。
ふいに腕を強く引かれた。思考は停止していて、一瞬何が起きたのか理解出来なかった。
千鶴は千里の腕の中にいた。それも強く抱き締められている。
「……戻って来たよ」
頭の上からまだ聞き慣れない声変わりした千里の声が降ってくる。
「寂しい思いをさせたな。俺の隣が、ちいの居場所だったもんな? もう大丈夫だ。何も心配するな。他の奴らの事なんかどうでもいいじゃないか」
「千里……」
無意識に千里の服を強く握り絞めていた。なぜか涙が溢れてくる。自分の心に蓋をして強がっている時に優しくされると、つい心が剥き出しになってしまう。気付かないふりをしていた心の傷が痛みを訴えてくる。千里の温もりがとても心地良かった。
『どんな種類の好きなのか、分かったら教えてね。キノ』
突然、脳裏に真一の嬉しそうな眩い笑顔が過ぎった。
「!」
はっとした千鶴は、慌てて千里の胸を押して離れる。千里が少し驚いたような表情で見つめてくる。
「ちい?」
この声は心配している時のものだ。心のどこかで、千里に甘えてはいけないと声がする。『つき合ってよ』と言った千里の真意も聞いていない。
「あ……、ほら! やっぱり! 私が泣いたから服が濡れちゃってるじゃない!」
この場の雰囲気を変えたくて、千鶴はわざと元気な声で騒ぎながら涙で濡らした千里の胸元を指さす。
「何だ、そんな事か。気にするな。ちいの鼻水くらい俺には何の問題もない」
「! は、鼻水じゃないから!」
「どっちでも同じだ」
そう言いながら千里が再び千鶴の方へと腕を伸ばしてくる。
「ちょ、ちょっと! ここって、いったいどこなの?!」
千里に掴まれた腕を振り解こうとしながら、辺りを見回す。千里の他に人の気配が感じられない。消毒液の匂いに今頃気付く。
「ここって、保健室? ……ねえ、先生は?」
「さあ、救急箱抱えて走って出て行ってたから、誰か怪我でもしたんじゃないのか?」
と、その時、ガタガタと扉を揺らす音に千鶴は驚きのあまり飛び上がりそうになった。
「あれ? 何で? 鍵が閉まってるじゃない!」
扉の向こう側から聞こえてくる声は舞のものだ。
「時間切れ……か」
溜息と共にそう呟くと、千里は千鶴の腕を掴んでいた手をスッと離した。おもむろに立ち上がると窓辺へ歩いて行く。
「千里?」
千里は窓の桟に手を掛け、振り返った。
「教室で待ってる」
千里の声と、扉の外から聞こえてくる保健室の先生と舞の声が重なる。
「じゃあな」
風がカーテンを大きく翻らせ、千里の体を覆った。
「千里?」
千鶴の声に、応じる者はいなかった。窓辺から千里の姿が忽然と消えていた。
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