60.知られてはいけない。
どんどん悪い状況になっていく千鶴に舞と千里は……。
三嶋舞は焦る。前を歩く桐谷千里に自然には追いつけないのだ。
(歩きながら自然と横に並ぶつもりでいたのに……)
足の長さが違うのだから仕方がないとは分かっている。
だが、なんだかムカつくわと思っていたら、突然前を歩く千里が足を止めた。運よく廊下には他に誰も居ない。舞は声を掛けようと駆け寄った。
「ねぇ」
だが、千里は振り向きざま鋭い眼差しを向け、人差し指を口の前で立てた。静かにしろ、と言いたいらしい。
「ああ、その噂聞いた。5組の音無って、実は男好きってやつだろ?」
「それも小学生の頃かららしいぜ。同じクラスの女子が教えてくれた」
「マジで? あんまりそんな風には見えないな」
どこからか声が聞こえてきた。舞は辺りを見回す。声は階段の方から聞こえてくる。
「そういえばさ、最近雰囲気変わってきてるよな」
「髪が伸びて来たからじゃないか? 意外と可愛いと思うけどな」
「男の目を意識してるからじゃねぇ?」
「でも、その子が男子と話をしているイメージないな」
階段下の陰で、男子達がたむろっていた。
話の内容から、千鶴のことを話しているらしい。
「バレないように違う学校の男と付き合ってるらしいぜ」
「それも二股ならぬ三股やってるって話だろ? それも一人はサングラスを掛けたヤバめの奴で学校へ行ってなさそうだって。他の二人は陵蘭の生徒だったて聞いた」
「陵蘭? 超有名進学校じゃん!」
「それも! かなりかっこいい奴らだったって。その内の一人は超美形だったらしいぜ」
「すげえな?!」
「遊ばれてるだけなんじゃねぇの?」
「あり得る~」
「案外、音無に声かけたら付き合ってくれるってことかな?」
「三股だろ? 即OKだろ!」
「楽勝だな!」
「よし! 俺も声かけてみよっかな?」
「おおっ! おまえも彼女いない歴に終止符か! ついでに童貞も卒業しちゃえよ!」
ぎゃははははっ、と下品な笑い声が起こり、舞はあまりにもの怒りに無意識に握り閉めていた拳が震えた。
だが、ふと隣で動いた人影に視線を向けぎょっとする。見ただけで背筋をゾクッとするような表情を浮かべた千里が屯っている男子達の方へ一歩足を踏み出していたのだ。
慌てた舞は静かに激怒している男の前に立ちはだかり、全力で長身の男の体を押しながらその場から離れる。
ここで暴れられでもしたら、とんでもないことになってしまうのは明らかだ。それこそ、殴り合いにでもなったら、もう舞では止めることなどできない。
(昨日、何があったの? ちづ!)
舞は心の中で叫んだ。
昨日の事をもっと聞いておけばよかったと、後悔する。
先輩や男達の話からすれば千鶴が会っていた三人の男達とは恐らく有馬君と佐倉君、そして今にも怒りが爆発しそうな顔で舞に引っ張られているこの男だ。
(昨日、きっとちづの事を心配した有馬君達が迎えに来ていて、そこでこの男と鉢合わせしたんだわ)
「あなたは何もしないで!」
人目が無い場所まで来るとキッと顔を上げ、舞は怒鳴った。千里は憮然とした表情を浮かべて舞を見下ろしている。
(事の発端は、この男が校門なんて目立つところでちづを待っていたりするからじゃない!)
この男に怒りをぶつけても仕方がないのは分かっている。
でも、どうにも遣り切れない思いが舞を苛立たせていた。確かに元凶はこの男で間違いない。
だが、帰国早々学校にまで千鶴に会いに来たほどだ。よほど会いたかったに違いない。そう思うと、この状況は同情せずにはいられない。
「じゃあ、君は何もしなければいい」
「!」
千里が言い放った言葉に舞は一瞬でも同情したことを後悔する。
しかし一方、千里の声が落ち着きを取り戻していることに気付き、舞は少し安心していた。
「でも、礼は言わせてもらうよ。君のお陰で、今は少し冷静になれた。ありがとう」
それだけ言い残すと、千里は舞に背を向けさっさと立ち去って行く。
「……本当に、何もしないで!」
どんどん小さくなっていくその背に向かって舞は再度声を上げた。
だが千里は振り向きさえしなかった。
(お願いよ。これ以上波風を立たさないで……)
一人取り残された舞は祈るような気持ちでしばらくその場に佇んでいた。その表情はこれからの千鶴の事を案じて暗く陰る。舞は思わずため息を漏らした。
(私がちづと同じクラスで、あの男が違うクラスだったらよかったのにな……)
だが、現実はその逆だ。休み時間の間だけでも何としても千鶴そばにいようと心に決める。
その時、ふと舞の脳裏を過ぎったのは真一の千鶴を見つめる優しい笑みだった。
(この状況を有馬君が知ったらどうなる?)
絶対に知られてはいけないと思う舞だった。
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