29.戸惑い。
突然優しくなった真一に千鶴は……。
*2018年10月31日加筆訂正しています。
夕食の後、真一はいつものように勉強を教えてくれている。いつもと変わらない日常。そう、いつもと変わらない……。
『覚悟しててね』
(じゃあ、あの言葉は一体何だったの?!)
「……ノ…………キノ……キノ?!」
「え? あ、はい?!」
「……おれの説明、全然聞いてないみたいだね」
テーブルを挟んだ向かい側で真一が千鶴をじっと見つめていた。思わず顔がかっと熱くなる。
「き、聞いてるよ! こ、ここを読めばいいんでしょ!」
動揺を誤魔化したくて、千鶴は咄嗟に手に触れた本を慌てて開き、真一から顔を隠した。
「……」
「何をやってんの? 教科書が逆さま。それじゃ読めないでしょ? ……それに、今は英語じゃない。数学だよ」
「あっ……」
持っていた英語の教科書が手からするりと引き抜かれ、千鶴は茫然としたまま教科書の軌跡を追う。
そして、それは真一の手元でパタンと音を立てて閉じられてしまった。
「────全然、勉強に集中出来てないよね。今日は、もう終わりにしようか?」
「……ごめん」
「謝らなくてもいいよ。そんな日もあるから」
真一は怒るどころか、気遣うような口調だ。
もし、変わったことがあるとすれば、真一が気持ち悪いくらい優しいことだった。いつもなら、からかってくるか、嫌味の一つは言っているはずだから。
(何で? ……もう、分かんないよ!)
千鶴は頭を掻きむしりたくなった。
近頃、真一の言動や仕草にいちいち振り回されてしまう。特に今日は、真一がせっかく勉強を教えてくれているのに、まったく勉強が手につかない状態だ。あまりにも自分が不甲斐なくて泣きたくなる。
(明日は絶対にちゃんとしよう!)
心の中で固く決意する千鶴を真一が呼ぶ。
「キノ」
「………何?」
「次の日曜日も部活?」
「ううん、次の日曜は久しぶりに休み」
「予定は?」
「まだ、な~んにも」
千鶴はテーブルの上を片付けながら返事をしていた。
「じゃあ、付き合ってよ」
「! ええっ?! つ、付き合う?! ………あっ!」
真一の発した言葉は千鶴を驚かせた。重ねて持っていた辞書や教科書やらが手から滑り落ち、まるで千鶴の心の衝撃を表しているかのうように派手な音を立ててテーブルの下へと消えていく。
「大丈夫か? 怪我は?」
心配した真一が急いでテーブルを回って来た。
「だ、大丈夫。そ、それより! つ、付き合うって………」
「ああ、………最近出来たパンケーキの店が美味しかったって、この前佐倉が言っていたんだ。行ってみたいんだけど、男とは一緒に行きたくないし、俺一人ではさすがに行けないからね。付き合ってよ、キノ」
あからさまに狼狽えていた千鶴に対し、真一はテーブルの下に散らばる辞書や教科書を拾い集めながら落ち着いた様子で説明をしている。
(なんだ………、そういう事? それに、一人って────)
「────真一って、彼女は、いないの?」
ずっと気になっていたことがうっかりと口から滑り出る。気付いて慌てて口を押えたがもう遅い。真一の手がぴたりと止まる。
「何で、そんなことを聞くの?」
振り返った真一の目があまりに真剣だったので、千鶴は思わず怯んでしまった。
「え、いや、別に、その………」
真一は動揺する千鶴からふいっと視線を逸らした。
そして、拾い集めた教科書とノートをテーブルの上でトントンと音を立てて揃えている。
「───────いないけど?」
『だから、何?』とでも付け加えそうな素っ気なさで真一が答えた。
(えっ、何んで不機嫌になってるの?)
と思う一方で、真一に彼女がいないと分かった途端、千鶴の中でずっとモヤモヤしていたものがすっと消え去り、なぜだが体の奥から笑いがこみ上げてきた。
「アハ、アハ、アハハハ………」
突然変な声で笑い出した千鶴を、真一は僅かに眉を寄せて見ている。
「で、返事は? 行きたくなかった?」
ひとしきり笑った千鶴に、真一はどこか探るような目をして再び聞いてくる。
「ううん。私も行ってみたい!」
千鶴が笑顔で応えると、真一の目がふっと和らぐ。
そして、笑みを浮かべた。その笑顔は仲が良かった子供の頃に戻ったような、とても久しぶりに見る心からの笑顔だった。その笑顔は千鶴には眩しく感じた。嬉しいと思う一方で、胸の奥がそわそわとしてきて、不思議な感覚に戸惑ってしまう。
「じゃあ、決まりだね?」
「う、うん! あっ、でもすっごい並ぶって聞いたよ?」
「別に急ぐ用もないし、並べばいいんじゃない?」
「そうだね!」
楽しそうに返事をする千鶴を見つめる真一の目はやはり優しいままだった。これまでは何かを隠しているような、言いたいことがあるのに誤魔化しているような、そんな雰囲気を真一から感じることが時々あって、千鶴を不安にさせていたが、今はそんな気配がまったくない。千鶴は心の底からほっとしていた。
「なんだか、小学生の頃に戻ったみたいだね」
(そう、何でもお互いのことが分かっていたあの頃に)
浮き浮きとした様子で千鶴は立ち上がる。
「お茶を入れて来るね~」
そう言うと、軽い足取りでリビングを出て行く千鶴の背を見つめる真一の口角がゆっくりと上がる。
「おれは、友達に戻りたいんじゃないんだけどね」
真一の呟きはもちろん千鶴には聞こえていなかった。
読んでいただけて嬉しいです。ありがとうございます。真一が動き出しました。千鶴の心にも変化が見えて来たみたいです。では、また続きが書けましたら読みに来ていただけるとありがたいです。




