16.ズルい男。
突然、夜に電話をかけて来た佐倉の意図とは?
繁華街のビルの陰で、若い男が一人で座り込んでいた。
男は指先で切れた口の端にそっと触れる。
「! ……痛っ」
鋭い痛みに顔をしかめながら、指先を確認する。血はすでに乾いているようだった。
だが、これから傷口が腫れてくることは間違いなく、暗澹たる思いでため息を漏らす。
「佐倉!」
突然名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げたのは、佐倉要だった。憂いを帯びていた瞳に歓喜の色が浮かびあがる。
「! 有っ……」
目の前に現れた人物の名を呼ぼうとして大きく口を開けようとした要は、あまりの痛さに傷口を押え、蹲った。
「……大丈夫か? 見せてみろ」
駆け寄って来たのは有馬真一だ。要の手を強引に退かせ、傷の状態を見る。
「血は止まっているようだな」
「……本当に来てくれたんだ──」
要は信じられないものでも見るようにまじまじと真一の顔を見つめる。
「何を言っている。呼んだのはおまえだろう?」
「そうだけど……」
怪訝そうに真一は眉間に皺を寄せる。そんな表情をしてもやっぱり綺麗な顔なんだな、などとこんな状況だというのに要は思った。時々、睨まれて、ゾクゾクする時もあるほどだ。
「立てるか?」
「ああ、それは大丈夫」
自分で立ち上がった要の姿を見届けた真一は、くるりと背を向けるとさっさと通りへ出て行ってしまった。残された要は慌てて真一の後を追う。真一は道路の端に立ち、タクシーを止めようとしていた。
「帰るのか?」
「そうだ」
冷たい返事を残し、目の前に止まったタクシーに真一が乗り込む。そして、すぐに運転手へ行き先を告げる。その様子を要は酷く心細い思いで見つめていた。すると、奥に座っていた真一が体を傾け、タクシーの外で突っ立ている要を見上げてきた。
「何をしている?」
「え?」
要は真一が言わんとしていることが理解出来ずに首を傾げる。
「早く乗れ」
「え? 俺も乗っていいのか?!」
自分を指さしながら要は驚いた声をあげた。
「? 当たり前だ。おまえを迎えに来たんだぞ。何しに来たと思っていたんだ?」
悲し気な表情を浮かべていた要の顔がぱっと輝き、急いで真一の隣へ体を滑り込ませる。
「その顔で、家には戻れないんだろ?」
走り出したタクシーの中で、真一は窓の外へ視線を向けたまま呟く。
「え? あ、うん……」
これ以上を声を出すと泣き出してしまいそうだった。素っ気ない態度とは裏腹に、要の事を気遣ってくれる真一の優しさに胸が熱くなる。
ほどなくしてタクシーが止まった。時間はすでに夜の9時を過ぎている。タクシーから降りた要は、辺りを見回す。真一の家は閑静な高級住宅地の中にあった。
「こっちだ」
きょろきょろと周りを見回している要に声を掛けると、真一は一軒の灯りが消えている家の門を開け、入って行く。要も慌てながらその後に続いた。
「有馬の両親は?」
真っ暗だった玄関に明かりが灯ると、すかさず要は尋ねる。
「両親? 離婚して、おれは母親と二人で暮らしている。その母親も出張中だ」
「あ、ごめん……」
知らなかったとはいえ、言いにくいことを訊いてしまったと、要はすぐに謝った。
「気にするな。離婚したほうが幸せになる場合だってある。……ほら、着替えだ。先にシャワー浴びて来いよ。その後で手当てをするから」
強引に浴室へ連れて行かれた要は、浴室乾燥してあった服を着替えとして渡された。
ぐうううっ
突然、要のお腹から盛大な音が響く。真一は要のお腹と顔を見比べた。
「……おまえ、夕食は?」
「食べてない」
「分かった。何か用意しておく」
「有馬!」
浴室から出て行こうとしていた真一を呼び止める。男でも見惚れる整った顔が振り向く。
「ありがとう」
心からそう言えば、真一は一瞬瞠目したあと、微笑を浮かべた。
「気にするな」
それだけ言い残し、真一は浴室から出て行った。
しばらくの間、要は真一が出て行った扉をただ茫然と見つめていた。
(──ほんと、あいつはズルい男だよな。人が弱っているとき限って、あんな笑顔見せるんだもんな………)
まいったな、と独り言ち、要は土埃で汚れた服を脱ぎ始めたのだった。
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