一夜目 2 扉の先に待つ恐怖と驚愕、それは
夜の学校。
何かのイベントなどがなければそうそう体験できない恐怖。
だからこそ、学校の怪談というのはああも学生たちの間で猛威を振るっていたりするのだ。
知らないからこそ、行けないからこそ、その空間ではあらゆる不可思議が作られる。
昼間はこれ以上ない活気に包まれていた場所は、夜にはこれ以上ない狂気に支配される。
そして夜にだけ現れるはずの恐怖は、いずれ夕暮れさえも侵略し。
最後には、昼間でもほんの薄暗いところに潜んでいるかのように感じられる。
子供の豊かな想像力を逆手に取った作り話こそ、学校の怪談であるといえるだろう。
そして、より恐怖に現実味を持たせるために重要なのは、どこの学校にもある場所を『彼ら』の巣とすることだ。
昇降口から始まり、下駄箱の中、理科室、家庭科室、音楽室、屋上、教室、校長室、職員室、視聴覚室、体育館、プール、保健室、図書室……。
そして、女子トイレ。
本来男子は踏み入れてはならない領域に、あろうことか招き入れ、そして生命力を搾り取る彼女。
彼女にまつわる怪談には、最初に一言付け加える必要があるだろう。
たとえ彼女が生きた人間であろうとそれ以外の何かであろうと、次のように。
「18歳未満の方は、ご退場ください」
日中のジメジメして蒸し暑い気候が嘘のように、夜の空気は澄んでいた。
都会の喧騒から離れ、静まり返った校舎。
稀にアライグマや蛇などが出没する程度の片田舎だが、つい30分前の大気とはまるで別物のように空気が美味しい。
そうか、夜の学校の空気は、心地よく体をじんわりと冷やすように優しいものなのか。
一つ、発見だった。
「……なにを感慨に耽っているの?」
朱音が怪訝な顔をして聞いてきた。
彼女の白装束も、月の光に照らされて真珠のような輝きを薄く放ちながら風に揺れている。
もし今朱音の姿を見たら、並大抵の人間は絹を裂くような悲鳴を上げて逃げ散ることだろう。
それもそのはず。この時間は、たとえ彼女にとって不本意な姿であろうとも、今の朱音にとっては独壇場といって差し支えない。
魑魅魍魎が最も蠢くこの時間こそ、彼女にとって本領発揮するにふさわしい。
そのはずなのだが。
「ほら、さっさと行くわよ。道弥は早く帰って寝なきゃいけないんだから」
「いや、そもそも言い始めは……くぁ……、おまえだったじょねぇか」
喋ってる最中に欠伸が出てしまったせいで、うまくろれつが回らなかった。
――あの後、家族
が全員寝静まった頃を見計らって俺たちはこっそり家を出た。
家からの脱走は朱音の助力もあり、すんなりと物音立てずに成功したのだが、一番大変だったのはそこまでの待機時間だった。
勉強をしようがスマホをいじろうが朱音と駄弁っていようが筋トレをしようが本を読もうが、睡魔というのは恐るべき勢力でもって俺の脳と体を蝕んでくるのだ。
そもそも俺は徹夜というのが基本的に得意ではない、完徹など片手で数えられるほどしかしたことがないし、テスト前日の徹夜もレッドブルをもってしてなんとか踏ん張れるかどうかというレベルだ。
たとえ授業中であろうと集会中であろうと自分の眠気に忠実であった俺にとって、今日の徹夜はこたえるものだった。
そしてそれ以上に大変だったのが、朱音と話し合い深夜の学校に侵入する作戦が決定した直後に部屋を訪れてきた妹への対応だった。
何の前触れもなく『たまには一緒に寝たい』と言い出し、てっきり冗談かと思っていたら本気で、どう追い出そうものかと四苦八苦した。
もうこいつシバくか揉むかするしかないかと強硬手段に出ようとしたのだが、その前にテスト勉強がしたいという嘘をつくことによって危機は逃れた。
ただ、テストが終わった後で一緒に寝るという約束を強制的に取り交わしてしまったのは痛恨のエラーだった。
その場をしのぐことを考えるあまりに、長期的なリスクを取ってしまった……。
俺の倫理はどこへ行ってしまうのだろうか?
「なけるぜ」
「なんでもう泣いてるのよ、怖がりすぎでしょ」
「いや、そうじゃなくて……。いや、確かに不気味ではあるんだが」
さて、どこから侵入しようか。
こんな時間なのでどこから入っても見回りの警備員にさえ気を付ければ問題ないのだが、念には念を押して正門からではなく裏口のゴミ捨て場から敷地に入ったまではいい。
しかし問題は校舎にどう入るかだ。
監視カメラが至る所に設置されているうえに、警備システムが張られているので下手に無理やり押し入ろうものなら警備会社のスタッフがすっ飛んでくるだろう。
一つ間違えれば退学処分は免れない。
しかし、もし華子さんのうわさが本当ならば、深夜の学校に忍び込むことに成功した人が一定数いるということになる。
一般男子高校生でも侵入できる程度のセキュリティならば、そこまで過度な心配はしなくてよさそうだ。
……しかし自分の退学のリスクを冒してまで一度きりの快楽を求めて不法侵入するとは、朱音が呆れるのも無理はない。
しかも華子さんが実在するなんて保証はどこにもないのに、よくやるよ本当に。
「えぇっと、ここの窓が保健室のだから……。いーや、こっから入るか」
「え?窓からって……。夜の校舎窓ガラス壊して回るの?」
「いや、そんなことしたら警報がだな……」
「この支配からの、卒業?」
「古いんだよセンスが!」
尾崎豊の曲が歌える中学生女子……、おっさん受けはいいのかもしれないが。
「いいからほれ、内側から窓のカギ開けてくれよ。それなら警報だってなる可能性も少ないだろ、叩き割るよりかは」
「あら、そういうことだったのね。まぁ順当にいけばそれが一番かしら」
言うか早いか、朱音は窓をすり抜けて内側からクレッセント錠を開けた。
窓を開け、窓枠に手をかけて勢いをつけてよじ登る。
予想通り、警報は鳴らなかった。
窓を閉めながら、慣れ親しんだ校舎内の匂いが鼻になじむのを感じる。
生物室は四階の西側のはずだ。
俺たちのいる保健室は一回の東側にあるので、ちょうど対極の位置にあることになる。
先に階段を上るか廊下を歩くか……どちらでも当然距離は変わらない。
「なぁ朱音、うどんとそばどっちが好き?」
「ラーメンね」
「よし、わかった」
先に階段を上ろう。
「……なにかツッコミがないと寂しいのだけれど」
ぶつくさ言っている朱音は放っておいて、保健室を出て目の前にある階段を上った。
当然だが真っ暗なので、窓から差し込むかすかな月光を頼りに慎重に一段一段踏みしめる。
スマホの懐中電灯機能を使ってもいいのだが、その明かりで目立ってしまってもまずい。
実際夜の校舎を見回る警備員などいるのかわからないが、いるものと考えて行動した方が得策だろう。
「なぁ、朱音。さっきも聞いたかもしれないけどさ」
暗闇の中、後ろについてきている朱音に小声で話しかける。
「なに?」
「その、お前が感じてた違和感っていうのは『生きている人間の気配とは全く異なる気配』ってことになるんだよな」
「そうね……、言葉で言い表すとしたらそんなところかしら。ちょっと説明しづらいというか、形容しづらいというか。でもあんな気配、私のいた『あの村』とか、あとはせいぜい墓地とかでしか感じないような、冷たくて、ぬめぬめした感じ……?全く生気を感じないのに生きている何かのオーラというか。私と似て非なる匂いといえばいいのか……。俗にいう第六感で感じる違和感、うん、そんな感じ」
「なるほど、わからん」
彼女の説明は要領を得なかったが、それは単に朱音の説明能力が低いということではなく(それもあるだろうけれど)そもそも要領を得ないような存在だったということだろう。
そして、朱音の言う第六感というのは、恐らく霊感のこと。
ということは、俺の予想が正しければ、華子さんの正体は――。
「それにしても静かね……、当たり前だけど。いまこの校舎には私と道弥の二人きりだもの」
「夜の校舎に美少女と二人きりなのに、いまいちときめかないのは何でだろうな」
「今を時めく美少女幽霊を独り占めしてるのに、それでもキュンと来ないの?」
「ドキドキはしてるな、階段を踏み外す恐怖と隣り合わせだし」
「吊り橋効果ならぬ階段効果は期待できそうにないわね……」
静寂の中に俺の足跡と話し声が溶けていく。
三階から踊り場を経由し、四階に到着した。
廊下の窓から見た月は、いつもより大きい気がする。
やがて生物室が見えてきた。
最後にここに来たのは、二年の秋ごろだったろうか。
何かの細胞を顕微鏡でのぞく実験だったか?確かあの時は全く目当ての細胞が見当たらず、スケッチするものがないので顕微鏡をのぞく友達をスケッチして時間をつぶしていた記憶がある。
ちなみにそのあとそのプリントをそのまま提出したら職員室に呼び出され大目玉を食らった。
苦い思い出である。
「道弥、分かってると思うけど気を抜かないで。華子さんが噂通りの人物だとしたら、生命力を他人から吸収していることになる。どういう目的でそんなことをしてるのかはわからないけれど、もしその生命力が彼女にとってある程度重要なものだとしたら、道弥みたいな『冷やかし』に来た人間は歓迎される存在ではないのは確かなんだから。強引な手段で生命力を搾り取ろうとしてくるかもしれないし、その場合道弥は数日寝込むぐらいじゃ済まないかもしれない」
「人の生命力を吸収するって……。そんな霊いるのか?」
「確かなことは言えないわ。実際私なんてそんなことしてないし。でも数々の体験談が本当だとしたら、そういう仮説も立てられるってだけ。仮説というより、最悪のケース、ボトムラインといったところかしら」
「ちなみにトップラインは?」
「噂は全くのデマで、私たちは無駄足だったことになる――かな?」
「それもそれでずいぶん屈辱的だが……」
「でも、残念ながらそれはなさそうね。四階に上がった時から感じてたけど、やっぱりこの違和感は気のせいじゃない……。『なにかがいる』ってことは、もう確実かも」
「――そう、か」
もう、問題の女子トイレは目と鼻の先だ。
目の前に広がる暗闇は、後ろの暗闇と何ら変わらないはずなのに。
体にまとわりつくかのような、重く、黒く、暗く、苦しく、なにより――怖い。
本能に直接、ぐじぐじと、ざくざくと刻まれるかのような恐怖。
心臓をつかまれたような感覚、手足へ送り込まれる血液を無理やりせき止められているかのように冷たくなっていくのを感じる。
これが、戦慄。
懐かしい、久しく忘れていた。
永らく忘れていたかった、感情。
何の比喩でもなく、正真正銘命がけの事態に直面した時にこそ訪れる、高揚感にも似た極度の緊張。
まさか朱音以外の怪異と相対することになるとは、ついさっきまで思ってもいなかった。
しかし、ここで踵を返すわけにはいかない。
それは俺の後ろにいる朱音を裏切ることにもなるし、俺にはここで逃げるわけにはいかない目的が確固としてある。
華子さんが実在するのかどうかを確かめる――そして、その先こそが本題。
真の目的は、別にある。
「――行くか」
「――えぇ、行きましょう」
小声で示し合わせて、俺は女子トイレへと足を踏み入れた。
当たり前だが、初めて見る空間だった。
芳香剤の匂いが鼻につく。
空気の温度がわずかに、けれど確かに――下がった気がする。
とはいえ、小便器がないだけで、全体的なつくりは男子トイレと大差ない。
入ってすぐ右手に水道と鏡があって、左手には掃除用具入れのロッカー。
そして、三つ並んだ個室。
どれもドアは閉まっている。
一つ目の個室のドアに手をかけて。
「……………」
少し逡巡してから、一息に前に引いた。
洋式のトイレがあった。
誰もいない、当然だ。
こんな時間にトイレを利用する人間はいない。
続いて二つ目のドアを開ける。
今度は全く迷わなかった。
なかには同じく、洋式のトイレ。
さっきとは違って、蓋は閉まっていた。
でも、違うのはそれだけで、やはり中には誰もいない。
いるはずがない、こんな行動には何も意味がないのは分かっている。
それでも、確かめずにはいられなかった。
こんな無駄で無為で無意味な行動で、少しでもこの心臓の鼓動を鎮めたかっただけだ。
「…………ふぅ」
意味もなく一息ついて、左を見る。
一番奥の個室。
何の変哲もないドアだ。
二つ目の個室から一つ歩を進めれば、もう三つ目の個室のドアの前で。
でもその一歩が、ひどく遠く感じた。
ドアに、正対する。
深呼吸を静かに、鼻から大きく吸って、口からゆっくり吐いて。
そのまま心臓ごと吐き出しそうな気分だったが、少し肩が軽くなった。
意を決して、右手を胸の高さに上げる。
少し震えている右手だったが、それもやがて止まった。
――そして俺は、妹の部屋をノックする気軽さで。
――扉を一回、二回、そして三回叩き。
――のどに詰まった最後の抵抗物を、無理やり押し出すような声で。
「華子さん、遊びましょ」
静寂。
無音。
静止。
それが刹那のようにも、気が遠くなるような久遠の時にも感じたころに。
音を立てて、糸で引かれたように、ゆっくりと。
扉が開いた。
その先にいたのは。
トイレの窓からの月明かりによって、現れたその姿は。
その、顔は。
「…………………………朱音?」
慣れ親しんだ顔が、そこにいた。