契約
「…お兄ちゃんを知ってるの?」
ピタッとスープを飲むのを止める。
「……」
「お兄ちゃんは今何処にいるの?…っ!戻らなきゃ!お兄ちゃんがいるかもしれな…」
「お前の兄はもう来ない」
その言葉はベッドから出ようとした私の足を止めた。
「ううん。お兄ちゃんは来る」
そう言って信じてきたんだ。今さら…
「兄は…お前を捨てたんだ」
*
「…ミント、ステラ。今日も一仕事するよ」
ピリッと人間以外の気配を感じたアリィは少し身構えた。
「「…応」」
2匹は同時に深呼吸し応えた。アリィのスカートが風もないのにはたつく。
『あら。流石にわかっちゃった?まぁ、その方が楽しめるでしょうけど』
突如脳内に女性の声が響く。脳内に直接話しかけられたような感覚。アリィは一層警戒心を高める。
ぱぁっと屋上の空中が光ったと思うと、1人の女性が現れた。
真っ白いベレー帽、真っ白いトレンチコート、真っ白いブーツ…と白づくめの衣装に薄紫のロングヘア。右手には銀の斧を携えている。背中に小さな白い羽が生えているので、天使だと誰が見てもすぐわかるだろう。
「…死神ごっこでも流行ってるの?」
アリィはちょっと呆れた。こんなゴテゴテな衣装、普通の天使はあまり着ない。羽も小さいので新米だろう。
「お黙り!あんな下等生物と同じにしないでちょうだい!貴女を消したらお姉様に認めてもらえるんだから。マリアちゃんと勉強したもの。痛くないように消してやりますわ!」
興奮に満ちた笑みを浮かべて、マリアは斧を掲げアリィに走っていく。
…のせられやすい・天使学校の卒業生・実習経験がない・名前はマリア、と敵に教えたも同然の言葉を聞き、アリィはさらに呆れた。
「…遅い」
ため息をつき、左腕を横に伸ばす。
ステラはアリィの腕に素早く乗る。
マリアは斧を勢い良く振り下ろした。
マリアはそう思っていた。
「…!?」
斧がビクとも動かない。
斧を抑える手は、アリィの手じゃなかった。
アリィの左腕に、3m弱程の青白く光る、青緑のライオンが乗っていた。
マリアはやっと状況を理解し、急いで後方へ引く。が、間に合わなかった。
ライオン…ミントがマリアめがけて細い尻尾を振り下ろす。
軽く当てられたように見えたが、マリアは弧を描いて真っ直ぐフェンスまで飛ばされた。斧はクルクルと回りながらアリィの足元へ滑る。
「うっ……」
マリアはガシャンとフェンスに当たり、痛みより屈辱といった顔をした。
「…何してくれるのよ。貴女たち悪魔なんか、素直に消えればいいのよ!」
コートの胸ポケットから折りたたみ式の短剣を出し、アリィとミントに向かって走る。
学習能力のないそれをミントは、尻尾を首に巻き付け、ひょいっとマリアを持ち上げた。
「ぐっ…な んで…私が負…るのっ…」
ついに負けを認めた天使は苦しそうに、泣きそうになりながら誰かに問う。
「だから遅いって言ったのに。学校でいくら学んでも、テストでいい点が取れても、それを経験に活かさなければ、実力は0と同じ」
アリィは冷たく答えた。
「貴女も…こんな時代に生まれなければ…」
マリアが白い光を放ち始めた。天使が消える前兆だ。
ミントが力を込めた。
「うぅ…かはっ こ…なことしても…いつか……神…まが…悪魔を……」
しゅんっと光がなくなったかと思うと、マリアは消えており、代わりにマリアが居た場所に赤紫の小さな玉が浮いていた。
アリィは左腕を一振りすると、ミントは元の形態に戻った。
玉を取りながら、アリィは2度目のため息をついた。
「もう…ほとんど洗脳よね」
悲しそうな目で言った。
「よし、散歩のつもりが長くなったね、帰ろっか。ステラ。…ステラ?」
返事がないので、ステラを見ると、すうすうと寝息を立てて眠るステラがいた。
「もう…マイペースなんだから」
ステラとミントを抱いて家路につく。
*
「捨て…た?」
耳を疑った。私を捨てたって…何の冗談…
「…ああ」
ぽすっとベッドに座り、頭の中でいろいろな言葉がグルグルと駆け巡った。
お兄ちゃん…兄はお前を捨てたんだ…待ってたのに…大好きなのに…捨てた…なんで?…私が悪い…お兄ちゃんが悪い…?
やがて涙が溢れてきた。溢れて止まらなくなって、声を押し殺して泣いた。
部屋には私の嗚咽と、降り始めた外の雨しか聞こえなかった。
泣いて泣いて泣き疲れた私はまた眠ってしまったらしく、夜中に悪魔に起こされた。
部屋は薄暗く、ろうそくが13本、3本立てる燭台と悪魔の手に1本あった。
光源はろうそくだけでなかった。
床を見ると、さっきはなかった魔法陣が黄緑に発光していた。
何事かと悪魔に問う。
「お前…天界が酷い状態だと知っているか?」
「え…うん。それで世界が壊れてるってお母さんが言ってた」
「…天界の在り方を元に戻せば、お前の兄に会えるかもしれない」
「…」
「どうした?」
「…夢を見たの。お花畑で、お兄ちゃんと、一緒に遊んでる夢。でも、お兄ちゃんがいきなりどこかに行った。お花も枯れて、寂しかった」
「ああ」
「お兄ちゃんにまた捨てられたくないから、私、お兄ちゃんにもう会いたくない」
「いいのか?」
少しびっくりした様子で悪魔は言う。
「…うん……でもね、天使の世界の事は直したい。皆苦しんでるから…」
「…よし」
悪魔は優しく私の頭を撫でた。優しく笑いながら。
…ずっと、誰かにこうして欲しかったんだ。すごく安心した。
「用意しておいて良かった。お前はこの陣の中に入るなよ」
ろうそくと羊皮紙を2枚持って、悪魔は陣の中心に立った。
「あ、あと言い忘れてたが、俺の名前はアモスだ」
アモスが羊皮紙を陣の上へ落とす。
ゴオッと羊皮紙が燃え散り、ろうそくの火が全て消えた。
人間のアリィでも分かる程空気が変わり、寒気がする。
キィィイイインと大きい音で耳なりがした。
何かくる…!
そう思った瞬間、陣の空中…アモスの目の前に2つの光が現れた。
「久しぶりだな」
アモスが小さく呟く。
『へぇ〜!この子か!なかなか可愛いやん』
『お前煩い』
2つの声は耳鳴りがなる度に聞こえた。
なに…?この声…
「お前ら…契約中なんだから真面目にしろ」
アモスもこの声が聞こえるらしい。
目線の先はあの光。
『まぁええやん』
光が大きくなり、なにかのシルエットの形になった。
光が消えて行き、生物のようなものが現れた。
1つはオレンジのモフモフした生物。
もう1つは青緑のサラサラした生物。
現れるなり、私の方へ飛んできて、嬉しそうに尻尾を振るモフモフ。
照れ臭そうにアモスに隠れるサラサラ。
「儂等は使い魔やねん」
にかっと笑うモフモフ。
ツカイマ…?って何?と目でアモスに訴える。さっきからケイヤクとかなんとか言ってるけど…
「追い追い説明する」
呆れ顔でモフモフを見やり、そう言った。
「そのオレンジのモフモフしたものがステラ、こっちの青緑のサラサラしたものがミント。俺と同じ悪魔だ」