第1幕─2 この世界、普通に非ず
「私が、ですか?」
「えぇ、あなたがですよ。ハンナ・アトウッド」
樫屋修三と非日常の邂逅からさかのぼること約2日前、イタリアはパドヴァにあるサンタントニオ大聖堂にて、観光客に紛れて話を行う3人の姿があった。ハンナ・アトウッドと呼ばれたのは10を少し過ぎた程度の小柄な少女だ。金髪に青い目、白く華奢な手足はフリルの付いた赤いワンピースと相まって人形のようなあどけなさだ。対して彼女の名を呼んだのはシックな黒のスーツに身を包んだ40代半ば程度の男性である。
「他にももっと適任がいると思うのですが? わざわざ教会派でない私を向かわせるよりもずっと自然に思えるような人材が」
「いやいや、日本という国はなかなかどうして教会なんかの宗教的なものとは縁遠いのですよ。後ろ指を指されるなんてことはありませんが、神父や牧師が正装で街を歩けば必要以上に視線を集めてしまう程度にね。とはいえ、我々の大半は普段は神の家での奉仕に努めねばならない。そうでないものでは、言い方は悪いが立場不相応。となると、後はこちらに協力的な隠匿派の方々から相応しい立場のお方を選ばねばならない。そうして白羽の矢が立ったのが貴女なのですよ」
―――― Baldwinという呼び名を直々に送られた貴女が。
質問に対して告げられた言葉に、ハンナは思案顔になる。理屈は分かった、だが恥を忍んではっきり言ってしまえば脳筋な自身にとってはこの役割は荷が重い。
そもそものことの始まりを説明するには、彼らの会話に登場した教会派、隠匿派の単語にまつわる物事から理解する必要があるだろう。
簡潔に言えば、この世界には魔法が存在し、彼らは魔法使いである。正確には魔法に値するものは魔導術、それを行使するものが魔導師と呼ばれる。その歴史の始まりはいまだはっきりと確認されていないが、少なくとも魔導術の基になる異能は紀元前から存在するであろうというのが魔導師達の間での定説である。
魔導術は自身の体内において生体電流をまったく異なるものへと変化させる魔導炉と、変化したもの――魔導力の流れる経路である魔導経路を持つ者が使える異能を効率よく使用するために発展したものである。現代科学の源流にもなった、中世ヨーロッパにおいて盛んであった錬金術が魔導術の始まりとされる。また魔導炉と魔導経路の発見および定義はルネサンス期に行われた死体の解剖などによってなされた。この後に魔導術は様々な方向へと発展していく。
ただし、教会派と隠匿派の成り立ちは魔女狩りの時代へと遡る。この時代にはまだ魔導術は単なる異能でしかなかったが、魔女狩りの対象としては十分であった。それに対して、異能を持った教会関係者や教会関係者に親しいものが秘密裏に告解し、信徒として生きることを強く誓う、あるいは反対に自身の異能を徹底的に秘匿し隠れ住むことによって異能を持った人々は生き延びた。このことから、前者の血をひき敬虔な信徒として生きる魔導師を教会派、後者の血をひいたものを隠匿派と呼ぶようになった。
両者はその後、長きに渡り大規模な関わりを持たなかったがとある時期を境に状況が変化する。迫害への復讐のために自身の異能を研究し人々が恐れた魔女のような所業を成す魔導師が現れたのである。基本的に教会派、隠匿派双方の大多数に共通することは自身が異能を使えることを大多数である一般人に秘匿することであるが故に、復讐に走った魔導師を異端派と呼びひそかに排除することを決めた。この際、世間に対して大きな影響力を持つ教会派が中心となった。
しかし現在では社会に対する教会の影響力は低下したため、教会派および隠匿派は犯罪捜査において超能力などの異能を重要視こそしないが参考にはするアメリカなどの一部の国家に存在を明かし、異端派などの排除の際の秘匿を協力させることを交渉し協定を結ぶことに成功した。
現在ハンナが依頼されている仕事とは、主だった国家との協定が成立していないアジア圏における一大先進国である日本に赴いての交渉、および現地にとどまっての異端派の排除である。
「お願いしますよ、ハンナさん。黙認と支援じゃてんで比べ物にならないんですよ」
日本における異端派の排除は軍事同盟を結んでいるアメリカが協定を結んでいるため、日本政府のごく一部は認識されているが故に黙認こそされているものの、協定の存在がないために一国家としての対異端派排除の支援は行えないのだとスーツの男――教会派からのメッセンジャー、ジョン・ドゥは言う。
「しかし、言ってはなんですけれど私は交渉ごとは苦手なんですよ……?」
「その点なら問題ありません。必要なのは権威ある立場の人間です。交渉は我々の方で行いますのでご安心を」
自身で言ったことだがあからさまに肯定されてしまい、若干むくれてしまうハンナにここぞとばかりにジョンが畳み掛ける。
「なぁに、すぐすみますよ。それに、日本にはこの有名なフジヤマがあるじゃないですか! 観光気分でも大丈夫ですよ」
フジヤマ、の単語にハンナがピクリと反応する。雄大で神秘的な自然が頭の中を駆け抜けてゆき、次の瞬間。
「わかった。その仕事受ける!!」
目を輝かせ、了承していた。その掌返しにこれまで静かにハンナの左に控えていた女性は驚き、ジョンは笑みを浮かべていた。
「えぇ、ありがとうございます。それではすぐに手配をしますので少々お待ちを」
パンと手を打ち、いそいそと席を立ちスマホでどこかへ連絡を取るジョンを尻目に、女性はハンナへと詰め寄っていた。
「大丈夫なんですか? あんなことに安請け合いして!?」
「大丈夫でしょ、聞いた限りじゃただ椅子に座って最低限の挨拶をしてればいいようだし。それよりもどんな服を着ていこうかしら? 私、観光で違う国に行くのなんて初めてよ!」
詰め寄る女性に簡単に返事をすると、ハンナは目を輝かせながらどうしようかを呟く。それを目にした女性は息を呑み母が子を見るような、家族を失った幼い子供を見るような慈悲と憐憫を籠めた視線を送った後、大げさに溜息をついた。
「わかりましたわ。すぐに手配します。……くれぐれも気を付けてくださいよ?」
「わかった! ありがとう、アイリーン!」
元気な返事を聞いたアイリーンと呼ばれた女性は微笑んだ後、スマホで連絡を始めた。その周りをそわそわと忙しなくハンナが動き回る。その光景は、周りにいた観光客を自然に笑顔にしていた。先ほどまでの会話が聞こえていてもおかしくないほど近くにいた者も含めて。
それからすぐに教会派が手配した飛行機のチケットを受け取り、準備を済ませたハンナ達交渉のための人員数名は12時間少々の空の旅を経て日本へと到着した。
――――はずなのに、なんでこうなった。
ハンナは、現実逃避じみた回想を終えて、目の前でぶつぶつと何事かを呟きながら散らばった弁当を掻き集めている男を視界に収めた。