第1幕─1 その夜、静寂には程遠く
第1幕
今の所この世界は、振り返った10数年とは大差と呼べるものはないだろう。無論技術は進歩している。石油に代わる、いわゆるクリーンエネルギーの種類も増えてはいるし、同様にロボット技術も進歩し自律して警備を行えるほどの無人システムの実用化や、目に見えないレベルの大きさのロボットであるナノマシンの医療への応用も確立された。残念ながら、クリーンエネルギーの大半は実証試験の段階であり、実用化された物も石油などの化石燃料の代替になるほどの量が流通してはいない。ロボット技術については流通量こそ多いものの無人警備ロボットもナノマシンもあくまで軍用であり、一般施設や民間医療機関へはまだまだ流通していないために世間での認知度は決して高くはない。
このように、世間一般に置いてはまだまだ未来的とは言えないが、少なくとも先進国間の戦争を回避しながら過ぎた年月を顧みれば、十分現実的で一般的な変化だろう。少なくともまるでフィクションのように自我を持ったロボットや、ましてや今まで否定されていた魔法の存在が世間一般に明らかになったなどの突拍子もない出来事は存在してはいない。
「水よ! 我が意を得よ! 捕縛の神鎖!」
少なくとも、一般人と分類される大多数の人々にとっては。
とうの昔に日が暮れて、住宅に灯る光もぽつぽつと疎らになった真夜中、午前0時過ぎ。決して都会とは言えないが、田舎とも言えない中小都市である富士峰市の繁華街から外れた閑静な住宅街であるはずの今この場所は住宅の屋根を跳ぶように移動する一つの影と、それを追う2つの影によって少々騒がしくなっていた。
「だあああァァァァ! てめぇへたっくそすぎんだよちゃんと狙いやがれ!」
「うるっさいわね! 文句言うならあんたがやりなさいよ!」
「できねぇからてめぇにやらせてんだろぅが! バカか! …………そういやバカだったなてめぇは!」
ギャアギャアワイワイ賑やかに、英語──恐らくはブリティッシュイングリッシュで互いを口汚く罵り合っているのは、追う側の2つの影だ。もしも目撃されれば通報待ったなしの状況だが、幸い時間帯のおかげか人通りは皆無であり移動速度もかなり早い為に、家の中にいる人にとっては空耳として認識されるだろう。
それから逃げる影は、自身を目掛け蛇のように這いよる半透明な鞭のようなものを避けながら何がどうしてこうなったのか考えていた。遭遇した時の初動か、日本に着いた時に案内の者が急な予定で変更になったことに違和感を覚えなかったことか、そもそもまったく向いていない仕事を引き受けたことか。
────フジヤマに惹かれた私のバカァ!
なんとも情けなくなる結論に、思わず顔が歪む。だがすぐに思考を切り替え、このような事態になった際に向かうべき場所への経路を思いだす。どうやら後少しだと胸をなで下ろし。
「あぁ、チクショー! ちょっと引っ込んでろ、俺が一発かましてやる!」
怒鳴り声に振り向けば、赤々としたバスケットボール大の火球が迫り、半透明の鞭も自身へ向かってくる。
「のわっ!」
思わず叫びながら飛び退けば、先ほどまで自身がいた場所へ火球があり、そこへ半透明の鞭が迫り直撃。瞬間、熱した鉄板に水を差したような音と共に鞭が膨れ上がり、破裂音と共に凄まじい衝撃が身体を突き抜け吹き飛ばされる。視界の隅で自身を追跡していた2つの影──神父服を着た少年とシスターの格好の少女がこちらを尻目言い争う姿がチラリと入るがすぐに消える。
再びの衝撃と共に視界が回転、三回ほど繰り返した後三度の衝撃で自分の意思によらない急激な運動は終了となった。体の節々を走る痛みをこらえながら辺りを見渡せば開け放たれた窓からベランダ越しに住宅街が見える。どうやら運良く開け放たれた窓に飛び込んだようだと安堵し、直ぐにその思考を振り払った追跡されていた影───小柄な少女、というよりも幼女は立ち上がる。
その白く華奢な手足には、奇妙なことに先ほどまでの数々の衝撃の痕跡はない。幼女が体についた埃を払い直ぐに立ち去ろうと一歩踏み出した瞬間。
「あ、あぁ。ぎ、銀鮭、銀鮭弁当が。DX銀鮭弁当658円(税込)があああぁ!」
この部屋の住人らしいそれなりに背の高い男が、散らばった家具や幼女を尻目に巻き込んで吹き飛ばしてしまった弁当をかき集めながら嘆いていた。
これが、普通ではない男が、普通ではない物事に関わることになっていくきっかけである。