第四十七話:その先に待つもの
昼、私の気持ちはまだ落ち着いていなかった。川越君との出来事は本当に何も思い出せない。
川越君は朝早くに帰り、その証拠は無くなった。
しかしきっと事実は私の思う事と違いないだろう。
私は、許されない事をしたんだ。
そう解っているのにどうしてか、うきうきしている自分が在る。それは女として、性別のあるものとしてか、または侵してはならない領域を冒険した気持ち良さか。
「ねぇ、どういう事?」
いつの間にか私の背後に居た次女の未砂記が私に問い掛けた。まさか…。
「ん? 何が?」
あまりにも唐突な問いに私は咄嗟の返事しか出来ない。
「どういう事じゃないよ。夜中の事だよ。アンタここで姉貴の彼氏といけない事してたでしょ」
やっぱりそうだったのか。してしまったんだ。私は。親として、人として最低な事を…。
「何それ? 夢でも見てたんじゃないの? どうせ彼氏が欲しいからって妄想でもしてたんでしょ?」
私は何て事を言っているんだ? そんな事を子供に言うなんて、どうかしてる。いっそ私を殺して。
殺して…。
気持ちが沈んでゆくのとは裏腹に事実を否定した。子供に嘘つくなんて、親として最低だ。
「最初に姉貴が見付けたんだよ。それを私も一緒に見たの」
絵里に見られた!? もう駄目だ。
「あぁ、仲良いのね。二人揃って同じ夢見るなんて」
立っているのもやっとの私の頭の中は真っ白で、言っている事は目茶苦茶。
「もういい」
「あっそ。気が済んだのね」
私、何でそんな事言えるの? 苦し紛れの強気な口調は自身も子供たちの心もズタズタにして親子の絆を断ち切ったに違いない。
子供に見捨てられ、もはや母親の資格など私にはない。
ここに私の居場所はない。
裏切り者の私は何処へ行こう?
何処へ…。
私はそのまま家を出て宛もなく歩き出した。もう娘達に会う事はないだろう。
歩いているうちに辺りは暗くなっていた。虫の声が侘しい。それが私の頭の中を、胸の中を真っ黒でどろどろした後悔の色がじわじわと染めて行く。きっと私と同じ事をした母親は他にも居るだろう。中にはそんな事をしても平然としてる人も居る筈。しかし私はそうでなかった。そんな事をしてしまった自分が許せなかった。
何度か朝が来て、気が付くと周囲に木々しか見えない森の中に居た。時々蔦に足が引っ掛かり転びそうになる。私は道などないそこを孤独に、無心で歩み進んだ。やがて脱力感に苛まれ目が眩み体がふらついて立ち上がれなくなった。
私、こんな森の中で誰にも看取られないで死ぬんだ。当たり前だよね。あんな酷い事をしたのだもの。
でもせめて、子供たちに謝りたかった。思い出すと意識は朦朧としていても、頬が緊張して涙が込み上げてくる。
「ごめんね、ごめんね、絵里、末砂記、ごめんなさい、私なんか早く忘れてね、お父さんと仲良くするんだよ?」
聞こえるのは木と木が擦れる音や小鳥たちの囀りのみ。そこでは私の嘆きの声などすぐに掻き消されてしまう。
分かっていた筈なのに。
決死の想いで産んだ子供たちの存在の尊さを。
他愛ない日常の尊さを。
それをたった一つの、浮いた気持ちが犯した過ちで積み上げたもの全てを崩してしまった。その先でどうしようもなく愚かな私を待っていたのは、深い深い森の中での孤独な死だった。年老いた両親を亡くした私が失踪した所で、旦那に犯した過ちが知れれば携帯電話を持たない私を探してくれる人など誰もいないだろう。