約束は宙に浮いたまま
「お嬢さん、僕と一緒に遊びませんか?」
大人の会話は難しくて退屈。
けれど猫を追い掛け回したりよそのお家を探検する程、私は子供じゃなかった。
部屋の隅でお菓子を抱えるのにもあきて。
だから面白そうな彼の誘いに、差し出された手を取った。
寒い冬の日なのに部屋のドアを開けたまま、暖炉の前でカードゲームに興じる。
連敗なのが悔しくて、次のゲームは賭けをしようと持ちかけた。
ポケットのお菓子は瞬く間に無くなる。
「私を賭けるわ」
彼の驚いたかおなんて、あれから一体どれほど見たかしら。片手で足りると断言できるわ。
そりゃ、人間なのだから吃驚したりするわよね。
人間なのだし。
「――マデリーン。僕の顔に何か付いているかい?」
「あら、私の視線に気付きまして?」
部屋に入って来た時にソファに案内してくれた後、ずっと部屋の奥の机で書類とにらめっこしてるくせに。
こうしてお話している時も顔を上げるどころか、視線一つ寄越しもしない。
それはね、と彼は含み笑う。
「穴が空く程人を眺めるというのは礼儀に反するよ、お嬢さん」
あら、私もう子猫じゃありません。幾つになっても子供扱いされる。あの賭けの日から十年くらい経ってるのに。
「婚約者のかおに見とれておりましたの」
「光栄だね。僕は見とれる程いい男かい?」
ぬけぬけと。
クスクス笑いながらも彼のペンの音は止まらない。乱れもしない。
彼ときたらのらりくらりと掴めない男だ。本当に何を考えているかわからない。昔から、そう、出会ったあの日からそうだった。
年々如才なくなって来て、何でもこなして、何でも出来て、誰しもが羨む婚約者。
違うわ。だってこの男の恋人は仕事だもの。
いつだって熱心に見つめるのは書類なの。
私がこんなに見つめても、チラとも見てくれないの。
いつもより時間と手間を掛けて髪を綺麗に編み上げたのよ?
ドレスだって一生懸命選んだわ。
あなたが好きだって言った青いドレス。
少し大人っぽいけど、あなたが丈の長いものが好きだと言うから。
ナチュラルメイクだって頑張った。
なのに、見てくれないのね。
わかってる。
あなたは、私と結婚するつもりなど無いのでしょう?
子供の口約束ですものね。
でもね。
この十年で、私は大人になったのよ?
ままごとじゃなく、あなたに恋をした。
刷り込みの様な、淡雪のような憧れ?
わからない。
振り向かないあなたを見ているのが、苦しくて切ないのに、それでも幸せ。
幸せ、だけど、苦しいから。
中途半端はもう止めにしましょう。
「マデリーン、待たせて悪かったね」
生真面目で朴念仁っぽそうな補佐官さんに彼は書類の山を渡した。
でもこの補佐官さんと彼、目で会話するのよ。
私、先ず補佐官さんに勝たなくちゃいけないのかしら。
「マデリーン? 婚約者の前で別の男に見とれないでおくれ」
言葉とは裏腹に彼は可笑しそうに笑う。
「睨んでいたのよ」
無表情な補佐官さんだけど、犬っぽいから雰囲気で感情が読み取れる。わかり易く困惑してるわね。
「彼が君に何かしたかな?」
「私、補佐官さんに勝ちたいわ」
彼は私の持つカードに目を止めて、何を考えたかはわからないけれど、にっこり笑う。
そして補佐官さんに目配せして下がらせ、ソファにやってきた。
補佐官さんは出て行ったが、ドアは開け放たれたまま。でも、暖炉のまえだから寒くない。
「ゲームが好きだね、お嬢さん」
ソファにゆったりと掛けて、足を組む。無駄にイケメンなのが腹立たしい。
「少しは強くなったのよ。だって、」
欲しいものがあるから。
「『だって』?」
「賭けましょう。負けたら、勝った方の願いを叶えるの」
「いいよ」
即答される。自分の勝ちを疑いもしないのね。飄々としたあなたがにくたらしいわ。
「何回勝負にする?」
くっ。悔しい! でも、確かに一度きりでは勝機は無いのだけど!
「……三回勝負で」
彼はにっこり笑ってカードを切り、二枚引く。私も二枚引く。
「十八」
「五……」
絵札は十、Aは十一、それ以外は書かれた数字の通りで、二枚の合計を二十一に近付けるゲームだ。
「僕の勝ちだね」
「三回勝負よ!」
二回目は、彼が十六、私が十七。
次のゲームで勝負が決まる。
私はカードを捲った。
う、そ……、
「……二十!」
勝った!
顔をぱっと上げると、彼が残念だと目を伏せる。
「二十一……僕の勝ちだね」
きんぐ、と、えーす……おまえたちは、わたしを、おこらせた。
「……何か欲しいものがあったの?」
がっくりとソファに突っ伏す私に、彼は労る様な声を掛けてくれたけど。
きんぐ、えーす。私、今お前達に怒る気力も無いの。
「折角、私の事どう思ってるのか聞けるチャンスでしたのに。補佐官さんとは目で会話するくせに私の事はほったらかしで、ええ、存じてます、私の婚約者さんは仕事が恋人なんですもの、書類に熱い視線は注げるくせに、私なんて机から遠く離れたソファですものね、視界にも入れたくないんだわ、毎日肌の手入れかかしたことないのに、好きな香りの香油でお肌磨いてるのに、昨日だって寝るギリギリまでドレス選んでたのに、」
「マデリーン」
「髪だって結い上げて編み上げるのスゴく大変だったのに、」
「マデリーン、マデリ……聞こえてないのかな。ふふ、いつまでたっても可愛らしいキティだね。僕はいつまで待てばいいのかな」
もう十年も待ったんだけどな、と言う彼の言葉も聞こえない程ショックだった。