#0 転移 transitio
僕は身体虚弱者だ。
身体虚弱者とはその名の通り、身体が弱い、虚弱体質を持った者の事を指している。病気になりやすく、疲れやすい、ゲームで言う『呪い』ステータスの様な、そんな体質。
もっと具体的に言うと、肺等と言った運動する際に必要な器官がかなり弱い。
そのために、僕は興味があったサッカーも諦めた。
スポーツや運動事は全て諦めた。
小学生の頃、友達に誘われたドッヂボールも遠慮し。
中学生の頃、昼休みの体育館でバスケをしようと誘われて遠慮し。
そして十六歳の今、放課後にグラウンドが見える三階のホールで、サッカー部の練習風景を見るのが日課となっていた。
配置されたベンチに座り、同級生が楽しそうに部活をする姿を見て、小さく溜息を付く。
こんな体質がなければ、僕もあそこでみんなと一緒にボールを蹴っていたんではないだろうか?
どうしてこんな体質を持って生まれてしまったんだろうか?
この世界は残酷だ。
人は皆平等だと言うけれど、それは間違ったことなのではないかと最近思う。
だって生まれた時点で人は他人とは違うのだから。
生まれた家が裕福かそうではないかで、その後の人生もガラリと変わる。
身長、体重、スタイル、容姿、全てが全て他人と違う。カッコよく生まれてきた人もいれば、そうでなく生まれてきた人もいる。
結局、自分の努力次第で生き方は変えられたとしても、生まれ持った体質はどうしようもないのだ。
そう、僕の虚弱体質のように。
どれだけ努力しても、僕はこの虚弱体質という呪いを解くことはできない。
どれだけ努力しても、僕はあのグラウンドで友達と一緒にサッカーをすることはできない。
僕のこの体質は、絶対に治らないのだ。
「……はは」
そう思うと、何だか笑えてきた。
早々に諦めていたからダメージは肥大しなかったが、最近は結構辛くなってきた。
「気にしないようになんて、無理だよ……」
もう、今日は帰ろう。
明日は休日だし、家でのんびりゲームでもして出来うる限り充実した一日を過ごそう。
立ち上がり、隣に置いてあったリュックを背負ってホールを出た僕は、そのまま学校を出るために階段へと向かった。
そして、一歩足を下ろした所で――、
「――あ?」
フラリと。
目眩がしたと思ったら、体勢を崩していた。
異常なほどスローモーションに感じる中、必死に手すりへと手を伸ばす。
(届かない……ッ!?)
近づくのは何段も下の段差。
このままだと頭から落下する事になる。そうすれば確実に、僕の命は刈り取られるだろう。
恐怖は感じなかった。
未練も、生憎と感じなかった。
(それ程までに、僕はこの人生に失望していたんだな――)
思い返してみれば、本当にいい事の少ない人生だった。
虚弱体質を持って生まれてきた僕に対して、両親は優しかった。一緒に暮らしている祖父母も良くしてくれた。
自分で言うのもアレだが、容姿だって悪くない。
身長だって中の上。
運動できないせいで多少性格はやさぐれているけれど、それでも悪くはないはずだ。
でも、虚弱体質がダメだった。
(はあ、ごめんなさい。お父さん、お母さん)
お先に。
心の中でそう呟く直前に、僕の意識は吹き飛んだ。
後日談ではあるが。
週明けの月曜日、学校の全クラスの朝のホームルームで、北條壱騎が行方不明になったと言う話があった。
彼が転落した階段。
そこには、彼の体、血跡等と言った痕跡は何もなかったという。
2
学園都市・ロックスフィード。
そこから数時間移動した場所にある森の中を、二人の女性が歩いていた。
一人。狐を思わせる黄色い耳と尻尾を備えたグラマラスな女性。全体的に白が基調のワンピースを身に纏った彼女は、魔物が出現する森の中でも何の警戒もしていない。
神霊イヴ。
炎と氷を司る九尾の妖狐であり、この世界に生きる精霊の更に高位な存在だ。
もう一人。こちらは動物的特徴を何一つ持たないが、やはりグラマラスな女性。黒に紫の刺繍が入ったロングコートで身を包み、腰のベルトには短く黒い筒状の棒がいくつも吊るされている。
セリア=オレアス。
ロックスフィードにある魔術学園の学園長を務める、闇属性魔術を最も得意とした魔術師だ。
「……それで、こんな所まで何をしに来たかと思えばただの息抜きですか」
イヴが呆れた表情で口を開いた。
隣に並ぶセリアはぐちゃぐちゃした泥となった地面を迂回して歩きながら、
「まあそう言うな。つい先日まで大量の書類に手を付けていてね、ようやく終わったんだ。たまには休暇も必要だろう?」
「学園長ともあろう貴方がそんな簡単に休んでいいんですか? ……まさか無断で抜け出したりして来たとかではないですよね?」
「まさか」
そう言って苦笑するセリアとイヴの前方の木陰から、小さな人型の影が複数姿を現した。
「ん、ゴブリンか」
ソレを見たセリアが、しかし平淡な口調でそう言った。その声音に奴らを警戒した様子はない。
ゴブリン。
この世界に生きる魔物の中で最も危険度の低いEランクの人型生命体だ。全体的に薄緑色の身体を持ち、筋肉の付いていない細い腕や脚が目立つ、半裸の魔物。
身体に纏っているのはボロの布切れのみ。
手に握るのは長さ五○センチメートル程の棍棒。もっとも、ゴブリンの様な細い腕から繰り出される攻撃は身のこなしさえマスターすれば万が一にも掠ることはないだろう。
「数は……三〇といったところだな」
最初に姿を見せた数体のゴブリンの後ろには、更に沢山のゴブリン達が黄色い瞳を光らせていた。
もう少し高位のゴブリンとなるとただの『ゴブリン』ではなく、『○○ゴブリン』と名が付けられた魔物も存在するが、見た感じだとこの群れは全て『ゴブリン』で形成されている。
二人が戦えば一瞬で片付ける事が出来るだろうが、ただのゴブリン相手にわざわざ血を浴びる様な真似をする必要はない。
「イヴ」
「はいはーい」
セリアの掛け声にお気楽そうな声音で返事をしたイヴが、一歩前に出て口を開いた。
『退け』
先程とは違った、脳天に直接響くような声で発せられたその言葉がゴブリンの群れに届く。その瞬間に先頭にいたゴブリンに続いて群れ全体が身体をビクリと震わせた。
言霊。
神霊であるイヴが扱う事が出来る『言葉の力』。
使える対象は限られているものの、ゴブリンの様な最下級の魔物ならば効果は大きい。高位の魔物となってくると言霊の効果はあるが、魔物に植えつけられた『戦闘本能』というものが刺激されるため逆に凶暴となって襲いかかってくる場合が多い。
神霊と言えど、やはり面倒事は嫌いである。
出来るのならわざわざ戦闘をせずに事を解決させる道を選ぶ。
力を持つ者が誰しも戦闘狂という訳ではないのだ。
ゴブリン達は慌てた様子で踵を返して何処かへと走り去っていく。
「流石神霊様、その言霊の力は絶大だな。この森に住まうのはあのゴブリンと同格、もしくはDランク程度の魔物だけだし、それさえあれば平和って訳だ」
「うふふ。貴方だって高位の闇属性隠蔽術式を使えばこんな森で数週間過ごすのは容易いでしょう?」
「お前のソレとは格が違うんだよ。一言声を掛けるだけで魔物が退いていくんだぞ? 私の隠蔽とはワケが違う。こっちは見つかったら戦わなければ行けないんだからな」
「あら、隠れきる自身がないんですか?」
「あるに決まってるだろ。使い勝手の話をしているんだ」
「そうですか」
セリアの言葉に微笑みを浮かべるイヴは、また姿を現した別の魔物の群れに同じように言霊の力で退く様に命じて、足を再び動かし出す。
「それよりも、そろそろ私の家の場所を覚えてくださいね? 貴方が来るという度に毎回森の入口まで迎えに行くのはこっちが面倒なんですから」
「すまないな」
苦笑を浮かべて謝るセリアだが、イヴに迎えに来て貰っている理由は道が分からないから、だけではない。
彼女の言霊の力があればわざわざ無駄な魔力を使って隠蔽術式を使わずとも、楽に森を進む事が出来るからである。
勿論イヴも言霊を利用する際は、それのエネルギーとなる霊力を消費している訳だが、神霊のエネルギー量はただの高位魔術師でしかないセリアのソレとは桁が違うのだ。
「仕方がないですね……そろそろ付きますよ。――え?」
まるで子供を見るような視線をセリアに向けていたイヴが、そろそろ家(と言うより洋館)が見えてくるはずの前方に目を向けた途端に、小さく声を出して立ち止まった。
その様子に怪訝な表情を浮かべたセリアが同じように足を止めて尋ねる。
「どうかしたのか? 何か変な魔物でも湧いて――は?」
固まったまま動かないイヴを見たセリアが同じように視線を前に向けた。そして、全く同じようなリアクションを取ったかと思うと、やはりその場に立ち止まって固まった。
無理もない。
――何せ見えてきたイヴの洋館の入口の前に、見た事の無いダボダボの服を着た少年が、うつ伏せで倒れていたのだから。
「なあイヴ? アレ、なんだ……?」
倒れているのは人だというのに、指を指して『アレなんだ?』とか言い出してしまうセリア。
それを聞いたイヴは、やはり表情を硬直させたまま首を振った。
「私も、分かりません……」
セリアが思わず人を『アレ』呼ばわりしてしまうのも無理のない事だった。
それ程までに、視界に入る倒れた少年がおかしかった。
可笑しいとか、笑えるとかそう言う"おかしい"ではない。寧ろ、笑えないようなオーラを身に纏っていた。
「じ、冗談じゃないぞ……? なんなんだ、アレは一体――ッ!」
「私の霊力と同格……? いや、それ以上……ですって?」
倒れていた少年は。
高校生だったはずなのに中学生くらいの身体の大きさまで縮んだ、黒い学生服を身に纏った虚弱体質持ちだった少年は。
身体から有り得ない程の魔力のオーラを吹き出しながらそこに倒れていた。
ソレを見て、イヴとセリアの二人は身体が強張ってその場から動けないでいた。
気を失っているのだろう。彼の身体は動く様子を見せない。うつ伏せに倒れたまま沈黙している。
額から一筋の汗を浮かべるセリアが恐る恐るイヴに尋ねた。
「……イヴ、この男は一体何なんだ? 見た感じ、霊獣の類ではないんだろう?」
霊獣とは、イヴを含めた人間よりも高位な存在である神霊・精霊の事を一纏めにした種族のことだ。
「ええ、この少年は私とは違いますわ」
イヴも同じように額に汗を浮かばせていた。それほどまでにこの少年が放つ魔力のオーラか凄まじいのだ。
そもそもオーラと言うのは誰もが出せるものではない。異常なほどの量の魔力が身体から漏れだす事で発生する現象だ。
そんなオーラを出していると言うことは、彼の魔力量が尋常ではないことを示している。
イヴは神霊。
この世界に住まう生物の中でトップクラスに君臨する神霊の一人だ。
そんな彼女が目を見開いて硬直している姿を横目で見たセリアが、やはりこの少年は危険なのだと判断し、震える腕で腰に吊るされた筒上の棒を掴んだ。
「な、何をするつもりです……?」
「決まっているだろう。目を覚まして暴れだす前にこの男を……殺す」
少年のオーラは、高位の魔術師であり学園長でもあるセリアの思考回路を混乱させる程だった。
普通なら倒れている人間を見たら、殺そうなどと思わずに助けてあげたい、そこまでいかなくとも痛たましい気持ちになるはずだ。
それを、殺してしまおうと考えさせる。
魔力量が彼女に危険信号を送ったのだ。
「……やめなさい」
イヴが制止の言葉を掛けたときにはもう、筒上の棒から黒いレーザーの様なものが飛び出ていた。長さ一メートル程のソレは、まるでチェーンソーが発する様な音を出しながらゆっくりと持ち上げられた。
闇属性魔術の一種。
筒状の棒の先端を魔術の展開点とし、『剣』としての力を得た闇属性の魔力を放出する術式だ。
そしてそれが今まさに振り下ろされようとした時だった。
「やめなさいッ!」
「――ッ!?」
イヴの鋭い、怒気の含まれた言葉を聞いたセリアは思わず腕を止めた。
正確には、言葉と共に物凄い力でセリアの手首をイヴに掴まれた事で強制的に止められた。
「……セリア。貴方、今おかしいくらいに血走った眼をしていますわよ? 少し落ち着きなさい。まだこの少年が私達の敵対者と決まった訳ではないでしょう?」
「……ッ、す、すまん」
「落ち着いたならいいのです」
握られた手首の痛みもあってか、なんとか落ち着きを取り戻したセリアが『闇の剣』を解除して筒状の棒を腰に戻す。
薄らと赤くなった手首を摩りながらセリアは礼を言った。
「ありがとう。危うく私はこんな小さな子供を殺してしまうところだった」
「いいんですわ。それより、この子を家の中へ運ぶのを手伝ってください」
「ふ、流石イヴは強いな。こんな化け物じみた魔力量の人間を見てそこまで落ち着いていられるとは」
「私だって動揺していますわ」
どう見ても動揺しているようには見えない様子でイヴは少年へと近づいて行くと、小さく屈んで少年の肩を抱いた。
「あら、可愛いお顔していますわ。食べちゃいたい」
「おい、やめろよ」
3
二人は倒れていた少年の肩を抱いて洋館に入った後、真っ先にリビングの大きなソファに寝かせると、椅子に座って用意した紅茶を啜っていた。
少年の身体は大きなソファにすっぽりと入っている。高級品なソレのため、体を痛くすることはないだろう。
沈黙が続いていたが、やがてセリアが口を開いた。
「それにしても、本当に大丈夫なのか? もし目を覚まして突然襲いかかってきたらどうする?」
「そうですわね……取り敢えず『ノーラムリング』を十個程指に嵌めておきましょう。これがあればすぐに強力な魔術を使うことも出来ないでしょうし」
「魔力を封じ込む指輪……か。確かにソレがあればこの禍々しい程の魔力も多少は封印、隠蔽出来るだろう」
「えぇ」
微笑みながら立ち上がったイヴが、近くの棚から真っ白い小さな箱を取り出した。
ソレを開けて中から指輪を取り出していく。
銀色の素材で出来たその指輪。それには丸く加工された透明で美しい宝石が嵌め込まれていた。
『ノーラムリング』は魔力を封じる・隠蔽するだけでなく、封じ込んだ魔力を徐々に貯めていく効果もある。魔力が溜まるに連れて透明の宝石の色が変わっていく仕組みとなっている。
ましてやイヴが用意した『ノーラムリング』はミスリル製のモノだ。硬度も凄まじい出来栄えとなっていた。
「流石にミスリルのノーラムリングが壊れるなんて事はないでしょう」
言いながら少年の指にノーラムリングを嵌めようとするイヴの手は微かに震えていた。ハッキリ言ってコレが壊れたら二人共どうしようもないのである。
内心穏やかじゃないイヴは、なんとか指輪を嵌め、壊れなかった事を確認したら盛大な溜息を付いた。
「大丈夫そうですわ」
そう言って全ての指輪を嵌め終えた彼女は、重心が安定していないのかフラフラした足取りで椅子に戻る。
「お疲れ様」
「指輪を嵌めるだけなのにこんなに疲れるとは……」
額を拭ったイヴが、紅茶の入ったカップを口元へ持っていく。
セリアは怪しい者を見るような目つきを少年に向けて、
「それにしても、ここに長居する訳には行かないぞ。私がいる間に目を覚ましてくれないと、万が一にも暴れた時にはイヴだけでは止められないかもしれん」
「あら、私の事を見くびり過ぎではないですか?」
「万が一の話をしているんだ。死んでからじゃ遅いんだぞ?」
軽口を叩くイヴに薄らと怒気を含めた口調で低く言うセリア。
そこで眠る少年の力は計り知れない。しかし、魔力量だけで言えばセリアよりも格上……単純に考えれば、実力も彼の方が上かもしれない。
となると、イヴが一人でそんな相手を対処することになれば"万が一"彼女が死ぬ事もあり得る。
そんな事を考えるセリアに、ゆっくりと落ち着いた声音で返す。
「……大丈夫ですわ。私はそんなに簡単に死にません。最悪『九尾の力』を使ってでも生き残ってみせます」
最初から『勝つ』という考えを捨てたイヴが、安心させるような笑みを浮かべてセリアを見た。
「……そうか」
「それにこの子。そう言う人ではないと何となく分かるんです。物凄い力を備えているけど、決してその力に溺れるような、そんな弱い人には見えませんわ」
「ふっ、何を根拠に」
何の根拠もないのに、何故かイヴが言う言葉は本当のように感じたセリアだった。
「それじゃあ私は帰るが、何かあったらすぐに連絡しろよ?」
数時間後、一向に目を覚まさない少年を見て溜息を付いたセリアが、『そろそろ時間だ』と言って立ち上がった。
今は玄関でセリアがスリッパから靴に履き替え終わったところだ。
「分かっていますわ。それより、私がいなくて帰れるんですか?」
「見くびってもらっちゃ困るな。森を出るくらいきっと容易いことさ。それよりも、お前がいない間にその男が目を覚ましたらどうする?」
「そうですね。薄暗くなってきましたし、魔物の動きも少し活発化してきているでしょう。九九パーセント無いでしょうが、死なない様にね?」
「それはこっちのセリフだ」
二人はそう言ってコツンと拳を合わせる。
「じゃあな」
「はい」
カランと扉にぶら下げられた鈴の音が鳴り、セリアが洋館を出て行った。直後、扉の奥からゴッ!! と言う轟音が炸裂した。
おそらく強化付与によって脚力を強化して地を蹴ったのだろう。
「最初からソレを使えば私の家なんてすぐに見つけられたでしょうに……」
未だにセリアの策略に気がついていないイヴがそう呟いた。
「さて、あの少年はいつ目を覚ますのでしょうかね?」
言いながらリビングに戻ったイヴが、テーブルの上に置かれたティーカップを片付け終え、少年の様子を見にリビングに戻った時だった。
「……うっ」
少年が口を開いて小さな呻き声を上げた。
「――ッ」
それを聞き逃さなかったイヴが、距離をとって小さく身構えた。
いくら看病をしているからといって、それが敵だったのなら戦闘になるだろう。警戒を強めて霊力を練り、いつでも霊術を使える様に準備する。
霊力。
その名の通り霊獣が持つエネルギーの事を指す。そして、霊術と言うのはその霊力を使用して使うことができる術のことだ。
人間は魔力のみを持ち、霊獣は霊力のみを持つ。
そして人間は魔力を使って展開する事が出来る魔術のみを扱え、霊獣は霊力を使って展開する事が出来る霊術のみを扱える……と言うわけではない。
霊獣の持つ霊力は、魔力としての特性も同時に保持しているのだ。
よって霊獣は霊術のみでなく魔術も扱う事が出来る。
もっとも彼女は魔術の術式に興味がないため、魔術は何も使えないが。
「……」
音を立てないように息を吐いたイヴの先で、目を擦りながらゆっくりとした動作で起き上がる少年。
その様子を見ていればまさか高位の魔術師よりも強大な魔力量を保持する者には見えないが、それも演技の可能性がある。
(いつ来ても対処できるように――ッ)
ノラームリングを嵌めている今、彼の体から発せられる魔力のオーラはかなり薄いものとなっている。どんな術であろうと、今の状況ならばイヴの結界で防御しきれるだろう。
そんな張り詰めた様子を浮かべていたイヴを見た少年が、小さくポツリと呟いた。
「ココはどこだ?」
4
少年、北條壱騎は見た事の無い部屋を見渡して小さく呟いた。
洋風のインテリアが揃った広い部屋。白い木製のテーブルに、どこぞの金持ちが使っていそうな高級椅子が並べられ、薄らと紅茶の香りが漂っている。
次に視界に入ったのは、肩に掛かるくらいの金髪が特徴的な女性。瞳も髪の色と同様に金色で明らかに日本人では無い事が分かる。主に胸元の露出が多い白のワンピースを着たモデル体型をしていた。
(……誰だろう、この人? それに、ココは一体どこなんだ? 確か僕は学校の三階のホールで――)
そこまで思い出した所で北條は息を詰まらせた。
鮮明に浮かび上がる光景。
ゆっくりと近付く階段。
全て思い出した北條は、突然強烈な頭痛に襲われて顔をしかめつつ頭を抑えた。
(そうだ、僕は確か階段から落ちて……ならここはどこだ? 保健室でもないし、部屋の感じからして病院って訳でもなさそうだ。なら一体――?)
思考回路をフル回転させつつも、再び視界に入った女性に目を向けた。
そして、先程は何故か気が付かなかった有り得ない事象に気がつく。
「……え? なんだよ、その耳と尻尾は――?」
人間じゃない。そう言いかけて何とか思い止まり、言葉を飲み込んだ。
人の耳はもっと顔の側面についていて、三角形ではなく比較的丸まった形をしているはずだった。それが何故か、同じ部屋で小さく身構えた女性は頭の上の方に、まるで狐の持つ耳の様な物を生やしていた。
そして何より、尻尾が生えているはずがない。
一瞬コスプレか何かかと思った北條だったが、呟いた時に反応してピクリと動いたのを見てその考えを捨てた。
あれは本物だ。
そう確信した。
「……ようやく目を覚ましましたか。気分は如何ですか?」
尚も警戒した様子を解かない女性が尋ねた。
文脈から察するに彼女が自分を看病してくれたのだろうと悟った北條は、何とか小さく頭を下げて礼を言った。
「はい、えーと、助けてくれてありがとう、ございます?」
言葉が若干疑問系なのは現状をはっきりと理解していないからだ。
そんな状況を確認するために、北條は再び口を開く。
「あの、ココは一体どこなんですか? 僕はどうなっていたんですか?」
「ここはロックスフィードの近くにある森の洋館です。貴方は家の前に倒れていたんですよ?」
「ロックスフィード? 森……?」
ロックスフィード。
何だか同じような都市の名前を聞いた事があるような気がしたが、この名前は記憶にない。自分が知らない場所だ。
森に倒れていた、と言うのもおかしい話だ。
(だって僕は学校にいたはずなんだぞ?)
何をどうやったら森に移動するのか分からないが、そこで一つの可能性に行き着いた。
彼が友達に勧められて読んだ事のあるライトノベルに、いわゆる異世界トリップ物と言う題材の作品があった。
その主人公は交通事故でなくなり、女神と話して異世界に送られる。そこで規格外な力を手に入れた主人公が冒険する、と言った内容の作品だった。
(女神とか何だか知らないけど、いささかこの状況がソレに似ている気がする……、)
理由を上げれば、一つ目に聞いた事のない固有名詞、二つ目に何故か森に倒れていたと言う謎の現象、三つ目に人が狐のソレに似た耳と尻尾の存在。
(もしかしたら、ここは本当に異世界ってヤツなのか……?)
その可能性が非常に高い。
おかしな事象が多すぎる。よく考えてみたら何だか身体が妙に軽い。立ってすらいないのに、今までの身体とは違った感覚が存在する。
虚弱体質を持っていた身体だとは思えないような、そんな感じだ。
と、自分の置かれた状況を整理している所で、女性の声が聞こえた。
「まあいいですわ。取り敢えず私は貴方を助けた身として、少し質問をしたいのですが、よろしいですか?」
「え? あ、はい」
北條としては自分も沢山質問したい事がある為、快くその頼みを引き受けた。
そもそも助けて貰った側の彼に拒否権など存在しないだろうが。
緊張した面持ちで女性が質問する。
「貴方は……一体何者?」
「――何者、ですか。生まれつき身体が弱い日本生まれの高校生です」
相手は明らかに日本人ではないのに何故か言葉が通じていることに疑問を持ちつつも、北條は正直に自分の事を伝えた。
と言っても、ここがもし本当に異世界なのだとしたら、『日本』なんて国を知っているはずがない訳だが、だからと言って他に答える選択肢があるわけでもなく。
「生まれつき、身体が弱い……? ニホンって、一体――?」
最初は『日本』について触れると思っていた北條が僅かに眉をひそめる。
何故かこの女性は、自分が身体が弱いと言った所に真っ先に反応した。
一体どうして?
彼女の表情は、哀れみの色も悲痛な色も浮かんでいない。ただただ北條を怪しむような、訝しむような目で見据えている。
「あ、あの、どうかしたんですか? 僕は生まれつき身体が弱くて、スポーツとか全然出来なかったんですけど……」
何となく言葉を後押しする。
ソレを聞いた女性は更に目を細めて、綺麗な口を開いた。
「身体が弱い? ……ならば何故貴方はそれほど強大な魔力量を保持しているのでしょうか?」
決定的な言葉が出てきた。
『魔力量』。
ここはまず間違いなく、北條が今まで生きていた世界とは全く違う異世界で正しいだろう。
生憎と彼は前の世界に未練などなかった。その所為もあってか、現実を素直に受け入れられた。
「……すいません、お姉さん。どうやら僕は恩人である貴方に話さなければいけない事がある様です。もしかしたら信じてもらえないでしょうが、話を聞いてくれるでしょうか?」
その言葉に一瞬戸惑いを見せた女性だったが、警戒した態勢を解かずに小さく頷いた。
それを見た北條は小さく溜息を付くと言った。
「初めに。僕の名前は北條壱騎。おそらくこの世界とは全く別の世界から転移してきた、いわゆる異世界人と言う奴です」
その後、彼は自らを『イヴ』と名乗った女性に全てを話した。
本当は無闇に人に伝えるべき話ではないと分かっていたが、目の前の女性は自分を助けてくれた恩人でもあるため、隠すのは余りいい考えではないと思ったためだ。
そもそもここが異世界なのだとしたら、彼は知らない事が多すぎる。
ライトノベル等に出てくる、俗に言う『異世界知識』は何となくあるが、その知識とこの世界の常識が重なっているかは定かではない。
結局、北條はこのイヴと名乗った女性に頼るしかない状態なのだ。
とは言え全て話したといっても、自分自身の異世界での生まれから今に至るまでの生活を長々と話した訳ではない。
自分はこの世界ではない違った世界で生まれ育ったという事。
虚弱体質の事。
階段から落ちて気が付いたらこの部屋にいた事。
主にその三つだ。
テーブルを挟んで向かい合うように座った二人。凛とした姿勢で黙って北條の話を聞いていたイヴは、やがて小さく口を開いた。
「それでは貴方は、階段から落ちたのを拍子に何らかの力でこの世界に送られてきた、と?」
「……はい。自分でも信じられないような話ですが、少なくとも僕の世界に『魔力』なんて未知のエネルギーは存在しませんでした」
イヴがもう一度用意した紅茶を啜る。
北條も彼女を見て、自分に用意されたティーカップを手にとって口へ運んだ。
「分かりました。あなたの話を信じましょう」
そんなイヴの言葉に北條は心底驚いた表情で聞き返していた。
「ほ、本当ですか?」
「ええ。先ほど見せていただいた『スマートフォン』なるものも、少なくとも私の人生では初めて見ましたから」
既に警戒心を無くしたイヴが微笑んだ。
彼は自分が別の世界から来たかもしれない、と言う話の信憑性を高めるために、ポケットに入っていたホワイトカラーのスマートフォンをイヴに見せた。
充電は六○パーセント程あったため電源は付いた。当たり前だが電波は繋がっていなかった。
北條はソレを興味津々な様子で見ていたイヴを思い出しながら、
(……にしても綺麗な人だな。耳と尻尾が更にそれを際立たせている)
ぼーっとした様子でイヴを見つめる北條。確かに彼女は、日本の街を歩いていればすぐにモデルスカウトされそうなくらいの美女だった。容姿端麗で言葉遣いも綺麗。性格まではわからないが、それを除いても完璧な女性と言えるだろう。
そんな事を考える北條の視線に気がついたイヴが、可愛らしい動作で首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「っ! いえ、何でもありません」
「そうですか。……イツキ、さんでよろしかったですか? 貴方はこれから一体どうするおつもりなんでしょうか?」
「……」
北條の問題はそこだった。
何も知らない彼は、おそらくこの世界で生きてはいけない。圧倒的に情報量が少なすぎる。
かと言って、イヴに何でもかんでも聞くと言うのは図々しい。助けて貰った挙句、その後の世話もして貰うと言うのは虫のいい話だろう。
黙り込む北條を見たイヴが中身のなくなったティーカップをテーブルに置いて微笑んだ。
「……そうですね。私もここ最近退屈していました事ですし」
北條に聞こえるか聞こえないかくらいの小声で呟いた。
神霊は長命だ。
この世界に存在には亜人種と言うものが存在し、中でも妖精種や強妖精等は長命で有名だが、神霊を含めた霊獣はその更に上を行く。
長らく静かに森で過ごしていたイヴだったが、人生――人ではないが――に飽き飽きしていた。かれこれ生まれて千年。その三割を一人で過ごしていた。
今までの日々を思い出した彼女は瞼を下ろして言った。
「イツキさん。私と契約をしませんか?」
「……契約?」
疑問を浮かべる北條に続ける。
「私は『神霊』。この世界において人間や魔物よりも高位の存在である霊獣。耳と尻尾を見れば分かるとおり、狐の神霊です」
九尾の妖狐、とか聞いた事ありませんか? と付け足すイヴ。勿論聞いた事のある北條は頷いた。
確かに北條はイヴから何とも言えぬ凄みを感じていた。彼が知る九尾の妖狐と言うのも、中国の神話に出てくる生物だ。
(……確かソレでは"悪しき霊的存在"として登場してた気もするけど)
でも、彼女が悪い人ではないというのは何となく分かる。
直感というやつだろう。
「神話で聞いた事があります。それで、『契約』と言うのは一体……?」
「はい。この世界の霊獣は人と契約する事で、お互いにより大きな力を得られるのです。霊獣と契約した者は普通の人間は扱えない霊術を使えるようになります」
その他にも契約する事のメリットを話していくイヴ。
霊獣との契約者は『霊力』を手に入れる事。そして霊力とは一体何なのか。
契約した者同士は『念話』と呼ばれる、言わばテレパシーの様な物を使えるようになる事。
そこまで聞いた時に、北條はふと疑問に思った事尋ねた。
「あの、デメリットってのは無いんですか?」
「……ありますよ」
イヴが苦笑しながら答える。
北條としても、別に彼女を詐欺か何かだと疑っている訳ではない。それでも念の為、聞いて置かなければいけない事もあるだろう。
「と言っても、イツキさんにはありませんよ? デメリットは私の方にあります」
一呼吸置いてイブが言った。
「契約者、要するに貴方が死ねば、私も一緒に死んでしまう事です」
「……え?」
それって……、と言おうとしたところで北條は言葉を飲み込んだ。
「まあ私としても、最近人生というのに退屈していたのです。貴方の様な別の世界から来た少年と契約すれば、少しは日々が楽しくなるのではないかと思いましてね」
厳密には人間じゃないですけどね、と言いながら微笑むイヴの表情には、死への恐れと言うものを感じられなかった。
確かに自分は異世界人だから、この世界に生きる普通の人達に比べて珍しい部分はあるだろう。
(でも、僕は普通の高校生だぞ? ラノベの主人公みたいに、神様からチートじみた力を貰った訳でもない、普通の男子高校生だ。魔物とか、そういうのがいるって時点でこの世界は前の世界より『死』が近い……)
彼が懸念するのはそこだった。
自分が死ねばイヴも死ぬ。
でも、自分は大層な力も持って無いただの高校生だった人間だ。何故か今は中学生ほどの身体に縮んでいて、制服が大きく感じられるが。
(そんな僕と契約して、本当に彼女にメリットはあるのだろうか? 異世界人だから、だけじゃ絶対にデメリットの大きさの方が勝るぞ?)
彼自身、異世界=冒険の様な考えが自分に根付いているのは気がついている。でも、男なら一度は憧れるファンタジーな世界、ましては虚弱体質持ちで強制的なインドアだった彼にとっては、その憧れの度合いは他の日本人よりも大きかった。
虚弱体質はきっとこの体から消え去っている。
彼の中では知っている人のいない異世界への不安より、期待の気持ちの方が大きかった。
故に、死に急ぐような事もあるかもしれない。
「……イヴさんには言いましたよね。僕は虚弱体質を持ってて、前の世界ではロクにスポーツもした事がなかったんです。でも、どうやら今のこの体はその体質が無くなっている」
「はい、聞きました」
微笑みを崩さないイヴに、若干躊躇しながら北條は続けた。
「だから、僕は前の世界で出来なかった事、ソレ以上の事をしてみたい。前の世界には魔物なんて存在しなかったんです。そんな未知の世界を、この身体で見てみたい――だから、すぐに死んでしまうかもしれない。僕には何の力もないから。でも、それでもきっと、すぐに死んでしまったとしても、前の世界での生活よりはきっと充実した日々を遅れると思うから」
そんな彼の言葉に、イヴが小さく首を傾げた。
まるで、言っていることの意味が分からない、といった様子だった。
そして北条もその様子の意味が分からなかった。
「……えーと、どうしましたか?」
「いえ……あぁそうでした、『ノーラムリング』」
ポンと手を打ったイヴが立ち上がり、北條の側に駆け寄った後「手を出してください」と言われたため、言われた通りにした所で、ようやく全ての指に指輪が嵌められていることに気が付いた。
「な、なんだこの指輪……?」
「すいません。貴方の事を警戒して気を失っている間に付けてしまいました。まあ、見ていてください」
見ると言うより感じる? と、再び可愛らしい仕草で首を傾げたイヴが、嵌められていた全ての指輪を一斉に抜いた。
次の瞬間だった。
「――――ッッッ!!!???」
彼の身体に巨大な力が溢れるように湧いてきた。
身体が軽い。
先ほどの状態とは比べ物にならない程、空も飛べてしまうんではないかと思うくらいに。
「凄いですね、魔水晶がもう赤く染まってる」
イヴは手に持った十個の指輪のそれぞれに嵌められた赤い宝石を見て驚いたが、しかし何となく予想は出来ていた、といった表情で呟いた。
困惑しているのは北條の方だ。
指輪を外した途端に湧き上がる力。
もう、虚弱体質のきの字も無いこの身体に対して驚きを隠せないでいた。
「虚弱体質が無くなってるだけじゃ、ない……?」
「はい」
小さく呟いた北條の隣でイヴが頷いた。
「貴方を発見した時はそれはもう驚きましたよ。私と一緒にいた友達なんて、貴方を見て『殺さないとまずい』と血走った眼で剣を振り上げたんですから」
そんな言葉にギョッとする北條。心の中で「止めてくれてありがとう」と呟いた。
イヴは彼の内心にお構い無しで続ける。
「私も驚きました。殺そうとまでは思いませんでしたが、危険だとは思いました。だって貴方は――――神霊である私の総霊力量よりも強大な魔力量を持っていたのですから」
時が止まった様に感じた。
彼が聞いた話では、神霊とは人間よりも高位の存在のはずだ。
そんな神霊であるイヴの霊力量よりも、自分の魔力量が多い?
確か先程も同じ様な事を言っていたような気もするが……、
「……冗談でしょ?」
「冗談じゃありませんよ」
彼の呟きにイヴは微笑みながら即答した。
「貴方が私と契約した暁には、私よりも膨大な量の霊力を保持することでしょう。貴方は、既に私よりも凄いんですよ?」
だから、とイブは続けた。
「私と、契約してくれますか?」
彼女の言葉に圧倒されていた北條は、目を見開いて頷いていた。
5
さて、契約をする事になった訳だが。
イヴは内心不安を隠しきれていなかった。
仮にも神霊である彼女が、見た感じ――ノーラムリングを嵌めている時に限るが――普通の少年に見える北條と『従主の契約』を結ぶ事になっては面子が立たない。
イヴが『主』になる事はまず無理だろうから、せめて『対等の契約』が結べればいいのだが、それも案外難しいかもしれない。
(いくら膨大な力を保持しているからって、わざわざソレを大っぴらにするのは得策とは言えないし……かと言って力を隠していれば、知り合いに会った時に『なんでそんな少年の従者になってるの?』とからかわれそう……)
そんな考えに至って、ブンブンと顔を振った。
(いや、私はイツキさんに着いて行くって決めたんだから、そんなことを恐れていてはいけない!)
やがて意を決したイヴは、北條に契約方法を伝えた。
「契約方法は簡単です。私の胸に、イツキさんの名を刻んで貰う事で終わります。あ、魔力を込めてくださいね?」
刻むといっても、指で字を描くだけだ。
彼にとって『魔力を込める』という動作は初めてだろうから、もしかしたら難しいかもしれないが、頑張ってもらうしかない。
感覚的には力を込めるのと同じだから、慣れればすぐに出来る様になるだろう。
「こんな感じかな?」
言った側から北條は成功していた。
右手の人差し指が赤く輝いている。魔力の輝きだ。
「はい、それで私の胸に名を」
「う、うん、分かった」
元々露出の多いワンピース。その胸元をさらにはだけさせ、陶器の様に白く滑らかな肌を晒すイヴに動揺しつつも、北條は赤く輝く指をその胸の中心、鎖骨の下の辺りに当てた。
「んっ!」
「ちょっ、変な声出さないでください!」
顔を真っ赤にした北條を見て、「ああ、初々しい」なんて思いながらも目を閉じるイヴ。
健全な男子高校生の精神を持つ北條にとって、イヴの様なスタイル抜群のお姉さんの体は目に毒なのである。
「……よしっ」
そう言って指を離す北條。
イヴの胸には赤く輝く『壱』の文字が刻まれていた。
それを見たイヴが再び首を傾げた。この世界に漢字は存在していないのだろう。見た事の無い文字を見て疑問に思った彼女が北條に尋ねた。
「これは何て書いてあるんですか?」
「ん、あぁ、漢字は知らないのか。僕の世界の文字で『壱』。壱騎のイツだよ」
「イツキさんの世界の文字……」
呟いた直後に、『壱』の文字の赤い輝きが勢いを増した。
部屋の中が真っ赤に染まるほどに輝きだしたソレは、契約儀式進行の証だ。儀式といっても、北條がイヴの胸に名を刻むと言うだけの動作なのだが。
そして、文字が輝きだしたのと同時にイヴに膨大な力の波が襲いかかった。
(――くっ!? 凄い、コレがイツキさんの……ッ!? 『主従の契約』、不可。『対等の契約』――――コレもやっぱり不可、か)
主従の契約、イヴが主でイツキが従者となる契約は不可。同じように対等の契約も不可とされた。
となると残りは一つしかない。
(『支配の契約』――まあ何となく想像していましたし、仕方がありませんね)
まさか私が人間と支配の契約を結ぶ時が来るとは、と自嘲気味に笑った。
そして、彼は普通の人間ではないと訂正する。
(神霊をも凌駕するその力、命ある限り見せてもらいますわ。主様)
直後、変化は始まった。
契約が完了した途端に、北條の身体に溢れていた力の性質が変化を開始した。
魔力が霊力に。
イヴが言っていた、霊獣もしくはその契約者しか持つ事のない霊力に、北條の体内の魔力が変化しているのだろう。
「早速変換が始まりましたか」
自分の身体を見て驚いた表情をする北條にイヴが言った。
「分かるの?」
「はい。何て言うか……契約によって主様と感覚がリンクしているとでも言うのでしょうか? 霊力の流れとか、存在を感じます」
「あ、主様? 誰が?」
「イツキ様の事です。あ、主様よりイツキ様の方が良かったですか?」
「いや、だから、なんで?」
「……どうやら私達の契約は主様が主で、私が従者と言った契約となっていしまいました。対等の契約を結ぼうと思ったのですが、私では主様と対等になるのは無理だったようです」
「……はい?」
状況が読めていない北條は口を開いて呆けていた。
未だ納得が言っていない様子の北條に、苦笑したイヴが言った。
「要するに、主様が凄すぎるって事ですよ」
「……そ、そうか。分かった、分かったからその『主様』ってのはやめてください。せめて……」
「分かりました。では私の事は気軽にイヴと呼んでください。あ、敬語とかダメですよ? あくまで私は従者でイツキ様は主なんですから」
何故かノリノリなイヴが微笑みながらそう言って、不覚にもドキッとした北條。
「……イ、ヴ」
「はい」
明らかに自分より歳上なお姉さん気質を持った、しかもこの世界において人間より高位の存在であるイヴを呼び捨てにする事に抵抗がある北條が、深呼吸をして言った。
「これからよろしく」
「はい!」
とは言え、これからどうするか。
北條は自分で『冒険してみたい』とか言っておきながらも、詳しい事は何も考えていなかった。
この世界には魔物と言う名の敵が存在する。
イヴから聞いた話によれば、その大半が人を見れば襲いかかってくるという。ライトノベルでもゲームでもそういう物だったから驚きはしなかったが。
となると、いくら凄い霊力を持っていても戦えなければ意味がない。
「私がいれば『言霊』で雑魚達は排除出来ますが……」
「うーん、でもその力って本当に雑魚相手にしか効かないんだよね?」
どんな魔物でも寄せ付けない力なんてあったらそれこそチートである。
二人は椅子に座り――何故か今はイヴが北條の隣に移動している――、紅茶を啜っていた。イヴに至っては、本日三杯目である。
北條が「美味しい」と言ったらイヴが嬉しそうにお代わりを用意したのだ。
「ですが、イツキ様と契約した今ならあるいは……それ以上の魔物相手にも通用するかもしれないです」
「まあそうだったとしても、僕が明確な力を付けないといけないのは確かだな」
手に持っていたティーカップをテーブルに置いた北條が言う。
「何だっけ、霊術? イヴ、それを僕に教えてくれないか?」
「勿論です! と言っても、私は火と氷の神霊。攻撃術だと教えられるのはその範囲に限りますが……」
「別に大丈夫だよ」
火と氷って結構凄い組み合わせだな、と思いながら北條は頷いた。
神霊から教えてもらえばそれなりの力は付くだろう。もし、彼が霊力量が多いだけで才能の無い『霊力タンク』でなければ、の話だが。
流石に自分が戦えないのに、戦闘は全てイヴに任せて冒険しようとは思えない。
「……あ」
「ん、どうしたの?」
「イツキ様。いい事を思いつきましたわ! 確かさっき、イツキ様を殺そうとした友達がいるという話をしましたよね?」
「え? ああ、うん、そんな事もあったね……」
危うく気を失っている間に殺されかけたと言う話を思い出して、全身に鳥肌と冷や汗を浮かべる北條。それを止めてくれたイヴには感謝しきれない。
(折角健全な身体を手に入れたのに、意識がないうちに死に絶えるとか悲惨すぎるしなあ……)
それにしても、いきなり倒れている人を殺そうとするイヴの友達とは一体どんな人なんだろうか。そう言う疑問が頭をよぎる。
「その友達は、ロックスフィードの魔術学園の学園長をやってるんです。十五歳から入学可能なんですけれど……異世界人のイツキ様なら年齢を偽るくらい簡単ですよね?」
友達が魔術学園の学園長とは、結構凄いんだなあ。と思っていたのも束の間、イヴが何やら問題発言をした。
「……ん?」
「ですから、その友達にお願いして年齢を偽って、来年から魔術学園に入学しようと言ってるんですよ」
目をキラキラさせてそう言うイヴ。北條は若干遠慮気味だった。
「でも、それって結構迷惑なんじゃないか?」
「そんな事はありませんわ。私もこの際ですから、魔術に手を付けてみようと思います。セリアに頼めば入学くらいさせてくれるでしょう」
心の中で『友達の名前はセリアって言うのか』と呟きながら、
「普通なら入学金とか必要なんじゃないのか? それに僕、この世界で生まれたわけじゃないし……身元証明とか出来ないんじゃ……?」
「それをセリアに何とかしてもらうんです」
不正する気満々のイヴは、紅茶が無くなった北條のティーカップに三杯目を注ぎながら言った。
それでも、そんなこと言っていたら元々この世界にとって異物である北條自身、何もできないことは理解している。
渋々頷いた北條は言った。
「分かった。ならそうしよう。折角両方使える力を持ってるんだから、霊術の域だけに収まるってのも勿体ないしね」
「はい。ならば早速修練を開始しなければいけませんね」
「そんなに焦る必要はないんじゃない? 入学って言っても来年でしょ?」
「いえ、そう言う意味ではなく。……セリアの事ですから、ただお願いするだけでは入学はさせてくれないでしょう」
「と、と言うと?」
「百パーセント決闘を挑まれます」
北條の修練が始まった。
なんか文章少ないのに一話とか載せてるの気になったので、まとめました。
追記1/6 従主の契約を支配の契約に変更。後の話もこれから変えていく予定