3-1
小日向陽鞠にとって、神崎静流という人間は単なる幼馴染という枠組みに収まらない。
二人の出会いはまだ小学校にあがったばかりの頃にまで遡る。陽鞠はその頃この町に様々な事情から引っ越してきたのである。
彼女はドイツ人の母ベトラと日本人の父惣介の間に生まれた俗に言うハーフで、どちらかというと母親の血を濃く受け継いでこの世に生を受けた。生まれ育ちは日本であった為、中身は基本的に日本人。だがその外見は明らかに日本人離れしていた。
金色の髪と青い瞳、それが陽鞠にとっては堪らなく嫌なものだった。元々穏やかで引っ込み思案な性格だった陽鞠は、よくその事を指摘されては泣いていた。
この町にやって来た時、陽鞠は母を失ったばかりだった。母ベトラは交通事故であっけなく死んでしまった。不慮の事故と呼ぶには耐え難い、相手の信号無視によるものであった。
妻を失った父惣介は彼女と暮らした街を離れ、東京の外れにあるこの町へと引っ越してきた。理由は職場までの距離と言っていたが、実際の所は妻を忘れたかったのかもしれない。
大切な人の死を受け入れられないのは陽鞠も同じであった。急にいなくなってしまった母、それがもう戻ってこないという事を受け入れるのにはかなりの時間を要した。この町にやってきたばかりの時、少女の目に映る物は全てが灰色にくすんで見えていた。そんな時だ。
「――お前、変な髪だな」
ああ、またかと。少女はそう思いながら顔を上げた。
引越し蕎麦を持って近所の家を周る父親についていった先で、少女は少年に出会った。
「俺、神崎静流! よろしくな、陽鞠!」
笑顔で手を差し伸べる静流。その手を握り返しながら陽鞠はぼんやりと首を傾げていた。
単刀直入に表現すると、陽鞠はいじめられっ子であった。ぼんやりしていてドジで、それでいて反応が面白かったのもいじめを助長させたのかもしれない。幸いぱっと見いじるところに関しては事欠かなかった為、陽鞠はいつも誰かにいじめられていた。
前の学校でもそうだった。でも別にそれでいいと思っていた。というか、それは陽鞠にとっては仕方の無い事で、そういうものなのだと、幼心に納得していたからだ。だが……。
「お前の髪が金色なのって、死んだかーちゃんが外人だったからなんだろ?」
引っ越してきてから、その言葉が酷く癇に障るようになった。
前は別によかった。でも今は違う。この髪や目を馬鹿にされるとまるで死んだ母を馬鹿にされているような気がして悲しかった。そしてそうやっていじめられる度、母親がもういないのだと思い出して涙を流した。
別に、いじめられたってよかった。いじめられるの自体は無論よくなかったが、いじめられて泣いて帰ると、必ず母が優しく抱き締めてくれたから。そうして二人で一緒におやつを食べているうちに悲しい事なんて全部忘れてしまえたから。
でも今は家に帰っても誰もいない。誰も優しくしてくれない。それが余計に寂しさを助長させ、ぼろぼろと大粒の涙が止まらなくなってしまう。
「お前らぁ! 陽鞠をいじめるんじゃねえ!」
公園で泣いていた陽鞠が振り返ると、そこには颯爽と駆けつける少年の姿があった。
少年は相手が何人いようと果敢に襲い掛かり、自身もぼろぼろにされつつも必ず勝利した。殴られても蹴られても少年は決して屈しなかった。年上が相手だろうが関係ない。そこで陽鞠が泣いている限り、必ず助けに駆けつけた。
「大丈夫か、陽鞠?」
「うん……。静流ちゃんの方が大丈夫? おけがしてるよ?」
「男は怪我くらいへっちゃらなんだよ。それよりお前、嫌な時はちゃんと嫌って言え。いつまでも泣いてるだけだからみんな面白がるんだ」
「うん……ごめんねぇ。ありがとうねぇ静流ちゃん。ありがとうねぇ」
鼻水を啜りながら涙を拭きにっこりと微笑む陽鞠。静流は白い歯を見せ無邪気に笑った。
彼との出会いが少しだけ陽鞠の人生を変えてくれた。悲しい事は悲しいままで、戻らないものは戻らないもののまま。世界は何も変わりはしない。けれど、一人ではなくなったから。
「おにーたん、怪我してる! いたい? いたい?」
「痛くねーし! こんなんツバつけときゃ治るよ!」
「ましろがなめてあげよっか?」
「ましろは何も心配しなくていいんだよ。俺に任せとけ。それより陽鞠が泥だらけだから拭いてやってくれよな」
「わかた。ましろ、おにーたんのいうとおりにする!」
神崎の家に入ればましろが迎えてくれる。陽鞠はその玄関先でボンヤリ立っていた。
「何やってんだよ? 早く入れよ、ほら」
「陽鞠ちゃん、はやくはやく!」
「う……うんっ」
笑顔を作り一歩踏み出す。そこにはここで得た幸せなもう一つの家族があった。
「あーあーあー、静流! また喧嘩したのね! あなたが暴れると近所の子に謝りに行くのが大変なんだから……もうー!」
「俺は悪くねーよ! 陽鞠を苛めるあいつらが悪いんだ。セートーボーエーだ」
「また変な言葉覚えて……。陽鞠ちゃん大丈夫? おやつ食べる?」
静流の頭を叩きながら苦笑する女性。彼女は陽鞠の母ではなかったが、優しくしてくれる大人の女性というだけでとても安心出来る存在であった。
小日向の家と神崎の家はまさに家族ぐるみの付き合いであった。男手一人で娘を育てる小日向惣介の事を神崎の家は親切心から助けていたし、惣介はそれに感謝し、深い恩を感じていた。
「おばさん、あのね。静流ちゃんは悪くないの。悪いのは私だから」
「そんな事ないわよあの子何もなくてもケンカばっかりだし。静流でよかったらいっくらでもこき使いなさい。男の子は女の子を助けてナンボなんだから」
少しずつ、苛められる事がどうでもよくなった。少しずつ、寂しさも消えていった。
いじめられていれば静流が助けてくれる。神崎のおばさんが優しくしてくれる。ましろと一緒におやつを食べて、皆でアニメを見る。それがとても幸せだった。
「いいか陽鞠。お前は強くならなきゃだめだぞ。悲しい事がある時こそ笑うんだ。マモルもそう言ってたしな」
「でもでも、悲しい時は泣いちゃうんだよ? そこで笑うのってどうやるの?」
「それはなぁ……そりゃ……良かった事を思い出すんだよ。楽しかった事、嬉しかった事、そういう事を思い出して笑うんだ。泣かなければ強くなれるんだよ」
「う、うん。わかった。私、強くなるね。でも……強くなると困っちゃうなあ」
「何が困るんだよ? いじめられなくなるんだぞ?」
「うん。そしたら静流ちゃんが助けてくれなくなっちゃうよね? それでね、私の嬉しい思い出ってみんな静流ちゃんと一緒の時だから、それだと凄く困っちゃうんだよね。こういう場合はどうしたらいいんだろう?」
「陽鞠ちゃんとおにーたんがずっと一緒にいればいいよ」
「ましろの言う通りだ。俺がずっと、お前の事守ってやるからよ。安心して強くなれよな」
親指を立てながら笑う静流。ましろはその横でにこにこ笑っている。
幸せだった。悲しい事もあるけれど、それだけでよかった。
そんな日々が永遠に続くと信じて疑わなかった。
時の流れは無慈悲に、そして容赦なく流れていく。どんなに美しい記憶もやがては風化し、悲しみさえも砂に変えていく。
その事に気が付くのは、それから十年近く時が流れてからであった――。
「兄さんと勝負を……ですか?」
その日は雨が降っていた。静流とあの公園で別れた翌日、陽鞠はましろと共にすばるへと足を運んでいた。昨日作り損ねたPOP作りを手伝う為である。
裏口からすばるの事務所に入り常態を見てみると、案の定鳴海が状態を悪化させていた為余計に時間を食う事になった。ぺこぺこと頭を下げいそいそと二人にお茶菓子を出す鳴海。そんな感じで作業が開始されたのだが。
「うん……。静流ちゃんと戦うんだ……もう一度」
窓の向こうから聞こえる雨音に目を向けながら微笑む陽鞠。ましろはその様子をじっと見つめ、それから諦めるように息をついた。
「私がとやかく言うのは、どうやら野暮なようですね。ただ……兄さんはそれを逃げずに引き受けるでしょうか? 今の彼に、貴女と戦う度胸などないでしょう」
「戦うって、勿論クアランでだよね? だとすると、静流君はあのデイジーと戦う事になる」
指先でペンを回しながら唸る鳴海。それほどまでにデイジーという存在は異質なのだ。
クアド・ラングルの開発元、【OZ】社が任命し、専用機と専用のコードネームを与えられたオフィシャルプレイヤーキャラクター。その中でムラサメワークスに加担する一人、【クイーン・オブ・ソード】……それが陽鞠のもう一つの顔である。
各勢力にOPCは一人ずつ。誰が言い始めたのかわからないが、その三人はよくキング、クイーン、ジャックという称号つけられる。四人いるクイーンの中で陽鞠は剣の名を与えられた高速機動白兵戦のスペシャリスト。その戦闘力は単機で敵軍を殲滅する程である。
「正直、勝負になるとは思えないわ」
先日の交戦では三河と組んだ状態で戦ったにも関わらず手も足も出なかった。しかもそこに居たのは二人だけではなく、居合わせたアヴァロンのファイター隊六機も撃墜している。
「静流君は勝ち目のない戦いを受けるタイプには思えないのよね。なんだかんだで結構無茶をする所はあるっていうか、思い切りはいいけど……それで? もちろん、ただ勝負するだけで終わりってわけじゃないんでしょ?」
「さすが鳴海さん、その通りです。これは勝負であって、そして賭けなんです。私が勝ったら、静流ちゃんに昔のように私と仲良くしてくれるようにお願いしました。でも静流ちゃんが勝った場合……私はもう、静流ちゃんの前には姿を見せないと約束しました」
驚く二人。陽鞠はそれでも穏やかに微笑んでいる。
「静流ちゃんが私を嫌ってるのは知ってます。今までそれでも諦められなくてずっと中途半端にしてきました。だけどそろそろ……そういうのは終わりにしようと思うんです」
「貴方達は……どうしてそう極端なんですか」
額に手を当て項垂れるましろ。そう。こいつらはどう考えても極端すぎるのだ。
ちょっとした事で徹底的に陽鞠を避けていた静流。そして今度は陽鞠のこの賭けだ。第三者であるましろからしてみれば、この問題を解決する事はとても簡単に思える。だがこの二人は、当人達は、幼馴染だからこそ素直にそれを紐解く事が出来ない。
「しかし、兄さんが賭けを了承するでしょうか?」
「多分ね。考える時間は与えたから、今頃一人で悩んでるだろうね。静流ちゃんの性格からして誰かに相談したりする事はない。一人で部屋に篭るか、そのへんをふらふらしながら自問自答を続けていると思う」
目を伏せたままてきぱきとPOP作りをしながら語る陽鞠。
「以前の静流ちゃんなら逃げたかもしれない。でも昨日私達と会って、一緒に遊んで、あの公園で話して……静流ちゃんは自分の弱さと向き合おうと考えてる。だから私の言葉に自問自答を繰り返した結果、最終的に彼は戦う事を選ぶはずだよ」
それはましろも考えていた事だ。結局静流は逃げられない。彼は元々そういう性格なのだ。
誰かに頼られては断れないし、期待には応えようとする。皆の思いを受け入れて、背負って戦う。それが神崎静流という男の本質なのだ。
今はひねくれた態度で斜に構え誤魔化しているが、それが神崎静流であるという事を付き合いの長い二人は知っている。だからましろはわかっていた。兄が逃げられないという事も、この幼馴染が実は恐ろしく頭が切れるという事も。
「兄さんは、負けたがるでしょうか?」
「それは……ないだろうね。彼は最期までベストを尽くすと思う。私を倒そうとする」
「陽鞠ちゃんはこの賭けに――」
「――勝つよ?」
優しく、ふんわりとした笑顔だ。しかしその瞳は鋭く、決して曲がる事も折れる事もない強固な意思を湛えている。
「私は勝つよ。静流ちゃんを徹底的にやっつける。それが私なりの誠意だから」
そう。そしてきっと恐らくは。彼女は勝利するだろう。ましろの不安を押し退けて。
「私ももう逃げない。欲しい物を手に入れる為には戦う事も厭わない。仮にそれで静流ちゃんを傷つける事になったとしても、私は……自分を偽らない。そう決めたから」
小日向陽鞠は――強い。
狂おしいまでのその強さを支えているのは圧倒的な意思の力だ。彼女はまるで自らに呪いをかけるようにして強く思いを言い聞かせ、口にする言葉は全て現実に変えてきた。
静流と離れ離れになった数年間が。強くなれと言い聞かせる心が彼女を変えた。その顔から笑顔を崩す事は誰にも出来ない。あらゆる困難をすらりと飛び越える、美しい金の華。
「偉いわね、陽鞠ちゃんは。自分の気持ちと正直に向き合って……強いよ」
腕を組みながら微笑む鳴海。そうして意を決したように立ち上がる。
「よっし! それじゃあ君達の為にここは鳴海さんが一肌脱ぐとしましょうか!」
「……って、鳴海さんが何をするんですか? 激しく不安なのですが」
「そこは不安がらないでよもうー! とにかく、私にいい考えがあるの。すばるの利益にもなって、君達にとっても相応しい勝負の場が用意出来る。正に一石二鳥の妙案がね!」
その頃、静流は雨の中家路を急いでいた。合羽を着ていても原付で雨の中を走るのはそれなりに苦労する。溜息交じりに家に入ろうとしたその時、小日向の家の扉が開いた。
「おお。静流君かい?」
「……惣介さん?」
「久しぶりだな! おっとと! よかったらちょっと話さないか?」
濡れていた玄関先で滑りそうになりながら笑う小日向惣介。静流は振り返り頷き返した。
「陽鞠のやつ今日は遅くなるらしくてな。いやー、折角久しぶりに時間が出来たから娘の顔を見に帰ってきたんだが、急な事だったから擦れ違っちゃったな。今仕方ないからコンビニでメシでも買おうかと思ってたところなんだが、静流君がいるなら時間が潰せる。陽鞠が帰るのを待って飯を作ってもらおうかね」
静流をほっといて一人で喋り続ける惣介。背が高く、メガネと無精髭が特徴の男は陽鞠の実の父親だ。そして静流とは昔なじみの付き合いでもある。
「ささ、上がってくれたまえよ!」
「お、お邪魔します」
「そんな他人行儀にしなくてもいいだろー? 昔はよく泊まりに来てたじゃないか。陽鞠と一緒にお風呂に入って一緒の布団で寝て……」
「おわあ! そういう事大声で玄関先で言うのやめてくれます!? 入りますから!」
「あ、そう? すまないねえ、地声が大きいもんで。はははは!」
大声で笑う惣介。静流はげんなりしながら小日向の家に上がった。
数年ぶりに足を踏み入れる小日向の家は昔と何も変わっていなかった。リビングに通されつつ、案外居心地良く感じている自分に気付き驚く。
「静流君、何か飲むかい? おっと、高校生にお酒はまだダメだぞー? はっはっは!」
「飲みませんよ。なんかテキトーでいいです」
「ん。それであれだな。陽鞠とはどうなってるんだい?」
物凄く単刀直入な男である。これが小日向惣介という人物の人柄なのはわかっていたので、静流も特に驚く事なく対応した。
「別にどうもこうもありませんよ」
「そうか。最近君ら、あんまり仲良くないんだろう?」
「どうしてそれを……」
「そんな事大人にはすぐわかる……と言いたい所だが、ソースは陽鞠だね。一応彼女の名誉のために言っておくと、別に俺にチクったわけじゃないぞ。陽鞠は昔からいつも君の話ばかりしていた。それが最近めっきり減ったもんだから、さすがに俺でも気付くってもんさ」
オレンジジュースを注いだグラスを差し出す惣介。静流はそれを受け取り頷く。
「陽鞠とは学校も違ってしまいましたしね。会う機会も減りましたから」
「おいおい、馬鹿言うなよ静流君。家が目の前なのに会う機会なんか減るわけないだろう? 君達の間に何か問題があるから時間が減るんだ。違うかい?」
「いえ、その通りですけども……」
このズカズカと人の心に首を突っ込んで来る豪快な所に子供の頃は憧れたものだが、今はちょっとどう扱ったらいいのかわからなくなりつつあった。
「ゲームでもなんでもすればいいじゃないか。君らゲーム好きだろう? 昔から俺が上げたゲームでずーっと遊んでたじゃないの。そうだ! ゲームして時間潰そうか! 確かテスト版のディスクがこの辺に転がってたような気がするんだが……」
「テスト版?」
「ありゃ? 静流君には言ってなかったっけなあ。ていうかあれだ、本当はあんまり言っちゃダメなんだけどね。近所の子に開発中のゲーム渡してたとかバレたらさすがに俺もコレ」
自分の首に横線を引くように手を動かす惣介。静流は首を傾げる。
「開発中のゲーム……?」
「うん。君クアド・ラングルってゲーム知ってる? それなりに売れてんだけど。それね、OZの俺んとこの開発室が作ったゲームなの。君にあげたゲームはその試作版」
「えっ!? でもあれ、惣介さんはカオスレのゲームだって……!」
「うん。だって君らカオスレイダー好きだったろ? あの頃は企画もまだ通ってなかったんで、俺が一人で勝手に作ってたんだよね。だからロボデザインは勝手にカオスレの使って……って、これもダメだよ内緒にしてくれないと。いやー、身内相手だと口がすべるなあ」
どこからともなく携帯ゲーム機とソフトを引っ張り出してくる惣介。それを見た瞬間、静流の頭の中に過去の記憶が鮮明に蘇った。
そう、静流がクアド・ラングルをプレイしようと思った本当の理由。それはかつて陽鞠と一緒に遊んだこのゲームにクアド・ラングルが良く似ていたからだ。
二人の思い出のロボットアニメ、カオスレイダー。そのロボット同士を戦わせる対戦ゲームで、小学生の頃から静流も陽鞠もこのゲームをがっつりとやりこんでいた。
「これ、惣介さんが作ったゲームだったんですか……」
確かにパッケージが無く、裸の状態でポイっとソフトだけ渡されたのには違和感があった。だが当時の静流もゲームソフトの管理はずさんなもので、裸のままその辺にディスクが転がっている事はざらにあったのでそこまで気にはならなかった。
惣介は他にも色々なゲームを渡した。それがいつも娘と遊んでくれる向かいの家の少年に対する礼でもあった。タダで色々なゲームを遊ばせてくれる惣介は静流にとっておじさんというよりはお兄さんという感覚で、一緒にゲームをしたり遊びに行く事も多々あった。
「道理で……遊んだ事があるような気がしたわけだ」
「ゲームはいいよなあ。同じゲームを好きになればそれだけで相手も好きになれる。友達もどんどん増える。俺はね、子供達にそうやってゲームを通じて絆を作ってもらいたかったんだ。そういう意味じゃ君らは俺の目論見どおりに動いてくれたと言えるだろうね」
「惣介さん、陽鞠が【デイジー】だって言うのは?」
「知ってるよ。あれ? なんで君が知ってんの? まあいいか。一応内緒にしてね、あんまり言い触らしちゃまずい内容だからさ。んで、陽鞠がデイジーになったのは……」
「なったのは……?」
そこで固まる惣介。それから思い直したように頬を掻く。
「これは言わないほうがいいなあ」
「えっ? そ、そこまでペラペラ喋っておいてここにきてそれ!?」
「わはは、すまんすまん! いやね、君って俺にしたら本物の息子みたいな感じなんだよね。あ、弟かもしんない。でもまあとにかくさ、君に会えて嬉しかったんだよ。でもよーく考えてみると、娘の秘密をガンガンばらす親父ってのもどうかと思ってね」
豪快に笑う惣介。静流は溜息混じりに肩を落とした。
「んでもまあ、陽鞠がデイジーになったのは俺の立場もあるね。OPCってのは基本、AからSランの連中の中から特に使いやすそうなのとか面白そうなやつを選抜するんだけど、陽鞠はそういうキャリアがない状態からデイジーになった。それは親の贔屓の力だろーね」
「じゃあ、陽鞠は経験もないままOPCに?」
「そうよ。だから最初は弱かったねえ。最弱のOPCとまで言われたさ。でもまあそこは……ほらね、色々あったわけだ。まあそのへんは直接陽鞠に聞きなよ。それで何が原因で仲違いしちゃったわけ?」
行き成り話題が変わると同時に核心を突かれる。この凄まじい会話のペースに昔はよく普通についていったものだと感心しつつ。
「陽鞠の何が気に入んないの。おっぱいもでっかいし腰もきゅっとしてるし、顔は母親に似て美人ときてる。全く俺に似てないのが素晴らしいよね、ははは!」
「いや気に入らないわけでは……」
「君が気に入らないから何か問題があるんだろ? 陽鞠は君にべったり、もうそれは崇拝の域に達してたからね。まさか陽鞠が君を嫌うわけが無い、とくれば君が何か問題を抱えているに違いない。そうだろう?」
「う……っ」
「まあそう怖がらずに俺に話してごらんよ。男同士、この事は秘密にしてやるぜ」
「いや……口の軽さを露呈した直後に言われても信用できませんけど……」
「おぉっ!? そんな細かい事言えるようになって。成長したねえ静流君! いやー嬉しいよ。でもそれはさておき、ほらほらはなしてみなよおじさんに!」
肩を抱き、顎鬚を押し付ける惣介。全力でそれを押し退けながら静流は眉を潜める。
「別に大したことじゃないっすよ……ただ……俺は……」
その時、惣介の腹の虫が盛大な鳴き声を上げた。しんと静まり帰ったリビング。そこで男はユニフォンを取り出す。
「腹減りすぎたー。陽鞠早く帰ってきて飯作ってくれないとパパ死んじゃうよ」
「あー……っと、俺、そろそろお暇しますわ……」
「え!? なんで? 一緒に夕飯食べてきなよ! 陽鞠の手料理がどれだけ進化したのか君には是非味わって欲しいんだよね。もう親公認なんだから泊まってけば? 俺夜には仕事場に戻らなきゃいけないしさ。二人きりだよ!」
「うるせえ! 俺はもう帰ります! 今陽鞠に会うと気まずいんです!」
「あ、もしもし陽鞠ちゃん? あのね、今静流君がうちに来てて……あーちょっと! 静流君酷いなあ、普通逃げるか? ああいや、うん、そうなんだよ。腹減っちゃってさ……陽鞠ちゃんの帰りが何時になるかなーって」
電話している惣介を置き去りに家を飛び出す静流。雨の道を横断し我が家へと向かった。
「ったく、あの人は変わんねーなあ」
神出鬼没で物知りで、子供と同じ目線に立ってどんな事も楽しめる大人。そんな彼の事が昔から好きで、憧れの的だった。
陽鞠の事は君に任せるよと言って彼は少年の肩を叩いた。その言葉に力強く頷き返す事が出来たのは、もうずっと昔の事だ。
洗面所でタオルを手にして二階へと上がる。自室に閉じこもりベッドの上で頭を拭くとそこに身体を投げ出した。天井を見つめながら目を閉じると、過去の記憶が次々に脳裏を過ぎる。
先頭に静流。その後ろに静流の真似をするましろ。最後にへらへらと笑う陽鞠が続く。三人はいつも一緒だった。いつでも一緒で、それが当たり前で。
あの頃は勇気に満ち溢れていた。どんな未来だって切り開けると思っていた。無限の可能性が少年を待っていて、きっと全てが上手く行く……そう思っていた。
「――兄さん。いるんですか?」
扉の向こうから妹の声が聞こえ休息に意識が浮上する。どうやら転寝してしまっていたらしい。どれくらい時間が経過したのかはわからなかったが、そこにいる妹は幻ではない。
「……いるよ」
「入りますね」
扉が開き、真っ暗な部屋に廊下の照明が滑り込む。光を背にしたましろの表情は見えなかった。ましろは部屋に入り後ろ手に扉を閉めると、静流が寝ているベッドに腰掛ける。
「陽鞠ちゃんから話は聞きました。勝負、受けるんですか?」
「……だからさぁ。女の噂話ネットワークはやめようぜ」
「それで、受けるんですか?」
黙りこむ静流。そのまま目を閉じていると、ましろの声が聞こえてくる。
「ねえ兄さん、覚えていますか? 貴方がたった一度だけ泣いた日の事」
静流は沈黙を返した。だが忘れた筈が無い。忘れられる筈が無い。
「兄さんはあの時まだ中学生で、その日は夏の大会の出場者を決める部内の試合がありました。兄さんはその時陽鞠ちゃんと一緒に剣道部に所属していましたね」
夏を目前に控えたある日。二人は道場で互いに竹刀を向け合った。その勝負は静流にとって特別な意味を持っていた。
出場者を決めると言っても、そこは男女別。静流と陽鞠が戦ったのは一年の中で誰が一番強いのか、という話になったからだ。静流は俗に言う一年生レギュラーの立場を決めており、既に二年の先輩を下して出場を決めた後の事であった。
二人はそこで試合を行い……その結果、勝者は陽鞠であった。陽鞠はその時出場は愚か、部内では一番弱いとまで言われていた。それが静流に真剣勝負で勝ってしまったのである。
「あの時どうして、兄さんは泣いていたんですか?」
応えないまま思い返す。それは……悔しかったからだ。
中学に上がった頃、段々と静流は気付き始めていた。小日向陽鞠という人間が実はいじめられっ子などではなく、多彩な才能に恵まれた特別な人間であるという事に。
陽鞠は静流と一緒になって少しずつ元気を取り戻し、明るくなっていった。やがて苛められる事もなくなった。陽鞠は明るく人に優しく、そして何より優秀だったからだ。
最初は何をやっても静流が勝っていた。けれど段々とテストの点数が追いつかなくなり。中学の頃には背も静流より陽鞠の方が高かった。
陽鞠は何でも静流と同じ事をやりたがった。そしていざ二人を比べてみると、明らかに陽鞠の方が優秀であった。そんな事が何度か続くと静流は陽鞠と比べられる事を嫌がるようになった。陽鞠はそれを悲しんだ。そんな彼女が選んだ事が、静流にはどうしても許せなかったのだ。
「あの試合の時まで陽鞠ちゃんは手加減をしていたんですよね。本当は兄さんより強かったのに……兄さんが劣等感に晒されないように、あえて部の中で目立たないようにしていた」
だから本気でやれと静流は強く告げた。戸惑う陽鞠、それといざ戦ってみれば、陽鞠の方が実力は何枚も上手だった。それより何より……加減をされていた事、それが許せなかった。
「兄さんは剣道部をやめて、それからどの部にも入りませんでしたね。空手の道場でも同じ事がありました。そろばん塾でも、バイオリン教室でも……」
上半身を持ち上げ、背後から妹を見つめる静流。その視線はいつもの飄々とした物とは違う。鋭く、悲しげな……子供のような瞳だった。
「兄さんは色々な事をやりましたよね。陽鞠ちゃんより勝っている所を見つける為に。でもすべて後からやって来た陽鞠ちゃんに超えられてしまった。それで兄さんは……」
「……そうだよ。俺は陽鞠に勝てなかった。何一つ、あいつより優れている所なんかなかった」
自重染みた笑みを浮かべながらきつく目を瞑る静流。ましろはその横顔を見つめる。
「俺が守るんだって……俺がずっとそばに居てあいつを守るんだって、そう思ってた。でも実際は違った。いつの間にか俺の方があいつに守られてた。俺はフルブレイズじゃなかった。俺の方がマモル君だったんだ……」
惨めな気持ちだった。陽鞠に勝てない、それがいつも静流の心を蟠らせた。
守りたい人を守れない上に自分が守られる苦しみ。子供の頃とすっかり逆転してしまった立場……。その全ての行いが滑稽に思え、何もかもが嫌になってしまった時、少年は逃げ出した。
「俺の存在がいつもあいつの足を引っ張っていた……あいつはどんな俺でも笑って受け入れてくれる。でもそれが無性に腹が立った。俺は……! 俺は強くなんかない! 俺には何の才能も無いただの凡人だ! でもあいつは違うんだ。天才なんだよ! 何をやらせてもすぐこなしちまう! すぐ俺より上達しちまう! 俺なんかとは生きてる世界が違うんだよ!」
妹の肩を掴みながら詰め寄る静流。それは責めているのではない。ただ誰でもいいから縋りたくなっただけだ。肩の強い力に耐えつつ、ましろはそんな兄に手を伸ばす。
「子供の頃はサッカー選手になりたかった! リトルチームのエースストライカーだった! ケンカで負けたことは一度もなかった! テストは百点でいつもお袋に褒められた! 親父は言うんだ、お前は手の掛からない子だ、俺の自慢だって……。友達は山ほどいた。俺の事を知らないクラスメイトなんかいなかった。皆の中心に居て、必要とされていて……だから俺が陽鞠を守るんだって、陽鞠は俺が居なきゃダメなんだって思ってた……なのにっ!」
一気に語った後、泣き出しそうな顔で項垂れる静流。その手から力が抜けベッドへと落ちた。
「でもあいつはそんな俺を笑ってたんだ……。本当は自分の方が上だって知ってたんだよ。なのにいつも俺に気を使って駄目なフリをしてたんだ……」
「兄さん……それは違います。陽鞠ちゃんはただ……」
「わかってるよ! あいつはただ優しいだけだ! 純粋に俺の事が好きだっただけだ! だけど俺は……俺はそんな事頼んじゃいなかった! 俺はあいつと対等で居たかった! 俺は! 俺は……ずっと陽鞠を守ってあげたかった。悲しい事や辛い事から……俺が……」
「兄さん……」
「今の俺達はどうだ……? あいつはエリート校の生徒会長で、俺は三流私立の不良君。何もかも違う。でもそれは俺が選んだ結果なんだ。あいつと同じ高校にならないように、わざとランクを落とした……俺は、あいつから逃げ出したんだ。比べられる事から……」
ましろは黙って兄の手を握って居た。弱さを吐露してくれた事が彼女にとっては嬉しい事だった。これまでずっと、兄は誰にも辛い気持ちを打ち明けず、一人で閉じ込めていた。その事を妹は誰よりも誰よりもよく理解していたから。
「好きだったんだ……陽鞠の事が。誰よりも大好きだった……。大人になっても一緒に居られると信じてた。だけど俺はもう……あいつの傍にいる資格なんかないんだよ」
「兄さんは……本当にそれでいいんですか?」
ゆっくりと顔を上げる静流。その頬に触れながら微笑む。
「兄さんは、私にとってのヒーローでした。どんな時でも駆けつけて私達を助けてくれた。強くて、優しくて……そんな兄さんの事が、愛しくて堪らなかった」
「ましろ……ごめん。駄目な兄貴で、かっこ悪い兄貴で……ごめん」
「そんなのもう、ずっと前から知ってます。兄さんの事ならなんでも知ってます。いいじゃないですか、かっこ悪くたって。惨めでも、情けなくても、そんな自分でいいじゃないですか。ありのままの自分で……それを受け入れる事。それが大人になるって事なんですよ、兄さん」
兄の頭を抱き締める妹。真っ暗な部屋の中、兄妹は本当に久しぶりに心を交わした。
「戦ってください、兄さん。私の為でも陽鞠ちゃんの為でもない。この世界の誰の為でもない。ただ貴方は貴方の為に。熱い気持ちと勇気、プライドを取り戻す為に」
優しく兄の頭を撫で耳元で囁く。そうしてましろは身体を離し、そっとベッドを降りた。
「負ける事を畏れないで。本当に恐ろしい事は……」
「逃げる事に……慣れてしまう事……」
いつだったか朝比奈も言っていた言葉。それはあのテレビアニメでロボットが言った台詞。
ましろはそのまま部屋をそっと出て行った。残された静流は闇の中で何度も何度も自問自答を繰り返した。そうして静かに息を吐き、掌を握り締めるのであった。
扉一つを挟んだ向こう側、廊下ではましろが目元を擦りながら息を整えていた。少しの間、ほんの数分だけそこに留まり。いつもの自分に戻って歩き出す。
「頑張って、兄さん……」
祈るような優しい言葉一つだけを残し、その場を後にするのであった。