金がないから粗食にしただけなのに僧侶が泣いた
金がないから粗食にしただけなのに僧侶が泣いた
レグノールの宿の朝は早い。
一階の食堂には、朝食を求める冒険者たちがぞろぞろと集まっていた。ガタイのいい戦士が肉を頬張り、ローブ姿の魔法使いがスープを啜り、革鎧の斥候が黒パンをちぎっている。
その喧騒の隅で、ヴァルゼンは木の椅子に縮こまるように座っていた。
問題が発生した。
金がない。
正確に言えば、パーティの資金はエルヴィンが管理しているので食事代は出る。だがヴァルゼンには、パーティの金を使うことへの途方もない罪悪感があった。自分は何の役にも立っていない居候だ。居候が高い飯を食うわけにはいかない。
メニューを見る。一番安いのは「硬パンと水」で銅貨二枚。一番高いのは「厚切りベーコンと卵の焼き合わせ、焼きたてパンにバター、季節の果物添え」で銀貨一枚。
選択の余地はなかった。
「あの、僕は硬パンと水で……」
給仕の娘に告げると、彼女は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに「かしこまりました」と下がっていった。
エルヴィンたちはまだ部屋から降りてきていない。先に済ませてしまおう。目立たないうちに。
硬パンが運ばれてきた。文字通りの硬パンだ。石のように硬い。ヴァルゼンは両手で掴んでかじりついたが、歯が負けそうになった。仕方なく水に浸してふやかし、少しずつ齧る。
(うん、まあ、食べられなくはない。魔王軍時代はこれ以下のものを食べていたし)
配下のゴブリンが食べ残した芋の皮が主食だった時期もある。それに比べれば硬パンは上等だ。
「おはよう、ヴァルゼン。早いな」
エルヴィンが階段を降りてきた。後ろにグリゼルダ、フェリクス、ミラベルが続く。
四人は食堂のテーブルについて、それぞれメニューを注文した。ベーコンと卵。温かいスープ。チーズの盛り合わせ。焼きたてのパン。
湯気の立つ料理がテーブルに並んでいく。
そしてヴァルゼンの前には、水に浸されてぐにゃぐにゃになった硬パンが一切れ。
沈黙が落ちた。
「……ヴァルゼン」
エルヴィンが硬パンを凝視している。
「お前、それだけか?」
「え、ああ、はい。これで十分ですので……」
「遠慮するな。金なら——」
「い、いえ! 本当に、これで……お腹いっぱいですし」
嘘だ。全然足りない。胃が「もっとくれ」と叫んでいる。だが居候の矜持が「これ以上は甘えられない」と告げている。
フェリクスがモノクルの奥から鋭い視線を向けてきた。
「魔王殿。最も安価な食事をあえて選ぶ。……なるほど」
手帳が開かれた。嫌な予感しかしない。
「かつて魔王軍を率いた方が、最下層の兵糧と同等の食事を自ら選択する。これは——」
「たまたまこれが食べたかっただけで……」
「虚飾を嫌い、質素を旨とする。王たる者の振る舞いとして、これ以上の手本はありませんね」
(質素なんじゃなくて貧乏なだけなんだが)
だがフェリクスの分析はもう止まらない。ペンが紙の上を走る。
「食事記録。豪奢を避け、最も簡素な食事を選択。推察——配下の兵が粗食に甘んじていた過去への贖罪意識、もしくは常に最低限で満足できる精神力の表れ」
どちらでもない。ただの金欠だ。
「ヴァルゼン様……」
来た。この声のトーンは危険だ。
ヴァルゼンが恐る恐る顔を上げると、案の定、ミラベルの翡翠色の瞳は涙でいっぱいになっていた。
「あの方は……自分だけ質素な食事をして、私たちには好きなものを食べさせてくださるんですね……」
(いや、皆さんが何を食べるかは僕の管轄外では)
「魔王軍にいらした頃も、きっと……ご自分のことは後回しにして、配下の方々のことばかり考えていらっしゃったんですね……っ」
涙が頬を伝った。ミラベルはつば広の帽子を深く被り、顔を隠すようにして嗚咽を漏らしている。
配下のゴブリンにすら舐められていた魔王が、配下のことを考えていた? 考えていた。殴られないように必死だったという意味では、常に考えていた。
「み、ミラベルさん、泣かないでください。本当に大したことでは——」
「大したことです!」
ミラベルが顔を上げた。涙で濡れた目に、強い光が宿っている。
「ヴァルゼン様がご自分を大切にしないのは……私、悲しいです。もっと……もっとご自分を大事にしてください……!」
その言葉が、ヴァルゼンの胸に深く刺さった。
自分を大切にしてほしいと言われたのは、生まれて初めてかもしれない。
「……あ、ありがとう、ございます」
声が少し震えた。それを隠すように、ヴァルゼンは水に浸した硬パンを口に運んだ。
グリゼルダがベーコンの皿をヴァルゼンの前にすっと押し出した。
「ヴァルゼン様。これを」
「え、いや、グリゼルダさんのでは——」
「私は朝から重い食事は好みません。お気になさらず」
嘘だ。さっき注文するとき「ベーコンは厚切りで」と念を押していた。
エルヴィンも自分の皿から卵焼きをヴァルゼンの皿に移した。
「遠慮するな。仲間だろう」
「で、でも……」
「お前が倒れたら困る。食え」
フェリクスがチーズの一切れを無言で置いた。何も言わなかったが、口元にかすかな笑みが浮かんでいる。
ヴァルゼンの前に、いつの間にかそれなりの朝食が揃っていた。
皆が少しずつ分けてくれた。自分の取り分を削って。
(なんだこれ。なんなんだこれ)
胸が詰まった。嬉しいのか苦しいのかわからない。ただ、温かかった。
「いただき……ます」
ベーコンを一切れ、口に入れた。塩気と脂の旨味が舌の上で広がる。美味い。こんなに美味いものを食べたのはいつ以来だろう。
ヴァルゼンは黙々と食べた。
ミラベルがまだ少し泣いていた。グリゼルダが「目に砂が入っただけだ」と言いながら自分の目元を拭っていた。エルヴィンは満足そうに笑い、フェリクスは手帳に何かを書いていた。
食事が終わった後、フェリクスの手帳にはこう記されていた。
「食事観察記録。魔王殿は自ら粗食を選び、仲間の申し出を最初は固辞した。結果として全員が自発的に食事を分け与える状況が発生。これは偶然ではない。組織心理学的に見て、リーダーが敢えて困窮を見せることで集団の結束と献身を引き出す——高度な統率術の一形態である」
「追記。あの硬パンの選択は、おそらく三手先まで読んでいた」
三手先どころか、一手先すら読んでいなかった。
ヴァルゼンはただ、パーティの金を使うのが申し訳なかっただけだ。
だが結果として——ヴァルゼンの評価はまた一段、上がっていた。
「質実剛健にして仲間思い。真の王の器とはこういうものだ」
エルヴィンがしみじみと呟いた言葉が、食堂の天井に吸い込まれていった。
ヴァルゼンの胃は、今日も重かった。
ただしこの重さは、昨日までとは少しだけ質が違った。罪悪感と恐怖だけではない。仲間が分けてくれたベーコンとチーズと卵焼きの、温かい重さだ。
この温かさを失いたくないと、ヴァルゼンは思った。
だからこそ——「最弱です」とは、ますます言えなくなった。




