「見逃してください」が最凶の交渉術になった日
「見逃してください」が最凶の交渉術になった日
街道に差しかかった頃、ヴァルゼンの足取りはいっそう重くなっていた。
昨夜はスライムの一件で精神力を根こそぎ持っていかれ、朝になっても心臓がときどき跳ねる。あの緑色の不定形生物が視界の端にちらつくたび、全身に冷や汗が噴き出す。
なのにパーティの面々は、いまだにヴァルゼンを「殺気で魔物を威圧した魔王」として扱っている。
「今日は街道沿いに進む。順調にいけば明日の夕方には最初の町に着くはずだ」
先頭を歩くエルヴィンが振り返り、太陽のような笑顔を向けてくる。聖剣の柄が陽光を反射して、まるで後光が差しているように見えた。
眩しい。物理的にも精神的にも眩しすぎる。
「ヴァルゼン、何か気になることがあれば遠慮なく言ってくれ。お前の判断は俺たちの何倍も正確だからな」
「い、いえ、特には……」
特にないのは本当だった。ヴァルゼンには街道の状況を分析する知識も能力もない。ただ一歩一歩、足を前に出しているだけだ。
けれどエルヴィンは満足そうに頷くと、「さすがだな、異常なしか」と呟いて前を向いた。
何もしていないのに太鼓判を押された。いつものことだが慣れない。
昼過ぎ、街道が森に差しかかる地点で、ヴァルゼンの足がぴたりと止まった。
嫌な予感がする。
理由はわからない。ただ背筋のあたりがざわざわして、足が前に出るのを拒否している。
「ヴァルゼン様?」
グリゼルダが振り返り、鋭い蒼灰色の瞳でヴァルゼンを見つめた。
「……あ、いえ、その。なんとなく、嫌な感じが……」
ヴァルゼンが言いかけた瞬間、森の両側から十数人の男たちが飛び出してきた。
見るからに柄の悪い風体。錆びた剣や斧を手に、にやにやと笑っている。盗賊だ。
「へへへ、運がねえな旅人さんよ。身ぐるみ置いていってもらおうか」
頭目らしき大男が前に出て、黄ばんだ歯を見せた。
ヴァルゼンの思考は一瞬で白くなった。
(盗賊! 盗賊だ! 十人以上いる! 死ぬ! 絶対死ぬ!)
膝が笑い、視界がぐらぐら揺れる。
だがパーティの面々は微動だにしない。エルヴィンは聖剣の柄に手をかけ、グリゼルダは大剣を背から抜きかけ、フェリクスは手帳に何かを書き込んでいる。ミラベルだけが小さく「ひっ」と声を上げたが、すぐにヴァルゼンの背中に隠れた。
隠れないでほしい。僕が一番隠れたい。
「ヴァルゼン」
エルヴィンが静かに言った。
「お前に任せる。どう出る?」
(任せないで! 何を任せるの!? 僕に何ができると思ってるの!?)
だがエルヴィンの碧眼には一片の疑いもない信頼が宿っている。あの目で見られると、「実は最弱です」の一言が喉の奥で凍りつく。
盗賊たちがじりじりと包囲を狭めてくる。
ヴァルゼンは必死に頭を回転させた。逃げ道はない。戦う力もない。ならば——
「あ、あの……」
ヴァルゼンは一歩前に出た。両手を胸の前で組み、盗賊たちに向かって深々と頭を下げた。
「み、見逃してください。お願いします。何も差し上げられるものはないんですが、その、できれば穏便に……」
完全な命乞いだった。
声は震え、膝は笑い、額には脂汗が浮いている。これ以上ないほど情けない姿だった。
——はずだった。
頭目の大男が一歩後ずさった。
その顔から、みるみる血の気が引いていく。
「な、なんだ……? この、感じ……」
大男の声が裏返った。周囲の盗賊たちも同様に動揺している。顔が青ざめ、武器を持つ手が震えている。
ヴァルゼンは知らなかった。
魔王の血統には、感情が極限に達した時に微弱な威圧の波動を放つ性質がある。戦闘力には何の関係もないが、心の弱い者——特にやましいことをしている者の本能に、直接恐怖を叩き込む。
ヴァルゼンが命乞いに込めた「死にたくない」という純粋な恐怖が、逆説的に、盗賊たちの恐怖を呼び覚ましていた。
「ば、化け物だ……! に、逃げろ!」
頭目が叫んだ瞬間、盗賊たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
数秒後には、街道には静寂だけが残された。
ヴァルゼンは頭を下げたまま固まっていた。
(……え?)
恐る恐る顔を上げると、盗賊たちの姿はどこにもない。代わりに、パーティの四人が信じがたいものを見る目でこちらを見ていた。
「……見事だ」
エルヴィンが低く唸った。碧眼に感動の光が宿っている。
「剣を抜くことなく、言葉だけで敵を屈服させた。これが……魔王の交渉術か」
「い、いや、僕はただ見逃してほしいと……」
「謙遜するな、ヴァルゼン。お前が一歩前に出た瞬間、俺は感じた。空気が変わったのを」
それは恐怖で足が勝手に動いただけだ。
「興味深いですね」
フェリクスがモノクルの位置を直しながら、手帳にペンを走らせている。
「一言も脅迫めいたことを言わず、むしろ穏便にと申し出ただけ。にもかかわらず相手は恐慌状態に陥った。……これは純粋な威圧です。言葉の内容とは無関係に、存在そのもので相手を圧倒している」
「いえ、本当にただ見逃してほしかっただけなんですが……」
「ええ、わかっていますよ、魔王殿。わざわざ手の内を明かす必要はありません」
わかっていない。まったくわかっていない。
「ヴァルゼン様……」
ミラベルが涙ぐんだ目でヴァルゼンを見上げた。
「あの方たちを、傷つけずに追い払ったんですね。誰も血を流さないように……」
「え、ああ、まあ、それは……」
「お優しいんですね、ヴァルゼン様は。あの方たちだって、好きで盗賊をしているわけではないかもしれない。それを見抜いて、慈悲を以て……っ」
涙が頬を伝い落ちた。ミラベルは杖を抱きしめるようにして、小さく嗚咽を漏らしている。
(違う。全然違う。僕はただ怖かっただけで、慈悲とか一切関係ない)
だがそんなことを言えるはずもなく、ヴァルゼンは引きつった笑みを浮かべて「は、はあ……」と曖昧に返すしかなかった。
「お見事です、ヴァルゼン様」
グリゼルダが片膝をつき、拳を胸に当てた。騎士の礼だ。
「剣を抜かずに敵を退ける。武人にとって、それは最上の勝利です。私にはとても真似できません」
(やめてください。お願いだから立ってください。あなたが膝をつくと僕の胃が裂ける)
ヴァルゼンは必死に手を振って立ち上がるよう促したが、グリゼルダは「ご謙遜を」と微笑むだけだった。
「さあ、行こう」
エルヴィンが歩き出す。その背中は以前にも増して晴れやかだ。
「しかし、いい勉強になった。力だけが戦いの手段じゃないってことを、ヴァルゼンはいつも教えてくれる」
ヴァルゼンは無言で歩き始めた。
胃が重い。盗賊に遭遇したときよりも、今のほうがよほど胃が重い。
背後でフェリクスが手帳に書き込む音が聞こえた。
「交渉記録。言語的威圧ではなく存在的威圧による制圧。推定レベル——計測不能」
(計測不能じゃない。ゼロだ。ゼロなんだ)
街道の向こうに、夕日に照らされた山並みが見えた。明日にはこの道の先にある町に着くらしい。
町に着けば、きっとまた何か起きる。何か起きて、また誤解される。
ヴァルゼンにはもう確信があった。この流れは止まらない。
それでも足を止めることはできなかった。
怖い。怖いけれど——この人たちの傍にいたい。
その気持ちだけは、誤解でも勘違いでもなかった。




