レグノールまであと一日という距離で、それは起きた。
レグノールまであと一日という距離で、それは起きた。
街道の脇の茂みが、不自然に揺れた。
ヴァルゼンの全身の毛が逆立った。理屈ではない。体が、逃げろと叫んでいた。
次の瞬間、茂みから飛び出してきたのは──スライムだった。
半透明のゼリー状の体。直径は大人の頭ほど。ぷるぷると震えながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
冒険者が最初に討伐する、文字通りの最弱モンスターだ。
ヴァルゼンは硬直した。
怖い。
スライムが怖い。
世界で最も弱い魔物が、怖い。
いや、冷静に考えてほしい。あのぷるぷるした体で体当たりされたら痛いのだ。しかもスライムの体液は弱酸性で、肌に触れると軽い火傷のような症状を起こす。ヴァルゼンの魔力防御は皆無に等しいので、スライムの体当たりですら十分に脅威なのである。
つまりヴァルゼンにとって、スライムは冗談抜きで「戦ったら負けるかもしれない相手」だった。
しかも一体ではなかった。
茂みから次々とスライムが湧いて出る。五体、十体、十五体──最終的に二十体ほどのスライムが街道を塞ぐように展開した。
群れスライムだ。
個体としては最弱でも、数が集まれば話は変わる。酸の量が増えるし、囲まれたら逃げ場がなくなる。
冒険者ランクで言えばE級程度の脅威。パーティで対処すれば何の問題もない。
問題があるのはヴァルゼンだけだ。
「おお、魔物か!」
エルヴィンが嬉しそうに聖剣の柄に手をかけた。
「ヴァルゼン、どうする? お前が先陣を切るか?」
切らない。切れない。死ぬ。
ヴァルゼンの体は完全に石になっていた。
二十体のスライムを前に、一歩も動けない。両足が地面に根を張ったように固まっている。拳は握りしめられ、全身が微かに震えている。
恐怖のあまり、呼吸すら止まっていた。
その姿を、エルヴィンは真正面から見つめた。
「……っ」
勇者の目が、見開かれた。
「すごい……!」
何が。
「この殺気……! ヴァルゼン、お前──スライム程度の相手にもこれほどの集中力を発揮するのか!」
殺気じゃない。恐怖だ。純度百パーセントの恐怖だ。
「見ろ、エルヴィン」
グリゼルダが低い声で言った。その灰色の瞳は、ヴァルゼンの「硬直」を食い入るように見つめている。
「微動だにしない。呼吸すら止めている。あれは──気の流れを完全に遮断し、存在そのものを消す高等技術だ」
違う。呼吸できないだけだ。怖くて。
「スライムの群れが動きを止めている」フェリクスが冷静に観察した。「通常、スライムは本能で獲物に向かうが──今、一体も前進していない。ヴァルゼン殿の放つ威圧に、本能が警告を発しているのだろう」
ヴァルゼンはスライムたちを見た。
確かに、動きが止まっている。
だがそれは威圧ではない。ヴァルゼンの体から漏れ出る微量の魔王の血統──戦闘には何の役にも立たないが、下級魔物の本能を刺激する程度の気配が、スライムたちを困惑させているだけだ。
言うなれば、犬が雷を怖がるようなものだ。実害はない。ただ「なんか嫌な感じがする」だけ。
しかしパーティの面々は、そう解釈しなかった。
「ふっ……華を持たせてもらうか」
エルヴィンが聖剣を抜いた。
白銀の刃が陽光を受けて輝く。
「ヴァルゼンが動きを封じてくれた! 今だ、一気に行くぞ!」
エルヴィンの一閃が、三体のスライムを同時に薙ぎ払った。
グリゼルダの大剣が、地面ごとスライムを叩き潰す。
フェリクスの火球が正確に群れの中心を焼き、ミラベルの聖光が残りを浄化した。
十秒。
二十体のスライムが、十秒で全滅した。
ヴァルゼンは一歩も動いていない。
動けなかったのだ。最初から最後まで。
「見事な連携だった」
エルヴィンが聖剣を鞘に収めながら、ヴァルゼンに向き直った。
「お前が最初に威圧で敵の動きを止めてくれたおかげで、安全に処理できた。……さすがだな」
「あ、あの……僕は何も……」
「謙虚だな、ヴァルゼン」
「い、いや、本当に何もしてないんです。文字通り何も──」
「ハハハ! 『何もしていない』か。そう見せるのが真の実力者というものだ」
会話が成立していない。
日本語が──いや、共通語が通じていない。同じ言語を話しているはずなのに、意味が全く噛み合わない。
「ヴァルゼン殿」
フェリクスが近づいてきた。手帳とペンを持っている。嫌な予感しかしない。
「一つ確認したい。先ほどの威圧──あれは魔王固有の能力か? それとも後天的に修得した技術か?」
「い、威圧なんてしてません……ただ、怖くて……」
「なるほど。意識せずとも発動する──つまり『呼吸をするように威圧を放つ』と。パッシブスキルということか」
そうはなってない。そうはなっていないのだが、フェリクスの手帳にはもう何かが書き込まれている。
消してくれ。頼むから消してくれ。
「ヴァルゼン様」
ミラベルが、おずおずと近づいてきた。
「あの……怖かった、とおっしゃいましたよね?」
ヴァルゼンの心臓が跳ねた。
ミラベルは気づいたのか? 僕が本当に怖がっていただけだと?
「はい、それは──」
「やっぱり」ミラベルの翡翠の瞳が揺れた。「ヴァルゼン様は、私たちが傷つくのが怖かったんですね。だから自分が前に立って、私たちを守ろうとしてくださった……」
違う。
自分が傷つくのが怖かった。自分の身が。百パーセント自分の。
「うう……ヴァルゼン様……!」
泣いた。また泣いた。
ミラベルの涙腺は世界で最も脆い防波堤でできている。
エルヴィンが、ヴァルゼンの肩をバンと叩いた。
痛い。本当に痛い。
「最初の戦闘、見事だったぞ! 次はお前の本気の戦い方も見てみたいものだ」
本気を出したら泣きながら逃げるだけだが。
「ああ、それと」エルヴィンがにやりと笑った。「華を持たせてくれてありがとう。お前が全部倒せたのに、俺たちに経験を積ませてくれたんだろ?」
倒せない。
一体も倒せない。
スライム一体にすら勝てる自信がない。
だがヴァルゼンは、もう否定する気力を失っていた。
否定しても無駄だ。何を言っても好意的に解釈される。真実を告げても「謙遜」か「深謀遠慮」に変換される。
この勇者パーティには、自分の言葉をそのまま受け取る機能が搭載されていないのだ。
「……ありがとう、ございます」
絞り出した声は、蚊の鳴くようだった。
「おう!」エルヴィンが太陽のように笑った。「明日にはレグノールに着く。町に入ったら、まずは美味い飯を食おう!」
美味い飯。
その言葉だけが、ヴァルゼンの心に温かく響いた。
ここ数日、保存食しか口にしていない。空腹は恐怖に次ぐ強敵だ。
明日はレグノールに着く。
町に着けば、宿屋がある。ベッドがある。食事がある。
そして──冒険者ギルドがある。
嫌な予感がした。
冒険者ギルドに「魔王」が登録するとどうなるのか。ヴァルゼンには想像もつかなかった。
いや、想像はつく。ろくなことにならない。
だが今は──今だけは、明日の飯のことだけを考えていたかった。




