「みんなと一緒にいたいだけです」が「深すぎる」と受け取られた
「みんなと一緒にいたいだけです」が「深すぎる」と受け取られた
夜の宿の屋上で、星を見ていた。
パーティの皆が寝静まった後、ヴァルゼンはよく一人でここに来る。冷たい夜風が頬を撫で、満天の星が頭上に広がっている。街の明かりは遠く、空には無数の光が散らばっていた。
考え事をするには、ちょうどいい場所だった。
(フェリクスの分析が広まっている。学者まで来た。噂は加速している。いつか——必ず、本当のことがバレる)
怖い。
バレたら、この居場所を失う。温かい朝食も、賑やかな冒険も、仲間の笑顔も——全部、消えてなくなる。
それが何より、怖い。
「夜風に当たっていますか、魔王殿」
声に振り返ると、フェリクスが屋上への扉に立っていた。外套を羽織り、手には湯気の立つ二つのカップ。
「眠れなくて。——一つどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
温かい蜂蜜茶だった。一口飲むと、甘さが喉に沁みた。
フェリクスが隣に座った。しばらく無言で星を見ていた。
この賢者は普段、常に何かを分析し、手帳に書き込み、思考を止めない人間だ。だが今夜は手帳を持っていなかった。それだけで、いつもと空気が違って見えた。
「魔王殿」
「はい」
「一つ、直球でお聞きしたいことがある」
ヴァルゼンの胃が反射的に収縮した。フェリクスの「直球」は、だいたいろくなことにならない。
「あなたの目的は、何ですか」
静かな声だった。分析者の声ではなく、ただ——知りたい、という声。
「目的……ですか」
「ええ。魔王としての野望。世界征服でも、復讐でも、何でもいい。あなたがこのパーティにいる理由を——あなた自身の言葉で、聞きたい」
フェリクスのモノクルが、星明かりを反射した。レンズの奥の目は、いつもの解析モードではなかった。純粋な好奇心——いや、それよりもう少し温かいもの。
ヴァルゼンは蜂蜜茶のカップを両手で包んだ。
嘘をつくべきだと思った。「世界の均衡を保つため」とか「魔族の未来のため」とか、それらしいことを言えば、フェリクスは満足して分析に戻るだろう。
でも——今夜は、嘘をつきたくなかった。
星空のせいかもしれない。蜂蜜茶の甘さのせいかもしれない。あるいは、手帳を持たないフェリクスの横顔が、いつもより人間的に見えたせいかもしれない。
「……みんなと一緒にいたいだけです」
口からこぼれた言葉は、驚くほど素朴だった。
フェリクスが動きを止めた。
「魔王軍にいた頃は、一人でした。誰も僕の顔を見なかった。食事はいつも一人で、玉座の間は広くて冷たくて——」
言葉が止まらなかった。なぜだろう。こんなことを話すつもりはなかったのに。
「エルヴィンに声をかけてもらった時、怖かったけど——嬉しかった。初めて、誰かに必要だと言ってもらえた。それが誤解だったとしても……」
最後の一言で、ヴァルゼンは口を閉じた。
(しまった。今、余計なことを言いかけた)
沈黙が落ちた。
夜風が二人の間を通り抜けた。
フェリクスが、ゆっくりと口を開いた。
「……深い」
(え?)
「深すぎる」
(深くない! そのままの意味です!)
「『みんなと一緒にいたいだけ』——これが、この方の答えか」
フェリクスが星空を仰いだ。その目が、ヴァルゼンがこれまで見たことのない光を宿していた。
「魔王殿。あなたは今、途方もないことを言いましたよ」
「え? いや、ただ一緒にいたいって——」
「そう。ただ一緒にいたい。それだけ。——世界征服でも、復讐でも、種族の存亡でもない。魔王という頂点に立つ者が望むものが、『仲間と一緒にいること』だと」
フェリクスが蜂蜜茶を一口飲んだ。手が微かに震えていた。
「権力を持つ者は、必ず権力を求める。それが歴史の法則です。魔王ならば世界の支配を。勇者ならば魔王の打倒を。——しかしあなたは、その法則の外にいる」
(法則の外にいるんじゃなくて、そもそも権力を持ってないだけなんだけど)
「しかも『誤解だったとしても』と言った。つまり——仲間の信頼が虚構の上に成り立っていることを、あなたは自覚している。自覚した上で、それでも傍にいたいと願っている」
ヴァルゼンの心臓が跳ねた。
(ちょっと待って。今の、聞こえてた? 小さい声だったのに?)
「これは覚悟ですよ、魔王殿。虚構が崩れた時、全てを失うかもしれないと知りながら——それでも今、この場所を選んでいる。その覚悟は——」
フェリクスが言葉を切った。
珍しく、言葉を選んでいるようだった。
「——僕の分析を、超えている」
フェリクスが手帳を……持っていないことに気づき、外套のポケットをまさぐった。が、やはり手帳はない。
「くっ……今夜に限って持ってきていない。この会話は一言一句記録すべきだった」
(しなくていい! するな!)
「魔王殿。一つだけ確認させてください」
「はい……」
「『みんなと一緒にいたい』の『みんな』に——僕も、入っていますか」
フェリクスの声が、わずかに揺れた。
ヴァルゼンは、その質問に驚いた。フェリクスは常に冷静で、感情を見せない人だと思っていた。分析と論理の人。他者との距離を、知性という壁で保つ人。
でも今の声は——少しだけ、不安を含んでいた。
「もちろんです」
考える前に、答えていた。
「フェリクスさんも、グリゼルダさんも、エルヴィンも、ミラベルさんも——みんな、大切な人です。一緒にいたい人です」
フェリクスが目を伏せた。
モノクルが星の光を弾いて、一瞬だけ彼の目元が見えた。
——潤んでいた。ような気がした。暗くてよくわからなかった。
「……参りましたね」
フェリクスが呟いた。
「分析対象に、ここまで心を動かされるとは。——僕の仮説に、新しい項目を追加しなければならない」
「何を追加するんですか」
「『魔王殿の最も恐ろしい能力は、戦闘力でも知略でもなく——人の心を掴むことである』」
(掴んでない! 素直に答えただけだ!)
「明日、手帳に書きます。今夜は——このままで」
フェリクスが蜂蜜茶を飲み干した。
二人はしばらく、無言で星を見ていた。
ヴァルゼンは考えていた。フェリクスに本当のことを言いたかった。「僕は最弱の魔王で、何もできなくて、ここにいる資格なんてなくて——でも、ここが好きなんです」と。
でも言えなかった。
言えば、フェリクスは「それもまた偽装だ」と言うだろうか。それとも——失望するだろうか。
どちらにせよ、今夜の穏やかな沈黙が壊れる。
それは嫌だった。
「魔王殿」
「はい」
「……ありがとうございます」
フェリクスが立ち上がった。外套の裾を払い、屋上の扉に手をかける。
「何がですか?」
「僕を『みんな』に入れてくれたことが。——学院では、そう言ってくれる人間はいなかったので」
扉が閉まった。
ヴァルゼンは一人、屋上に残された。
蜂蜜茶のカップは空になっていた。手の中にはまだ温もりが残っている。
(フェリクスさんも——孤独だったのかな)
天才で、分析家で、皮肉屋で。頭が良すぎるがゆえに誰とも馴染めなかった人。
ヴァルゼンとは理由が違う。でも——「居場所がなかった」という点では、似ているのかもしれない。
(僕の言葉が嘘で塗り固められていても——あの一言だけは、本当だった)
みんなと一緒にいたい。
それだけは、嘘じゃない。
星が一つ、流れた。
ヴァルゼンは願い事をしなかった。
願うまでもなく、今いる場所が——嘘と誤解だらけでも——彼の望んだ居場所だったから。
(明日、フェリクスさんの手帳にまた何か書かれるんだろうな……)
ため息をついて、ヴァルゼンは屋上を後にした。
翌朝。
案の定、フェリクスの手帳には新しいページが追加されていた。
「昨夜の会話を再構成しましたが、改めて驚嘆します。魔王殿の発言には二十三通りの解釈が可能で、そのいずれもが——」
「朝から分析しないでください」
「——戦略的に最適化されている。この自然体の偽装は、もはや芸術の域ですね」
(自然体なのは偽装じゃなくて素だからだ)
エルヴィンが首を傾げた。
「何の話だ?」
「魔王殿の人心掌握術です。昨夜、直接体験しました」
「おお! 詳しく聞かせろ!」
(聞かないで。お願いだから聞かないで)
朝食の席で、フェリクスの分析が始まった。
ヴァルゼンは黙ってパンを齧った。
胃は痛い。でも——ほんの少しだけ。昨夜の蜂蜜茶の温もりが、まだ残っている気がした。




