賢者の分析が勇者の誤解に「裏付け」を与えてしまった
賢者の分析が勇者の誤解に「裏付け」を与えてしまった
朝食の席で、フェリクスが手帳を広げた。
それ自体は珍しくない。彼は常に何かを記録している。食事中でも、移動中でも、戦闘中ですら。ヴァルゼンが見る限り、あの手帳には少なくとも三冊分の情報が詰まっていた。
問題は、今朝のフェリクスの目が普段と違ったことだ。
いつもの冷静な観察者の目ではなく——何かを確信した者の目。ヴァルゼンの背筋に、嫌な予感が走った。
「エルヴィン。少し時間をもらえますか」
フェリクスがパンを一切れ齧りながら言った。口調は穏やかだが、右目のモノクルが朝日を反射して不穏に光っている。
「おう、どうした?」
「魔王殿の行動パターンについて、決定的な結論が出ました」
(出ないでほしかった)
ヴァルゼンはシチューの中にスプーンを沈めた。食欲が急速に消失していく。
「結論?」
エルヴィンが身を乗り出した。碧い目が好奇心で輝いている。グリゼルダも手を止め、ミラベルが小首を傾げた。全員の視線がフェリクスに集まっている。
——ヴァルゼンだけが、逃げ出したかった。
「まず前提を共有します」
フェリクスが手帳のページを繰った。びっしりと文字が詰まっている。あれは全部、ヴァルゼンの行動記録だ。観察日誌。いつからつけていたのか知らないが、少なくとも三十ページ以上はある。
(僕の人生でそんなに記録することある?)
「魔王殿は、パーティに合流して以来、一貫した行動法則を示しています。第一に、危険を誰よりも早く察知する。第二に、自らは前線に出ず後方から状況を俯瞰する。第三に、功績を全て他者に帰属させる。第四に、あらゆる場面で自身の能力を過小に申告する」
全部正しい。ただし理由が全部違う。
第一は怖いから逃げているだけ。第二は戦えないから後ろにいるだけ。第三は本当に何もしていないだけ。第四は過小申告ではなく事実をそのまま述べているだけ。
「これらを個別に見れば、単なる臆病者の行動と一致します」
(そうだ。その通りだ。頼むからそこで止まってくれ)
「しかし——結果だけを見ると、話が変わる」
フェリクスの声が低くなった。手帳を閉じ、モノクルの奥の目がすっと細められる。
「ダンジョン攻略。岩竜討伐。手合わせでのグリゼルダの完封。全ての局面で、魔王殿の行動は最適解と一致しています。臆病者が偶然最適解を出し続ける確率を計算しましたが——天文学的に低い」
(偶然なんだよ! 天文学的に低い偶然が重なっただけなんだよ!)
「つまり?」
エルヴィンが前のめりになった。
「つまり、魔王殿は意図的に臆病者を演じている。——完璧に、一つの綻びもなく」
食堂が、一瞬静まった。
エルヴィンの表情が変わった。驚きではない。何かが腑に落ちた、という顔。
「……やっぱり、そうだったのか」
(やっぱりじゃない! そうじゃない!)
「考えてみれば、おかしかったんだ」
エルヴィンが腕を組んだ。勇者の顔が、異様に真剣になっている。
「ヴァルゼンほどの実力者が、本当に怯えるはずがない。俺はずっと、なぜあれほど強い男が怯えた目をするのか不思議だった」
(怯えてるんだよ! 本当に怯えてるんだよ! 目が泳いでるのは演技じゃなくて本気で怖いからだよ!)
「偽装ですよ」
フェリクスが淡々と言った。
「魔王殿は、自身の能力を周囲に悟らせないために、意図的に弱者を装っている。なぜそうするのかまでは僕の分析では断定できませんが——おそらく、戦略的な理由があるのでしょう」
「なるほどな……」
エルヴィンが深く頷いた。
「つまりヴァルゼンは、俺たちに本当の力を見せていないんだな。でもそれは、俺たちを信用していないからじゃない。きっと——俺たちを巻き込まないためだ」
(飛躍しすぎだ! 論理が三段跳びしている!)
だがフェリクスは、否定しなかった。むしろ感心したように頷いた。
「珍しく鋭いですね、エルヴィン。確かにその解釈は整合性がある。魔王殿は自身の力を隠すことで、パーティへの敵意を最小化している可能性がある」
(二人で勝手に話を進めないでくれ)
「ヴァルゼン様」
グリゼルダの声が、静かに割り込んだ。
蒼灰色の瞳が、まっすぐにヴァルゼンを見ている。武人の目だ。嘘を許さない目。
「私は、手合わせの時から気づいておりました。あの方の動きは——逃げているのではなく、全てを見切った上で最小限の動きをされていた」
(見切ってない! 全力で逃げてた!)
「フェリクスの分析で、確信が持てました。ヴァルゼン様は——私たちが思っている以上に、遥かに深い御方です」
グリゼルダが深々と頭を下げた。
ヴァルゼンは椅子の上で石になった。
フェリクスの分析が、エルヴィンの誤解に「裏付け」を与えた。エルヴィンの確信が、グリゼルダの敬意を強化した。三人の誤解が互いに補強し合い、もはや一人の力では崩せない構造物になりつつある。
(積み木じゃないんだ。一個ずつ崩せると思ったのに、セメントで固められている)
「ヴァルゼン様」
ミラベルが、おずおずと声をかけた。
「あの……みなさんのお話を聞いて、私……」
翡翠色の瞳が潤んでいる。またか、と思ったが、今回の涙は少し違う色をしていた。
「ヴァルゼン様が弱いふりをしている理由が——私には、少しだけわかる気がするんです」
(わからないでほしい。というか本当に弱いんです)
ミラベルは言葉を続けなかった。ただ、翡翠色の瞳でヴァルゼンを見つめていた。そこには同情でも崇拝でもない、何か別の——理解しようとする意志のようなものがあった。
それが、ヴァルゼンの胸をちくりと刺した。
「さて」
フェリクスが手帳を閉じた。
「分析結果をまとめた報告書を作成します。パーティの戦術に反映させたいので」
「おう! 頼んだ、フェリクス!」
「報告書は不要です」
ヴァルゼンが、かすれた声で言った。
「え?」
「あの……その分析は——全部間違っています。僕は本当にただ臆病なだけで——」
四つの視線が、ヴァルゼンに注がれた。
温かい視線だった。温かくて、優しくて、完全に的外れな視線。
「ほら。また隠そうとする」
エルヴィンが笑った。
「魔王殿。否定すればするほど、僕の仮説は補強されますよ」
フェリクスがモノクルの位置を直した。
「本当に弱い者は、自分が弱いとは言いません。弱さを主張できること自体が、余裕の証です」
(それ、どう反論しても負ける構造じゃないか!)
「ヴァルゼン様……」
グリゼルダが静かに言った。
「隠す必要はありません。私たちは、あなたの剣です」
「ですよね……」
ミラベルが小さく頷いた。
ヴァルゼンはシチューに視線を落とした。すっかり冷めていた。胃の中身と同じくらい冷たくなっていた。
(どうすればいいんだ)
否定すれば「謙虚」と解釈される。黙れば「肯定」と解釈される。逃げれば「戦略的撤退」と解釈される。
詰んでいた。
完全に、詰んでいた。
「さあ、朝食を食べよう! 今日も依頼をこなすぞ!」
エルヴィンの声が食堂に響いた。
ヴァルゼンは冷めたシチューを一口すくった。
味がしなかった。
フェリクスの手帳が、またぺらりとページを繰る音がした。あの中に、今日の「否定してみせた行動」もまた記録されるのだろう。「偽装の徹底度:極めて高い」とでも書かれるのだろう。
(……胃薬、どこかに売ってないかな)
最弱の魔王は、今日も誤解の中で生きていく。
しかも今日からは、その誤解に「知的裏付け」がついてしまった。
胃痛のレベルが、一段階上がった気がした。




