「完璧に無能を装っている」——その分析、全部間違ってます
「完璧に無能を装っている」——その分析、全部間違ってます
その夜、フェリクスが「少し話がしたい」とヴァルゼンを呼び出した。
場所は宿の屋上だった。レナートの町は交易路の要衝だけあって建物が密集しており、屋上からは赤煉瓦の屋根が波のように連なっている。夜空には月が出ていて、遠くの山の稜線がぼんやりと浮かんでいた。
フェリクスは屋上の縁に腰掛け、いつもの手帳を膝の上に開いていた。ただし今夜は書いていない。既に書き終えたものを、読み返しているようだった。
「座ってください、魔王殿」
「あ、はい……」
ヴァルゼンは恐る恐る隣に座った。
フェリクスの横顔は、月明かりの中で普段より柔らかく見えた。だがモノクルの奥の瞳には、何かを見定めようとする鋭さが宿っている。
(嫌な予感がする。フェリクスがこういう顔をする時は、大体ろくなことにならない)
「単刀直入に言います」
フェリクスが手帳を閉じた。
「僕は、あなたの行動記録を七日間取り続けました。日常の挙動、戦闘時の判断、対人コミュニケーション、グリゼルダやエルヴィンの証言、酒場での情報収集——全てのデータを集め、分析しました」
「は、はあ……」
「そして結論に到達しました」
フェリクスがヴァルゼンに向き直った。
その目は——学者が長年の研究の末に真理に辿り着いた時の、あの目だった。
「ヴァルゼン殿。あなたは——完璧に無能を装っています」
夜風が吹いた。
月明かりの下で、ヴァルゼンはしばらく固まった。
「……え?」
「装っている、と言いました。あなたの全ての行動は、自らを無能に見せるために設計されている。そしてその偽装の精度は、僕が今まで見たどんな隠蔽術よりも完璧です」
(装ってない。素です。素の無能です)
「根拠を示しましょう」
フェリクスが手帳を開き直した。付箋の貼られたページを次々とめくる。
「第一に、危機回避能力。七日間の記録で、あなたは四十七回の危険を事前に察知し回避しています。路面の凹凸、落下物、野生動物の接近、天候の変化——全て、事象の発生より前に反応している。偶然の範囲を統計的に逸脱しています」
「それは臆病で、周囲に過敏なだけ——」
「第二に、対人能力。酒場での情報収集において、初対面の六人から二時間で準公文書レベルの情報を引き出しています。諜報の専門家でも困難な成果です」
「心配して話を聞いていただけ——」
「第三に、戦術判断。ダンジョンのボス戦では死霊甲冑のコアの機能的役割を戦闘開始から数十秒で把握。岩竜戦では地形崩壊を利用した殲滅を実現。グリゼルダとの手合わせでは歴戦の武人の全力を完封」
「全部偶然と臆病の——」
「第四に」
フェリクスがペンを手帳に突き刺すように置いた。
「あなたの魔力量です」
ヴァルゼンの心臓が跳ねた。
「僕のモノクルで計測した魔王殿の魔力量は、一般人をやや下回る程度です。魔王としては信じられないほど低い。ギルドのステータス計測が計測不能を示したのも、おそらくこの異常な低さが原因でしょう」
(そうだ。その通りだ。僕は弱い。やっと正しい結論に——)
「しかし」
フェリクスの目が、月光の中で冷たく光った。
「魔力量が低いのに、魔力感知の精度が異常に高い。ダンジョンで魔力吸収の罠を察知した。死霊甲冑のコアの挙動を目視で捉えた。岩竜の接近を誰よりも早く感じ取った。これは矛盾です。魔力量の低い者に、これほどの感知能力があるはずがない」
(あるんだよ。怖いから感覚が鋭いだけなんだ)
「であれば、結論は一つ」
フェリクスが立ち上がった。
「あなたは魔力を隠蔽している。計測器が捉えられないほど高度な隠蔽術を、常時、無意識レベルで維持している。それは——途方もない技量です」
ヴァルゼンは口を開いた。閉じた。また開いた。
「フェリクスさん、あの——」
「さらに言えば」
フェリクスが月を見上げた。
「あなたのこの『否定の仕方』自体が、偽装の完璧さを証明しています」
「……は?」
「普通、能力を隠す者は巧みに話題を逸らすか、曖昧な笑みで誤魔化すか、あるいは別の能力を見せて本当の力から注意を逸らします。しかしあなたは——正面から否定する。『臆病なだけ』『偶然だ』『何も考えていない』と」
フェリクスが振り返った。
「これは最も高度な偽装手法です。真実を言って嘘にする。実際に自分が弱いと言い続けることで、相手に『これは謙遜だ』と解釈させる。否定すればするほど疑いが深まり、最終的に相手が勝手に『本当は強い』と結論づける——その構造を、あなたは完璧に設計している」
(設計してない! 本当のことを言っているだけなのに、なぜか嘘扱いされる! これが一番理不尽だ!)
「ここまで完璧に無能を装えるのは」
フェリクスの声に、畏怖の色が滲んだ。
「逆に恐ろしいことですよ、魔王殿。僕のモノクルの解析を欺き続けている——その事実だけでも、あなたの能力の証明になっている」
ヴァルゼンは額に手を当てた。
頭が痛かった。胃が痛かった。全身が痛かった。
「フェリクスさん。お願いですから聞いてください。僕は本当に——本当に、何の力もない、最弱の魔王なんです。配下のゴブリンにも馬鹿にされていた、飾りの玉座に座らされていただけの——」
「ええ」
フェリクスが微笑んだ。
その微笑みが、ヴァルゼンの言葉を完封した。
「ゴブリンにも馬鹿にされる魔王が、歴戦の女騎士に剣を捧げさせ、聖剣の勇者に絶対の信頼を抱かせ、賢者の解析を欺き続け、僧侶を涙させる——その矛盾を説明できるのは、偽装という仮説だけです」
(説明できるよ! 全部、この人たちの誤解が勝手にエスカレートしているだけだ!)
だが言葉は出なかった。
なぜなら、フェリクスの論理は——前提が間違っているだけで——構造としては完璧だったからだ。
前提さえ正しければ、全てが整合する。
前提が間違っているなんて、誰が信じるだろう。
「魔王殿」
フェリクスが手を差し出した。
「僕はあなたの偽装を暴くつもりはありません。あなたが無能を装うのには、理由があるのでしょう。それが何であれ——僕はあなたの知恵袋として、最善を尽くします」
月明かりの中で差し出された手。
ヴァルゼンは、それを取った。
フェリクスの手は、学者らしく細く長い指をしていたが、握ると意外に温かかった。
「……ありがとうございます、フェリクスさん」
「フェリクスで結構です。僕はもう、あなたの側の人間ですから」
その言葉が、胸に刺さった。
嬉しさと。罪悪感と。恐怖が。全部同時に。
(この人は、僕のことを完全に誤解している。完全に間違った結論に到達している。でも——「あなたの側の人間」という部分だけは、嘘じゃないんだと思う)
宿に戻ると、フェリクスが自室に引っ込む前に振り返った。
「ああ、一つ言い忘れていました」
「はい?」
「明日、エルヴィンに分析結果を報告します。彼にも共有した方がいいと思いますので」
ヴァルゼンの胃が、きゅるりと鳴った。
(フェリクスの分析が、エルヴィンの耳に入る。あの、何でも信じてしまう勇者の耳に。「完璧に無能を装っている」という結論が。知的な裏付きとともに)
「あ、あの、それは——」
「おやすみなさい、魔王殿」
扉が閉まった。
廊下に一人取り残されたヴァルゼンは、壁にもたれて天井を見上げた。
(終わった)
エルヴィンの誤解は、これまで「直感的な思い込み」だった。根拠のない確信。暴走する信頼。それは危ういが、同時に「いつか現実を見てくれるかもしれない」という希望もあった。
だがフェリクスの分析が加わったら——。
根拠のない確信に、知的な裏付けがつく。
暴走する信頼に、論理の基盤が与えられる。
「なんとなく凄い」が「分析の結果、やはり凄い」に格上げされる。
(もう、訂正できない)
ヴァルゼンは部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。
天井の木目が、蝋燭の光に揺れている。
(フェリクスは頭がいい。頭がいいのに——いや、頭がいいからこそ、間違った結論に全力で突っ走っている。データは正確なのに、解釈だけが全力で間違っている)
最弱の魔王が、完璧な偽装者として認定された夜だった。
月が窓から差し込んで、ヴァルゼンの顔を白く照らした。
(僕は弱い。それだけが真実で、それだけをわかってほしいのに——誰も、信じてくれない)
皮肉だ、とヴァルゼンは思った。
嘘をついているのに信じてもらえないのではなく、真実を言っているのに信じてもらえない。
世界で一番贅沢な悩みかもしれない。でも胃は痛い。
胃は、とても痛い。




