膝をつかれて「剣を捧げる」と宣言された。勇者が感動で泣いている
膝をつかれて「剣を捧げる」と宣言された。勇者が感動で泣いている
翌朝、宿の食堂で朝食を取っていた時のことだった。
グリゼルダが席に着くなり、ヴァルゼンの正面に座った。
二日酔いの気配は微塵もなかった。昨夜あれだけ飲んでいたのに、蒼灰色の瞳はいつも以上に澄んでいる。銀髪を丁寧に束ね直し、甲冑の手入れも完璧。背筋は一本の刃のように真っ直ぐだった。
(……なんだか、空気が違う)
ヴァルゼンの直感が警鐘を鳴らしていた。グリゼルダから漂う雰囲気が、いつもと決定的に違う。戦場の前の、覚悟を決めた武人の気配。
「ヴァルゼン様」
「は、はい」
「食後に、お時間をいただけますか」
声が、厳かだった。朝食の席にふさわしくない荘厳さだった。
「え、ええと……」
「重要なお話があります」
断れる雰囲気ではなかった。というより、グリゼルダの目が真剣すぎて、ヴァルゼンの口が勝手に「はい」と答えていた。
食堂の片隅で、フェリクスが手帳を開いた。
「何かが起きそうですね」
その予感は、正確だった。
宿の裏手にある小さな中庭。石畳の広場に朝の光が差し込み、隅の花壇では名も知らぬ白い花が揺れていた。
パーティ全員が集まっていた。エルヴィンは壁に背を預けて腕を組み、フェリクスは少し離れた場所で手帳を構え、ミラベルは花壇の傍で祈るように手を組んでいた。
ヴァルゼンは中庭の中央に立たされていた。
(なんで僕が中央なんだ。逃げたい。でも逃げ道がない)
グリゼルダが、ヴァルゼンの前に歩み出た。
そして——片膝をついた。
歴戦の女騎士が、甲冑の膝を石畳につけ、深く頭を垂れた。銀髪がさらりと肩から流れ落ちる。背中の大剣を外し、両手で捧げ持つように地面に置いた。
「ヴァルゼン様」
声は震えていなかった。むしろ、凪いだ海のように静かだった。
「私はこれまで、多くの強者を見てきました。騎士団の将軍、四天王の一角、勇者エルヴィン——いずれも、私の剣では届かない高みにいる方々でした」
グリゼルダが顔を上げた。蒼灰色の瞳に、朝の光が宿っている。
「しかし、あなたは違う」
(違わない! 僕は弱い! この場にいる全員より弱い!)
「あなたの強さは、剣技や魔術といった次元にない。戦場を見通す眼、敵を地形ごと制圧する戦術、一切の殺意を纏わぬ圧倒的な格——私がこの身で体験したことの全てが、あなたが尋常の存在ではないことを告げています」
ヴァルゼンの心臓がばくばくと鳴っていた。
(全部誤解だ。全部、僕が臆病で逃げ回っていただけのことを、壮大に解釈しているだけだ)
「手合わせでは一太刀も届かず。岩竜戦では、あなたの一挙手一投足が戦場の帰趨を決した。私の十五年の武歴が、身体の芯から告げているのです——この方の前では、膝を折るのが正しい、と」
グリゼルダが大剣を両手で持ち上げ、ヴァルゼンに差し出した。
「この剣を、あなたに捧げます」
中庭が、静まり返った。
風が白い花びらを一枚、ヴァルゼンの足元に運んだ。
「グリゼルダさん、あの、僕はそんな——」
「ご辞退されるのは承知しています」
グリゼルダが薄く笑った。左頬の刀傷が歪む、あの凄みのある笑顔。
「あなたはいつもそうだ。器が大きすぎて、忠誠を差し出されても受け取ろうとしない。だが——これは私の意志です。あなたに受け入れていただけなくとも、私の忠義は変わりません」
(受け取らなくても忠義は変わらないって、じゃあ僕にどうしろと!?)
「グリゼルダ……!」
エルヴィンの声が震えていた。
振り返ると、勇者が泣いていた。金髪碧眼の、絵に描いたような勇者が、両の目から大粒の涙をこぼしていた。
「お前……! お前の騎士道が、ついにヴァルゼンに届いたんだな……!」
(届いてない! というか、エルヴィンがなぜ泣いているのかわからない!)
「やっぱりだ。やっぱりお前は、人の忠義を引き出す器を持っている。グリゼルダほどの武人が膝をつくんだ——それが何よりの証拠だ」
エルヴィンが歩み寄り、ヴァルゼンの肩を掴んだ。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも太陽のように笑った。
「俺も改めて誓おう。ヴァルゼン、俺はお前を信じる。何があっても、最後まで」
(やめて。やめてくれ。その信頼が重い。嬉しいけど重い。重すぎて胃が潰れる)
「記録しました」
フェリクスの声が、妙に冷静に響いた。
「グリゼルダの忠誠表明。エルヴィンの感涙による再宣誓。そしてヴァルゼン殿の反応——辞退を試みるも、最終的には受け入れる。実に興味深いパターンです」
(パターンにしないで。分析しないで)
「注目すべきは」
フェリクスが手帳にペンを走らせながら続けた。
「ヴァルゼン殿が忠誠を辞退しようとした点です。普通、これだけの忠義を差し出されれば受け取る。名誉あることですから。にもかかわらず辞退を試みた——なぜか」
フェリクスの目が、ヴァルゼンを見据えた。
「謙虚さ? 違う。もっと深い理由がある。あなたは忠誠を受け取ることで、相手に責任が生じることを理解している。だから慎重なのだ——自分の判断に他者の命がかかることを、誰よりも重く受け止めているから」
(違います! 自分なんかに忠誠を捧げられても困るからです! 最弱だからです!)
「ヴァルゼン様……」
ミラベルが涙を拭きながら歩み寄ってきた。翡翠色の瞳が、朝露に濡れた宝石のように輝いている。
「グリゼルダさんの想い、きっとヴァルゼン様には重荷に感じられるのですね。でも——それを重荷と感じられること自体が、あなたの優しさだと思います」
(優しさじゃなくて、申し訳なさだ。騙しているような罪悪感だ)
「ヴァルゼン様」
グリゼルダが立ち上がった。大剣を背に戻し、甲冑の埃を払う。その仕草は、何かが完了した後の清々しさに満ちていた。
「返事は不要です。ただ、これだけは覚えておいてください。私の剣は、あなたのために振るわれます。今日から先、永遠に」
ヴァルゼンは何も言えなかった。
否定の言葉は喉まで来ていた。「僕は弱いです」「あなたの忠義に値する人間じゃないです」「全部誤解です」——全部、真実だ。
でも。
グリゼルダの瞳があまりに真剣で。エルヴィンの涙があまりに温かくて。ミラベルの微笑みがあまりに柔らかくて。
そして——フェリクスの手帳に刻まれた記録が、あまりに精緻で。
(この人たちの信頼を裏切ることが、こんなに怖いなんて)
「……ありがとう、ございます」
絞り出すように言った。
声が震えていた。だがそれは、恐怖だけの震えではなかった。
グリゼルダが微笑んだ。エルヴィンが泣き笑いで頷いた。ミラベルが小さく拍手した。
フェリクスが、手帳に一行書き加えた。
『忠誠の辞退→受諾の流れ。感謝の言葉は震声。感情の制御が極めて巧みか、あるいは——計算されたものか。要検証。』
ヴァルゼンはその一行を見ていなかった。見ていたら、きっと胃に穴が開いていただろう。
中庭に吹いた風が、白い花びらを巻き上げた。
ヴァルゼンは思った。
(もう引き返せない。僕がどれだけ否定しても、この人たちの中で「僕」はどんどん大きくなっていく。実際の僕とは全く違う、巨大な虚像が)
胃がきゅるりと鳴った。
それでも——グリゼルダの「永遠に」という言葉が、胸の奥で温かく残っていた。
(……嬉しいと思ってしまった自分が、一番怖い)




