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最弱魔王なのに勇者パーティに『史上最凶の魔王』と誤解されています〜怖くて訂正できないまま世界を救うことになりました〜  作者: 蒼月よる


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崖から落ちかけたら岩竜が自滅した。僕のおかげじゃないです

 崖から落ちかけたら岩竜が自滅した。僕のおかげじゃないです


 岩竜は倒れた——はずだった。


 パーティが勝利の余韻に浸り、ヴァルゼンが胃を押さえながら立ち上がろうとした、その瞬間。


 地鳴りが響いた。


「——もう一体!?」


 フェリクスが叫んだ。


 広場に続く山道の反対側——パーティが来た方向とは逆の奥から、もう一体の岩竜が姿を現した。


 先ほどの個体よりさらに大きい。体長は十五メートルに達し、頭部の角が枝分かれして王冠のような形状を成している。鱗の色も灰褐色ではなく、黒みがかった深い鉄色だった。


つがいか!」


 エルヴィンが聖剣を再び抜いた。だがその額に、一筋の汗が流れていた。先の戦闘で消耗している。


「まずいな。もう一戦は——」


「できます」


 グリゼルダが大剣を構え直した。甲冑の下の身体は疲労しているはずだが、その目に迷いはなかった。


「ですが、先ほどと同じ戦術は通用しません。この個体は先ほどより大きい。広場の地形優位も、このサイズでは——」


「僕の術式も魔力の残量が心許ない」


 フェリクスが渋い顔で手帳を閉じた。珍しく余裕のない声だった。


 第二の岩竜が咆哮した。先ほどの個体の死骸を見下ろし、その琥珀色の瞳に怒りの炎が灯っている。


 番の片割れを殺された。


 その怒りが、巨躯から暴風のように放射されていた。


(怒ってる。ものすごく怒ってる。あれは、もう理性とかない目だ)


 ヴァルゼンの危機察知が、全力で警報を鳴らしていた。


(逃げなきゃ。今すぐ逃げなきゃ。でもどこに——)


 前は岩竜。左右は巨岩と崖。後ろは狭い山道で、あの巨体が突進してきたら逃げ場がない。


 ヴァルゼンの目が、唯一の逃走経路を捉えた。


 広場の端。崖際の細い岩棚。人間一人がかろうじて立てる幅の、風化した岩の出っ張り。その先は——百メートル以上の絶壁。


(あそこしかない。あの岩棚なら、岩竜の体躯では追ってこられない)


 それは戦術的判断ではなかった。純粋な逃避だった。巨大な恐怖から、一ミリでも離れたいという本能の命令だった。


「ヴァルゼンが動いた!」


 エルヴィンの声が聞こえたが、もう耳に入っていなかった。


 ヴァルゼンは走った。広場を横切り、崖際の岩棚に向かって一直線に。


 第二の岩竜が、その動きに反応した。


 番を殺した——とは思っていないだろうが、そこにいる人間の一人が走り出した。怒りに駆られた竜にとって、動く標的は最優先の対象になる。


 岩竜がヴァルゼンに向かって突進した。


「ヴァルゼン!」


「ヴァルゼン様!」


 エルヴィンとグリゼルダの叫びが重なった。二人が追いすがるが、岩竜のほうが速い。


 巨体が広場を駆け抜ける。足元の砕石が弾け飛び、巨岩を薙ぎ倒しながら、真っ直ぐにヴァルゼンへ向かってくる。


 ヴァルゼンは崖際の岩棚に辿り着いた。


 足を踏み出す。岩棚は——思ったより脆かった。


 ぱきり、と。乾いた音が足元から響いた。


(え——)


 岩棚が、崩れた。


 足場が消える感覚。身体が宙に浮く感覚。視界が空と崖を交互に映す。


 落ちる。


(落ちる落ちる落ちる——!)


 必死で手を伸ばした。指先が、崩れ残った岩の端を掴んだ。両手でしがみつく。身体がぶらりと崖にぶら下がった。


 下を見る余裕はなかった。見なくてもわかる。百メートル以上の絶壁だ。落ちたら死ぬ。


(指が! 指が滑る!)


 風化した岩はざらざらと崩れていく。指の爪が岩に食い込み、悲鳴が喉から漏れた。


 その時——ヴァルゼンの真上に、岩竜の巨大な頭が現れた。


 琥珀色の瞳が、崖にぶら下がる小さな人間を見下ろしている。


(来るな来るな来るな——!)


 岩竜が、崖の端に前脚を踏み出した。


 ヴァルゼンを追って、崖の端まで来たのだ。十五メートルの巨体が、崖際の風化した岩の上に体重をかけた。


 めきり。


 その音は、先ほどのぱきりとは比較にならなかった。


 めきめきめきめき——。


 崖の端が、大規模に崩壊し始めた。


 岩竜の重量に耐えきれず、崖の縁が数メートルにわたって崩れ落ちていく。岩竜の前脚が宙を掻き、巨体が傾いた。


 咆哮——それは怒りではなく、恐怖の叫びだった。


 岩竜が崖から落ちていく。十五メートルの巨体が、百メートルの絶壁を転落していく。岩壁に体を打ちつけるたびに轟音が響き、鱗の破片と岩の欠片が雨のように降り注いだ。


 そして——谷底から、途方もない衝撃音が響いた。


 沈黙。


 風の音だけが、崖を吹き抜けていく。


「……う、うぅ……」


 ヴァルゼンはまだ崖にぶら下がっていた。指が白くなるほど岩を握りしめ、全身がわなわなと震えている。


「ヴァルゼン!」


 上からエルヴィンの手が伸びてきた。がっしりと腕を掴まれ、一気に引き上げられる。


 固い地面の感触が背中に伝わった瞬間、ヴァルゼンの全身から力が抜けた。


「はっ……はあ……はあ……」


 仰向けに倒れたまま、空を見上げる。青い空に、白い雲。さっきも見た光景だ。だが今度は、涙で滲んでいた。


「ヴァルゼン、大丈夫か!」


 エルヴィンが心配そうに覗き込んでいる。


「だ、大丈夫……です……たぶん……」


「よかった」


 エルヴィンが安堵のため息をつき——そして、その碧い目に、いつもの光が戻った。


「しかし、ヴァルゼン。お前がやったことの意味が、わかっているか」


(やったこと? 崖から落ちかけたこと?)


「お前は自ら囮になって岩竜を崖際に誘導し、地形崩壊を利用して落としたんだ」


(してない。足場が崩れて落ちかけただけです)


「あの一瞬で崖の端の脆さを見抜き、岩竜の重量なら崩壊すると計算した——違うか?」


(全部違う。何一つ計算していない)


 だがエルヴィンの目は輝いている。もう聞く耳を持たない目だ。


「グリゼルダ。見ていたか」


「……ええ」


 グリゼルダが崖の端に立ち、谷底を見下ろしていた。岩竜の残骸が、遥か下方に横たわっている。


 その背中が、微かに震えていた。


「ヴァルゼン様」


 振り返ったグリゼルダの顔は、蒼白だった。だがそれは恐怖の蒼白ではなく、圧倒的な感情に打たれた者の蒼白だった。


「あなたは——自らの身を危険に晒してまで、あの場を収められた」


(危険に晒したんじゃなくて、勝手に危険になっただけです)


「剣技も魔術も使わず、地形と敵の習性だけで竜を屠る。それは——」


 グリゼルダが言葉を切り、深く息を吸った。


「私の知る武の常識を、全て覆す戦い方です」


 蒼灰色の瞳が、真っ直ぐにヴァルゼンを見た。


「恐ろしい方だ」


 その声には、畏怖と敬意と、そしてかすかな歓喜が混じっていた。


(恐ろしいのはそっちです。僕のどこに恐ろしい要素があるんですか)


「地形を利用した戦術は古来より存在しますが——」


 フェリクスが手帳にペンを走らせている。その手が、わずかに震えていた。


「あの瞬間に崖の崩壊可能性を正確に見積もり、自らを餌にして岩竜を誘い込む——これを即興でやってのけるのは、戦術眼という言葉では収まらない」


(即興じゃない。何も考えてない。逃げたら崖で、崖が崩れたら岩竜も崩れた。それだけだ)


「僕のデータ上、魔王殿の戦闘能力は計測限界以下です。にもかかわらず、岩竜二体を実質的に殲滅した。うち一体は完全に魔王殿の単独撃破です」


(単独撃破じゃない! 崖が勝手に崩れただけだ!)


「ヴァルゼン様」


 ミラベルが駆け寄ってきた。涙が、もう止まらなかった。


「怖かったですよね。崖から落ちかけて——本当に、怖かったですよね」


 その言葉だけは、ヴァルゼンの心に真っ直ぐ届いた。


「……はい。怖かったです」


「でも——あなたは、仲間のために自らの身を投げ出してくださった。それは、誰にでもできることではありません」


(投げ出してない。逃げた先が崖だっただけ。でも——)


 ミラベルの翡翠の瞳が、涙越しにヴァルゼンを見つめている。


 その瞳に映っているのは、「仲間のために身を挺した勇敢な魔王」の姿。


 実際は「恐怖で崖まで走って落ちかけた臆病者」なのだが——否定する言葉が、出てこなかった。


 ミラベルの治癒魔法が、ヴァルゼンの擦り傷を癒していく。温かい光が身体を包む。


「ありがとう、ございます……」


「お礼を言うのは、こちらです」


 ミラベルが微笑んだ。涙で濡れた頬が、夕日の色に染まっていた。


 パーティは山を下り始めた。


 岩竜二体の討伐素材を回収し、ゼルフィスへの帰路につく。日が傾き始め、山々の稜線が夕焼けのオレンジに縁取られている。


 歩きながら、グリゼルダがヴァルゼンの隣に並んだ。


「ヴァルゼン様」


「は、はい」


「今日の戦いで、確信しました」


 グリゼルダの声は、穏やかだった。だがその穏やかさの奥に、鋼のような決意があった。


「あなたは——剣技すら不要な方だ。武器も防具も魔術もなく、ただ在るだけで戦場を制する。それは、私が目指す強さの遥か先にある境地です」


(在るだけで制してない。逃げて転んで落ちかけただけだ)


「私の剣が、いつの日かあなたに届くとは思いません。ですが——あなたのお側で剣を振るうことを、改めてお許しいただきたい」


 グリゼルダが立ち止まり、夕日を背に、深々と頭を下げた。


 銀髪が風に揺れる。甲冑が夕焼けの色に染まる。蒼灰色の瞳には、もう迷いの影はなかった。


「この剣を——あなたに捧げます」


 今朝の広場での宣言と、同じ言葉。


 だが今度のそれは、手合わせだけでなく実戦の結果を経たものだった。言葉の重みが、朝とはまるで違う。


 ヴァルゼンは口を開きかけ——そして、朝と同じ葛藤に陥った。


 受ければ嘘を重ねることになる。断れば器が大きいと言われる。


 どちらに転んでも、誤解が強化される。


 だが——グリゼルダの瞳を見た時、ヴァルゼンの口から出た言葉は、どちらでもなかった。


「……グリゼルダさんの剣は、もう十分に届いていますよ」


 また、嘘ではなかった。


 グリゼルダの大剣がなければ、一体目の岩竜は倒せなかった。彼女の剣は確かに戦場に届いていた。ヴァルゼンに届いていないのは当然だ——彼は逃げていただけなのだから。


 だがグリゼルダは、その言葉をこう受け取った。


 格が違いすぎる相手が、自分の剣を「届いている」と認めてくれた。


 つまり——「お前の努力は認めている」という、頂からの承認。


 グリゼルダの目に、涙が浮かんだ。


「泣いてなどいない」


 誰も何も言っていなかったが、グリゼルダはそう言った。


 そして——微笑んだ。


 左頬の刀傷が歪む、あの凄みのある笑顔。だが今日のそれは、ヴァルゼンが初めて見る種類の笑顔だった。


 武人が、師に認められた時の笑顔。


「——ありがとうございます。ヴァルゼン様」


 グリゼルダは前を向き、再び歩き始めた。その足取りは、山を登る時よりもずっと軽かった。


 背後でエルヴィンが目を赤くし、フェリクスが手帳に何かを書き込み、ミラベルが静かに涙を流していた。


 ヴァルゼンは一人、夕焼けの空を見上げた。


(僕のおかげじゃないのに)


 山々の稜線が、夕日に燃えている。


(岩竜が自滅しただけなのに。グリゼルダさんが勝手に感動しているだけなのに)


 だが——胸の奥で、小さな温かいものが灯っていた。


 グリゼルダの笑顔。あの、武人の誇りと感謝が混じった笑顔が、ヴァルゼンの心に焼きついていた。


(嘘の上に、本物の感情が積み重なっていく。……それは、幸福と呼んでいいのだろうか)


 答えは出なかった。


 ただ、胃は——今日一日で一番、静かだった。


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