岩竜から全力で逃げたら「最適ルートの誘導」と解釈された
岩竜から全力で逃げたら「最適ルートの誘導」と解釈された
山岳依頼を受けたことを、ヴァルゼンは三秒で後悔した。
「岩竜の討伐依頼だ! ランクはA! やりがいがあるな!」
エルヴィンが依頼書を高々と掲げた時、ヴァルゼンの胃は即座に反乱を起こした。
(岩竜!? Aランク!? ダンジョンの岩鎧蜥蜴とは比べ物にならない上位種じゃないか!)
岩竜。山岳地帯に生息する竜種の一角で、全身が花崗岩のような鱗に覆われた巨大な魔物だ。体長は十メートルを超え、尾の一振りで岩壁を砕き、咆哮だけで弱い魔物を気絶させる。
ギルドの掲示板によれば、この岩竜はゼルフィスの東の山岳路に出没し、交易路を遮断しているらしい。商人たちの悲鳴がギルドに殺到し、討伐依頼が出されたとのことだ。
「いい依頼じゃないか。グリゼルダ、腕が鳴るだろう」
「無論です」
グリゼルダの目が燃えている。大剣の柄を握る手に力がこもっていた。
「魔王殿の戦術眼があれば、岩竜といえども恐れるに足りません」
(足ります! 僕の戦術眼は「逃げる方向を決める」以上の機能を持っていません!)
「討伐対象の分析は僕に任せてください。岩竜の弱点は腹部の鱗の継ぎ目と後頭部の結晶核ですが、接近するには——」
「フェリクス、それは現場で判断しよう。ヴァルゼンがいれば、最適な戦術を示してくれるはずだ」
(示せません)
かくして、パーティは山岳路に向かった。
山道は険しかった。
切り立った崖が左右に迫り、道幅は荷馬車一台がかろうじて通れる程度。足元は砂利と岩屑で不安定だ。右手には深い谷が口を開け、覗き込めば百メートル以上の絶壁が底まで続いている。
ヴァルゼンは崖際から目を逸らし、山肌に張りつくようにして歩いていた。
(高い。高すぎる。落ちたら確実に死ぬ。いや、落ちなくても岩竜に殺される可能性が——)
「ヴァルゼン様、お足元にお気をつけください」
グリゼルダが半歩前を歩き、道の状態を確認しながら進んでいた。昨日の忠誠宣誓以来、彼女の護衛意識はさらに高まっている。
「あ、ありがとう、ございます……」
「ヴァルゼン様は後方にいてくださればいい。前衛は私とエルヴィンで務めます」
(後方に行きたい。というか、この山から下りたい)
だがそんな願いは叶わなかった。
前方で、エルヴィンが拳を上げて全員を止めた。
「——来たぞ」
山道の先。曲がり角の向こうから、地響きが伝わってくる。
ずしん。ずしん。
規則的な振動。巨大な何かが、地面を踏みしめて歩いている。
そして——曲がり角から、それが姿を現した。
岩竜。
体長は十二メートルを超えていた。全身を覆う灰褐色の鱗は、まさに岩壁そのもの。小山のような頭部に据えられた琥珀色の瞳が、山道を塞ぐ人間たちを見下ろしている。
口から漏れる息が、白く立ち昇る。その息の一つ一つが、周囲の砂利を吹き飛ばすほどの圧だった。
ヴァルゼンの全身から、一瞬で血の気が引いた。
(でかい。でかいでかいでかい。ダンジョンの岩鎧蜥蜴の三倍はある。これ無理。絶対無理。帰りたい)
「フェリクス! 弱点は!」
「腹部の鱗の継ぎ目、それから後頭部に結晶核があるはずです! ただし——この地形では腹部への接近が困難です。山道の幅が狭すぎる」
「なら後頭部を狙う! グリゼルダ、陽動を頼む!」
「承知!」
グリゼルダが大剣を抜き放った。銀の刃が山岳の光を反射する。
岩竜が咆哮した。
空気が震えた。山壁から小石が崩れ落ちる。ヴァルゼンの鼓膜が悲鳴を上げた。
(逃げたい逃げたい逃げたい!)
本能が、全力で「逃げろ」と叫んでいた。
だが前には岩竜がいる。左は山壁。右は絶壁の谷。後ろに逃げるしかない。
ヴァルゼンは振り返り、全力で走り出した。
「ヴァルゼンが動いた!」
エルヴィンの声が聞こえた。だがヴァルゼンの耳には届いていなかった。ただ走った。石を蹴り、砂利を踏み、息を切らしながら、山道を一心不乱に駆け抜けた。
後方で岩竜の咆哮と、剣が鱗を打つ金属音が響いている。
危機察知が叫ぶ。右はダメだ。右の岩壁の上に——何かいる。
ヴァルゼンは本能的に左に逸れた。
次の瞬間、右の岩壁から小型の岩蜥蜴が三体、滑り落ちてきた。岩竜の子供——いや、眷属だ。親竜の縄張りを守る番兵。
(子供もいるの!?)
左に逸れたことで、ヴァルゼンは岩蜥蜴の奇襲を完全に回避していた。
だが止まれない。後ろから岩竜の尾が振るわれる気配がする。山道が揺れる。崖際の岩が崩落していく。
ヴァルゼンは崩落する岩を避けながら走り、左に曲がり、登りの坂道を駆け上がった。息が切れる。足が痛い。だが止まったら死ぬ。
坂の上に出た瞬間、視界が開けた。
岩だらけの広場だった。山道が広がり、車数台分の平坦な空間が広がっている。左右に巨岩が点在し、その奥は再び山道に続いている。
ヴァルゼンはそこで足を止め——止められず、巨岩の影に転がり込んだ。
(はあ、はあ、はあ——生きてる、まだ生きてる——)
数分後、エルヴィンたちが追いついてきた。
そして——全員が、目を丸くした。
「ヴァルゼン……お前、とんでもないことをしたな」
エルヴィンの声が、畏怖を帯びていた。
「え?」
「途中の岩蜥蜴の伏兵を完全に回避し、崩落ポイントを避け、敵の尾撃の射程外を正確に走り——そして、この広場に誘い込んだ」
(誘い込んでない! 逃げてきただけだ!)
「この広場は……」
フェリクスが周囲を見回し、モノクルを光らせた。
「なるほど。岩竜との戦闘に最適な地形です。山道の狭い通路では岩竜の巨体が有利でしたが、この広場なら機動力を活かせる。しかも巨岩が遮蔽物として機能し、岩竜の突進を阻害できる」
(たまたまだ! ここに広場があることなんて知らなかった!)
「さらに——」
フェリクスが地面を確認した。
「この地盤は風化した砕石が積層しています。岩竜の体重では足場が不安定になり、動きが鈍る。一方、人間の体重なら問題ない」
「つまり——」
エルヴィンが聖剣を抜いた。碧い目が輝いている。
「ヴァルゼンは、逃げながら戦場を選んでいたのか。岩竜を倒すための、最適な場所に俺たちを導くために」
(導いてない! 逃げてたら偶然ここに着いただけだ!)
「戦場を支配している……」
グリゼルダが呟いた。大剣を握る手が震えていた。それは昂揚の震えだった。
「ヴァルゼン様は、戦場そのものを武器にされるのですね」
(してない!)
地響きが近づいてくる。岩竜が山道を追ってきている。
「よし、ヴァルゼンの戦術に従う! 全員、広場を活かして戦うぞ!」
エルヴィンの号令と同時に、岩竜が広場に姿を現した。
巨大な体躯が狭い山道から広場に押し出され——その足が、砕石の地面にめり込んだ。
フェリクスの分析通り、岩竜の重量では足場が不安定になる。巨体がわずかによろめいた。
「今だ!」
エルヴィンとグリゼルダが左右から同時に仕掛けた。巨岩を盾にしながら接近し、岩竜の脚部に斬撃を叩き込む。フェリクスが後方から氷結魔術を放ち、岩竜の動きをさらに鈍らせた。
ヴァルゼンは巨岩の影で丸くなっていた。
(お願いだからこっちに来ないで。こっちに来ないで。こっちに——)
岩竜が咆哮し、尾を振り回した。巨岩の一つが砕け散る。
(来た!)
ヴァルゼンは悲鳴を上げて別の巨岩の影に転がり込んだ。
その動きを見たグリゼルダが、ほんの一瞬だけ笑みを浮かべた。
(あの方は、岩竜の注意を完全に把握している。自分に向かう攻撃だけを最小限の動きで回避し、それ以外の時間は我々に任せている——それは、戦場全体を俯瞰できる者にしかできない立ち回りだ)
実際は、怖すぎて巨岩から離れられないだけだった。
戦闘は続いた。エルヴィンとグリゼルダが前衛で削り、フェリクスが魔術で支援する。岩竜は強大だったが、広場の地形に足を取られ、本来の機動力を発揮できていなかった。
十五分に及ぶ激闘の末——。
「グリゼルダ、持ち上げろ!」
「承知!」
グリゼルダの大剣が岩竜の前脚の付け根を捉え、体勢を崩させた。その隙にエルヴィンが跳躍し、聖剣の白光が後頭部の結晶核を貫いた。
甲高い悲鳴が山々にこだまし——岩竜は、広場の中心に崩れ落ちた。
沈黙が降りた。
砂埃が晴れていく中、エルヴィンが聖剣を鞘に収めた。
「やったな」
そしていつものように、振り返った。ヴァルゼンのほうを。
「ヴァルゼン。お前の判断がなければ、あの山道で岩竜と戦うことになっていた。あの狭さでは、グリゼルダも俺も本来の動きはできなかった」
(偶然だって! 全部偶然!)
「逃走ルートの選定が完璧でした」
フェリクスが手帳にペンを走らせる。
「伏兵の回避、崩落地点の予測、最適戦場への誘導——全てが一本の線でつながっている。事前に地形を把握していたとしか思えませんが、魔王殿はこの山道を歩くのは初めてのはず。つまり、これは純粋な戦術直感です」
(直感じゃない。恐怖だ。怖い方向から逃げていたら、ここに着いただけだ)
「ヴァルゼン様」
グリゼルダが大剣を背負い直し、甲冑の膝をついた。
「戦場を支配する——その言葉の意味を、今日初めて理解しました」
蒼灰色の瞳が、決意に満ちている。
「私は剣でしか戦場を語れませんが、あなたは地形で、空間で、敵の動きで——戦場全体を語られる。その視座は、私には到底及ばない高みです」
(高くない! 低い! 地面に這いつくばって逃げてただけだから、視座は文字通り地面の高さだ!)
「ヴァルゼン様……」
ミラベルが治癒魔法をかけながら、やはり涙ぐんでいた。
「みんなのために、一番危険な役目を引き受けてくださったんですね。囮として岩竜の注意を引き、仲間を最適な戦場に導いた……あなたは、本当に——」
(囮になった覚えはない! 逃げてただけです!)
だがもう、その声は誰にも届かなかった。
ヴァルゼンは岩竜の残骸の横で、空を見上げた。
山の上の空は、町よりも近く見えた。雲が手の届きそうな場所を流れている。
(戦場を支配なんてしてない。僕はただ——生き残ろうとしただけだ)
だがパーティの全員が、ヴァルゼンの「逃走」を「戦術」として記憶に刻んだ。
岩竜討伐という大きな実戦での成功体験は、手合わせ以上に強烈な確信をグリゼルダに植えつけていた。
武人のフィルターは、もう——揺るがない場所に達しつつあった。




