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最弱魔王なのに勇者パーティに『史上最凶の魔王』と誤解されています〜怖くて訂正できないまま世界を救うことになりました〜  作者: 蒼月よる


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全力で逃げていただけなのに「格が違いすぎる」と泣かれた

 全力で逃げていただけなのに「格が違いすぎる」と泣かれた


 翌朝の手合わせは、昨日よりひどかった。


 ゼルフィスまでの街道沿いに、見晴らしのいい丘があった。朝露に濡れた草が朝日を反射して金色に輝く、のどかな場所だ。


 のどかだったのは、グリゼルダが大剣を抜くまでの話である。


「では——参ります」


 その一言と同時に、風景が一変した。


 銀の軌跡が朝靄を切り裂く。大剣の斬撃が生む風圧で、丘の草が波のように倒れていく。


 ヴァルゼンは悲鳴も出せずに飛び退いた。


(速い! 昨日より速い!)


 グリゼルダは昨晩、ほとんど眠れなかったらしい。エルヴィンがそう言っていた。「興奮して素振りをしていた」と。


 一晩かけて、彼女は昨日の手合わせを分析し、自分の攻撃をさらに磨き上げてきたのだ。


(なんで僕と戦うためにそこまで努力するんですか! その努力、もっと別のことに使ってください!)


 袈裟斬り。横薙ぎ。突き。斬り上げ。連続して繰り出される斬撃の全てが、昨日より鋭く、速く、重い。


 ヴァルゼンの生存本能が、悲鳴を上げながらフル稼働していた。


 右に跳ぶ。大剣が左から来る——違う、フェイントだ。本命は上から。しゃがむ。風圧が頭上を通過する。立ち上がろうとした瞬間に突きが来て、横に転がる。


(考えてない! 何も考えてない! 身体が勝手に動いてるだけだ!)


 だがその「身体が勝手に動く」動きが、グリゼルダの目にはこう映っていた。


(フェイントを——見切った)


 今の袈裟斬りはフェイントだ。本命の上段を隠すための偽りの軌道。騎士団の同僚ですら引っかかった技だ。


 それを、あの魔王はしゃがむだけで無力化した。


 しゃがむ——たったそれだけの動作で。最小限の動きで、フェイントごと本命を躱している。つまり、フェイントに意味がないほど先を読んでいるのだ。


(もっと——もっと上を見せてくれ、ヴァルゼン様!)


 グリゼルダの攻撃がさらに苛烈になった。


 ヴァルゼンは泣きそうだった。いや、実際に少し泣いていた。


(なんで目が燃えてるの!? 楽しそうにしないで! 僕は全然楽しくない!)


 パーティの他の三人は、丘の斜面に腰を下ろして観戦していた。


「凄いな……」


 エルヴィンが呟いた。腕を組み、碧い目を見開いて、草原を駆け回る二人——正確には、逃げ回る一人と追いかける一人——を見つめている。


「グリゼルダは昨日より明らかに速い。にもかかわらず、ヴァルゼンには一撃も当たっていない」


「当然ですね」


 フェリクスが手帳にペンを走らせながら答えた。モノクルが朝日を反射してきらりと光る。


「昨日の三十二合で、魔王殿はグリゼルダの攻撃パターンを全て把握したのでしょう。今日の強化程度では、差が縮まるどころか広がっている」


「広がっている?」


「ええ。昨日の回避距離は平均三十センチでした。今日は十五センチ。つまり魔王殿は昨日よりさらにギリギリで避けている。余裕が増しているということです」


(余裕なんかない! 距離が縮んでるのは、速くなった分だけ逃げ切れなくなってるからだ!)


 だが、ヴァルゼンの内心を知る者はこの場にいない。


「ヴァルゼン様……」


 ミラベルが両手を胸の前で組み、祈るような姿勢で見つめていた。


「グリゼルダさんがあんなに一生懸命なのに……ヴァルゼン様は、あえて全力を出さないのですね」


(出してる! これが全力だ! 逃げるという行為において、これ以上の全力は存在しない!)


 五十合を超えたあたりで、先にグリゼルダの方が止まった。


 肩で大きく息をつき、大剣を地面に突き立てる。汗が銀髪を額に貼りつけ、甲冑の隙間から湯気が立ち上っている。


 対するヴァルゼンは、地面に大の字で倒れていた。


「は……はひ……」


 呼吸が追いつかない。心臓が暴れている。視界が明滅している。全身の筋肉が「もう二度と動かない」と主張している。


 だがグリゼルダの目には、それすらも違って映っていた。


(息一つ乱れていない——わけではないが、あの運動量にしては回復が早すぎる。身体能力の基礎値が、見た目とまるで違う)


 実際には、ヴァルゼンは完全に限界を超えていた。息が乱れていないのではなく、乱れすぎて逆に静かに見えているだけだ。だが、武人の目はそう解釈しなかった。


 グリゼルダが大剣を背に負い直し、ゆっくりとヴァルゼンのもとに歩み寄った。


 そして——膝をついた。


 昨日と同じように。だが、今日の膝つきには、昨日よりもさらに深い感情がこもっていた。


「ヴァルゼン様」


「は、はい……」


「五十四合。昨日より二十二合多く打ち込みました。攻撃速度も精度も、昨日を上回っていたと自負しています」


「そ、そうなんですか……」


「それでも——一合も届かなかった」


 グリゼルダの声が、震えた。


「格が……違いすぎます」


 その言葉は、絞り出すようだった。


 武人にとって、「格の差」を認めることは魂を削る行為だ。だがグリゼルダは歯を食いしばり、その事実を正面から受け止めていた。


「グリゼルダさん、あの——」


「泣いてなどいない」


 また、聞いてもいないのに否定した。


 だが蒼灰色の瞳は確かに潤んでいた。戦友の死を目の当たりにした時ですら堪えた涙が、今この瞬間、溢れかけている。


(泣かないで! お願いだから泣かないで! 僕が悪いみたいになるから!)


「私は——」


 グリゼルダが拳を膝の上で握りしめた。


「かつて、部隊を壊滅させました。私の力が足りなかったからです。もっと強ければ——もっと強ければ、仲間を守れたと。それ以来、私は強さだけを追い求めてきた」


 パーティの空気が、静まり返った。エルヴィンが真剣な顔で聞き入り、フェリクスのペンが止まり、ミラベルの瞳に涙が浮かんでいる。


 ヴァルゼンは身体を起こし、グリゼルダの言葉に耳を傾けた。


「ヴァルゼン様の前に立って、初めてわかりました」


 グリゼルダが顔を上げた。涙を一筋流しながら、それでも瞳の奥には折れない光があった。


「私の目指す高みが、どこにあるのか。どれほど遠いのか。それが見えた。……感謝します、ヴァルゼン様」


(感謝されることを何もしてないんだけど! 逃げただけなんだけど!)


 だが——グリゼルダの言葉は、紛れもなく本物だった。


 部隊を失った悔恨。強さへの渇望。そして、目の前に現れた(と信じている)圧倒的な高みへの畏敬。


 それらが全て、偽りのない感情として、グリゼルダの声に乗っていた。


 ヴァルゼンは口を開きかけ——そして閉じた。


「僕は逃げていただけです」と言えば、彼女の涙を否定することになる。「そんなことはありません」と言えば、嘘を重ねることになる。


 どちらも、選べなかった。


「……グリゼルダさんは、十分に強いです」


 代わりに出た言葉は、それだった。


 嘘ではない。グリゼルダは強い。ヴァルゼンが知る限り、最も強い武人の一人だ。彼女の大剣を受けて生きていられるのは、まともに当たっていないからにすぎない。


「ヴァルゼン様……」


 グリゼルダの目が、大きく見開かれた。


 そしてその一言が、武人の心にどう響いたか——ヴァルゼンには想像もつかなかった。


 格が違いすぎる相手が、自分に「十分に強い」と言った。それは武人にとって、この上ない賛辞だった。頂から見下ろして「お前は確かにそこにいる」と認められたに等しかった。


「……ありがとう、ございます」


 グリゼルダが深々と頭を下げた。その声は、もう震えていなかった。


「明日も、お願いいたします」


(明日も!? 明後日も!? 毎日やるつもりですか!?)


 ヴァルゼンの胃が抗議の声を上げた。だが、その声はグリゼルダの決意の前に、あまりにも小さかった。


「ヴァルゼン」


 エルヴィンが歩み寄り、ヴァルゼンの肩をばんと叩いた。


「お前、グリゼルダを泣かせるなんて、やるな」


(褒められることじゃない!)


「実に良いデータが取れました」


 フェリクスが手帳を閉じ、満足そうに頷いた。


「回避パターンの詳細分析は後日お見せします。きっと魔王殿もお喜びになるかと」


(喜ばない! 絶対に喜ばない!)


「ヴァルゼン様……」


 ミラベルが治癒魔法をかけながら、じわりと涙を浮かべていた。


「グリゼルダさんの痛みを受け止めて、あんな優しい言葉をかけてくださったんですね。……あなたは、本当に——」


(何も受け止めてない! 何も考えてなかった!)


 丘の上を、初夏の風が吹き抜けていく。


 グリゼルダは大剣を背負い直し、ゼルフィスへの道を見据えていた。その背中には、昨日までとは明らかに違う力が漲っている。


 目標を見つけた武人の、揺るがない背中だった。


 ヴァルゼンはその背中を見て、小さくため息をついた。


(僕がその「目標」だってことが、根本的に間違ってるんだけどな……)


 だが——ほんの少しだけ。


 グリゼルダが涙を拭いた後に見せた、晴れやかな笑顔が。


 悪くないと思ってしまった自分がいることも、また事実だった。


(……いや、悪いだろ。全部誤解なんだから)


 ヴァルゼンは胃を押さえ、ゼルフィスへの道を歩き始めた。


 隣には、燃える目をした女騎士がいる。その視線は、もう迷いなくヴァルゼンに向けられていた。


 武人の畏怖——それが完全に起動した瞬間を、ヴァルゼンだけが理解していなかった。


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