女騎士に「手合わせを」と言われた。遺書を書きたい
女騎士に「手合わせを」と言われた。遺書を書きたい
次の町までの街道は、穏やかだった。
初夏の日差しが木漏れ日となって石畳を照らし、街道脇の草むらでは小鳥が呑気にさえずっている。魔物の気配もない。風が心地よい。
ヴァルゼンは久しぶりに、人間らしい気持ちで歩いていた。
(平和だ……平和って、こんなに素晴らしいものだったのか……)
ダンジョン攻略を終えてからしばらく経ち、パーティは次の拠点となる町——ゼルフィスを目指して移動していた。道中の依頼をこなしながらの旅路だが、今日に限っては何事もなく、ヴァルゼンの胃も久々に静かだった。
「いい天気だな! こういう日は身体を動かしたくなる!」
先頭を歩くエルヴィンが、聖剣の柄をぽんぽんと叩きながら振り返った。ヴァルゼンは曖昧に頷いた。
(動かさなくていいです。このまま町まで平穏に歩かせてください)
「エルヴィン、ゼルフィスまであと半日の行程です。日没前には到着できるでしょう」
フェリクスが地図から目を上げずに言った。手帳は閉じているが、モノクルの奥の目は油断なくヴァルゼンの挙動を観察している。ヴァルゼンはそれに気づくたびに背筋がひやりとするのだが、今日はなるべく意識しないことにした。
「ヴァルゼン様、お水はいかがですか?」
ミラベルが水筒を差し出してくれる。つば広の帽子の下で、翡翠の瞳が柔らかく微笑んでいた。
「あ、ありがとうございます」
水を受け取り、一口飲む。冷たくて美味い。こういう何気ない優しさが、ヴァルゼンの心を温める。
平和だ。本当に平和だ。このまま何も起こらなければ——。
「ヴァルゼン様」
背後から声がかかった。
低く、硬く、そして真剣な声。
グリゼルダの声だった。
ヴァルゼンの胃が、反射的にきゅっと縮んだ。
「は、はい?」
振り返ると、銀髪の女騎士が重装甲冑のまま直立していた。左頬の刀傷が午後の光に浮き上がり、蒼灰色の瞳が真っ直ぐにヴァルゼンを射抜いている。
「一つ、お願いがございます」
「お、お願い?」
「手合わせを——していただけないでしょうか」
街道の空気が、止まった。
小鳥のさえずりが遠くなる。風が頬を撫でる感触すら消える。ヴァルゼンの脳が、その五文字を処理するのに三秒を要した。
(て、手合わせ? 手合わせって、あの手合わせ? 剣を持って、向かい合って、斬り合う、あれ?)
「あ、あの、手合わせ、というのは——」
「実戦形式での組み手です。ダンジョンでのヴァルゼン様の動きを拝見して以来、どうしても確かめたいことがあるのです」
グリゼルダの目が燃えていた。
武人の目だ。獲物を見つけた猛禽の目——ではない。もっと純粋な、真理を求める求道者の目だった。だが、ヴァルゼンにとってはどちらも同じくらい怖い。
(確かめたいこと!? 確かめないでください! 確かめたら僕が最弱だってバレる!)
「い、いやあの、僕なんかと手合わせしても得るものは——」
「ご謙遜を」
グリゼルダが一歩、前に出た。甲冑の金属が鳴る。重い。物理的にも精神的にも重い。
「ダンジョンでの回避術。あれを間近で体感しなければ、私は一歩も前に進めません」
(進まなくていい! むしろ後退してくれ!)
「おお、いいな!」
エルヴィンが目を輝かせた。
「グリゼルダとヴァルゼンの手合わせか! これは見ものだ!」
(見ものじゃない! 処刑だ!)
「興味深いですね」
フェリクスがいつの間にか手帳を開き、ペンを構えていた。
「武人の全力と魔王殿の回避術。データとして非常に有用です」
(有用じゃない! 僕の死亡記録が有用なわけないだろ!)
「ヴァルゼン様、大丈夫ですよ。グリゼルダさんは手加減を——」
ミラベルが慌ててフォローしようとしたが、グリゼルダが首を振った。
「手加減はしません。それではヴァルゼン様に対して失礼にあたります」
(失礼でいい! 礼儀より命が大事!)
ヴァルゼンの顔から血の気が引いていた。
グリゼルダの大剣は、一振りで岩鎧蜥蜴の鱗を断ち切った業物だ。あれが全力で振るわれたら、ヴァルゼンの身体など紙のように——。
「ヴァルゼン様」
グリゼルダの声が、わずかに柔らかくなった。
「……もしかして、手加減をしてくださるのですね」
(してません。怯えてるだけです)
「わかりました。それでは、お手柔らかにお願いいたします」
グリゼルダが深々と頭を下げた。その目尻が微かに緩んでいるのは、ヴァルゼンの怯えた表情を「こちらを気遣って本気を出さないつもりだ」と解釈したからだった。
だがヴァルゼンにそれを訂正する余裕はなかった。
(遺書を書く時間はあるだろうか)
休憩がてら、街道脇の開けた草原で手合わせの場が設けられることになった。
エルヴィンが嬉々として観戦位置を確保し、フェリクスが記録の準備を整え、ミラベルが治癒魔法の準備を——治癒魔法の準備を。
(治癒魔法の準備ってことは、怪我する前提なんですか? いや、そりゃそうか。するよな。死ぬかもしれないんだから怪我くらい——死ぬ!?)
グリゼルダが二十歩ほど離れた位置に立ち、大剣を構えた。
銀髪が風になびく。甲冑が陽光を反射して白く輝く。蒼灰色の瞳が、まっすぐにヴァルゼンを捉えている。
その姿は、ヴァルゼンの目には死神にしか見えなかった。
「では——参ります」
グリゼルダの靴が、草を踏みしめた。
ヴァルゼンの全身の毛穴が、一斉に総立ちになった。
(来る来る来る来る来る!)
銀の閃光が走った。
大剣が横薙ぎに振るわれる——その風圧だけで、草が薙ぎ倒される。
ヴァルゼンは、考えるより先に身体が動いていた。
後ろに跳ぶ。足がもつれる。だが倒れる前に次の斬撃が来て、今度は横に転がった。草の匂いが鼻をつく。土の感触が頬を打つ。構わず転がり続ける。
生きたい。ただ、生きたい。
その一念だけが、最弱の魔王の身体を動かしていた。
大剣の切っ先がヴァルゼンの鼻先を掠めた。風圧で前髪が千切れそうになる。
「っ——!」
悲鳴にもならない声を上げて身を捩る。着地に失敗して膝をつき、そこから這うように前に逃げた。
グリゼルダの追撃が、ヴァルゼンのいた場所の草を深々と切り裂く。
(死ぬ死ぬ死ぬ! グリゼルダさん本気すぎる! 手加減しないって言ってたけどマジで手加減してない!)
逃げる。ひたすら逃げる。
だがグリゼルダの側から見れば——それは、まったく別の光景だった。
(やはり……当たらない)
彼女は今、全力で斬りかかっている。遊撃隊長時代、Aランクの魔物すら屠った斬撃を、一切の手加減なく振るっている。
その全てが、かすりもしない。
ヴァルゼンの動きは不格好に見える。転び、這い、よろめいている。だがその不格好さの中に、グリゼルダの武人としての直感が「何か」を捉えていた。
全ての回避が、紙一重。
紙一重だが、確実に避けている。まるで斬撃の軌道をあらかじめ知っているかのように、最小限の動きで致命圏を外している。
(あれが——偶然であってたまるか)
グリゼルダは歯を食いしばり、さらに踏み込んだ。大剣を袈裟に振り下ろし、返す刃で横に薙ぐ。二連撃。遊撃隊長時代の必殺の連携だ。
ヴァルゼンは最初の一撃を転倒で避け、二撃目を地面に伏せてやり過ごした。大剣の風圧が背中の上を通過し、ローブの裾がひらりと舞った。
「……っ」
グリゼルダの息が、わずかに乱れた。
三十合。全力の三十合が、一撃も当たらない。
その事実が、歴戦の武人の胸に、途方もない感情を叩き込んでいた。
「——素晴らしい」
大剣を下ろし、グリゼルダは深く息を吐いた。
ヴァルゼンは草むらに突っ伏して、ぜえぜえと肩で息をしていた。
(終わった? 終わったのか? 生きてる? 生きてるよな?)
「ヴァルゼン様」
グリゼルダの声が、震えていた。
ヴァルゼンが顔を上げると、銀髪の女騎士が膝をつき、大剣を地面に突き立てて、頭を垂れていた。
「格が……違いすぎます」
その声は、かすかに湿っていた。
「全力で挑み、一合たりとも届かなかった。これほどの——これほどの差を見せつけられたのは、生まれて初めてです」
(差じゃない! 必死で逃げてただけだ! 差があるとすれば、僕のほうが圧倒的に弱い方向に差がある!)
「グリゼルダさん、そんな、頭を上げてください——」
「泣いてなどいない」
誰もそんなことは言っていなかった。
だがグリゼルダは顔を上げた時、確かに目が赤かった。
(泣いてる! 泣かせてしまった! なんで僕が逃げ回っただけで女騎士が泣くんだ!)
「おお……」
エルヴィンが感動した面持ちで腕を組んでいた。
「あのグリゼルダを、ここまで追い込むとは。やはりお前は——」
「追い込んでない! 追い込まれてたのは僕のほうです!」
「謙虚だな、ヴァルゼン」
エルヴィンが満面の笑みで頷いた。
(聞いてない! この人は本当に人の話を聞かない!)
「記録完了です」
フェリクスが手帳を閉じ、薄い笑みを浮かべた。
「三十二合。全力の三十二合を、武器も防具もなく完全回避。これは——まあ、想定の範囲内ですね」
(想定の範囲!? どんな想定をしてるんだ!)
「ヴァルゼン様、お怪我は——」
ミラベルが駆け寄ってきた。涙目だった。彼女はいつも涙目だ。
「あ、ありません。かすり傷ひとつ——」
「やはり。無傷ですのね」
ミラベルの翡翠の瞳が、畏敬の色に染まった。
(いや、当たらなかっただけで、当たってたら即死だったんですが)
草むらに座り込んだまま、ヴァルゼンは空を見上げた。
青い空に、白い雲が流れている。平和な空だ。
三十分前まで、ヴァルゼンもあの空のように平和だった。
(なんでこうなるんだろう)
グリゼルダはまだ膝をついたまま、大剣の柄を握りしめていた。その背中は微かに震えている。
歴戦の武人が、全力を尽くして一撃も当てられなかった。その事実は、彼女の武人としての矜持に深い楔を打ち込んだ。
だが——それは絶望ではなかった。
むしろ、目の前に果てしない頂が現れたことへの、歓喜にも似た震えだった。
「ヴァルゼン様」
グリゼルダが立ち上がり、大剣を背に負い直した。蒼灰色の瞳に、新たな光が宿っていた。
「明日も——手合わせを、お願いできますでしょうか」
(明日も!?)
ヴァルゼンの胃が、盛大に鳴った。




