「それ以上言わないでください」は涙の懇願であって格好いい台詞じゃない
「それ以上言わないでください」は涙の懇願であって格好いい台詞じゃない
攻略祝いの夕食は、賑やかだった。
宿の食堂を半ば貸し切りにして、エルヴィンが奮発した料理が並んでいる。香草で焼いた丸鶏、山盛りのパン、季節の野菜を煮込んだシチュー、それに——。
「酒だ! 今夜は飲むぞ!」
エルヴィンが樽から直接エールを注ぎ分けた。グリゼルダの杯は既に二杯目で、フェリクスは甘い蜂蜜酒をちびちびと舐めている。ミラベルは果実水を両手で包んでいた。
ヴァルゼンの前にもエールが置かれた。一口飲んだ。苦い。でも喉を通ると、じわりと温かさが広がった。
胃痛は、まだ微かに残っている。だが料理の湯気と仲間たちの声に包まれていると、不思議と遠くなった。
「しかし今回のダンジョンは骨があったな!」
エルヴィンが丸鶏の腿を豪快にかじりながら言った。
「第三層の岩鎧蜥蜴、第四層の死霊甲冑——Bランクパーティが壊滅するのも頷ける。だが俺たちには、ヴァルゼンがいた」
(だから僕は何もしてないんだって)
「魔王殿の功績を時系列で整理すると」
フェリクスが食事をしながら手帳を開いた。食べながら書くな、とグリゼルダが睨んだが、フェリクスは気にしていない。
「第一に、ダンジョン第一層から第三層までの全トラップ回避を主導。第二に、岩鎧蜥蜴戦では無装備で全攻撃を回避し、前衛の注意を分散させた。第三に、ボス部屋の罠構造を事前に看破して撤退を進言。第四に、迂回奇襲後の死霊甲冑戦でコアの機能的役割を分析し、最適な攻略順序を指示。——控えめに言って、パーティのMVPですね」
(控えめに言って全部誤解だ!)
「ヴァルゼン様は食が細いですね」
ミラベルがヴァルゼンの皿を心配そうに見た。確かに、パンを一つとシチューを半分しか食べていない。
「食べたいのに、なかなか喉を通らなくて……」
「お身体の問題ではなく、心労でしょうね」
ミラベルが翡翠色の瞳を伏せた。
「あれだけの重責を一人で背負えば、食が細くなるのも無理はありません」
(重責を背負っていない! ただ胃が痛いだけなんです!)
宴が進み、エルヴィンの声がさらに大きくなった頃。
グリゼルダが三杯目のエールを空にし、珍しく口元を緩めた。
「エルヴィン。覚えているか、大戦末期の——あの砦の戦いを」
「ああ、覚えてるとも。あの時は本当にやばかった。フェリクスの結界がなければ——」
「あれは僕の功績というより、ミラベルの回復が間に合ったからですよ」
「わ、私はただ必死で——」
四人が、笑い合った。大戦の記憶を、今は笑い話にできるほどの絆がそこにあった。
ヴァルゼンはその輪の端で、杯を両手で包んでいた。
温かかった。エールの温度だけではない。この場所の空気そのものが、温かかった。
(この人たちは——本物の仲間だ)
魔王軍にいた頃、こんな風に笑い合ったことは一度もなかった。飾りの玉座に座らされ、将軍たちが勝手に戦争を進め、ゴブリンたちは陰口を叩き、誰もヴァルゼンの顔を見なかった。
食事はいつも一人だった。
広い玉座の間で、冷めた食事を一人で食べた。
それが、当たり前だと思っていた。
「ヴァルゼン」
エルヴィンが、不意に真剣な顔になった。
酒の赤みが頬に差しているが、瞳は澄んでいる。
「俺は——お前と旅ができて、本当によかったと思っている」
唐突だった。あまりにも唐突で、ヴァルゼンは反応が遅れた。
「最初に会った時から、お前は俺の想像を超え続けてきた。泰然として、深謀遠慮に長け、仲間を誰より大切にする。お前は俺が知る限り——」
「や、やめてください」
ヴァルゼンの声が震えた。
「それ以上は——それ以上言わないでください」
エルヴィンの碧い目が、まっすぐにヴァルゼンを見ていた。
ヴァルゼンの目に、涙が滲んでいた。
泰然としてなどいない。いつだって怯えていた。深謀遠慮なんてない。怖くて逃げ回っていただけだ。仲間を大切にしているのは本当だけれど——それは「すごい魔王」だからじゃない。
ただ、ここが温かくて、ここにいたくて、この人たちを失いたくなくて——。
「それ以上言われたら——僕は——」
声が詰まった。
(本当のことを言ってしまいそうだ)
僕は最弱の魔王です。あなたたちが思っているような大層な存在じゃない。ダンジョンでは怖くて震えていただけで、罠を見破ったんじゃなくて怖くて帰りたかっただけで、指揮なんてしていなくて、ただ見えたものを口にしただけで——。
でも。
その言葉を口にしたら、この温かさは終わる。
それが、何より怖かった。
「ヴァルゼン」
エルヴィンの大きな手が、ヴァルゼンの肩に置かれた。
「泣くな。……いや、泣いていいんだ。お前がどれだけ孤独だったか、俺には想像もつかない。だがもう一人じゃない」
(違う。そういうことじゃない。でも——)
「俺たちがいる」
エルヴィンの声は、穏やかだった。戦場で号令をかける時の声とも、誤解で興奮している時の声とも違う。ただ——温かい声。
テーブルの向こうで、グリゼルダがエールの杯を目元に当てていた。泣いてなどいない、と彼女は言うだろう。目に酒が入っただけだ、と。
フェリクスは手帳を閉じていた。珍しく、何も書いていなかった。モノクルの奥の目が、微かに潤んでいるように見えた。
ミラベルは——もう完全に泣いていた。両手で顔を覆い、肩を震わせている。
「ヴァルゼン様……っ、私も……私も、あなたと旅ができて、幸せです……っ」
「みんな、泣くな泣くな! めでたい席だろう!」
エルヴィンが笑った。自分も目が赤いくせに。
ヴァルゼンは袖で目元を拭った。
涙は止まらなかった。でも、それは悲しい涙じゃなかった。
(僕は——この人たちと一緒にいたい)
その感情に、名前をつけるのが怖かった。
名前をつけてしまったら、失った時の痛みも本物になる。
でも、もう手遅れだった。
この四人の笑顔を見て、「一緒にいたい」と思ってしまった。彼らが温かい言葉をかけてくれるたびに、胸の奥で何かが育ってしまった。
偽りの信頼の上に芽生えた、本物の感情。
それがどれほど危うい矛盾であるかを、ヴァルゼンは知っていた。
いつかバレる。いつか、自分が最弱の魔王だと知られる日が来る。その時、この温かさは跡形もなく消えるだろう。
でも——今は。
「……ありがとう、ございます」
震える声で、ヴァルゼンは言った。
たった一言。それが精一杯だった。
「おう!」
エルヴィンが杯を掲げた。
「これからもよろしくな、ヴァルゼン!」
「これからも、お傍に」
グリゼルダが杯を合わせた。
「引き続き、観察——いえ、共に歩ませてください」
フェリクスが杯を持ち上げた。
「ずっと、ずっとご一緒させてください……!」
ミラベルが涙声で果実水の杯を差し出した。
四つの杯が、ヴァルゼンの杯を待っている。
ヴァルゼンは——泣き笑いの顔で、自分の杯をそっと合わせた。
乾いた音が、小さく響いた。
それは、最弱の魔王が初めて手にした——嘘と誤解と、それでも本物の温もりで編まれた、居場所の音だった。
翌朝。
宿の部屋で目を覚ましたヴァルゼンの枕は、涙で少し湿っていた。
昨夜のことを思い出し、顔が熱くなる。泣いてしまった。あんなに泣いてしまった。
(あれ、どう思われただろう。涙もろい魔王とか思われてないだろうか)
階下に降りると、エルヴィンが既に朝食を食べていた。ヴァルゼンを見つけると、ぱっと顔を輝かせた。
「おはよう、ヴァルゼン! 昨日はいい夜だったな!」
「お、おはようございます……」
「お前の涙を見て、確信したよ」
エルヴィンの碧い目が、真っ直ぐにヴァルゼンを射抜いた。
「お前は——本当に俺たちのことを仲間だと思ってくれているんだな。最凶の魔王が、俺たちごときのために涙を流してくれた。俺は一生、あの涙を忘れない」
(ごときじゃない! あなたたちの方がよっぽど凄いんだ! というか涙の理由が全然違う!)
「照れ隠しの魔王、可愛いな」
グリゼルダが通りすがりに呟いた。甲冑の下で、微かに口角が上がっている。
(可愛くない! 四十六箇所くらい違う!)
「昨夜の涙の成分分析をしたいところですが、さすがに怒られますね」
フェリクスが手帳を開きながら席についた。
(するな! 絶対にするな!)
「ヴァルゼン様、おはようございます」
ミラベルが朝食を運んできた。目がまだ少し赤い。昨夜、かなり泣いたらしい。
「今日も——一緒にいられて、嬉しいです」
その笑顔は、朝日のように穏やかだった。
「……はい。僕も」
ヴァルゼンは、自分でも驚くほど素直に、そう答えていた。
最弱の魔王の旅は、続く。
誤解だらけで、嘘だらけで、胃が痛くて、怖くて。
でも——温かい。
この温かさを手放さないために、ヴァルゼンは今日も「最凶の魔王」のふりを続ける。
続けるしか、ないのだから。




