勇者エルヴィンに連れられて歩くこと半日。
勇者エルヴィンに連れられて歩くこと半日。
ヴァルゼンは確信した。自分は死ぬ、と。
別に道中で襲われたわけではない。
エルヴィンが危害を加えてきたわけでもない。
問題はもっと根本的なところにあった。
エルヴィンの歩幅が、長い。
身長差二十センチの暴力がここに来て牙を剥いた。エルヴィンの一歩がヴァルゼンの一歩半に相当し、しかもこの男は歩くのが異常に速い。ヴァルゼンは半ば小走りでついていくしかなく、体力のない魔王の息はとっくに上がっていた。
だが「待ってください」と言える空気ではない。
なぜなら道中ずっと、エルヴィンが嬉しそうに喋っているからだ。
「──それでな、グリゼルダは最初『魔王を仲間に? 正気か』と言ったんだが、俺が『正気だ』と返したら黙った。あいつは俺の判断を信じてくれる」
信じないでほしい。頼むから疑ってほしい。
「フェリクスは『興味深い』とだけ言った。あの男がそう言うときは、大抵いい方向に転がる」
悪い方向にしか転がる気がしない。
「ミラベルは……ああ、あいつは泣いた。『魔王様にも事情があるんですね』と」
事情はある。ゴブリンに追い出されたという、涙なしには語れない事情が。
やがて、前方に焚き火の光が見えた。
街道から少し外れた林の中に、小さな野営地がある。三つの人影が火を囲んでいた。
ヴァルゼンの足が止まった。
一人は長身の女性。銀色の髪を短く刈り込み、重厚な甲冑を身にまとっている。腰には幅広の大剣。座っているだけで周囲の空気が引き締まるような威圧感。
女騎士グリゼルダ。
大戦で「紅蓮の壁」と呼ばれた不落の前衛。
もう一人は細身の男性。銀縁のモノクルの奥で、理知的な紫の瞳が炎を映している。手元には分厚い革装丁の書物。火明かりの中でも読書を続ける姿は、学者そのもの。
賢者フェリクス。
「歩く図書館」の異名を持つ人類最高峰の知性。
最後の一人は小柄な女性。柔らかな栗色の髪と、大きな翡翠の瞳。白い法衣に身を包んだその姿は、一目で聖職者とわかる。
僧侶ミラベル。
大戦で無数の命を癒した「慈愛の手」。
全員が、勇者パーティの正規メンバーだった。
全員が、大戦を生き延びた化け物だった。
死ぬ。
今度こそ本当に死ぬ。
「おーい! 連れてきたぞ!」
エルヴィンの声が林に響き渡った。三人の視線が一斉にこちらを向く。
ヴァルゼンの膝が笑った。文字通り、ガクガクと震えた。
グリゼルダが立ち上がった。
甲冑が軋む音が、夜の林に低く響く。その鋭い蒼灰色の瞳が、ヴァルゼンを値踏みするように上から下まで見た。
「これが──魔王か」
声は冷たく、硬い。
ヴァルゼンは反射的に一歩後退った。喉がカラカラだ。心臓が口から出そうだ。
「あ、あの、は、初めまして……ヴァ、ヴァルゼ、ヴァルゼ──」
噛んだ。
盛大に噛んだ。
人生で最も重要な自己紹介で、自分の名前を噛んだ。
終わった。完全に終わった。こんな情けない魔王がいるかと笑われて追い出される。ゴブリンの二の舞だ。いや、ゴブリンよりマシかもしれない。少なくともゴブリンは笑いながら追い出してくれた。この人たちは剣で──
「……ほう」
グリゼルダの目が、細くなった。
「これほどの威圧を放ちながら、あえて言葉を崩して見せるか。我々を警戒させまいという配慮──さすがだな」
は?
「いや、あの、今のは普通に噛んだだけで──」
「フェリクス、お前はどう見る」
グリゼルダに促され、銀縁モノクルの賢者が本から顔を上げた。
その紫の瞳が、ヴァルゼンを一瞥する。
「……興味深い」
フェリクスはモノクルの位置を直しながら、静かに言った。
「魔王の血統でありながら、これほど魔力の気配を抑え込んでいる。通常、魔王級の存在は魔力の奔流を纏うものだが──完全に遮断している。意図的にやっているのだとしたら、制御力は尋常ではない」
抑え込んでない。元からない。
魔力が少なすぎて感知できないだけだ。
「加えて、自己紹介での意図的な弛緩。初対面の相手に対し、威圧を最小限に抑えるための高等テクニックと見た。……なるほど、エルヴィンが見込んだだけのことはある」
テクニックじゃない。緊張で噛んだだけだ。
高等も何もない。低等だ。最底辺の低等だ。
「ヴァルゼン様……!」
涙声が聞こえた。
ミラベルが両手を胸の前で組み、翡翠色の大きな瞳にたっぷりと涙を溜めていた。
「あなたは……魔王であるにもかかわらず、私たちに歩み寄ろうとしてくださっているのですね。言葉を、わざと親しみやすくして……」
泣かないでほしい。頼むから泣かないでほしい。
泣かれると罪悪感で胃に穴が開く。
「ミラベルの言う通りだ」
エルヴィンが、満面の笑みでヴァルゼンの肩を叩いた。
痛い。勇者の力加減がおかしい。肩が外れるかと思った。
「見たか、皆。この方は俺たちに対して一切の敵意を見せていない。魔王の矜持を保ちながら、それでいて対等の立場で接しようとしてくれている。これが──これこそが、俺がヴァルゼンを仲間に迎えたいと思った理由だ」
対等じゃない。
圧倒的に下だ。ヒエラルキーの最底辺だ。
ヴァルゼンは四人の顔を順番に見た。
グリゼルダ──畏敬の眼差し。
フェリクス──知的好奇心に満ちた眼差し。
ミラベル──涙と感動の眼差し。
エルヴィン──純粋な信頼の眼差し。
全員の目が、「史上最凶の魔王」を見る目だった。
誰一人として、目の前の小柄で怯えた青年の「本当の姿」に気づいていない。
これは地獄だ、とヴァルゼンは悟った。
ゴブリンに追い出された地獄より、もっとタチの悪い地獄だ。
なぜなら、この地獄は──居心地が、少しだけいいのだから。
「では改めて──よろしくお願いします、ヴァルゼン殿」
グリゼルダが右手を差し出した。
その手は戦士の手だった。剣ダコだらけの、だが真摯な手だった。
「……よ、よろしくお願い、します」
今度は噛まなかった。
声は震えていたが、噛まなかった。
それだけが今日の唯一の成果だと、ヴァルゼンは思った。
「ふっ……緊張が解けたな。やはり、器の大きい方だ」
解けてない。
全然解けてない。
ガチガチだ。
だが、差し出された手は──温かかった。




