「帰りましょう」と言ったらボス部屋の罠を見破ったことになった
「帰りましょう」と言ったらボス部屋の罠を見破ったことになった
ダンジョン第四層の最深部。
巨大な石扉の前で、パーティは足を止めた。
扉の表面には古代文字が刻まれ、隙間から赤紫の光が漏れ出している。左右の壁には朽ちた松明台が並び、その根元には冒険者のものと思しき装備の残骸が散乱していた。
ヴァルゼンの全身が、砂漠で氷水を浴びせられたように総毛立った。
(これはダメだ。これは絶対にダメだ)
理由はわからない。論理的な根拠などない。ただ身体の奥底から、本能が絶叫している。
この扉の向こうに行ってはいけない。
「ボス部屋だな」
エルヴィンが聖剣の柄に手をかけて、不敵に笑った。
「ここまで来たからには、やるしかない」
「待ちなさい、エルヴィン」
グリゼルダが制止する。しかしその蒼灰色の瞳にも、戦意が宿っていた。
「陣形を整えてからだ。フェリクス、扉の向こうの解析はできるか?」
「ある程度は」
フェリクスがモノクルの焦点を合わせ、扉に手をかざした。紺碧の光が指先から伸び、古代文字の上を走査していく。
「大規模な魔力反応を検知しています。ボスクラスの魔物が一体。加えて——ふむ、空間そのものに魔力が編み込まれている。部屋全体が何らかの術式で構成されているようですが、詳細は扉の向こうに入ってみないと」
「よし。では——」
「あ、あの!」
ヴァルゼンは手を挙げた。
五本の指が全部震えていた。
「か、帰りましょう」
沈黙が落ちた。
エルヴィンが振り返る。グリゼルダが振り返る。フェリクスがモノクルの奥で目を細める。ミラベルが小首を傾げる。
四対の視線に射抜かれて、ヴァルゼンの心臓が跳ね上がった。
(言ってしまった。言ってしまったぞ。「帰りましょう」って、冒険者がボス部屋の前で言う台詞じゃないだろ!)
「帰る、と」
フェリクスが手帳を開いた。
「魔王殿が撤退を進言した。……今回のダンジョン探索で、魔王殿が明確な行動指示を出したのは初めてです」
(行動指示じゃない! 命乞いに近い懇願だ!)
「ヴァルゼン」
エルヴィンが真剣な目になった。ふざけている時の熱血とは違う、戦士としての凄みが滲む表情だった。
「お前が『帰ろう』と言うなら、そこには必ず理由がある。教えてくれ」
「いや、あの、理由というか、なんとなく嫌な感じがするだけで……」
「『なんとなく嫌な感じ』か」
フェリクスがモノクルを外し、丁寧に布で拭いてから付け直した。彼がその動作をする時は、重大な思考に入った合図だとヴァルゼンは知っている。
「少し調べさせてください」
フェリクスは扉から数歩下がり、床に膝をついた。手帳を広げ、何やら図式を描き始める。時折モノクルに手をかざし、天井や壁の古代文字を読み解いていく。
十分ほどが過ぎた。
その間、エルヴィンもグリゼルダも一言も急かさなかった。ヴァルゼンが「帰りましょう」と言ったから。それだけの理由で、勇者パーティは黙って待った。
(いや、待たなくていいんだけど! 僕の言葉にそんな重みはないんだけど!)
やがてフェリクスが立ち上がった。
その顔色が、明らかに変わっていた。
「……参りました」
フェリクスは苦笑した。だがその目は笑っていなかった。
「魔王殿。あなたはやはり、全てお見通しだったのですね」
「え?」
「この部屋の術式構造を、壁面の古代文字と床の魔力紋から逆算しました。結論から言えば——この先のボス部屋は、罠です」
エルヴィンが表情を硬くした。
「罠だと?」
「ええ。部屋に踏み込んだ瞬間、空間封鎖の術式が起動します。入ったが最後、内部の魔物を倒すまで脱出不能。そこまでは通常のボス部屋と同じですが——問題は、部屋自体が魔力吸収構造になっていることです」
フェリクスの声が低くなった。
「戦闘が長引けば長引くほど、こちらの魔力が部屋に吸い取られる。つまりボスを倒す前にこちらの魔力が枯渇するよう設計されている。正面からの攻略は——不可能とは言いませんが、極めて危険です」
沈黙が、鉛のように重かった。
「別ルートを探すべきですね。この階層の構造から推測すると、迂回路が存在する可能性は高い。ボス部屋の外壁に直接通じるルートがあれば、封鎖術式を起動させずに済みます」
「ふっ……」
エルヴィンが、深い息を吐いた。
そして振り返り、ヴァルゼンの肩に手を置いた。その手は大きく、温かく、岩のように揺るぎなかった。
「ヴァルゼン。お前のおかげだ」
「い、いえ、僕は本当に何も——」
「フェリクスが十分かけて解析した罠を、お前は一瞬で見抜いた。いや——見抜くまでもなかったんだろう。お前にとっては、呼吸するように当然のことなんだ」
(違う! 全然違う! ただ怖かっただけだ! あの扉の向こうに行きたくなかっただけなんだ!)
「魔王殿」
フェリクスが手帳を閉じ、微かに頭を下げた。
「僕の解析力では、あなたの直感に十分遅れたことになります。精進します」
(精進しないで! 追いつかないで! というか最初から僕の前にいるでしょあなた!)
「ヴァルゼン様」
グリゼルダが甲冑の胸に拳を当てた。騎士の敬礼。
「危険を察知し、即座に撤退を進言する。その判断力と決断力——真の指揮官の資質です」
(指揮官じゃない! 臆病者だ! 臆病者が「帰りたい」と言っただけなんだ!)
「ヴァルゼン様……」
ミラベルが両手を胸の前で組んで、潤んだ瞳でヴァルゼンを見上げた。
「皆の命を守るために、あなたは『帰ろう』とおっしゃったのですね。……ボス部屋を目の前にして撤退を口にするのは、どれほどの勇気が要ることか」
(勇気じゃない! 恐怖だ! 純度百パーセントの恐怖だ!)
「よし! では迂回路を探すぞ! ヴァルゼンの英断を無駄にするな!」
エルヴィンの号令で、パーティは来た道を引き返し始めた。
ヴァルゼンはその最後尾で、がくがくと震える膝を引きずりながら歩いた。
帰りたいと言った。ただそれだけのことだった。
なのに全員が、まるで名将の撤退命令のように受け止めている。
(もう嫌だ。帰りたい。今度こそ本当に帰りたい。ダンジョンじゃなくて、この状況から帰りたい)
だが——ほんの少しだけ。
ヴァルゼンの胸の奥で、小さな温もりが灯っていた。
自分の言葉を、誰も笑わなかった。
魔王軍にいた頃は、何を言っても鼻で笑われた。「弱い魔王の戯言」と一蹴された。進言も相談も意見も、全て無視された。
だがこのパーティでは——たとえ壮大な誤解の上に成り立っているとしても——自分の言葉に、全員が耳を傾けてくれる。
それが嬉しくて、怖くて、申し訳なくて、でもやっぱり嬉しくて。
ヴァルゼンは誰にも見えないように、こっそり目元を拭った。




