必死に逃げ回っていただけなのに「武の極致」と評された
必死に逃げ回っていただけなのに「武の極致」と評された
ダンジョンの第三層に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
ひんやりとした石壁に挟まれた回廊には、青白い苔の燐光だけが揺れている。その光に照らされた天井の高さは、二階建ての家がすっぽり収まるほどだった。
ヴァルゼンの足が止まった。
嫌な予感がする。もっと正確に言えば、身体中の毛穴という毛穴が「逃げろ」と叫んでいる。
「ヴァルゼン、どうした?」
エルヴィンが振り返る。聖剣を背負った勇者の金髪が、苔の光を反射して淡く輝いていた。
「い、いえ、その……なんとなく、この先が、嫌な感じがするといいますか……」
「なるほど! やはりお前には全てが見えているんだな!」
見えていない。何も見えていない。ただ怖いだけだ。
フェリクスがモノクルを指で押し上げ、手帳に何かを書き込んだ。
「魔王殿が足を止めた。つまり、この先に何かいる。間違いありませんね」
「だから僕はただ怖いだけで——」
言い終わる前に、回廊の奥から地鳴りのような咆哮が響いた。
石壁が揺れる。天井から砂埃が降り注ぐ。そして暗がりの向こうから、巨大な影がのっそりと姿を現した。
岩鎧蜥蜴。
体長は五メートルを優に超え、全身が灰色の岩のような鱗に覆われている。赤い瞳が燐光の中でぎらりと光り、太い尾が石壁を削りながら揺れていた。
ヴァルゼンの思考が一瞬で白くなった。
(死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!)
「グリゼルダ、前衛を頼む! フェリクス、支援魔術! ミラベル、回復待機!」
エルヴィンの指示が飛ぶ。聖剣が鞘走り、白銀の光が回廊を照らした。
「承知!」
グリゼルダが大剣を構えて突進する。その背中は、頼もしいなどという言葉では足りない。
しかしヴァルゼンにはそれを眺めている余裕がなかった。
岩鎧蜥蜴の尾が横薙ぎに振るわれた。石壁が砕け散る衝撃波が、後方にいたはずのヴァルゼンの足元まで届く。
「ひいっ!」
反射的に横に跳んだ。着地に失敗して転がり、さらに転がった先で岩鎧蜥蜴の前足が振り下ろされ、必死で這って逃げた。
(なんで後方にいるのに攻撃が飛んでくるんだ! このダンジョン狭すぎないか!)
回廊の幅は決して狭くはない。だが五メートル超の巨体が暴れ回れば、安全な場所などどこにもなかった。
ヴァルゼンは生存本能のままに逃げた。右に跳び、左に転がり、柱の影に飛び込み、崩れた岩を盾にし、また転がった。
その間にエルヴィンとグリゼルダが前衛で斬りかかり、フェリクスが氷の槍を撃ち込んでいる。だがヴァルゼンの視界にはそんなものは映っていない。ただ「死なないこと」だけを考えて、手足を動かし続けた。
岩鎧蜥蜴の尾が再び振るわれる。
ヴァルゼンは悲鳴を上げながら身を屈めた。風圧で髪が逆立つほどの至近距離を、巨大な尾が通過していく。
「あ、当た——」
当たらなかった。
次の瞬間、前足の突きが来る。ヴァルゼンは反射的に後ろに跳び、背中から石壁にぶつかった。眼前を爪が通過し、石壁に深い溝を刻む。
(痛い! 背中痛い! でも死んでない! 死んでないからまだ動ける!)
転がる。這う。跳ぶ。また転がる。
その動きには技術も計算も存在しない。あるのは純粋な恐怖と、それに駆動される生存本能だけだった。
だが——パーティの目には、それがまったく違うものに映っていた。
グリゼルダの蒼灰色の瞳が見開かれた。大剣を振るいながら、彼女の視線はヴァルゼンに釘付けになっていた。
(あの動き——)
岩鎧蜥蜴の攻撃は重く、速い。グリゼルダ自身、何度か甲冑ごと吹き飛ばされそうになった。エルヴィンですら聖剣の防御を活用してなんとか凌いでいる。
それを——あの華奢な魔王は、武器も鎧もなく、素の身体だけで避け続けている。
グリゼルダの戦場直感が叫んでいた。あれは偶然ではない。あの間合いの取り方、体重移動の滑らかさ、攻撃を紙一重で見切る反射——全てが計算され尽くした回避術だ。
否。計算ですらないのかもしれない。
「武の極致……」
グリゼルダの口から、無意識に言葉が漏れた。
大剣を握る手が震える。それは恐怖ではなく、畏敬だった。
自分が生涯かけて到達できないであろう領域を、あの魔王は息をするように体現している。武器を持たないのではない。武器を必要としないのだ。
エルヴィンが聖剣を振り下ろし、岩鎧蜥蜴の側面に深い傷を刻んだ。同時にグリゼルダの大剣が脚部を薙ぎ、フェリクスの氷結魔術が動きを鈍らせる。
三人の連携が実を結び、岩鎧蜥蜴がよろめいた。
「今だ!」
エルヴィンの聖剣が白光を纏い、渾身の一撃が岩鎧蜥蜴の首に叩き込まれた。
轟音。粉塵。
そして——沈黙。
岩鎧蜥蜴が崩れ落ちた。石の鱗が砕け散り、回廊に灰色の破片が散乱する。
ヴァルゼンは壁際に張りついたまま、荒い息を繰り返していた。
(生きてる……生きてるよな……?)
膝が笑っている。心臓が喉の奥で暴れている。全身が汗でびしょ濡れだ。
「ヴァルゼン」
グリゼルダが近づいてきた。大剣を鞘に収め、甲冑の膝をついて頭を下げる。
「お見事でした」
「え……?」
「あの回避。岩鎧蜥蜴の攻撃パターンを全て見切り、武器も防具もなく紙一重で躱し続けた。私には——あの動きの本質が、半分も理解できません」
(理解も何も、必死で逃げてただけなんですけど!)
「武を極めた者だけが到達する境地がある。私はそれを師からのみ聞いたことがありました。だが今日、この目で見た」
グリゼルダの蒼灰色の瞳は、真剣そのものだった。冗談の余地など一片もない。
「ヴァルゼン様。この剣を、改めてあなたに捧げます」
「い、いやいやいや! そんな大層なものでは——」
「素晴らしい!」
エルヴィンが聖剣を掲げて笑った。額に汗が光り、息は上がっているが、その碧い目は興奮に満ちている。
「やはりお前は凄い男だ、ヴァルゼン! 俺たちが全力で戦っている横で、涼しい顔で全てを見切るとは!」
(涼しい顔!? 泣きそうだったんだけど!?)
「興味深いですね」
フェリクスが手帳にペンを走らせている。その目が、研究者特有の光を帯びていた。
「岩鎧蜥蜴の攻撃速度は秒速二十メートル超。反応速度だけで回避するのは人間の限界を超えています。つまり魔王殿は攻撃の発生前に——いえ、岩鎧蜥蜴が攻撃を選択する前に、回避行動を開始していたことになる」
(してないしてないしてない! 怖くて動いてただけだから!)
「予知に近い戦闘センスですね。いえ、予知と呼ぶべきか」
フェリクスのペンが止まらない。
「ヴァルゼン様……」
ミラベルが治癒魔法をかけながら、涙ぐんだ目でヴァルゼンを見上げた。
「お怪我はありませんか?」
「あ、はい、大丈夫です。皆さんのおかげで——」
「またそうやって、ご自分の功績を仲間に譲るのですね」
ミラベルの翡翠の瞳から、大粒の涙がこぼれた。
「あの方はいつもそう。自分が一番凄いことをしたのに、必ず『皆さんのおかげ』とおっしゃる。……どれだけ孤独に、一人で強さを背負ってきたら、そんな謙虚さが身につくのでしょう」
(違うんです、本当に皆さんのおかげなんです! 僕は壁に張りついて震えてただけで——)
だが、その言葉は誰にも届かなかった。
岩鎧蜥蜴の残骸が横たわる回廊で、ヴァルゼンは四人の仲間に囲まれて途方に暮れていた。
膝はまだ笑っている。心臓はまだ暴れている。
それでも——ほんの少しだけ、こうして心配してくれる人たちの真ん中にいることが、悪くないと思ってしまった自分が、一番怖かった。




