ダンジョンのトラップ、全部「なんとなく嫌」で回避してしまった
ダンジョンのトラップ、全部「なんとなく嫌」で回避してしまった
ギルドの依頼掲示板に、一枚の羊皮紙が貼り出されていた。
「Bランクダンジョン探索依頼——『嘆きの回廊』踏破」
ヴァルゼンは、その文字を見た瞬間に踵を返そうとした。
「おい、待て待て」
エルヴィンに肩を掴まれた。逃走失敗。
「いい依頼じゃないか。ダンジョン攻略は冒険者の華だぞ」
「僕、華とかいらないんですけど……」
「謙虚だな。さすがだ」
謙虚ではない。本心だ。
『嘆きの回廊』は、町から半日ほどの山腹にある中規模ダンジョンだった。
内部にはトラップが多数仕掛けられており、魔物よりも罠による事故が多いことで知られている。Bランク指定は魔物の強さではなく、トラップの危険度によるものだ。
「トラップが多いダンジョンか。慎重に行く必要があるな」
エルヴィンが腕を組んだ。
「フェリクス、解析は頼めるか」
「もちろん。ただし、未知のトラップが含まれる可能性もあります。過信は禁物です」
「ヴァルゼン様がおられる。問題ないでしょう」
グリゼルダが当然のように言った。
——問題しかない。
しかし訂正する勇気はなかった。
ダンジョンの入口は、苔むした石造りのアーチだった。
中から冷たい空気が流れ出している。薄暗い通路が、地下へと続いていた。
一歩踏み入れた瞬間、ヴァルゼンの全身の毛が逆立った。
——嫌だ。
理屈ではなく、本能が叫んでいる。ここは危険だ。帰りたい。今すぐ帰りたい。
しかし仲間たちは平然と足を進めている。
置いていかれるのも怖い。一人で外に残るのはもっと怖い。
結局、震えながらついていくしかなかった。
最初の分岐路に着いた。
左右に通路が伸びている。見た目にはどちらも同じような石の回廊だ。
「フェリクス、どちらが安全だ」
「解析中です。……どちらも魔力反応は微弱。判断材料が少ない」
フェリクスがモノクルで壁を走査している間、ヴァルゼンは無意識に左の通路を見つめていた。
——左は、嫌だ。
なぜかわからない。ただ、嫌な感じがする。右のほうが、まだましだ。
「あ、あの……右のほうが、いいかなって……」
小声で言った。
全員の視線が集まった。
「魔王殿がそう仰るなら」
フェリクスが即座に手帳に書き込みながら右を選択した。
右の通路を進むこと数分。背後から、轟音が響いた。
「何だ!?」
エルヴィンが振り返る。
左の通路の方角から、石が崩れ落ちる音が断続的に聞こえた。
「……落盤トラップですね。一定の重量が通過すると天井が崩落する仕組みです」
フェリクスの声が、わずかに震えていた。
「左を選んでいたら、今頃——」
全員の視線が、再びヴァルゼンに集まった。
「ヴァルゼン様。やはり、最初からおわかりだったのですね」
グリゼルダの蒼灰色の瞳に、畏怖の色が浮かんでいた。
「い、いえ、なんとなく嫌な感じがしただけで……」
「その『なんとなく』が、天井崩落トラップを回避させた。……只者ではない」
只者だ。嫌な感じがしただけだ。
しかし結果が雄弁すぎて、言い訳にならなかった。
その後も、同じことが繰り返された。
二つ目のトラップ。
通路の途中で、ヴァルゼンが急に立ち止まった。
「あの、この先の床、なんか……踏みたくない感じが……」
フェリクスが解析すると、床の石板三枚が圧力式のトラップだった。踏めば側面から毒矢が飛ぶ仕組みだ。
三つ目のトラップ。
広間に入ろうとした瞬間、ヴァルゼンの足が止まった。
「この部屋、入りたくないです……」
天井に巨大な石が吊るされていた。部屋の中央を踏むと落下する、古典的だが致命的な罠。
四つ目のトラップ。
宝箱を見つけたが、ヴァルゼンが近づこうとしなかった。
「なんか、あの箱、嫌です……」
擬態型の魔物——ミミックだった。
五つ目のトラップで、グリゼルダが膝をついた。
「ヴァルゼン様」
銀髪の女騎士が、片膝をつく。
蒼灰色の瞳に、これまでにない敬意が宿っていた。
「五つのトラップを、すべて事前に察知された。しかも解析魔術を一切使わずに」
「い、いえ、本当にただの勘で——」
「私は長年戦場にいました。あらゆる罠と奇襲を経験してきた。しかしこの精度は見たことがありません」
グリゼルダの声が、震えていた。武人としての矜持が震えているのだ。
「あなたは、只者ではない。私の全経験をもって、断言できます」
フェリクスが手帳に書き込む速度が、もはや常軌を逸していた。
「記録。ダンジョン内トラップ五種、すべて魔王殿の直感で事前回避。解析魔術との速度差は平均四十五秒。機械式・魔術式・生物擬態——種別を問わず察知。この汎用性は、単一の感知スキルでは説明できない。あらゆる危険を本能レベルで知覚する、上位次元の認知能力と仮定する」
上位次元の認知能力ではない。
下位次元の臆病だ。
「ヴァルゼン様……」
ミラベルが涙ぐんでいた。いつものことだが、今回は涙の質が違った。
「あなたはいつも、私たちを守ってくださっているんですね。誰にも気づかれないように、静かに……」
守っているのではない。自分が怖いだけだ。
しかしその怖さが、結果的にパーティ全員の命を守っていることは、否定できない事実だった。
「ヴァルゼン」
エルヴィンが、ヴァルゼンの前に立った。
「お前の力は、剣じゃない。魔法でもない。だがお前がいるだけで、俺たちは死なずに済む。——それは、最強の力だ」
最強の力。
臆病が、最強。
その矛盾した評価に、ヴァルゼンは何も言えなかった。
ダンジョンの奥へ、パーティは進んでいく。
ヴァルゼンは最後尾で、相変わらず震えながら歩いていた。
だが、ふと気づいた。
——この空間、少し歪んでいる気がする。
ダンジョンの壁の一角。ほんのわずかな違和感。魔力の流れが、そこだけ不自然に捩じれている。
トラップとは違う。もっと根本的な、世界の構造そのものに関わるような——
「……気のせいかな」
首を傾げて、通り過ぎた。
フェリクスのモノクルは、その歪みを検知しなかった。
誰も気づかなかった。
それが「虚淵」の最初の兆候だったことを、この時点では誰も知らない。
ダンジョンの出口が見えたとき、ヴァルゼンは心の底から安堵のため息をついた。
——生きて帰れた。
ただそれだけで十分だった。
しかし仲間たちの目には、別の光景が映っていた。
全てのトラップを涼しい顔で回避し、パーティを無傷で導いた魔王が、ダンジョンを踏破して静かにため息をつく姿。
「余裕だな、ヴァルゼン」
エルヴィンの言葉に、ヴァルゼンは力なく笑った。
余裕ではない。
生存の喜びだ。
しかしその区別がつく人間は、このパーティには一人もいなかった。
——どうしよう。
このままでは、本当に取り返しのつかないことになる。
その予感だけは、危機察知よりもずっと正確だった。




