怖いから逃げただけなのに「敵の配置を読んでいた」と称賛された
怖いから逃げただけなのに「敵の配置を読んでいた」と称賛された
依頼内容は、街道沿いに出没するコボルドの群れの討伐だった。
Cランク相当の、ごく標準的な魔物討伐依頼。エルヴィンたちの実力なら、苦戦する要素はどこにもない。
問題は、ヴァルゼンにとってコボルドですら恐怖の対象だということだった。
「皆さん、お気をつけて。僕は、その、後方で……」
「ああ、任せろ。お前は後ろで全体を見ていてくれ」
エルヴィンが力強く頷いた。
「後ろで震えていたい」が「後ろで全体を見ていてくれ」に変換される。もう慣れた。慣れたくなかった。
街道を外れ、森に入る。
木々の間から差し込む光がまだらな模様を作り、足元の枯葉がかさかさと鳴る。
ヴァルゼンは、パーティの最後尾を歩いていた。
前方にエルヴィンとグリゼルダ。その後ろにフェリクス。さらに後ろにミラベル。そして最後尾にヴァルゼン。
最も安全な位置だ。何かあったら真っ先に逃げられる。
——と思っていた。
森に入って十分ほど経った頃、ヴァルゼンの背筋に悪寒が走った。
理由はわからない。ただ、「嫌な感じ」がした。
右の茂みの奥。何かがいる。いや、何かが「待っている」。
足が止まった。
「あの、皆さん」
声が震えた。
「右の、茂みの奥が……なんか、嫌な感じが……」
「嫌な感じ?」
フェリクスが振り返った。モノクルが光る。
「魔王殿が不快感を示すということは——」
フェリクスが右の茂みに向けて解析魔術を展開した。
数秒後、その顔色が変わった。
「伏兵です。コボルドが八体、茂みの中に隠れている。……待ち伏せの陣形だ」
パーティに緊張が走った。
「なるほど、罠か」
エルヴィンが聖剣に手をかけた。
「街道の被害報告は囮で、本命はこの森に誘い込んでの奇襲……知恵のある個体が群れを率いているな」
「その通りです。しかし魔王殿は、解析魔術を使うまでもなく察知された」
フェリクスの声に、抑えきれない興奮が混じっていた。
「僕のモノクルで三十秒かかった解析を、あなたは直感で——」
「い、いや、ただなんとなく嫌な感じがしただけで——」
「それを危機察知と呼ぶのですよ、魔王殿」
違う。臆病なだけだ。怖がりなだけだ。
しかしフェリクスの目は、昨日の分析の延長線上で完全に輝いていた。
「グリゼルダ、右翼から回り込め。エルヴィン、正面を頼む。フェリクス、支援魔術を」
——え。
なぜ自分が指示を出しているような空気になっているのか。
違う。今の指示を出したのはエルヴィンだ。
しかしエルヴィンは、指示を出す前にちらりとヴァルゼンを見た。ヴァルゼンが無意識に右を見て、正面を見て、フェリクスを見た——その視線の動きを、エルヴィンが「指示」として読み取ったのだ。
ヴァルゼンは単に、怖くてキョロキョロしていただけだった。
戦闘が始まった。
エルヴィンが正面から突撃し、聖剣の一閃でコボルド三体を薙ぎ払う。グリゼルダが右翼から回り込み、逃走経路を塞いで大剣を振るう。フェリクスの氷槍が茂みを貫き、隠れていた個体を炙り出す。
ヴァルゼンは後方で、ミラベルの隣に立って震えていた。
——すごい。怖い。すごいけど怖い。
コボルドの断末魔が森に響くたびに、ヴァルゼンの肩が跳ねる。
戦闘は一方的だった。伏兵の存在が事前にバレた時点で、コボルドに勝ち目はない。
しかし。
ヴァルゼンの背筋に、再び悪寒が走った。
今度は——後ろだ。
「うしろ!」
叫んだ。
考えるより先に、声が出た。
振り返ると同時に、茂みから三体のコボルドが飛び出してきた。本隊が戦闘で注意を引いている間に、後方から挟撃する別動隊だった。
ヴァルゼンは、反射的にミラベルの前に立った。
立ってしまった。
足が勝手に動いた。パニックで体が勝手に——
コボルドの爪が迫る。
——死ぬ。
しかし次の瞬間、聖剣の白い光がヴァルゼンの頭上を飛び越えた。
エルヴィンが跳躍し、三体のコボルドを空中から一刀で斬り伏せた。着地と同時に衝撃波が広がり、枯葉が舞い上がる。
「……間に合った」
エルヴィンが振り返った。その碧眼に、深い感動が宿っていた。
「ヴァルゼン。お前は最初から、この別動隊の存在も読んでいたのか」
読んでいない。直前に気づいて叫んだだけだ。
「ミラベルを庇って前に出たのも、俺がすぐに駆けつけると計算した上での——」
「してません!」
思わず叫んだ。
「してません、何も計算してません、ただ怖くて——」
「ふっ……『何も計算していない』、か。お前らしい言い方だな」
エルヴィンが笑った。感動的な笑顔だった。
「天才は自分の才能を自覚しない。お前がそう言うなら、そうなんだろう。だが結果がすべてを証明している」
結果は何も証明していない。
いや、していた。ただし証明されたのは「最弱の魔王が必死に生き延びている」という事実であって、「天才的な戦術判断」ではない。
「ヴァルゼン様」
グリゼルダが、血のついた大剣を肩に担いで歩み寄ってきた。
「最初の伏兵の察知。別動隊への警告。そしてミラベルを庇う判断。……すべてが、完璧でした」
完璧ではない。全部が行き当たりばったりだ。
「ヴァルゼン様……!」
ミラベルが背後から抱きついてきた。涙声だ。
「私を……庇ってくださって……!」
「いや、あの、体が勝手に——」
「お優しい……! ご自身の身を顧みず……!」
フェリクスが手帳を開き、万年筆を走らせていた。
「記録。第十四日。魔王殿、解析魔術を凌駕する速度で敵の伏兵配置を二度にわたり察知。行動パターンは昨日の分析と完全に一致。やはり偶然ではない」
偶然だ。全部偶然だ。
怖いから気づいた。怖いから叫んだ。怖いからミラベルの前に立った——いや、最後のは怖いのに体が動いたのだから、自分でもよくわからない。
帰り道、エルヴィンがヴァルゼンの隣を歩いた。
「なあ、ヴァルゼン」
「は、はい」
「お前のおかげで、誰も怪我をしなかった。礼を言う」
その言葉は、嘘ではなかった。
伏兵に気づかなければ、不意打ちを受けていた。別動隊に気づかなければ、ミラベルが危なかった。
結果だけを見れば、確かにヴァルゼンの「危機察知」がパーティを守った。
——でも、僕は何もしていない。ただ怖がっていただけだ。
その「ただ怖がっていただけ」が仲間を救ったという事実を、ヴァルゼンはまだ受け入れられずにいた。
ギルドに帰還し、依頼完了の報告をした。
受付嬢が書類を処理しながら、ちらちらとヴァルゼンを見ている。
「あの……伏兵を二度も事前に察知されたと、報告書にありますが」
「い、いえ、たまたまです」
「たまたまで二度は……」
受付嬢が何か言いかけたが、エルヴィンが割り込んだ。
「たまたまじゃない。こいつは最初から全部わかっていたんだ。——なあ、ヴァルゼン?」
否定する気力は、もう残っていなかった。
ヴァルゼンは曖昧に微笑み、目を逸らした。
その背中を見て、受付嬢が小さく呟いた。
「……やっぱり、ただ者じゃないわ、あの人」
ただ者だ。ただ者すぎるくらい、ただ者なのだ。
しかしその主張を受け入れてくれる人は、この町には一人もいなかった。




