史上最凶の魔王──と呼ばれた男は、戦場跡で盛大に転んだ。
史上最凶の魔王──と呼ばれた男は、戦場跡で盛大に転んだ。
顔面から地面に突っ込んだ。口の中に砂利が入った。痛い。非常に痛い。
これが魔王の最期か、とヴァルゼンは本気で思った。
大戦が終わった。
魔王軍は瓦解し、四天王は散り散りになり、残された兵士たちは我先にと逃げ出した。当然だ。負けたのだから。
そして魔王であるヴァルゼン自身も、逃げた。
いや、正確に言えば「逃げた」のではない。「追い出された」のだ。配下のゴブリンに。
「あの魔王、弱くね?」
「つーか邪魔じゃね?」
「飯の分け前減るし」
ゴブリンにである。
魔族の最底辺、知能も戦闘力もお察しのゴブリンに、である。
その程度の存在に追い出される魔王とは何なのか。ヴァルゼンは自分でもよくわからなかった。
とにかく今、彼は一人だった。
荒れ果てた戦場跡を彷徨い、空腹と疲労で足元がおぼつかない。魔力で体を強化する? できない。攻撃魔法で獣を狩る? 暴発して自分が死ぬ。火を熾す初級魔法すら三回に一回は失敗する。
これが魔王である。
額の左右にある小さな角──前髪に隠れて見えないほど矮小な角だけが、彼が魔王家の血を引く唯一の証だった。
死ぬかもしれない、と思った。
いや、死ぬだろう。このまま行けば確実に。
せめて人里に辿り着ければ──いや、魔王が人里に行ってどうする。殺されるに決まっている。
では魔族の集落は? もう残っていない。大戦で壊滅した。
詰んでいた。完全に詰んでいた。
そんなとき、足音が聞こえた。
重く、力強く、まっすぐな足音。
ヴァルゼンの背筋に氷柱が突き刺さった。
振り返ると──光が、あった。
文字通りの光だった。夕暮れの逆光を背に、金色の髪が燃えるように輝いている。白銀の鎧。背中に負った大剣。左頬に走る一筋の傷痕。
身長差は頭一つ以上。見上げるしかないその男の碧い瞳が、ヴァルゼンを捉えた。
勇者エルヴィン。
人類連合の英雄。聖剣の使い手。四天王のうち二人を単騎で屠った化け物。
大戦を終結に導いた、正真正銘の「最強」。
死んだ。
ヴァルゼンの脳内で、即座に結論が出た。
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ! 勇者だ! 本物の勇者がいる! なんでこんなところに!?
逃げなければ。
その一心で踵を返した瞬間、足がもつれた。
そして冒頭の場面に戻る。顔面から転倒。口に砂利。痛い。
終わった。完全に終わった。
うつ伏せのまま、ヴァルゼンは人生を振り返った。短かった。二十二年。魔王として即位してからわずか一年。何一つ成し遂げていない。墓碑銘があるとすれば「ゴブリンに追い出された魔王、ここに眠る」だろう。泣きたい。
「──お前が、魔王ヴァルゼンか」
頭上から降ってきた声は、驚くほど穏やかだった。
殺気がない。怒りもない。むしろ──感嘆?
恐る恐る顔を上げると、勇者エルヴィンが片膝をついてこちらを見下ろしていた。
碧い瞳が、真っ直ぐにヴァルゼンを射抜いている。
「噂は聞いている。大戦の裏で魔王軍を終結に導いた──影の立役者」
は?
「お前が魔王軍を内側から崩壊させたと聞いた。将軍たちの暴走を止め、無駄な血を流させず、大戦を終わらせた真の功労者だと」
はああ?
何の話をしているんだこの人は。
ヴァルゼンは混乱した。内側から崩壊? 止めた? 何も止めていない。将軍たちが勝手に暴走し、勝手に負け、勝手に逃げただけだ。ヴァルゼンは玉座の上でガタガタ震えていただけである。
「そして今──こうして一人、戦場跡に佇んでいる。勝者の凱旋でも敗者の逃走でもなく、ただ静かに戦いの終わりを見届けている。……やはり、器が違う」
見届けてない。彷徨ってただけだ。空腹で。
「しかも俺が近づいても動じないとは。この距離で背を向け、泰然と地に伏す──殺気を向けられても意に介さない、か。大した胆力だ」
動じてないんじゃなくて転んだんです。
盛大に転んだんです。
足がもつれて顔面から。
ヴァルゼンの口は、しかし動かなかった。
動かせなかった。
なぜなら勇者エルヴィンの目が、あまりにも真剣だったからだ。あまりにも真っ直ぐで、あまりにも確信に満ちていて、「違います」の一言が喉に張り付いて出てこない。
この人は本気で言っている。本気で信じている。
怖い。
この真っ直ぐさが、怖い。
「俺の名はエルヴィン。聖剣の勇者だ」
知ってます。知ってるから逃げたんです。
「大戦は終わった。だが世界にはまだ、俺たちがやるべきことがある」
エルヴィンが立ち上がり、手を差し伸べた。
太陽を背にしたその姿は、英雄譚の一幕そのものだった。
「ヴァルゼン。お前の力を──いや、お前の知恵を貸してほしい。俺と共に来てくれないか」
断れ。
今すぐ断れ。
「僕は最弱の魔王です、何かの間違いです」と言え。それだけでいい。たった一言だ。
ヴァルゼンは口を開いた。
「……あ、あの、僕は、その……」
エルヴィンの目が輝いた。
「やはり──言葉を慎重に選んでいるな。魔王としての矜持か。わかる、わかるぞ。簡単に首を縦に振れないのは当然だ。お前にはお前の立場がある」
ない。立場なんてない。ゴブリンに追い出されたんだから。
「だが聞いてくれ。俺は信じている。お前となら、この世界をもっと良くできると」
眩しい。
笑顔が眩しすぎて直視できない。歯が光っている。なんで歯が光るんだ。物理法則に反している。
ヴァルゼンの思考は完全に停止していた。
断りたい。断らなければならない。だが──この手を払いのけたら、この人は怒るのではないか。聖剣で斬られるのではないか。四天王を二人屠った剣で。
死にたくない。
その一心で、ヴァルゼンは差し出された手を取った。
「……よろしく、お願いします」
声は震えていた。目には涙が滲んでいた。
それは恐怖の涙だった。これから始まる地獄への、絶望の涙だった。
だがエルヴィンは、その涙を見て──笑った。
どこまでも晴れやかに、どこまでも真っ直ぐに。
「ああ。こちらこそ──光栄だ、魔王殿」
こうして最弱の魔王は、最強の勇者の隣に立つことになった。
誤解を正す機会は、もう二度と訪れない。
なぜならこの勇者は──一度信じたことを、絶対に疑わない男だったからだ。




