第80話 私はここにいます
二日後、各方面の責任者を集めたもう何度目かも分からぬ国防会議が行われた。
強行に武力をもって制圧させようとする国王側の一派と対話による解決を求める教皇。
意見が対立し続け、まだ紗伊那としての方針は出せずにいた。
そんな中で跡継ぎ姫は例のごとく、馬鹿の振りを演じていた。
興味がなさそうに会議の最中には頬杖をつき、時折外へと視線を送り目で鳥を追う。
けれど今日はそんな馬鹿姫に詰め寄る人間がいた。
前回の会議では自分にあらぬ嫌疑が掛けられていると声をあげた北晋国出身のまだ若い吏部大臣だった。
後ろに流した黒髪と氷のような冷えた色をした切れ長の瞳が平素彼に冷酷な印象を与えていたが、今日はそ怒りを浮かべていた。
「美珠姫」
吐き捨てるような呼びかけに姫はおびえた表情を向ける。
そんな表情すら気に入らないのか吏部大臣は姫へと近寄り、正面に立とうとした。
すぐにその姫を庇うように暗黒騎士団長と光騎士団長が立ちはだかり、その後ろで相馬が更に姫を隠すように立つ。
「臣にすらその存在を隠すか。全く」
腹立たしげに騎士達を睨んだ後、今度は強い口調で姫へと声をかけた。
「貴方は偽者という噂が流れている! 今そこにいる貴方は本当の姫か! あの時、騎士団長を率いて戦った姫か」
騎士団長を率いて戦った姫。
それは遠い将来きっと伝説になるこの国の新たなる主である。
人々の希望になるはずだった。
紗伊那の希望。
その存在がまだ本当に存在するのか、そこにいる全員が答えを待っていた。
そして姫は散々人々の注目を浴びた後、小さな小さな声で答えた。
「え、あ、はい。そうですけど、何か?」
それから明らかに泳いだ目で救いを求めるように相馬の袖を引いた。
すると美珠姫の乳兄弟であり、もっとも忠実な家臣である相馬が全ての受け答えを引き受けたようだった。
「吏部大臣殿、貴殿は何をおっしゃっているのか。今、ご自分のおっしゃってることがわかっておられるか」
「分かってる。姫が本物かと聞いているだけだ」
「ご質問の意味がわかりかねる。ここにいらっしゃる方以外、美珠姫は存在ししない」
騎士や相馬の背中に隠れているその少女はずっと肩を震わせ、大臣におびえた目を向けていた。
そこに座る姫からはなんの威厳も感じられなかった。
期待をしていた官吏からため息らしきものが聞こえてくる。
「まあまあ、」
今回もまたわって入ったのは老齢の戸部大臣。
前回同様、全てをいい方向に纏めようとでっぷりした体を吏部大臣と騎士の間に割り込ませた。
「このところの噂をきけば吏部大臣の気持もわかる」
今日はどうやら官吏たちの気持ちを代弁しようとしていた。
「姫様、皆貴方の声が聞きたいのです。皆にお声掛けを願えませんかな?」
その人の良い笑顔と声にも姫は何も返さなかった。
困ったようにまた相馬の袖を引いただけで、結局どれだけ待っても彼女自身の言葉はどこからも聞こえてこない。
顔を伏せるものや、困ったように隣と顔を見合わせる者ばかりで重い空気が部屋に満ち満ちていた。
「姫を困らせるのはもういい。兎に角、我々の作戦会議をはじめよう」
文官の長、麓珠がどうしようもなくなったその場を仕切ると皆、どこか腑に落ちない顔のまま北方将軍に目を向けた。
*
「今日もまた馬鹿姫全開だったね」
「これだけみんなの信用を失ったんだもの。取り返すときは頑張らないとね」
今まで頑張ってきた跡継ぎ姫とはまったく正反対の行動をして、そして感じた官吏達の表情を思い出し、ヒナは寂しそうに椅子に座った。
あんな顔をさせないために姫として、自分なりに頑張ってきたのだ。
けれど今はあえてその努力をぶち壊している。
楽だけれど楽しい作業ではなかった。
肩を落として部屋に戻ってきたそんな姫の為に、項慶がお茶を用意してくれていた。
「貴方への期待が大きかったその反動よ、事情が事情なんだもの、仕方ないわ。生きていればまたいい方向へ進むわ、片がついたら死に物狂いで頑張りなさいな」
辛口項慶が励ましてくれていることに気がつくと、その言葉にヒナは小さく頷き、琥珀色の温かいお茶を一口飲んで、大きな息を吐いた。
「で、お前はあの中で内通者はどれだと思う?」
横柄にヒナの前に座ったのは隣国の王子だった。
「そんなの考えたくもない」
「しっかりそのない頭を使って考えろ」
「本当にこの人腹が立つ」
ヒナと祥伽が睨み合う隣で自信ありげに相馬が胸を叩く。
「きっと吏部大臣だ。だって麓珠様があの大臣を見張らせてるくらいだし。それにあの態度、相当、美珠様のことを気にしてる。きっと美珠様偽者説を流してこの国を混乱させるつもりなんだ」
「でも、本当にそうかしら、ただ私が本物なのか知りたかっただけではなくて?」
ヒナが承服しかね口を尖らせると相馬は主に分かってないなといわんばかりに首を振った。
「ほんとこの姫様は性善説で生きてるな。まあ、いいよ。いずれ尻尾を出すからさ」
「どういうこと?」
「明日、来るみたいだよ。藤堂秀司の懐刀が。王に謁見を申し出てる。国明の話じゃあ、国境に密使として現われたり、玲那を襲った奴らしいけどさ。きっと美珠様の情報を手に入れるために内通者と情報の交換をするはずだ。情報局はすごく張り切ってるよ。あの吏部大臣の関係者については情報局が総力をあげて見張るらしい。総力をあげてだよ!」
「そんなにあからさまにしていいのかしら? 藤堂秀司ってやり手なんでしょ? 簡単に尻尾をつかませてもらえるのかしら」
項慶は相馬の興奮をよそに呆れたように相馬にもお茶を差し出した。
熱いお茶をもろともせず飲み干し、相馬は更に続ける。
「まあ、見てなって。ギャフンと言わせるからさ。紗伊那の底力見せてやる。じゃ俺、情報局に行って、明日の段取りもう一回確認してくる。姫様はこの有能な執事が帰ってくるまでちゃんとここでおとなしくしててね」
そういうと相馬はカップを乱雑に置いて走り去っていった。
嵐が過ぎ去ったのを見て祥伽は呆れたように口を開く。
「お前の恋人は本当に有能なのか?」
「え? 恋人? あ、うん、料理も上手だし、すごく有能よ」
突然恋人と言われ、一瞬別の人間に意識が持っていかれそうになったが、垂れた優しそうな目をした人間を思い浮かべ頷いた。
「あれが、か」
あれが。
祥伽は優菜とどこであったというのか。
ヒナは思いめぐらせて、そして手を叩いた。
「そうか! 祥伽は勘違いをしているんでした。あの、今更ですが、相馬ちゃん、私の恋人ではありませんよ」
「勘違いだ? 俺が何回確認しても、お前今まで否定しなかったろ」
「え? だってその場の空気ってあるじゃないですか」
ヒナの表情をうかがっていた祥伽だったが、やがて一つの結論に行き当たり手を叩いた。
「さては、お前、あのなよっちい執事と別れたな。だからそんな嘘を」
「まあ、確かにあの時の人とは別れましたけど」
「やっぱりな。お前、結構な尻軽女だな」
「貴方、本当に殴りますよ」
*
その日の深夜、人々が眠りについた頃、白亜の宮の正門があわただしくなった。
興奮しきった竜の嘶きと人の声に気がついたのは外で稽古に励んでいた教会騎士団長聖斗。
彼は事態を把握するべく、すぐに平服に剣一本で正門へと向った。
そこには二人の人物がいた。
一人は国王騎士、一人は姫の護衛。
姫の護衛、珠利も聖斗の存在に気がつくと、門衛をしていた騎士に竜の手綱を渡し大股で寄ってきた。
その顔には余裕などなかった。
「一大事! 一大事!」
「何をしている。こんな時間に、一体どうした。それにどうしてお前が竜にのっている。国王騎士団長はお前にそんな権限を与えたか?」
「なんでもいいから、あの馬鹿、どこよ!」
あらぶる珠利が転びそうになると国友よりも聖斗の手が先に珠利を抱きかかえた。
そして唇が触れそうなくらいお互いの距離が近くなると珠利は悔しそうに声をあげた。
「騎士が裏切ってる」
普段全く動じることのない聖斗の目がほんの少しだけ動揺した。
けれどその動揺は誰に気付かれることもなかった。
「お前、言っていいことと、悪いことが」
「信じて、私と国友は国境で聞いた! あの国王騎士の副団長、敵と通じてる」
信じられる話ではない。
けれど流すこともできなかった。
「騎士がそんなことを」
「ここで考えててもしゃあないんだよ! 兎に角、あの馬鹿とか、もう皆集めてよ! くっそお」
「分かった。あの馬鹿とは国明のことか」
「そうだよ! ここにいるんでしょ? はやく!」
聖斗はどこまでいっても表情を崩すことなく珠利をしっかりと立たせるとこの国難ともいえる状況を乗り切るべく他の団長達の部屋へと向って歩いていった。
*
次の日は朝から空気が張り詰めていた。
北晋国から使者がやってくるらしい。
この国はどの方向へ向うのか。
そしてあの状態の姫を使者にさらすのか。
それとも隠し通して新たな疑念を抱かせられるのか。
結局前者、姫は祥伽とともに国王、教皇とともに姿を見せた。
けれど官吏たちは喜ぶこともできず視線を反らしてしまった。
今日もまた姫がおどおどと現われたのだから。
そして部屋の中央には既に藤堂秀司の使者が頭を垂れていた。
一人きりの使者は軍服に身を包んでこそいたが武具などを取り上げられていた。
戦意はない。
そう細い体つきからもそう強調しているようだった。
「表をあげよ」
将軍の声で男は顔をあげる。
ヒナは藤堂秀司の手の者の中で幾人か見たことはある。
夏野というのはでかい男で、秋野は見知った侍女。
しかし、この紗伊那で色々画策し続けた噂に聞く春野は初対面だった。
少しアーモンドのように釣りあがった目をしていた。
その目をどこかで見たような気がしたが、ヒナはどこで見たのか結局、思い出せなかった。
「春野、と申します」
男は大国の王を相手にしても怯える様子はなかった。
さあ、面倒な仕事を片付けようか。
まるでそう言っているようだった。
春野という男は優菜の姉、藤堂優子のまわりで何度か聞いた。
そして春野という男は玲那を脅し毒薬を手渡した藤堂秀司の第一の部下。
まともな人間ではないのだろう。
けれどそんな相手だからといって、ここで大声で詰問することはできなかった。
彼は大きな事実を握っている。
国王騎士を束ねる国明の妻、玲那が城に毒をまこうとしたことだ。
未遂ではあったが、国王騎士団長の妻が、紗伊那の大貴族の子息の妻が国王暗殺を目論んだ。
そう公衆の面前で暴露されると、国明をそして麓珠を追い落とすことになってしまう。
だからこそ事情を知る誰もがこの男など知らぬ顔でその男に耳を傾けることになった。
そのことは春野という男自身、よく理解しているのだろう。
いや、それも計算の内だったのか。
春野はただ静かな顔で王を見ていたが、やがて口を開いた。
「我が主、藤堂秀司はこちらとの同盟関係を望んでおります。我ら北晋国の民を圧制から救うべく立ち上がりました。民の指示もあり現在王をしのぐ十五万の兵力をもっております。このまま我ら民を救うべく戦い続ける所存でおりますが」
王は相手の声を手で制する。
と、同時に北方将軍が立ち上がった。
「お前達と組んでも我々に何も利点はない」
「いいえ、このまま国王軍をのさばらせておけば、また貴国や秦奈国に手を伸ばそうとする。ご存知でしょう。秦奈国の王子を狙い、紗伊那の姫を狙ったこと」
そういって春野の目は美珠と祥伽へと向いた。
確かに祥伽王子を襲ったのは北晋国の王の命令だった。
けれど美珠姫を狙ったのは表向き、国王の命令としているが、藤堂秀司の命令なのだ。
「その上、現在旧国王軍を指揮しているのは、お二方を狙った『死神』と呼ばれる王直属の軍の隊長。のさばらせておけば、また姫様や祥伽王子のお命を狙いにくるでしょう」
ヒナにとってその話は初めてだった。
自分達を狙った死神の隊長というのなら、でてくる人間は一人。
それは最近やっと心のうちを知ったもう一人の友達だった。
「なんだちゃんとやることやってるじゃない」
ヒナは小さな声で満足そうに呟くとどこか心を軽くして春野を見る。
北晋国はまだ藤堂秀司の手に落ちたわけではない。
蕗伎が頑張っている。
自分を知り、自分が知るもう一人の友が頑張っている。
それが分かったことが嬉しかった。
その傍で紗伊那国王は立ち上がると、剣を抜いて戦争だということを見せつけた。
国王の明確な意思表示に軍人や騎士達の士気が急激に跳ね上がる。
そんな敵意の渦に囲まれても尚、春野は口の端を不敵に持ち上げていた。
彼のどこにもおびえた様子はなかった。
そしてこめかみを押さえ、暫く思案したふうになりやがて口を開く。
「仕方ありませんね。しかし、この国はいつまで国民に偽っているつもりです。姫が北の地、芙栄で亡くなったことを」
その声に官吏達が顔を見合わせる。
それは多くの者が待っていた答えだったからだ。
聞きたくはないが、それが真実というのなら……。
多くの官吏達が頭を回転させはじめる。
どう動くべきなのかと。
「姫はなくなってはいらっしゃらない。そこにおられる」
然とした国明の言葉に春野は鼻で笑った。
その嘘を大勢の前ではぐべく。
「これは国王騎士団長、貴方もいろいろ大変だ」
「王! どういうことですかな! 姫が亡くなられたというのは! やはり、姫様は芙栄でなくなられたのですか?」
立ち上がって詰め寄ったのはいつも仲介役を買って出る老齢の戸部大臣だった。
その憎めない体を吏部大臣の前に滑り込ませていたが今日は違った。
焦りと驚きを混ぜた表情で官吏を見回してから大声を上げた。
「その女性は姫ではないのですか!」
その言葉で火がついたように官吏達から声が漏れた。
騎士団長達も相馬もそんな官吏達に視線を送る。
「やはり、姫様ではないのか」
「北の地で亡くなられた、そんな」
中には悲壮な声をあげて泣くものもいた。
その場所は一瞬の間に嘆きに溢れてしまった。
すると相馬の背中に隠れていた少女が一人すくりと立ち上がり、相馬を一歩下がらせそして騎士団長達の前に立った。
騎士団長達はその少女に道を譲り、そして頭を垂れた。
官吏達の瞳が無意識にその少女にひきつけられる。
それはどう見てもこの国の跡継ぎにしか見えなかった。
「私はここにいます」
発したのはただその一言。
けれどそれは強い一言だった。
私は美珠だと騒ぐわけでも、信じてくれと乞うわけでもない。
国王、教皇が信じろと押さえつけてくるわけでもない。
けれどその一言で騒いでいた官吏達は詮索をやめて、ひきつけられるように姫の瞳を見つめる。
そこには何度も見てきた輝いた瞳の姫がいた。
姫はそれから春野を見据えた。
「確かに芙栄で私達は北晋に襲われました。紗伊那を狙う何者かに。けれど私は生きています。助けてくれた多くの人がいるから」
すると麓珠が腕を組んで立ち上がった。
どこか楽しそうに口元を緩めていた。
「さて、ちょうどいい。この国の内通者をあぶりだすとするか。この罪は重い。姫を狙い、この国の情報を流したのだからな」
各騎士団長達がその声に反応して手を挙げると会場を騎士達が囲む。
座って様子をうかがっていた官吏の中には騎士の気迫に驚いて椅子から転げ落ちる者まであった。
「ど、どういうことですか! 我々をお疑いですか!」
小太りの戸部大臣が官吏達を守るように手を開いて立ち上がる。
ヒナは段を降り、そんな大臣の前に立った。
「守りたいのは官吏の皆さんですか。それとも、貴方の命ですか?」
澄んだ瞳でその心をまっすぐ射抜くように見ると大臣は部屋から出て行こうとする。
それを引き止めたのは光東と国明だった。
剣を抜いて一人の老齢の大臣を囲む。
「全く。こんなもうろくした爺さんを大臣にしたのは誰だ」
まだ若い吏部大臣はそう言って耳をほじりながら、冷たい視線を騎士団長二人に囲まれあたふたする老齢の大臣へと向けていた。
そんな大臣の心底馬鹿にした様子に老齢の大臣は噛み付いた。
「お、お前の方が北晋国出身者ではないか! 姫様、こやつの方が!」
すると麓珠が顔まで真っ赤になった老大臣の目の前に書類を突きつけた。
「彼の素行はいたってまじめなものだ。とても勉強熱心な上に紗伊那への愛国心にあふれている。しかし貴方は別の人間が目を付けられるとおもって気が緩んでしまわれたか? 情報局が総力をあげて見張ったのは貴方とその周辺。油断されすぎましたな」
麓珠が視線を送ると教会騎士に連れられて一人の男が姿を見せた。
士蒙という名の美珠の家庭教師であった男だった。
「彼は君の密使として昨晩、北晋国と連絡を取ろうとしたようだ。こんな厳戒態勢の中、のこのこと出てきてご苦労様なことだ。姫の家庭教師、すでに身元は調べられていて安心、そうとでも思ったか」
「そんな男、私は知らん」
老人は大きな声でそう叫んだ。
けれど麓珠は眉間に皺を寄せ、そして年上の大臣の胸倉を掴んだ。
「私はこの国に仕える文官の長として大臣という位にお前を長く置いたことが恥ずかしい! お前のような人間が国を想う官吏の上についていたなど!」
それから一つ息をして老大臣から手を放すと、士蒙という男へと向いた。
「お前は内通だけではなく殺人まで犯したか。お前の本性を知った同僚を酒におぼれたことにして殺した。さぞ無念の死だったろう。我々は彼の本当の死因を理解してやれなかった。美珠姫が北へ向かうその前から紗伊那にはもう病巣があったというのに把握できていなかった」
男はもう観念しているようだった。
体の傷からして、拷問を受けたようだった。
「あいつは全てを知り、上に俺のことを伝えようとしたから、殺した」
ヒナはそんな男を眺めた。
どうしても聞きたい事があった。
「千佳を、千佳を利用したの?」
失恋をして沈み込んでいた姫に新米の侍女は温泉に行かないかと申し出てくれた。
ふさぎこむ主を初めてみる雪の世界へと誘ってくれた侍女。
彼女はよく仕え、そして恋人であるはずのこの男を見ると幸せそうな顔をしていた。
すると美珠の質問に男は馬鹿にしたように軽く笑った。
もう彼には逃げ道はないのだから、嘘をつく必要はなくなったのだ。
「あの、単純な馬鹿女は操りやすかった」
まだ城に来て日の浅い千佳という侍女は、早速敵の罠に落ちた。
それを救ってやれなかった。
彼女は自分の故郷でわけも分からず死んでしまったのだ。
ひょっとしたら死ぬ瞬間、この男のことを思い浮かべたのかもしれない。
ヒナは拳を作ると思いっきり男の頬を殴って、そして叫んだ。
「恋したら誰だって馬鹿になるんだから! 私千佳が嬉しそうな顔をしていたのを知ってる。私のことだって気にしてくれていたのを知っているわ! その彼女をあんなにもあっさり殺しただなんて」
千佳も殺されたという官吏も美珠を想い、国を想っていたのだろう。
そうおもうとやりきれなかった。
自分はその時、失恋で逃げることだけを考えていたというのに。
「全く」
後ろからまだ余裕のありそうな男の声が聞こえてきた。
ヒナは許せずその声の主をにらみつけた。
「これほど内通者で溢れた国は見たこともない。ただ裏切りものは官吏だけじゃない。そこいらに転がる騎士にも我々に手を貸す者はいる、それにねえ、国王騎士団長あなただって充分わかってるだろうに」
訳知り顔の春野を国明は静かな顔で睨みつけていた。
彼の言葉の裏には国明の命が釣り下がっている。。
国明の命が掛かっているのだ。
「お黙りなさい! 紗伊那の騎士を愚弄するとは何事ですか! 彼らは国を思うものです。彼らの忠誠は永遠です!」
ヒナは声の限り春野に怒鳴ったが、春野はただ涼しい顔をしていた。
どうすればここを乗り切れるのか。
この大切な人を、国明を珠以を救えるのか。
どうすれば藤堂秀司に勝てるのか。
わからない。
どうすればいいのか分からない。
拳を作って相手を睨みつけるだけ。
それしか今はできない。
けれど、全てを投げ出すことは到底できなかった。
そんな時、兵士が入ってきた。
「国王陛下! 北晋国上皇軍と名乗る者達が王に謁見を申し出ております」
新たなる勢力の出現に春野の顔は一瞬歪む。
それは想定外だったようだ。
上皇軍。
ヒナに優しく微笑んでくれた偉大なる女性。
思わず顔をあげてヒナは目を細める。
そして国王が頷くと、国明と光東は老齢の大臣を立たせて隅につれてゆき道を作った。
「北晋国上皇軍。……ということは」
「あいつだ」
ヒナの腕をつかみ、もといた王族として位置につかせた祥伽もどこか探り探り扉に目をやっていた。
やがて扉を開けて入ってきたのは黒い服に身を包んだ男と妙な刺青の入った美少女だった。
それはヒナがよくよく知っている二人だった。