第45話 ワンコ兄さん、さよなら
深夜になって、少し周りがざわついた。
仮眠を取っていた優菜は気配に気がついて目を開ける。
小さくて暗い天幕の中ではヒナ、桂が転がっていたが、優菜は彼らを起こさないようにそろりと動いて顔を出してみた。
外の様子は満月の明かりを借りても影しか見えなかったが、司令官用の大きな天幕の前には飛竜が二匹降り立っているのが分かった。
そして素早く降りてきたものは早速、司令室へと入ってゆく。
(お、これを逃さない手はないよな。ちょっと戦力の確認にでも行くか)
すると優菜の白いシャツを掴んで眠りについていたヒナが隣でぼんやり目を開けていた。
「どうしたの?」
「ん、援軍、着いたみたいだ」
「眠い、寒い、優菜好き」
(その言葉、そこに並ぶのか?)
ヒナの頬を撫でて、ヒナの寝顔を眺める。
また眠りに入ったヒナは月明かりを浴びて、何にも侵されぬ高潔な純白の石像にさえ見えた。
(姫様が死んだ一月後にできた姫様そっくりのヒナという偽の妹)
優菜はこみあげてくるやるせない気持ちに首を振ると、這い出るように天幕から抜け出た。
「ふむ、着いたか」
満月の光で長く伸びた影の先には獣が目を光らせていた。
つんと立った耳、長く伸びた爪、この細く伸びた人外の影をみれば人々は恐怖するだろう。
けれど先にいるのは二足歩行の可愛い黒犬だった。
「先生、おきてたの?」
「ああ、魔力を高めていた。これからすべき仕事があるからな」
先生の目当てのものはちょうどまさに飛竜から降ろされたところだった。
それは担架に乗せられた若い男で、優菜は少し前に顔を知った人。
否、人の姿として対面するのは初めてのことだった。
「この人、ワンコ兄さん?」
生気もなく、ただ眠り続ける黒髪の男。
紗伊那の王都でずっと意識不明として扱われた最後の騎士団長。
そしてまわりの心配をよそに、元気いっぱい茶色の犬になって雪原を駆け回り、自分達と共に旅をしてくれた人だった。
「ちゃんとワンコ兄さんは戻れるの?」
「そのために私がいる。それに幾人か魔法騎士の力を借りる。大丈夫だ、戻す」
ワンコ先生は犬であるはずなのに、そこにいる誰よりも凛々しかった。
優菜はその小さい黒い体毛に包まれた背中が妙に頼もしく見えて、納得したよう頷いた。
「そうだね。先生がいるんだから」
するとワンコ先生は振り返って、黒い縁の唇を持ち上げ左の前足を伸ばした。
すぐにどこから飛んできたのか大きな鴉がそこに止まり、右の前足を上げるとそこに真っ黒の杖が現われた。
中型犬が装備するにしては杖も鴉も大きかったけれど、優菜の目にはそこに確かに大魔法使いがいるように見えた。
「さあ、やるぞ。着いて来い。お前達」
白い法衣を纏い担架を運ぶ魔法騎士四名が足音も立てず先生の後ろについてゆく。
それは間違いなく今からおかしな儀式が始まると予感させた。
優菜もその儀式の参列者のように、後ろをついて歩いた。
目の前にあったのは黒の巨大な天幕。
暗黒騎士団長の天幕だった。
優菜がこっそり中をのぞくと、天幕にあった荷物はすでにどこかへ動かされてあり、茶色のワンコが杖を咥えて動き回っていた。
杖に何かの顔料がぬっているわけでもないのに、ワンコ兄さんが杖を降ろした地面には白い光が満ちてゆく。
大きな円の中に幾何学模様。
「準備はできているようだな」
「ええ、師匠」
ワンコ兄さんは疲れたように顔をあげて、そして自分の体が乗せられた担架を見て、そして担架をもつものたちのうちの右後ろにいた少年を見つけて笑みを浮かべた。
「話は後だ。これが終われば話などすぐにできる」
気を緩めたワンコ兄さんを一喝すると、先生は担架を置くように顎で指示した。
意識のない男の体とワンコ兄さんとして存在する犬は光り輝く魔方陣の中にゆっくりと横たえられた。
(ワンコ兄さん、さよなら)
今まで一緒にいてくれたワンコ兄さんという存在がいなくなるのはどこか寂しかった。
そういう風に、きっとヒナも元に戻ってしまうのだろうから。
「優菜、心配しなくていい。私が兄弟子であることには代わらない。そして私がヒナや桂と一緒に旅をしたことは事実なんだから」
ワンコ兄さんはそう言って片目をつぶって見せた。
「優菜、そこからどいていろ。怪我をする」
ワンコ先生の言葉に頷いて、けれども優菜がしたことは一歩下がるということだけだった。
ワンコ兄さんの最後をどうしても見ておきたかった。
そしてすぐに先生と四人魔法騎士たちは魔方陣の外に等間隔に並び各々の魔法道具を持ち上げる。
杖の者も要れば、宝刀であったり、呪符であったり。
そして間をおかず、彼らから様々な色の湯気のような煙のようなものが立ち上り始めた。
それは高等な何かだというのは分かる。
優菜が気を高め使うのと同じように、きっと彼らが使う魔力なのだろう。
それらは各人から立ち上った後、男性とワンコ兄さんへと集まり渦を巻いてゆく。
そして魔方陣の中央にいるワンコ兄さんからも炎のように赤い魔力が立ち上ってゆく。
どこからともなく風が起こり、天幕を内側から持ち上げた。
優菜はその中でどうにか踏ん張ろうとしたが、足がふわりと浮いた。
(やば!)
慌てて天幕の支柱を握ろうとしたが、その手は空を切った。
(これはかなり嫌な予感!)
そして爆発にも近い音と、とてつもない閃光と、信じられない暴風に巻き込まれ優菜は暫し気を失った。
*
目を開けると口の中に容赦ない土が入っていた。
それを一生懸命吐き出しながら、目を開ける。
「大丈夫ですか?」
起こしてくれたのは鎧をまとってはいないが、食事当番をしていた国友と名乗る少年だということは分かった。
様子を見るとどうやら吹き飛ばされた優菜は彼らの天幕に激突し、壊してしまったようで、体の下には蒼い天幕の布があった。
「あ、ごめん、起こした?」
もう一人傍らに膝をついていた少年は目をどこかに向けていた。
「おい、国友、あんたも、あれ」
その少年が驚いたように指し示した場所には最後の騎士団長魔央の姿があった。
もう黒の天幕は吹き飛んでいたが、白く輝く魔方陣の中に佇む男性はまるで賢者の風格さえ持っていた。
「あれが魔法騎士団長?」
優菜がその姿の虜になり呟くと、国友は本当に嬉しそうに、魔方陣の光に目を輝かせながら何度も頷いた。
「ええ、あの方は魔法騎士団長魔央様です。良かった。これで騎士団長が揃った」
感傷に浸る国友とは違い、もう一人の少年は冷静だった。
「あんた怪我ないか? 結構飛ばされただろ?」
「ああ、うん。口のなかはじゃりじゃりするけど、怪我はないと思う」
「なら良かった。俺は国緒。こっちは朝名乗ったけど国友」
名前を聞いて、夢の中で彼らの享年を見てしまった優菜はこの二人が自分と同じ十六歳だということを知っていた。
あどけない顔は同じだと思う。
けれど二人は優菜より一回り体が大きかったし、腕っ節も強そうだった。
「俺、優菜。ごめんな、起こして。天幕建てるの手伝うからさ」
「おい、君大丈夫か?」
優菜は頭の上から掛かった新しい声に身を硬くした。
きっと彼と話をすると時を待っていたのだと思う。
彼にヒナについてつきつける時を。
「団長」
隣の騎士達の声とともに顔を上げると、目の前にいたのは国王騎士団長だった。
こんばんは!
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ワンコ兄さんが人間に戻りました。
少し寂しくなります(涙)