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第9章 :迎えに来る親なんていないのに


第九章 :迎えに来る親なんていないのに




次の日の朝




「弁護士にも相談してみたんだ。でも……やっぱり、退去するしかないって」




そう言った彼の声は、どこか遠くから聞こえるようだった。




電話越しの彼は、いつになく静かで諦めの色をまとっていた。


「ナッチのアパートに住ませて」


「今から君の街まで行くよ」




心臓が、一瞬だけ止まったような気がした。




本気なのか、冗談なのか――声の調子だけでは分からない。




でも、彼がこんなことを言うのは初めてだった。




胸の奥がざわついた。




会ったこともない、触れたこともない、画面の向こうの人が、急にすぐそばに来ようとしている。




“魔女”の皮を脱げば、私はただの年配の、車椅子の既婚者にすぎないのに。




彼が言ったのはあまりに唐突で、でも切実な声だった。




たった今、家賃を滞納して退去を迫られていると言った彼が、頼れる人間が他にいないのだと必死に縋ってきた。




でも、桜は――




歩けない。


そして、夫がいる。




桜の生活は、彼の思い描く“優しくて可愛い魔女”なんかじゃなくて、もっとずっと現実的で、身動きの取れない場所にあった。




困惑して、咄嗟に口をついて出たのはまた一つの嘘だった。




「部屋の保証人になってる親に相談しないと……」




嘘をつくたびに、心が軋む。


でも、その優しい声を突き放す勇気がどうしても持てなかった。




通話を切り少し時間を置いてから、桜はさらに嘘を重ねた。




「男と同棲なんて駄目だって、親が激怒してて……」




口にしたその言葉は、頭の中で何度も繰り返されて、まるで自分自身を嘲笑うように響いた。




親なんてもう何年も前に、私の人生から手を引いている。




助けを求めたって、振り向いてはくれない。




なのに、そんなありえない話を作り上げて、嘘の鎧をまとわなければならない自分が、どれだけ孤独でどれだけ無力なのか。




胸の奥が締めつけられて、涙がこぼれそうになったけれど、声は震えなかった。




彼にこれ以上、現実の重さを見せたくなかったから。




桜はただ、壊れそうな嘘の上で必死に笑っていた。




でも他にどう言えば良かった?




「私は既婚者です」「あなたに愛される資格なんてない」




そんな言葉を口にしてしまったら、きっとすべてが壊れてしまう。




優しくされて、信じられて好きだと言ってもらった時間が、嘘ごと消えてしまう。




本当は、きちんと伝えなきゃいけない。




この関係はもう終わりにしなければいけない。




でもそれが出来なかった。




彼の声が、あまりに優しかったから。


桜の嘘を、あまりにも簡単に受け入れてくれてしまったから。




――桜は恋をしてはいけない人に、心を奪われてしまった。




そしてその心を、戻すことができなくなっていた。

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