第8章 :ポストの中の現実
第八章 :ポストの中の現実
ブラウニーを作った次の日の朝
まだまどろむ頭でiPhoneを手に取ると、着信が入っていた。
――ゆたんぽさんからだ。
通話に出ると、彼の声はいつもより沈んでいた。
「……ナッチ、ごめん、ちょっと話していい?」
「うん、どうしたの?」
「……今日、久しぶりにポストを開けたら……弁護士事務所からの手紙が入ってたんだ。
家賃……4ヶ月分、滞納してたみたいで。強制退去になるって書かれてた」
一瞬時間が止まった気がした。
「え……4ヶ月も?」
「……去年の夏から、もう何もできなくて。鬱がひどくなって……ポストも開けてなかったんだ。
弁護士の名前が書いてあって、さっきようやく気づいた」
「鬱がひどくなって……。たぶん最初は、クレジットの引き落としが一つ、どこかで躓いたんだと思う」
静かな声だった。
その一言に、どれだけの混乱と無力感が積み重なってきたのかが滲んでいた。
彼は自分を責めるでもなく、開き直るでもなくただ事実を語るようにそう言った。
桜の胸がぎゅっと締めつけられた。
彼がそれほどまでに追い詰められていたこと、今やっと知った。
「今すぐ連絡しないと……! すぐ返事して、話し合って――!」
けれど、彼の口から返ってきたのは重たく静かな一言だった。
「……でも今日は祝日なんだ」
桜はスマホを握る手に、じんわりと汗がにじむのを感じた。
祝日の静けさが、こんなにも冷たく感じたのは初めてだった。
街が穏やかに眠っているその裏で、彼の世界だけが音を立てて崩れていくようだった
「……大丈夫。明日になったら一緒に考えよう。まず電話。間に合うよ、きっと」
そう言った桜の声には、ほんのわずか震えが混じっていた。
けれど、彼を支えたいという気持ちは揺らがなかった。
ポストに眠っていた現実が、祝日の静けさの中で音もなく膨らんでいくようだった。