第7章 :バレンタインの魔女
第7章 :バレンタインの魔女
その日は、冬の陽射しが少しやわらかく感じられる午後だった。
桜は、ナッチとして彼に贈るバレンタインチョコを作る決心をして、いつもの電動車椅子に乗り込んだ。
スマホにメモした材料リストを確認しながら、近くのスーパーへと向かう。
風は冷たかったけれど、頬にあたる空気が心地よい。
「バター、チョコレート、卵、薄力粉……あとはクルミも入れようかな」
お菓子作りなんて、ほとんど経験がなかった。
けれど彼が
「手作りチョコなんて嬉しい」
と言ってくれた、その言葉がずっと胸に残っていた。
スーパーでは棚の高さに少し苦労した。
手が届かないチョコチップを、近くにいた若い女の子が取ってくれた。
「バレンタイン用ですか?」
と笑われて、ちょっとだけ照れくさくて、けれど胸の中は温かかった。
家に帰ると、キッチンにレシピを立ててエプロンをつける。
動画サイトでブラウニーの作り方を再生し、慎重にひとつずつ工程を追っていく。
『バターって、こんなに溶けるの早いの?』
『混ぜすぎるとダメなんだっけ?あれ、さっき何グラム入れたっけ……?』
焦げないように、混ざりすぎないように、焼きすぎないように。
何度も確認しては手を動かし、オーブンに入れたあとも、しばらく前から離れられなかった。
焼きあがったブラウニーは、ちょっとだけ不格好だった。
でも香ばしい香りが部屋に広がって、思わずひとりで笑ってしまった。
「ちゃんと、気持ちが届きますように」
そう願いながら、小さく切り分けてひとつひとつ丁寧に包んだ。
どんな顔で受け取ってくれるだろう?
「楽しみにしてるね」
と言ってくれたけれど、本当に喜んでくれるのかな。
チョコを包む手が、ラッピングのリボンを結ぶたびに少しずつ震えていた。
不安と期待が入り混じった胸の奥で、何度も「大丈夫」と自分に言い聞かせる。
包み紙は、彼が好きだと言っていた色を選んだ。派手すぎず、けれど地味すぎない深い青。
そして最後に、たった数行の短い手紙を書いた。
――本当は、もっとたくさんのことを伝えたかったのに。
チョコレートを使うお菓子作りだったから、暖房はつけずにいた。
冷えた空気がじんわりと指先をかじり、ペンを持つ手は思うように動かない。
字が少しゆがんでしまったのが悔しかった。
それでも、彼に届けたい言葉だけは、心のままに綴った。
かじかんだ指で封を閉じて、宛名のない箱にそっとキスをした。
それは、恋をした【魔女】の最初で最後の嘘のない贈り物。
魔女からアザラシへの、世界でひとつだけの贈り物だった。