第15章 :写真の中の人が、そこにいた
第十五章 :写真の中の人が、そこにいた
約束の時間が近づくにつれて、桜の心臓はどんどん速くなっていった。
深呼吸をしても、手の震えは止まらない。
「大丈夫、大丈夫…」
何度も呟きながら、鏡の前で髪を整える。
手持ちの服の中で一番マシな、優しい色のワンピースを選んで着た。
少しだけメイクもして、ほんの少しだけ背伸びをした“私”でいたかった。
玄関を出て、タクシーに乗り、懐かしい街へ向かう。
数年前まで住んでいた街。
見慣れた風景が、今日はやけに色鮮やかに見えるのはきっと彼に会うから
待ち合わせは、駅前のカフェ。
ガラス張りのカフェが見えてきたとき、思わず深く息を吸い込んだ。
――あの中に、彼がいる。
いつも画面越しでしか聞かなかった声、文字でしかやり取りしてこなかった温度。
それが今、現実になる。
カフェの自動ドアが静かに開いた。
ほのかに香るコーヒーと焼き菓子の匂いに包まれて、桜はそっと店内を見渡す。
すぐに彼が目に入った。
入り口近くの一番目立つ席で、彼は静かにコーヒーを飲んでいた。
写真で何度も見た、あの人。
でも、こうして動いて息をしている姿は初めてで、不思議なくらい現実味がなかった。
注文カウンターで控えめにコーヒーを受け取ると、緊張で指先まで震えていた。
『落とさないで…』
心の中で何度も念じながら、彼の席へと進もうとしたその時だった。
電動車椅子の操作がほんの少し狂って、壁に「コトン」と軽くぶつかった。
一瞬、店内の空気が止まる。
振り向いた彼が、すぐに立ち上がってこちらに駆け寄ろうとする。
心配そうな表情。
でも、その目には恐れも迷いもなかった。
ただ、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「大丈夫だよ」
桜は少し照れたように苦笑いを浮かべて、肩をすくめた。
コーヒーを持ったまま、ゆっくりと彼の前にたどり着く。
「初めまして」
やっと、やっと会えたんだ。
改めて彼の顔を見る。
落ち着いた色のジャケットに、形の良い帽子。
そして、写真ではわからなかった、どこか安心するような空気をまとっていた。
写真で見たよりも少し大人びていて、優しそうな雰囲気がそのまま目の前にあった。
なんだか夢みたいだった。
目の前にいるのに、まだ少し信じられなかった。
「やっと会えたね」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
桜はそっと頷いて
「待たせてごめんね」
と返した。
彼は、まるで初めてじゃないような自然な仕草で私のカップを受け取ってくれて、テーブルの上にそっと置いてくれる。
コーヒーの湯気が、少し震えていた桜の心を優しく包んだ。
店内には静かな音楽が流れていて、他のお客さんの話し声も遠くに聞こえる。
でもそのどれもが、少しだけ遠い世界のことのように感じた。
「桜は、思ってた通りの人だった」
彼が静かに言う。
「それって、良い意味?」
少し冗談めかして聞いてみた。
彼は笑いながら答えた。
「うん。……いや、思ってたより、もっと。」
その言葉があまりにも優しくて、桜は思わず目を逸らした。
この身体で来て、本当に良かったのか。
本当の姿を晒してしまって、もう幻が壊れてしまったんじゃないか。
そんな不安が心の片隅にあった。
でも、彼はずっと変わらないまなざしで桜を見ていた。
同情でもなく、哀れみでもなく、ただまっすぐな愛情のまなざし。
「僕ね、本当は、現実に会ったら何か幻が壊れるんじゃないかって怖かった。ナッチがナッチじゃなくなるんじゃないかって。」
「……そっか。私もそうだった。」
「でも、違ったよ。むしろ今の方が、ずっと……」
周囲のざわめきも、まるで別世界の音のように遠く感じられた。
私たちは少しの間、言葉を交わさずにいた。
何を話したらいいのか分からなかった。
けれどその沈黙すら、心地よく感じた。彼の一言で、心の奥に張っていた氷のような不安がゆっくりと溶けていくのを感じた。
桜はふと笑って、コーヒーに口をつけた。
こんな風に、普通に傍に居られるだけで良い。
もうこれ以上、何も求めなくて良い。
ただここに居てくれてありがとう。
私は、やっと本当の自分でこの人と向き合っている。
そう思ったら、胸の奥がほんのり熱くなった。
この人と出会えた奇跡を、心の中でそっと抱きしめながら、桜は窓の外の光を見つめていた。




