第1章:出会い
この作品『アザラシと魔女と』は、嘘と秘密に彩られた二人の魂の交差点を描く物語です。共依存のもどかしさや再生の切なさ、そして儚い愛の輝きを繊細に紡ぎました。読んでくださる皆さんに、胸が締めつけられる感情や、ほんの少しの癒し、そして愛の意味を考えるひとときをお届けできれば幸いです。
もともとnoteで連載している作品ですが、「小説家になろう」の皆さまともこの世界を共有したくて投稿しました。コメントや感想、どんな小さな声でも励みになりますので、ぜひお聞かせください!
※オリジナル作品で、商業化やコンテスト受賞はありません。よろしくお願いします!
プロローグ
――はじまりは嘘だった。
【魔女】なんて本当はいなかった。
いたのは、嘘をまとうことでしか生きられなかった――ただの弱い女。
私は彼よりずっと年上で、車椅子に乗って暮らしている、既婚者だった。
でも、画面の向こうの誰かと話す時だけは、明るくてちょっと天然で、未来を夢見る魔女になれた。
名前も、年齢も何もかも誤魔化した。
けれどあの人は――「ゆたんぽさん」は、そんな魔女の言葉を、まっすぐに受け取ってくれた。
静かな午後だった。
彼から送られてきたのは、本の写真。
私が薦めた作家の、小さな文庫本だった。
風景は何ひとつ映っていない。
でもその中に、彼の存在がはっきりとあった。
私は気づいてしまった。
――この嘘の魔法は、もう後戻りできない。
好きになってしまった。
本当の私は、きっと嫌われてしまう。
それでもあの優しい声が聞きたくて、私は今日も“魔女”であり続ける。
これは【魔女】と【アザラシ】の
嘘から始まり、嘘では終われなかった、ほんの少し罪深い恋の話。
第一章:出会い
配信アプリ『IRIAM』
アプリを入れたばかりの頃に訪れた、魔女の枠には、毎晩決まった時間にたくさんのリスナーが集まっていた。
「こんばんはーっ! 今日も来てくれてありがとうね!」
配信者の声は、明るくて弾けるような“元気なお姉さん”って感じで、リスナーとして遊びに行くといつも心が暖かくなって元気をもらった。
私の名前は、桜。
冬に咲かない、その名を持って生まれた。肩までのボブヘア、かけ慣れたメガネ、笑うとできるえくぼ。無駄に白い肌。人より大きな瞳。
どれも私の“記号”みたいなものだった。
だけど、誰かに呼ばれるこの場所でだけは、全く違う名前が欲しかった。
ナッチ――
それはアプリでの名前。
画面越しにだけ咲く、明るくて元気で、少しだけお節介な天然の“誰か”
桜は地上で静かに根を張る。
でもナッチは、現実の足かせを離れて、自由に声を届けたいと思っていた。
ナッチはまだ、自分の声を誰にも届けたことがなかった。
ーーー来年の1月には、魔女として自分も配信を始めると決めていた。
いつも勉強のつもりで、憧れの魔女キャラの枠に遊びに来ていた。
周りのリスナー仲間も憧れの魔女も「楽しみにしてるね!」と励ましてくれてる。
ここでは誰もが、少しだけ違う自分になれる。
歩けない自分も、年齢をごまかした自分も、全部仮想のキャラで包み隠せる。
憧れの魔女の枠のコメント欄は、今日もにぎやかだった。
ライバーの魔女は、リスナーが書くコメントを1つ1つ丁寧に読み上げて、それに対して答えて、ライバーとリスナーの距離感が近いのがこのIRIAMの良さだった。
そんなリスナー達の中にどこか雰囲気の違う名前がひとつだけあった。
――「ゆたんぽ」さん。
アイコンはアザラシのイラストだった。
難しい数学の話や、昔読んだ小説の引用。ひとつひとつのコメントが丁寧で、少しだけ浮いているのに、なぜか誰からも嫌われていなかった。
「さすがゆたんぽさん」
「今日の話、興味深かったです」
周囲のリスナーたちもどこか彼に一目置いていた。
ナッチは、その存在がなんとなく気になった。
言葉使いがとても綺麗だったから。
だけど、配信の終わりに必ず訪れる“あの時間”には、引っかかるものを感じていた。
「オットセイの真似しまーすwwwおうおうおうおうおwwwwパァンッパァンッ(ヒレを叩く音)」
いつもは知的で落ち着いてるのに、
最後には決まって、配信者の口からオットセイの真似をするコメントを言わせる。
『……ほんと変な人だなw』
そう思いながらも、どこか嫌いになれない。
ナッチはふとした好奇心で、
「ゆたんぽさん」のXを検索してみた。
出てきたのは、驚くほど真面目なポストの数々だった。
「距離空間における収束と完備性の直感的理解」
「なぜ“無限”を扱うには論理的厳密さが必要なのか」
何を言っているのか、正直わからなかった。
けれど、フォロワーとのやり取りの中には、ちゃんと相手を尊重する丁寧な言葉遣いが並んでいて、
彼がただ知識をひけらかしているわけではないことも伝わってきた。
「ほんとに……頭いい人なんだな」
あの魔女の配信では、ちょっと変なことを言って笑わせたり
アザラシの真似をさせたりしてたのに――
ここではまるで別人のように真剣だった。
スクロールする指が、ふと止まった。
数日前のポストだった。
そこだけ、文体が少しだけ違っていた。
「誰にも必要とされてない気がして、今日も何もできなかった。
それでも、学ぶことでしか自分を保てない。
無意味でも、知ることが最後の支え。」
いつもの難解な理論や数式とは違って、そこには切実な心の声があった。
胸の奥がちくりとした。
――桜――には、その感覚がよくわかったから。
自分を偽って元気な魔女を演じて、誰にも弱音を吐けないまま、ずっとひとりだったから。
「……ほんとはあの人も、寂しいのかも」
そう思った瞬間、彼が少しだけ近くにいるような気がした。
――それから数日後。
魔女の配信を見ていた常連のリスナーたちが作ったDiscordサーバーの存在を知った。
いわゆる“ファン鯖”というやつで、配信の感想や雑談、小ネタで盛り上がっているらしい。
ある夜――
「ナッチも、鯖においでよ!」
声をかけられ、ナッチは少しだけ勇気を出して招待リンクを開いた。
サーバーの中は、思っていたよりも穏やかで優しい空気に満ちていた。
配信の話題、日常のこと、そして――
ひときわ目を引いたのは「創作」のチャンネルだった。
ゆたんぽさんが投稿していた数々の短編小説が並んでいた。
魔女とリスナーたちが冒険する、幻想的な物語。
風や光の描写に、彼の感受性が静かに滲んでいた。
「……すごい。綺麗」
ナッチは思わず、最後まで一気に読んでしまった。
自分のことを、どこまでも小さく感じていたのに、誰かの言葉がこんなにも静かに心を照らすことがあるなんて。
それを書いたのが、あの“ゆたんぽさん”だなんて。
――桜は
言葉にしてしまえば世界観が壊れてしまいそうで、ただ黙って彼の物語を読むだけだった。
子どもの頃から本の中に逃げ込むのが癖だった。
歩けない身体になってからは、沢山の本に囲まれて現実逃避していた。
でも、本当に心を預けられる文章にはなかなか出会えなかった。
けれど――
ゆたんぽさんが綴るその世界は、桜の心の奥深くに静かに触れてきた。
風のにおい。
星の光。
誰かのために立ち止まる魔女の姿。
短い文章のはずなのに、
読み終えると、いつも胸があたたかくなっていた。
「……今日も、更新されてる」
毎日Discordの通知を見るたびに、胸が高鳴る。
現実のつらさや孤独は変わらないのに、それでも一日が少しだけ楽しみになる。
彼の書く世界が、桜の中でゆっくりと息をし始めていた。
ある夜、何気なく彼――ゆたんぽさんのXを開いた。
いつも通り、静かで優しい言葉が並んでいるはずだった。
でもその日目にした投稿は、胸の奥に冷たい杭を打ち込むようだった。
「今日で音楽が嫌いになって10年目
今でも死ぬほど大嫌いだし
狂おしいほど大好きな君のことも、そろそろ割り切らねばならないなと思ってるよ。」
指先が止まり画面の光がやけに眩しく感じた。
“君”って、誰のことだろう――そう思いたいのに、
心のどこかでわかっていた。
桜はその投稿を何度もスクロールしては戻り、息を詰めながら読み返した。
「狂おしいほど大好き」――それほど誰かを愛したことがある人。
そんな彼が、今私と夜を共にしているという現実が急に儚く思えた。
「狂おしいほど大好きだった“誰か”」に桜はずっと勝てない気がしていた。
だから桜は魔女でいるしかなかった。
現実じゃない、幻の姿でしか彼の隙間には入り込めない気がした。
胸がざわざわする。気づいたら、XのDMを開いていた。
「ゆたんぽさん、Xを見て心配になりました……」
桜は、そのまま一気に指を走らせた。
「落ち込んでないですか? 大丈夫ですか?
ゆたんぽさんは一人じゃないですよ。私たちがいます。
何でも吐き出してくださいね。支えになりたいです(頼りないですけど)」
「私たち」なんて言葉を使ってしまったけれど、本当は――「私」が支えになりたかった。
けれど、自分だけを押しつけるのは怖かった。元カノの影が、彼の心をまだ離れていないことも、
彼の苦しみが、桜の想像の遥か上を行っていることも、わかっているからこそただ静かにそばにいたかった。
彼からの返信は、思ったよりも早く届いた。