ある日、犬を拾ったら
「止めてちようだい」
下校中、ふと目を向けた先にボロボロな犬がいた。
気になった私は、すぐに御者に馬車を止めてもらい、犬のそばへゆっくり近づいた。
痩せすぎてはいないようだけれど、本来の毛色がわからないほどに泥にまみれていた。長くてふんわりとしていたであろう毛は、ぺしゃりと体にくっついてしまっている。
そっと手を伸ばしても犬は吠えることもなく、じっと私を見上げていた。
「あなた、ずいぶんと汚れているわね。いらっしゃい。ご飯もあげるわよ」
家の近くまで来ていたこともあって、私は制服の上着で犬を包んで抱き上げ、馬車へ戻った。
制服が汚れてしまって申し訳ないけれど、この子を見ないふりする方が嫌だった。せめて馬車は汚さないよう、しっかりと抱きかかえる。
犬は私が危害を加えることがないとわかったのか、ずっと腕の中でおとなしくしていた。
帰宅後、お湯の用意をしてもらって早速犬を洗う。
お嬢様がなさらなくてもとメイドに言われたが、なぜかこの子の世話は誰にも任せたくなかった。
「あら。あなた、こんなに綺麗な色をしていたのね。素敵」
泥を落としてやると、犬の本来の毛色があらわになる。その色はまるで白銀のような、透き通った綺麗なシルバーだった。
乾かすと思っていた通りとてもふわふわとした毛並みで、いつまでも撫でていたくなるほどの手ざわりだ。
私を見上げる鮮やかな紅色の瞳は、くりくりとしていて可愛い。
「なんだか昔うちで飼ってたウサギのバニラによく似てるわね。バニラは真っ白な毛色で、目があなたみたいに赤くて可愛かったのよ。そうだわ。ウサギに似てるのならラビって呼ぼうかしら」
冗談で言ったつもりが、犬は大喜びでブンブンと尻尾を振っている。
「…ラビでいいの?」
「ワフッ!」
「そう。…じゃあ、あなたは今からラビよ」
「ワウンッ!」
「私はオリヴィアよ。よろしくね」
そう言って頭を撫でてやると、ラビは嬉しさを爆発させるように私の周りをぐるぐると駆け回った。
その日の夜はラビと一緒に寝た。
ラビの寝床も用意していたけど、どうしても一緒に寝たいと言うように瞳をうるうるとさせてベッドに前足を乗せられたら、自分の寝床で寝なさいと言うことはできなかった。
ラビのふわふわの毛に顔を埋めると、バニラと一緒に遊んだ日々を思い出した。
一度許したからか、その日以降もラビは私と一緒にベッドで眠っている。
しつけの失敗を早速味わった思いだったけれど、可愛いからまあいいかと、私は自分の飼い主バカの資質を感じていた。
◇◇◇◇◇
「それで、その子はオリヴィアの家の子になったの?」
「ええ。お父様にお願いして、私と一緒にお嫁入りするのを条件に許してもらったわ。…あ、ラビは男の子だったから、お婿入りかしら?」
ラビが正式にわが家の仲間入りをしたので、お友達のミリアムにラビのことを報告をした。
ミリアムも動物が好きだから、既にラビに会いたくてうずうずしているようだ。今度ラビのお披露目のためにお茶会を開くのもいいかもしれない。
「お嫁入りって。オリヴィア、あなたまだ婚約もしていないじゃない」
「これから私とラビを一緒にもらっていただける方を探すわ」
「変な人に引っかからないでよ?」
「わかってるわ」
「なんだか心配だわ…」
「大丈夫よ、びっくりするくらい素敵な方を捕まえてみせるわ」
「オリヴィアさんに捕まる人が不憫だなあ」
ははっと爽やかに笑いながら腹の立つことを言ってくれたのは、ミリアムの婚約者のレックス様だ。
二人はお互い溺愛しきっているバカップルとして学園で有名になっている。
「レックス、そんな言い方したらオリヴィアに失礼よ」
「そうよ、恩人に向かって何て言い草かしら。この前あなた達が授業に遅れた時、私がどれだけ気を遣ってごまかしたと思っているの」
「それは本当にごめんなさい」
「その恩はランチを奢ることで返したと思うけど」
「レックス。それでもオリヴィアにお世話になったことは変わらないんだから」
「ごめんね、ミリアム。…でも、怒ったミリアムも可愛いね」
「ちょっと…!人前で何言ってるのよ」
「だって本当のことだし」
「もう…」
(始まったわ、バカップル)
この二人は人前でも隙あらばイチャイチャとしている。
ミリアムは一応レックス様に注意はするけど、満更でもなさそうだ。
私はまだ婚約者すらいないし、異性として人を好きになる感覚もわからない。
もし誰かと婚約することが決まったなら、この二人のようにお互いを理解して、好きだと言い合える関係を築きたいと思っている。罵り合ったり、冷め切った関係よりよっぽどいい。
(…なんてね。恥ずかしいからそんなこと言ってやらないけど)
私はイチャつく二人を見るのが存外に好きだ。
顔では呆れながら、こっそり二人との時間を楽しんだ。
・・・
帰宅すると、お父様が呼んでいると言われた。王宮へ勤めているお父様がこの時間に帰宅しているのは珍しい。
私の帰宅を喜ぶラビに「あとで遊ぶわね」と声をかけ、制服から着替えてすぐに執務室へ向かった。
「お父様、ただいま帰りました。ご用と伺いましたがなんでしょうか」
「ああ、オリヴィア。…まあ、座りなさい」
ソファへ座るとすぐにお茶の用意がされる。
お父様はお茶を一口飲むと、陰鬱な顔で口を開いた。
「……オリヴィアに縁談が来ている」
「縁談ですか」
「そうだ」
今日まさにお嫁入りの話をしていたから、あまりのタイミングの良さに驚いた。
私はもう十七歳になる。我が家は政略結婚を必要としていないから好きな相手を選んでいいと言われていたが、私はいいご縁を探すことにあまり興味を持てなかった。
幼い頃から婚約していたミリアムとレックス様のことを考えたら、十七歳で相手がいないのはよくない。もしかしたら、痺れを切らしたお父様が知り合いの方にお世話をお願いしたのかもしれない。
しかし、そうであるならお父様がなぜこんな顔をしながらしているのかが引っかかった。
「お相手はどなたですか?私も知っている方でしょうか」
「ああ。……第二王子のディラン殿下だ」
「え…」
私の手から離れたカップがカシャンと音を立てた。
「オリヴィアには言えずにいたが、実は殿下から何度もオリヴィアを婚約者にと言われていたのだよ」
「そう…だったのですね」
重苦しい雰囲気が執務室に漂う。
お父様の話を聞いていくうちに、私はどんどん顔が強張っていくのを感じていた。
「オリヴィアはずっと殿下を避けていたし、私もお前が望まない相手を選びたくはないと思っている。はぐらかしている内に諦めてくれないかと思っていたが…殿下がそんなに自分を嫌がるのはおかしい、叛意でもあるのかと言い出したのだ」
「そんな…!」
「もちろん我々に叛意などない。ジェイクも王太子殿下に掛け合ってはいるが、王家もディラン殿下には手を焼いているらしい。お前が殿下とお会いになるのは避けられそうにない」
「………」
兄のジェイクは王太子殿下の側近の一人だ。
お父様もお兄様も自分の立場があるだろうに、私のために頑張ってくれている。それが私には嬉しかった。
「わかりました。ディラン殿下とお会いします」
「オリヴィア……すまない」
私が殿下と会うことを了承すると、お父様の顔がくしゃりと歪められた。
お父様の表情から、どれだけ私のことを想って下さっているのか伝わってくる。こんなにも想ってくれるお父様達を私も守りたいと思った。
「私達も婚約を避けられないか手を尽くす。だから諦めるな」
「ありがとうございます。でもいいのです。…これまで庇って下さって感謝致します」
「オリヴィア…」
お父様は私が何を考えているか悟ったらしい。
でもこれでいい。私が殿下へ嫁いで全てが丸くおさまるのなら、それでいい。それが一番いい。
そのまま執務室を出たが、部屋に戻る気になれなかった私は庭へ出た。
あてもなく歩いていると、いつの間にか昔よくバニラを遊ばせていた場所へ来ていた。
ベンチがあったのでそこへ座る。少し古くなっていたが、手入れはされているようなので大丈夫だろう。
腰を落ち着けた私は、殿下とのことをゆっくりと思い出した。
◇◇◇◇◇
私と第二王子のディラン殿下は、お兄様が王太子殿下の側近候補に選ばれた時に初めてお会いした。私が五歳の頃だった。
お兄様が交流会に参加するために王宮に向かう時に、私は毎度のようについて行きたいと駄々をこねて泣き叫んでいた。そんな私を見かねたお父様が、一度だけの約束で一緒に行く許可を取って下さったのだ。
案内された部屋へお兄様に手を引かれて入ると、お兄様と同年代の男の子が何人かいて、その中に王太子殿下と弟のディラン殿下がいた。
王太子殿下が「君がジェイクの妹さんか?今日は楽しんでいくといい」と声をかけて下さったのを覚えている。
王太子殿下がディラン殿下を連れて来ていたのは、同じ歳の子がいた方が私が楽しめるだろうとの優しさからだった。
初めは普通に遊んでいたと思う。
おかしいな?と思ったのはおやつの時間だった。ディラン殿下が私の分のおやつを無理やり奪ったのだ。
「こら、ディラン。それはオリヴィア嬢の分だろう。返しなさい」
「嫌です」
「ディラン!」
「…わかりました。ほら」
「ありがとう…」
王太子殿下が叱ってくれたおかげですぐに返してもらえたが、その後も何かとディラン殿下からの小さな嫌がらせが続いた。
その度に王太子殿下が注意してくれたが、ディラン殿下の嫌がらせが止むことはなかった。
私はこんな目に遭うならわがままを言わなければよかったと後悔しながら帰路に着いた。
しかしその日以来、お兄様が王宮へ上がる度にディラン殿下がいて、私が来るのはいつだとたずねるようになった。お兄様がもう来ないと伝えても何度も聞いてくるらしい。
とうとう「オリヴィアが来ないのなら俺が行く」と言いだし、ついにディラン殿下がわが家へ来ることになった。
「久しぶりだな。お前、何であれから王宮に来ないんだ?」
「……あの日だけって、お父様と約束してたから」
「ふーん、そうなんだ」
「……うん」
前回のことがあるので、殿下が何かしてもすぐに止められるよう、我が家のメイドや殿下の護衛達にはすぐ近くに控えてもらっていた。
メイド達が近くにいるから悪さはしないだろうと、私は少しずつ気を許していった。しかしそれが良くなかった。
「へえ、ウサギなんて飼ってるんだ」
「うん。バニラって言うの。可愛いのよ」
「バニラ?食べるのか?」
「え?食べないよ?」
「だってバニラってアイスだろ。食べ物じゃないか」
いきなりバニラを食べるのかと聞かれて私はびっくりした。
確かにバニラアイスを意識してつけた名前だったけれど、それがどうしてバニラを食べると言う発想になるのかわからなかった。
「そういえばウサギもうまいよな。なんだ、やっぱり食べるために飼ってるんじゃないか!」
「食べないってば!」
「そいつどこにいるんだ?早速食べよう!」
「なっ…何でそんなひどいこと言うの!?食べないって言ってるのに!」
笑顔でバニラ食べようと言われ、ついに私は泣き出した。
慌てたメイドと護衛が止めに入り、不貞腐れながらディラン殿下は帰って行った。
その後はディラン殿下が何を言おうと私が殿下へ会いに王宮へ行くことも、殿下が我が家へ来ることもなかった。
後から殿下が私を気に入っていたからいじわるをしてしまっていたと聞かされたが、五歳の子供に好きな子いじめなんてものが理解できるはずもなく、私は二度と殿下に会いたくないとお父様に言った。
娘を傷つけられたお父様も私に同意してくれて、極力ディラン殿下に会わずに済むようにしてくれた。
(…まさか、まだ私を望んでいただなんて)
ディラン殿下のあまりの執着ぶりに薄ら寒いものを感じた。
・・・
部屋に戻るとラビが尻尾を大きく振って私を迎えてくれた。
私はソファへ座り、ラビを抱き上げて膝に乗せた。
「ねえ、ラビ。殿下が私をお嫁に欲しいと言ってるんですって。これまでも何度か打診があったみたい。私は嫌だけど…あの方は思い通りにならないと気が済まない方だから、結婚は避けられないでしょうね」
私は心を落ち着かせるようにラビを撫でながら話す。
ラビはじっと私を見上げ、静かに私の話に耳を傾けていた。
「殿下は動物の扱いが酷いから、一緒にいたらラビも酷い目に合うかもしれない。それくらいなら…私じゃなくて、新しい飼い主を探した方がいいわね」
私がそう言うと、ラビは嫌だと訴えるようにしきりに鼻先で突いてくる。
くすぐったさに私は思わず笑ってしまった。
「不思議ね。まるで私の言葉がわかってるみたい」
「クゥン…」
「うん、そうね。私も寂しいわ」
いつの間にか涙がこぼれていたようで、ラビが必死に顔を舐めてくる。
「慰めてくれてるの?…ありがとう。あなたは優しい子ね」
私の言葉を肯定するように、ラビがキュウンと鼻を鳴らす。
そのままぎゅっとラビを抱きしめた。
◇◇◇◇◇
「ねえミリアム。ラビのこと、飼ってもらう気はない?」
「え!?」
翌日。ラビを飼ってもらえないかたずねたら、ミリアムにもレックス様にも驚かれた。
それもそうだろう。前日に私は、自分とラビを一緒にもらってくれる人を探すと豪語していたのだから。
事情を説明すると、二人の顔が曇った。
「そういうことなら構わないけど……でもディラン殿下だなんて。オリヴィア、あなたそれでいいの?」
「いいも何も、我が家に選ぶ権利なんてないと思うわ。あの方はどこまでも我を通すでしょうし。……あーあ。こんなことになるなら、いい人を見つけてさっさと婚約しておくんだったわ」
「オリヴィアさん…」
私の言葉に、ミリアムとレックス様は顔を見合わせた。
二人は私と殿下のことを知っていて、公の場では私が殿下と会わないように何度も助けてくれた。
二人には私の本心などお見通しだろうけれど、無理にでも明るく言わないと心が折れそうだった。
・・・
結局、ミリアムは卒業と同時にレックス様の元へ嫁ぐ予定なので、ラビはレックス様のお宅へ行くことになった。
お別れの日。ラビは寂しそうにしていたが、おとなしくレックス様に引き取られていった。
しかし、後日レックス様に告げられた言葉に私はひどく動揺した。
「え!?ラビがいなくなった!?」
ラビはしばらくレックス様の元で過ごしていたが、散歩の途中でレックス様の手からリードを振りほどいて走って行ってしまったらしい。
レックス様も何日も探したようだが見つからないそうだ。
「ごめん、オリヴィアさん。せっかく僕達を信頼してラビを託してくれたのに、こんなことになってしまって」
「私も一緒に探したけど、どこにもいないの…ごめんなさい、オリヴィア」
「………」
二人の顔から、ひどく後悔しているのが伝わってくる。
私の代わりにラビを飼ってくれたこともありがたいのに、こんなにもラビのことを大切にしてくれていたことが嬉しかった。
「……なぁんだ!あの子も自由になりたかったのね!」
「オリヴィア…」
「いいのよ。元々ノラだった子だし、好きに生きたかったんじゃないかしら。元気でいるといいのだけど」
二人にこれ以上気に病んでもらいたくなくて、笑顔で気にしないで欲しいと伝えた。
けれど、レックス様のところにいれば会いたい時に会えると思っていたから、それが叶わなくなって悲しくも思う。
(あんなに私に懐いてくれていたのに、レックス様のところへ連れて行ったのが嫌だったのかしら。無理にでもお父様に家に置いてほしいと頼めばよかった…)
「ごめんね、ラビ…」
その日はラビが心配で、食事も喉を通らなかった。
いなくなった場所を聞いて探してみたけれど、ラビが見つかることはなかった。
◇◇◇◇◇
ラビがいなくなったと聞いて二週間が経った。
私は陛下に呼び出され、お父様と共に王宮へ来ていた。
もしかしてディラン殿下との婚約を本格的に進められるのでは…と思い行きたくなかったが、陛下の呼び出しを断るわけにもいかなかった。
通された部屋には既に陛下と王妃様、王太子殿下……そして、ディラン殿下がいた。
(やっぱり、婚約の話を進めるのね)
覚悟していたとは言え、いざ現実になると手の震えが止まらない。私の心はどんどん冷えて行った。
するとその時。
「あ、僕が最後ですか。お待たせしてすみません」
ガチャリと扉が開き、見たことのない青年が部屋へ入って来た。
服に付けられている紋章は、記憶間違いでなければ隣国のものだと思う。
白銀のような透き通った綺麗なシルバーの髪に、鮮やかな紅色の瞳。それはまるで…。
「ラビみたい…」
ぽつりとつぶやいた私の声に青年が勢いよくこちらを見た。
私と目が合った途端、青年がぱっと笑顔になる。
「オリヴィア!会いたかった!」
そのまま私は青年に抱き締められていた。
「え、あの!?」
「レックスの家から勝手にいなくなってごめん!でもあの姿だと君を助けることもできなくて…急いで来たつもりだったけど何日も経ってしまった。心配かけたよね?ごめん!」
「ちょっ…ちょっと待って下さい!」
なんとか腕の中から抜け出し、まじまじと青年の姿を見る。
まるで私と知り合いのように振る舞っているけど、やはり私には彼と会った記憶などない。
「あの、どこかでお会いしたことがありますか?」
「え?」
「失礼ですが、私はあなたと初対面だと思うのですが」
青年はポカンとした後、私の両肩に手を置き、にっこりと人好きのする笑顔を見せた。
「ラビだよ」
「え?」
「あの日、君に助けられた犬のラビは、僕だよ」
「……は?」
告げられた言葉に私は驚いて目を見開く。
自分をラビだと言う青年は、そんな私を見て笑みを深めた。
「いつまでくっついているんだ!」
私とラビ(仮)の間を裂くようにディラン殿下の声が響いた。
ディラン殿下は怒りを隠すことなく、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけている。
「おいお前!オリヴィアは俺の婚約者だ!気安く触るな!」
「ディラン。オリヴィア嬢はお前の婚約者じゃない」
「何を言ってるんですか兄上!この場は俺とオリヴィアの婚約を話を進めるために設けられたんですよね?ここに来たってことは、オリヴィアが結婚を了承したということでしょう!?」
「違う。オリヴィア嬢に今日ここへ来てもらったのは、そちらのアシェル殿のご要望だ」
「は?アシェルって……この白髪頭ですか?」
「ディラン!他国の王族に対しその言動は何事だ!」
堪忍袋の尾が切れたかのように、陛下がディラン殿下を一喝した。
陛下が声を荒げるのを初めて見て、私も萎縮する思いだった。
「アシェル殿、愚息が失礼した」
「いえ、構いませんよ」
ラビ(仮)はアシェル様と言うらしい。
王族だと陛下がおっしゃったけど、事実だろうか。それに私と会うことを望んだって…?
私が混乱しているとわかったのか、アシェル様がにっこりと笑う。
「さっきも言ったけど、ラビは僕なんだ」
「そう、なんですね」
「そうだよ。オリヴィアは僕の国のことはわかる?」
「基本的なことは知っていると思いますが、さすがに人が犬に変わるなどということは存じ上げません」
「ああ、そうだよね。あまり大々的には言ってないんだけど…僕の国の王族は、動物に姿を変える能力を持って生まれるんだよ」
アシェル様の話では、王族の方々はある条件の元で姿を変えることができるそうだ。アシェル様は犬だが、他の方々もそれぞれ違う動物へ姿が変えられるらしい。
変化できる条件は重大な機密のようで「教えてあげられなくてごめんね」と言われた。
私がラビを拾ったあの日は、ちょっとした事故で人に戻ることができず途方に暮れていたそうだ。
そんな状況で私と出会い、保護してもらえたことを感謝しているらしい。今日のこの場も、アシェル様が私へお礼を言いたいからと設けてもらったようだ。
「あのまま犬の姿で弱っていくのかと思って焦っていたから、オリヴィアが保護してくれて本当に助かったんだ。ありがとう」
「そういうことだったのですね。ご丁寧にありがとうございます」
「うん。だから今度は僕がオリヴィアを助ける番だ」
「え?……アシェル様!?」
アシェル様はおもむろに私の前で片膝を付いた。
私を見上げる瞳はとても優しげで、ラビの姿と重なって見えた。
「オリヴィア。僕と結婚してほしい」
両手で私の手をそっと握り、わずかに頬を紅潮させながら言われた。
言葉の意味を理解するまで一拍かかったが、理解した瞬間、顔が燃えるように熱くなった。
「……お前っ…オリヴィアは俺が先に求婚してるんだ!後から来て横取るような真似をするなんて卑怯だぞ!」
ディラン殿下が声を荒げ、その声に私はびくりとし体が強張った。
そんな私を見て、アシェル様が冷ややかな視線をディラン殿下へ向けた。
「卑怯?卑怯はどちらだろうね」
「何!?」
アシェル様がゆっくりと立ち上がり、ディラン殿下を鋭く見据える。
「幼い頃からオリヴィアを傷つけて、無理やり自分に目を向けさせて従わせようとする。充分に卑怯だと思うけど?」
「それはっ…オリヴィアが俺を避けるのが悪いんだ…!」
「君、いくつ?好きな子にちょっかいかけて、気に入らなければ相手のせいにしてごねて。そんなのは小さな子供がやることだ」
「……っ」
「そんな相手との結婚を了承するだなんて、本気で思ってるの?おめでたい頭だね。オリヴィアは君を視界にも入れたくないと思っているのに」
アシェル様の言葉にディラン殿下がこちらを見たが、ディラン殿下に見られたくなかった私は背を向けた。
そんな私を守るように、アシェル様はそっと私を抱き寄せた。
「そんな…」
ディラン殿下の弱々しい声なんて初めて聞いたが、私は振り向くことはなかった。
「そういうことなので、オリヴィアはもらっていきます」
「きゃっ!?」
そう言うなり、アシェル様が私の膝の裏に手を回し抱き上げた。
抱き上げられるなんて子供の頃以来で、落ちるかもしれないと思った私はぎゅっとアシェル様にしがみついた。
「オリヴィア…それ、いいな」
アシェル様はうっとりとし、私を抱き上げたまま退室した。
私は落ちないように必死で、アシェル様がどんな様子かだなんて知る由もなかった。
・・・
気がついたら王宮内の庭園にいた。
ベンチの上で、なぜかご機嫌なアシェル様の膝に乗せられていた。
「あの、アシェル様」
「何?」
「自分で座れます」
「そうだろうね」
「だったら」
「だめだよ。今からオリヴィアを口説くんだから」
「!」
言われた言葉に絶句して動けなくなる。
アシェル様は優しい顔で私を見つめていた。
「その…」
「ん?」
「求婚して下さったのは、私がアシェル様を助けたご恩返しでしょうか」
私の言葉に今度はアシェル様が絶句したようだった。
「え?違うよ、何でそうなるの。オリヴィアは人助けで人生の伴侶を決められるの?」
「結婚するだけなら気持ちが伴わなくてもできますし、必要であれば父に言われる相手に嫁ぐ心づもりでいました。それに、今度は僕が助ける番だとおっしゃっていたので、私を助けるために偽りの求婚をして下さったのかと…違うのですか?」
「あ…それは僕が悪かった。ごめん」
アシェル様はバツが悪そうにし、私を自身の横へ座らせた。
そのまま私の手を握って言葉を続ける。
「僕はちゃんとオリヴィアが好きだよ。確かに君をディラン殿から助けたいと思ったのも事実だけど、求婚したのはそれ以上にオリヴィアに僕の隣にいてほしいと思ったからだ」
「そ、そうなんですね」
「うん」
真っ直ぐに好意を伝えられ、そんなことに慣れていない私は動揺した。
きっととても人に見せられないほど真っ赤になっているだろう。
「ボロボロだった僕に手を差し伸べてくれたのはオリヴィアだけだった。君の笑顔も温もりも、一気に僕の特別なものになったんだ。離れている間もひと時も忘れたことはなかった。好きだよ、オリヴィア」
「アシェル様…」
アシェル様は少し目を伏せると、すがるような顔で私を見た。
「ねえ、ラビって呼んで」
「え」
「僕のこと、二人だけの時でいいからラビって呼んでほしい。敬語もいらない。オリヴィアの前では君のラビでいたい」
「……」
「オリヴィア…ね?お願い」
私をのぞき込むアシェル様の顔が、ラビと重なる。
うるんだ瞳はあの夜に私と一緒に寝たいとおねだりしたラビそのもので。
姿は人だけど、本当にこの人はラビなんだと改めて思った。
「ラビ…」
ぽつりと呼べば、ラビは噛みしめるようにしてうっとりと微笑んだ。
「…もう一度呼んで」
「ラビ」
「…もう一度」
「ラビ?」
「もっと」
「もう、ラビったら何度呼ばせるのよ」
思わず笑った時、風が強く吹いた。
慌てて手で抑えたけれど、間に合わずに髪が乱れた。ラビは風で乱れた私の髪をそっと耳にかけ、そのまま頬を撫でる。
風に煽られた花びらが舞い上がって、高く空へ飛んでいく。その中で、私とラビは見つめ合った。
「オリヴィア」
「何?ラビ」
「もう一度言うよ。オリヴィアが好きだ。僕と結婚してほしい」
ラビの真剣な顔は、求婚が偽りではないと言うラビの言葉を肯定していた。
熱の籠った目で見つめられ、どんどん鼓動が早まっていく。
「…だめ?」
「…拾ったのは、私だものね」
「え?」
「何でもない」
「?」
ラビの瞳が不安そうに揺れる。
男性にこんなことを思うのは失礼かもしれないけど、とても可愛いと思った。
「しましょうか。結婚」
「!」
「私も結婚するならラビがいい」
「オリヴィア」
「私のこと、もらってくれる?」
「いいの?本当に僕と結婚してくれる?」
「いいと言ってるじゃない。それとも求婚してくれたのはやっぱり偽りだったの?」
「ううん、違う。本気だ。オリヴィアとずっと一緒にいたいから、大好きだから結婚したい」
「ええ、そうね。私もよ」
そう言ってラビの頭を撫でたら、私はラビに強く抱き締められた。
「嬉しい…夢みたいだ」
「夢じゃないわ」
「そうだね。ねえ、もっと撫でて」
「仕方ないわね。…あら?」
撫でようにもラビにすっぽりと覆われてしまっていたので、腕がラビの頭まで上がらなかった。
代わりにポンポンと背中を撫でてやる。
「僕、オリヴィアに撫でられるの好きだ」
「そうなの?」
「うん。優しくて温かくて、気持ちいい。……ねえ、どうして頭じゃないの?」
「私も頭を撫でたかったけど、手が届かないのよ」
「あ、そうか。ごめん」
そう言ってラビは私を抱き締めていた腕を解いた。
期待するような顔で見つめてくる。
「いい子ね、ラビ」
私は笑顔でゆっくりとラビの頭を撫でた。
◇◇◇◇◇
「ということで、ラビことアシェル様よ」
「こんにちは」
「これはご丁寧にどうも」
「待って。ということでって何よ」
諸々が落ち着いた頃。ミリアムとレックス様にアシェル様を紹介した。
レックス様は馴染んでいたけれど、ミリアムにはすごく驚かれた。
うん。予想通りでなんだか楽しくなってきた。
「アシェル様の国の王族の方は、動物に姿を変える能力を持っているのですって。人に戻れなくて困っていたところをたまたま私が拾ったみたいなの」
「そ、そうなの…」
「僕を引き取ってくれたのに逃げ出してしまって、レックスには悪いことをしたと思っている。人に戻るのはあのタイミングしかなかったんだ。迷惑をかけて悪かった」
「そういうことだったのですね。いくら探しても見つからないわけです」
「楽に話して構わないよ。君達には世話になったし、何よりオリヴィアの友人とは仲良くしたい」
「そう?じゃあ遠慮なく」
「ちょっとレックス…」
レックス様はすぐに砕けた態度になったが、ミリアムはまだ緊張しているようだった。
おずおずとアシェル様に向き直る。
「…アシェル様。よろしいですか」
「ミリアム、だったか。そんなにかしこまらなくていいよ。で、何だい?」
「その……お礼を言わせて下さい」
「お礼?」
「はい。オリヴィアのことです」
「え、私?」
思わずミリアムを見る。
「オリヴィアとディラン殿下のことはご存知ですよね」
「ああ、ディラン殿ね」
ディラン殿下の名前が出た途端、アシェル様の目が冷めたものに変わった。
あの日、ディラン殿下は私達が退室した後も暴言を吐いていたらしい。王太子殿下だけでなく、陛下の言葉も聞かなかったため、強制的に退室させられたそうだ。現在は騎士の監視のもと離宮で謹慎している。
他国の王族にあんな態度を取っておいてずいぶんと軽い処遇ではあるが、アシェル様が「"小さな子供"のやることだから」と"寛大な配慮"を見せた結果らしい。
最大限に煽られたディラン殿下は荒れているようだが、その間に私とアシェル様の婚約が整ったので、もうディラン殿下に怯えることもない。
でもそれがミリアムがお礼を言うことに繋がるのか分からず、私は首を傾げた。
「私達はこれまでずっと、オリヴィアと殿下が会わないように、殿下を見かけたらすぐにオリヴィアに知らせて逃がしてしていました。ですが、私達では一時凌ぎしかできず…ずっともどかしく思っていました」
「ミリアム…」
「オリヴィアのこと、助けて下さって本当にありがとうございます」
ミリアムはそう言ってアシェル様に頭を下げた。
私は初めて聞くミリアムの言葉に胸が熱くなる。お友達にこんなにも想われて、私は果報者だ。
顔を上げたミリアムと目が合い、そっと微笑み合った。
「アシェル様は王族なんだよね。結婚したらオリヴィアさんも王室へ入るの?」
ずっと傍で私たちのやり取りを見ていたレックス様がおもむろに声をかけた。
「いや、僕は第三子だから結婚後は王室を出る。空位になってる公爵位が下賜される予定だ」
「へえ、じゃあ会おうと思えばオリヴィアさんに会えるんだ。よかったね、ミリアム」
「え?」
きょとんと見上げるミリアムにレックス様が笑みを深める。
「ただでさえ隣国へ嫁ぐのに、オリヴィアさんが王室に入ったらもっと会いづらくなるって泣いてたじゃない。だから、よかったね」
「ちょっと、レックス!」
レックス様の言葉にどきりとした。
そうか、隣国へ行くのならミリアムとも会いづらくなる。私はそのことを失念していた。
そして何より…。
「ミリアム。私と離れるのを寂しく思ってくれたの?」
「それは、その……だってお友達だもの」
「…あなた可愛いわね」
「え」
「よしよし、私はずっとミリアムのお友達よ」
「ちょっと…オリヴィア!」
ミリアムの気持ちが嬉しくて、私はミリアムの頭を撫でた。
ラビに出会ってから、私はすっかり撫でるのが癖になっているようだ。
そのまま撫で続けていたら、突然アシェル様が私の手を取り、そっとミリアムから離した。
「アシェル様?」
「ごめんね、二人とも。僕達は急用を思い出したから今日はこれで。また改めてゆっくり会おう」
「は、はい」
「わかった。また今度ね」
そのまま私はアシェル様に手を引かれて行った。
「びっくりするくらい素敵な方を捕まえるって言ってたけど…」
「捕まったの、オリヴィアさんだよね」
などと、残されたミリアムとレックス様が話していたのは、もちろん私には聞こえなかった。
・・・
アシェル様はしばらく歩き続け、人気のない場所まで来るとようやく歩みを止めて手を離された。
「アシェル様、突然どうしたの?」
「今はラビだよ、オリヴィア」
ラビ、と改めて呼べば、満足そうに微笑んだ。
そのまま私はラビに抱き締められる。
「ねえ、何でさっきミリアムのこと撫でたの」
「それは、ミリアムが可愛かったから」
「……オリヴィアが撫でていいのは僕だけなのに」
「え?」
驚いて顔を上げようとしたが、残念ながら抱きしめられたままではラビの顔を見ることは叶わなかった。
だけど声の様子から、ラビが面白くないと感じているのが伝わってくる。
「オリヴィアが僕以外の誰かを撫でるの、嫌だ。なんだか胸がもやもやする」
「何それ」
くすりと笑いながらも、内心ではラビが可愛くて仕方がなかった。
ミリアムは男性でも犬でもないのに、なんて可愛らしい嫉妬だろう。
「わかったわ。もうラビの前では誰も撫でないようにする」
「本当?」
少し体が離され、揺れる瞳が私を見つめる。
私は安心させるように微笑んだ。
「本当。私が撫でるのはラビだけよ」
「嬉しい…ありがとう、オリヴィア」
そう言うと、ラビは蕩けた笑顔を見せた。
私はその笑顔に誘われるように、ラビの頭をそっと撫でる。
ラビは嬉しそうに撫でられていたが、やがて私の手をそっと掴み、指先に一つ唇を落とした。
その後、唇は掌から手首へと移り、額や頬、私の至るところへキスをしていった。
「オリヴィア、大好きだよ」
「私も大好きよ、ラビ」
「……幸せ」
「ええ…幸せね」
あの日、私が犬だと思って拾ったのは、犬ではなかった。
甘えたがりで少し嫉妬深い。だけど、私を救ってくれた素敵な男性だった。
私はくすぐったさに目を細めながら、こんなに可愛いラビになら絆されるのも悪くはないと、最後に唇へのキスを受け入れた。
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