化竜
頭冠から垂れ下がる水晶を揺らす潮風が、柔らかな新緑の香りをまとっていたら、春が来たという便りだ。
中庭で蕾を綻ばせ始めた花々に水をやりながら、オズヴァルドは風を肺腑の奥まで吸い込む。雨が上がった後のような瑞々しい空気は植物にも好ましい。占いの結果通り例年より長く居座った雨で、花たちが根腐れを起こさないか不安であったが、スミレもスズランも強い生命力で乗り切ってくれた。この庭はギルダが好きな花ばかりを植えているから、枯れてしまったら悲しませてしまう。それだけは避けねばならないと、オズヴァルドは晴れている日は必ず中庭で土いじりをしていた。
やり始めた時は雑草を抜いたり、水をやったりする程度のことしかできなかった。竜姫の伴侶には汚れる仕事はさせられないと庭師たちにも止められたが、彼らの邪魔はしないこととオズヴァルド自身がやりたいのだと説得して、今では花壇はオズヴァルドの担当になった。
始めれば存外楽しいものである。花の種類によっては肥料も違えば水の量も違う。書庫から見つけてきた園芸関係の書物を読み込み、今や花壇には色とりどりの花が生き生きと咲いていた。
「オズヴァルド様!」
弾んだ声に名前を呼ばれ、振り向くとギルダが息を切らせて芝生を駆けてきていた。飛び込んできた彼女を抱きとめる。額にかかる前髪を指で掬ってやると、擽ったそうに微笑んだ。
「お務めは終わりましたか、ギルダ姫」
「はい!」
「では、今日は神話の続きを読みましょうか」
「お願いします。春の女神と冬の女神の恋が、昨日からずっと気になってて……」
「身形を整えてまいりますので、いつものところで待っていてください。エンリカ殿、姫にセロー紅茶を」
「かしこまりました、旦那様」
ギルダの数歩後ろに控えていたエンリカの前には、配膳ワゴンがあった。台の上には既にティーセットが準備されている。彼女は本当に気が利く影従だ。
中庭と邸をつなぐ扉からすぐ右手に設えた休憩部屋は、神殿内にたくさんある物置部屋のひとつを片付けたものだ。最初はオズヴァルドも自分用の部屋をもうひとつ頂くことに申し訳なさはあったが、庭の世話をするようになって、すぐ着替えられるのは便利でありがたかった。中庭に展けた大きな窓も開けてもらったことで日差しも多く取り入れられ、いつしかオズヴァルドのもうひとつの書斎となっていた。書き物ができるように持ち込まれた机の上には鉢植えを置いて花を育て、ギルダが好きだと言った本を棚に揃えている。
オズヴァルドは庭師からもらった着古した野良着から自分の黒い平服に着替え、洞角のついた頭冠もフィデンツィオに整えてもらった。
「最初にこの冠を頭に載せた時、とても重く感じていたのですが、今は無い方が違和感を持つようになってしまいました」
「ほほ、旦那様が冠に認められたということでしょうな。不思議なことに、歴代の伴侶様はみな、同じようなことを日記などに記しておりました」
「そうなのでしょうか」
「フェロフォーネで角に触れられそうになった際の旦那様の瞳は、まさしくアロル人のものでございました。――さ、そろそろ参らねば、姫様がまたむくれてしまいまするぞ。姫様も竜姫としてのお務めに励まれておられますから、旦那様も伴侶としてのお務めを果たされませぬと」
オズヴァルドは頷いて、神話の本を本棚から抜き取り小部屋を出た。
再び中庭に出ると、ギルダは樫の木の下に座り紅茶を飲んでいた。ずっと扉を見ていたのか、彼女はすぐにオズヴァルドを見つけて大きく手を振った。
仔鹿が親を見つけて一生懸命に首を伸ばす愛らしい様が彼女に重なり、オズヴァルドは頬が緩む。すると、彼女は大輪の笑顔を萎めて、俯いてしまった。
「……フィデンツィオ、おれは何か姫の機嫌を損ねることをしたでしょうか?」
「ほほほ……いえいえ、照れておられるだけでございましょう。お耳が赤うなっておられますから」
フィデンツィオは口元を袖で隠し、朗らかな声音になるよう努めているが、肩の震えがいつもより大きいことにオズヴァルドは気づいていた。どうにも彼はオズヴァルドとギルダの仲を面白がっている節がある。馬鹿にするというわけではないが、見守るにしては少々熱が入っているような世話の焼き方をするのだ。
オズヴァルドはギルダの隣に腰を下ろす。彼女が向けてくる瞳や微笑みは、オズヴァルドの心を暖かく照らしてくれる。彼女の日だまりで微睡んでいたいが、伴侶として望みを叶えねばならない。オズヴァルドは持ってきた神話の本を、ふたりの膝上で橋渡しをするように開いた。
「さて、昨日はどこまで読んだでしょうか」
「春の女神プリマヴェーラ様が、冬の女神インヴェルノ様に捕まってしまったところです」
「三章の二幕目ですね。――『万年氷の牢獄に閉じ込められた春の女神プリマヴェーラは、このままでは春が来ないことを嘆きました。しかし、冬の女神インヴェルノもまた、嘆いていたのです』」
これは大陸に伝わる季節の女神たちの神話だ。美しく若い女神たちの物語は、絵画や戯曲などの題材として人気である。今オズヴァルドがギルダに読み聞かせていたのは、春の女神プリマヴェーラが冬の女神インヴェルノに幽閉される物語だ。
命の芽吹きを司り誰からも受け入れられる春と違って、万物の命を雪と氷に閉ざし、死に至らしめる冬は忌避の象徴であった。常に孤独だったインヴェルノが恋をした。美しい樹氷の牡鹿だ。冬の間、彼女と牡鹿は幸福な時間を過ごすが、季節はいつか巡る。インヴェルノの力が弱まり、雪が解け、氷でできた牡鹿の体も溶け始めた。愛する者を春に奪われたくなかったインヴェルノは、プリマヴェーラを冬に閉じ込めれば、牡鹿と別れなくて済むと考えたのだ。
しかし、プリマヴェーラは父である天の神に祈りを捧げ、春呼びの舞を踊った。たちまち氷の牢獄は溶け、春は冬を塗り潰していく。氷の牡鹿は溶けて死に、季節を乱したインヴェルノは天の神により罰を受け、己の季節が来るまで終わらぬ悲しみと共に地底に囚われることになった――そのため、大陸では冬が短いと言われているのだ。
最後の一節をオズヴァルドが読み終えると、ギルダは切なげに眉尻を下げた。
「何だか、悲しいですね。インヴェルノ様は愛する牡鹿と離れたくなかっただけなのに……」
「ですが、世界の理を壊そうとしたことも確かです。春が来なければ植物は芽吹かず、動物も命を繋ぐことができなくなりますから。実際、百年ほど前に低気温が長引いた際は麦も野菜も生育が悪くなり、あちこちの国で飢餓が起こって多くの人々が死んでしまったそうです」
かつて『神話は人類の轍である』と説いた学者もいたという。神話は突然の天災や、人間にとっての正しい生き方や因果応報などを抽象化し、解決方法や向き合い方を子供の意識にそれとなく刷り込むものだ、と。もちろん、宗教が今より力を持っていた大昔にそんなことを宣った学者は、異端審問にかけられて斬首となった。さすがに現代ではそこまで厳しくは取り締まられていない思想であるから、オズヴァルドも彼の学者に同意している。冬の女神の振る舞いは身勝手で独り善がりなものであり、たったひとりのために周囲を巻き込んで破滅へ向かうことは、非難されるべきことだ。
ふと、オズヴァルドの視界にエンリカが入った。彼女はギルダへ紅茶のお代わりを注いでいるが、その口元がきつく引き結ばれているように見えた。
どこか具合でも悪いのだろうかと思ったオズヴァルドがエンリカへ声をかける前に、ギルダが頬を肩に寄せてきた。彼女の中ではいまいち納得しきれていないのか、小さくウンウンと唸っているのが、布越しに伝わってきた。
「オズヴァルド様、やっぱりわたし、不思議で仕方がありません。別のお話では夏の女神エスターテ様が寝過ごしてしまって、農作物をたくさん枯らしてしまったとありました。でもその時、神様はエスターテ様を怒るだけで、牢屋に閉じ込めたりしていません。実害が出たのはエスターテ様の方なのに……どうしてインヴェルノ様より罰が厳しいのですか?」
「それは……んん……どうしてでしょうね」
「それは恐らく、インヴェルノ様が季節四姉妹の長女だったからでしょう」
オズヴァルドの代わりに、フィデンツィオが答える。
「神の歯より生まれた四季の女神は、寒い順から生まれたとされています。冬、秋、春、夏……エスターテ様は末の女神様ですから、神も甘くなってしまわれたのでしょうな。逆に長女のインヴェルノ様は、他の妹たちの手本となる立場でございますから、厳しい処分となられたのでしょう」
「お姉様だから厳しくされてしまったの?」
「その神話は『身勝手な願いを持つべからず』や『長子は模範たるべし』という教訓も含んでおりますから」
ふぅん、とギルダは分かっているのかいないのか、半別のつかない曖昧な相槌を打つ。そして、後ろを振り返ってエンリカの方を向いた。
「ねぇ、エンリカには弟と妹がいたよね。やっぱり、厳しく言われたこともあったの?」
「……まぁ、それなりには」
「エンリカ殿には、ご弟妹がいらしたのですね」
「弟さんがふたりと、妹さんがひとりいるんですよ」
自慢気に答えたのは、エンリカではなくギルダだった。エンリカの弟ふたりは漁師で、妹は麦畑で若いながらも働いているという。ギルダはエンリカと幼い頃から仲が良かったから、弟妹たちとも顔見知りなのだろう。
「では、エンリカ殿がお若いのにしっかりなさっているのも、納得ですね」
「い、いえ、そんな……普通でございます。そのようなお言葉、世辞でも恐縮してしまいます」
「世辞などではありません。エンリカ殿にはおれも随分と助けられていて、感謝しています。おれでは至らないところも、貴女が気づいて対処してくれますから」
エンリカは頬をさっと朱色に染め、恐縮ですと礼をした。
その時、ギルダが小さくくしゃみをした。いつの間にか太陽はオズヴァルドたちの頭上にはなく、空の色も濃くなっていた。
オズヴァルドたちが使った食器を、フィデンツィオが片づける。
「そろそろ夕餉のお時間ですな。季節は春とはいえ、日が傾けばまだ冬の息吹も聞こえてきましょう。お風邪を召される前に、中へお入りください」
「えぇ、そうですね。行きましょう、ギルダ姫」
「はい」
オズヴァルドが差し出した手に、彼女の細い指が乗せられた。褐色の手の甲は滑らかな肌で、石英のような爪も短く切り揃えられている。
ギルダが竜姫に選ばれて一年が経ったが、彼女にはまだ化竜の兆候が表れていなかった。
◆◇◆
竜姫が竜になる時、まず一番先に変化するのは爪だという。
掠めただけで肌を裂けるほど鋭利に尖り、切るのが追い付かないほどの速度で伸びる。そして両手足の五指も節榑立っていき、長く伸びていくという。
やがて体表には金の鱗が生え始め、首が伸び、人間の体から徐々に竜へと作り変えられていく――これが『化竜』だ。
竜姫に選ばれてから、どれだけの日数で竜となるのかは個人差があるとフィデンツィオは言っていた。だが、平均では伴侶を得て半年以内に化竜が始まる者が多いらしい。
「――無論、一年以上経ってから始まった竜姫様もおりまする。焦る必要はございませぬよ」
「そうですか。竜姫様に関しては書庫にも記録が少ないので、何かおれに至らぬことがあるからかと……」
「旦那様は心配性でございますなぁ。物事はなるようにしかならぬものにございます。ギルダ様の化竜も、明日突然始まるやもしれませぬぞ」
オズヴァルドはフィデンツィオの軽快な笑い声につられて、クスと笑った。
その時、わずかに開けていた窓から鐘の音が聞こえてきた。昼餉の鐘である。
オズヴァルドは羽ペンを動かす手を止めて、机上に出していた紙の束を引出しにしまって書斎を出た。窓から見える中庭は、日の光を浴びて若々しい緑に溢れている。今日のギルダの予定は午前の禊だけであるから、午後はいつもの樫の木の下で過ごすのがいいだろう。代り映えはしなくとも、彼女の傍にいられるだけでオズヴァルドは充分であった。
『揺籃の間』へ入ると、既にギルダが椅子に座っていた。やや俯き気味だった顔がオズヴァルドを見て、安心したように綻ぶ。長卓を挟んで向かい合うように座れば、すぐに使用人たちが前菜の乗った皿を眼前に置いた。
食事を摂りながら、オズヴァルドはギルダに違和感を見つけた。彼女はこちらが話しかけたことに笑顔で対応するが、会話が途切れるとすぐに表情に影が差すように見えた。
食事が終わった後は、いつものような快活さで彼女はオズヴァルドを中庭へと誘った。足元の花を摘み、木の下で物語をねだるギルダは平生と変わらないが、やはりふとした一瞬の表情が曇る。
「姫……如何なさいましたか」
「えっ? え……と、何がでしょうか?」
「おれの気のせいであれば良いのですが……姫がどこか思い悩んでおられるように見えるのです。何か患いがあるのであれば、医者を呼びますが……」
「い、いえ! 違います、大丈夫です!」
ギルダが首を左右にブンブンと音がなるほど振る。
「ほんの少し、不安なだけです」
不安、とオズヴァルドが繰り返すと、ギルダは頷いて膝を抱えた。伏せられた長い睫毛が、ヒマワリの瞳に薄い影を落とす。
「わたし、本当に竜になれるのかなって……朝起きて全然変わってない爪を見る度、すごくがっかりするんです。竜姫に選ばれて一年が経つのに……神様が間違えてしまったのかと、不安になってしまって……」
ギルダが立てた膝の間に顔を埋める。
その横顔を見て、オズヴァルドは己を恥じた。伴侶として連れてこられた己よりも、当事者である彼女の方が化竜できないことに不安を感じるはずなのだ。使用人たちの中には、未だにギルダが奇数角であることで見下している者もいるだろう。もしかしたら、一向に始まらない変化を材料にした良くない噂を聞いた可能性もある。
オズヴァルドはギルダの頬にかかる髪を指で払った。
「化竜が始まる瞬間は、人によって違うそうです。焦ってはできることもできなくなりますから、じっくり待つことも大切かと」
「……そうでしょうか」
「えぇ。貴女は天によって選ばれたのですから、自信をお持ちください」
フィデンツィオから音もなく差し出された紅茶と焼き菓子の乗ったトレイをギルダへ渡すと、彼女は小さく礼を言って菓子を齧った。
不安に強張っていた表情がわずかに晴れたことにオズヴァルドは安堵して、自分も渡された熱いセロー紅茶を啜った。
「化竜が始まる時期は遅くとも、竜になれなかった竜姫の話はありません。おれたちに時間はたくさんありますから、一歩一歩でいいのです」
「……姫騎士バルトロメアのように、ですか?」
ギルダの一言に、オズヴァルドは嚥下していた紅茶を喉に絡ませてしまい噎せた。大きく震える背中を、ギルダが慌てて擦ってくれた。
「姫……それを、どこで……?」
「す、すみません! 先日、オズヴァルド様のお姿を探していた時、あの書斎で見つけた紙に書かれてて……。あれは、オズヴァルド様がお書きになられた物語なのですか?」
おずおずと尋ねられ、オズヴァルドは観念して頷いた。
ギルダが見つけたのは、フェロフォーネにいるニコレッタへ贈るために書いていた、自作の物語だ。まだオズヴァルドがフェロフォーネで暮らしており、一日のほとんどを書庫に籠って読書に費やしていた時のことだ。ニコレッタは時折そこを尋ねてきては、無愛想なオズヴァルドに物怖じせず本を読んでとせがんできた。
自分で作った物語を彼女へ語って聞かせたのは、出来心と苦肉の策であった。年齢の割に自立心が強く背伸びをしたがる彼女は、オズヴァルドの持つ難しい歴史書を読みたいと言い出した。別の子供用の本を勧めたが、彼女もオズヴァルドと同じ本がいいと頑なに譲らない。断れば火が点いたように泣いてしまうことは経験で分かっていたから、小さな姫に従うしか道は残されていなかった。
とはいえ、やはり幼いがためにそのまま記述通りに読んでも、内容を理解することはできなかった。そこで仕方なく『姫騎士バルトロメア』という架空の娘を歴史の中に登場させ、彼女が経験した冒険ということにしたのだ。
ニコレッタは『姫騎士バルトロメア』をオズヴァルドの想像以上に気に入ってしまった。オズヴァルドも姪に喜ばれたのが嬉しくなってしまい、バルトロメアの従者としてニコレッタの好きな猫や馬が冒険する物語も作ったのだ。幼く好奇心も強い子供であったから、オズヴァルドが『塩の馬』に選ばれて家を離れれば、いずれ忘れると思っていた。だが目論見は外れ、ベルディータに迷惑をかける羽目になってしまったのだ。
約束してしまった以上は、守らねばならない。国葬から戻ってきたオズヴァルドは、ギルダが務めをしている間や寝る前などの空いた時間を執筆に充てていた。何となく気恥ずかしくて、いつもは机の引出しにしまっていたのだ。しかし、たまたましまい忘れていたものをギルダに見つかってしまったのだろう。
あの、とギルダがオズヴァルドの袖を引いた。
「その物語、わたしにも読ませてくださいませんか。ちょっとだけしか読めていないんですけれど、とても面白かったんです。姫騎士バルトロメアが勇気と強い心で未来へ進んでいく姿が、格好良くて。わたしもこんな風に歩けたらって思ったんです」
「し、しかし……」
「よろしいのではございませぬか、旦那様」
木陰から現れたフィデンツィオが、ギルダへ助け舟を出す。
「姪御様用に簡単なお言葉でお書きになられておりますから、姫様のお勉強にもなりましょう。文字も歴史も同時に学べるなんて、一石二鳥ではないですか。ねぇ、エンリカもそう思うでしょう?」
「……えぇ、そうですね。姫様の勉学になるなら、それもよろしいかと」
ふたりの肯定を覆すため、オズヴァルドが用意できる反論は『気恥ずかしいから』しかない。そんな弱い言葉では言う前に負けが見えており、オズヴァルドはただ頷いた。
「……分かりました。後でギルダ姫の分も書いておきましょう」
「やった、ありがとうございます!」
ギルダの顔に大輪の笑顔が戻った。何とも現金なもので、たったそれだけでオズヴァルドは許してしまう。彼女のためになるなら、自分の中にある矮小な感情など消し飛んでしまった。
オズヴァルドの肩に、ギルダが頭を寄せてきた。
「わたし、オズヴァルド様にたくさんのものを頂いてばかりです。楽しさと嬉しさだけでも十分だったのに、勇気までもらってしまっては、返せるものが何もなくて申し訳ないです」
「おれの方こそ、貴女には何度も助けられてきました。だから、礼を言うべきなののはおれの方なんですよ」
ギルダがくりくりとした瞳で見上げてきた。その琥珀色の中に己がいることが、オズヴァルドは途方もなく嬉しいと思う。
「わたし、何もしていないですよ?」
「貴女がくれた言葉、温もり、眼差し……貴女との日溜まりの日々が、おれの心を支えてくれているのです。おれは貴女が竜姫で良かったと思っているのですが、貴女はおれのような日陰馬が伴侶では、さぞ退屈であったことでしょう」
オズヴァルドの言葉を散らすように、ギルダが首を勢いよく横に振った。
「そんなことありません! わたしもオズヴァルド様が伴侶で良かったと思っています!」
「……では、一緒ですね」
オズヴァルドの肩に寄りかかったまま、ギルダは小さく頷いた。彼女の肌の感触、体温、重さすら愛おしい。
恐らく、彼女を取り巻く冷たい視線が完全になくなることはないだろう。せめて己の存在がギルダの支えになれたなら、こんなに幸福なことはない――オズヴァルドは柔らかな風に瞼を閉じた。せめて今だけは、自分たちの周りで蠢く悪意を見たくなかった。
◆◇◆
物語を書く手を一旦止めて、オズヴァルドは一枚の手紙を眺めていた。
それはオズヴァルドが国葬からスク・ア・ルジェ島へ戻った六日後に、アルフォンソから伝令鳩で送られてきた手紙だ。内容はべリザリオ王の国葬期間中に行われた、第四王子の妻、ツェツィーリア処刑の報である。時間としては、執行されたのはオズヴァルドがフェロフォーネを出港してすぐのことだろう。兄にしては短い文面と乱雑な筆跡が、事の大きさと性急さを表していた。
ツェツィーリアは『砂糖の鳥』としての運命を辿ったに過ぎない。サリカ王国ではどれだけ高位の令嬢であったとしても、敵国に嫁ぐということは命を剥き身のまま差し出しているに等しいのだ。永らえるか、溶けて喪われるかは、敵に任せるしかない。国王暗殺の容疑をかけられたツェツィーリアという『砂糖の鳥』は、血溜まりに溶けてしまった――ただそれだけのことだ。
ツェツィーリア処刑の一報から兄からの便りがないこともまた、オズヴァルドは気がかりであった。こちらから手紙を送って国の内情を尋ねてもいいものか、忙しいアルフォンソの邪魔にならないか、徐々に迷いは膨れていた。
「爺は尋ねても良いと思いますがねぇ。御兄弟なのですから、手紙を送り合うことに理由は不要ではないかと」
「しかし……何かおれにも言えないような事情があるのではと考えると、どうにも。検閲まではされないとは思いますが、念の為、ニコレッタに贈る物語の中に、手紙を隠そうと思っています」
「それがよろしいかと」
その時、書斎の扉がノックされ、オズヴァルドは反射的に持っていた手紙を引出しにしまう。フィデンツィオが開けた扉の隙間から、ひょこっとギルダが顔を覗かせた。
「オズヴァルド様、少し中庭を歩きませんか? 花壇のスミレやマグノリアが綺麗に咲いてるんですよ」
「えぇ、ぜひ。今日のお務めは終わりましたか?」
「はいっ」
早く早く、とギルダに腕を引かれるまま、オズヴァルドは書斎を出た。
空はどこまでも抜けるように高く澄んでいる。遠くで漁船の帰還を知らせる鐘の音が響き、虫のさざめきが足元で聞こえた。芝生を踏み、胡桃が転がるような声を弾ませるギルダと、処刑されたツェツィーリアは同じくらいの年齢だった。立場も状況も違うが、運命に翻弄されている点においては、ふたりがオズヴァルドの中で重なって何とも言えない気持ちになる。
フェロフォーネのある方角を見つめて溜め息を吐くオズヴァルドの眼前に、小さな紫色の花が飛び込んできた。ギルダが必死に背伸びをして、摘んだスミレの花をオズヴァルドへ差し出してきていた。
「どうかなさいましたか、オズヴァルド様。何か心配事ですか?」
「あぁ……申し訳ありません、何でもないのです。ただ、風が心地よいと思っていだけで……」
「確かに、今日は風があって過ごしやすいですね! ちょっと強めかなって思いますけど」
木々の枝葉を大きく揺らしながら駆け抜けていく風が、ギルダの長い髪を乱して去っていく。それを直してやろうと伸ばしたオズヴァルドの右手が、重い衝撃と共に弾かれた。
オズヴァルドが事態を把握する前に、鋭い痛みが全身を駆け巡った。掌の中心を、黒い釘のようなものが貫き、真紅の血が滴っている。
「……ッ、ぐ……!」
「オ、オズヴァルド様……⁉︎」
激痛で明滅する視界に、青褪めたギルダの顔が映る。咄嗟に意識の上に浮かんだのは、彼女を守らねばならないという使命感だ。無事な左腕で彼女を抱き寄せると同時に、ふたりの前にフィデンツィオが立ち塞がった。
金属が打ち合うような甲高い音がして、芝生の上に無数の黒い釘が落ちる。フィデンツィオが杖で弾いたのだ。
フィデンツィオは指先から生み出した糸を、近くに生えている木々の枝や忘れられていた農具に絡ませて宙に浮かせた。それらは武器として、または釘を受け止める盾として、彼の意のままに動いた。
「旦那様、姫様、こちらへ!」
駆け寄ってきたエンリカに背中を押され、オズヴァルドとギルダは神殿へと走る。霞む目が捉えたのは、神官と使用人の恰好をした四人の人影だった。彼らは尚もオズヴァルドたちへ狙いを定めていたが、老人にしては俊敏なフィデンツィオの攻撃を受けてそれは叶わなかったようだ。
中庭から廊下へ飛び込む直前、使用人の男が何かをこちらへ投げる動作をしたのが見えた。オズヴァルドの体は、ほとんど無意識に彼女を抱いて庇っていた。
脇腹に激痛が走り、悲鳴を上げてオズヴァルドは廊下に倒れた。頬に当たる絨毯の感触も、自分の名前を叫ぶギルダの涙声も遠くに感じる。腹を押さえた手が、ぬるりと滑った。刺さったものを引き抜こうとしたが、痛みと痺れで力が上手く入らない。
「なりません、旦那様! 抜いたら血が溢れます、そのままで!」
「いいえ、エンリカ! 黒い釘には毒が塗られております。爺が応急処置をしますから、貴女は医者を呼んできなさい!」
頭上を飛び交うエンリカとフィデンツィオの緊迫した声に、自分は大丈夫だと答えたかったが、唇も喉も上手く動いてくれない。戦っていたフィデンツィオがここにいるということは、脅威はもう去ったのだろうか。何にせよオズヴァルドのことは放っておいていいから、ギルダに怪我がなければ、安全な場所へ逃がしてほしいと思う。血の匂いがする場に、無垢な彼女をいさせたくなかった。
「オズヴァルド様……オズヴァルド様! イヤ、死なないで……!」
オズヴァルドの血に濡れた手を、ギルダが握る。人間の体温とは思えないほど熱い肌が凍りついていくオズヴァルドの体へじんわりと滲んだ。
現在何が起こっているかよりも、彼女が無事であったことに安堵すると同時に、意識は濁って深く深く沈んでいった。
◆◇◆
オズヴァルドが目を覚ました時、部屋には薄明が満ちていた。ふっと息を吐いた幽かな音すら響くほどの静寂だ。見慣れた天井は、オズヴァルドの私室であることを示している。
――何をしていたんだったか。
靄がかった頭を動かし、覚えている限りの行動を振り返っていく。午前は中庭と書斎で作業をして、午後は書斎にいた。そこへやってきたギルダに誘われて中庭を歩いていた時――襲われた。使用人や神官に。
「ギルダ姫ッ……――ぐ、ゥ……!」
起こそうとした体に激痛が走る。左の脇腹と右手が、痺れるような痛みを訴えてくる。
衣擦れの音と呻き声が聞こえたのか、近寄ってくる慌ただしい足音がした。
「旦那様……! お目覚めでございますか?」
「フィデン……ツィオ……?」
「あぁ、あぁ、まだ動かずに。三日間も眠っておられたのですから、横になったままで」
「三日も……? 一体、何が……ギルダ姫は、ご無事ですか?」
オズヴァルドへ水の入った盃を手渡しながら、フィデンツィオが頷く。
あの日、神殿で何があったのかをフィデンツィオは語り始めた。オズヴァルドたちを襲ってきたのは、神殿の者たちに扮した暗殺者であったらしい。フィデンツィオの魔法で捕縛したが、詳細を吐く前に舌を噛み切って自害したという。
フィデンツィオが寝台の前で平伏し、額づいた。
「申し訳ございません。爺は影従として、旦那様を命に替えても守らねばならぬというのに……傷を負わせたのみならず、毒で生死の境界を歩ませるなど……万死に値する失態にございます」
「顔を上げてください、フィデンツィオ。おれも姫も無事だったのですから、それで良いのです。姫は今、私室ですか?」
「はい。信頼できる兵をつけ、お守りしております。ですが、まずは旦那様のお体を治しましょう。姫様には、旦那様がお目覚めになられたことはお伝えしておきますので」
「……スク・ア・ルジェ島は、平穏だと思っていたのだがな……」
吐息と共に零したのは、半ば無意識なものだった。呟いてから己がどれだけ甘い考えに浸っていたかを思い知る。
襲ってきた者は、フェロフォーネと戦争がしたいどこかの国だろうか。もしくは、サリカ王国との停戦条約を反故にしたいフェロフォーネの強硬派――オズヴァルドはこちらの線が濃厚かと思った。
べリザリオ国王の暗殺をサリカ王国から嫁いできたツェツィーリアの仕業にしたかったのだろうが、彼女が処刑されたことで表面的には『痛み分け』の状況となった。彼女は己が犯した罪を命で贖ったことになっているはずだ。戦争を起こすための大義名分は、双方共に失っている。
しかし、きっかけ作りをするのならフェロフォーネの王族や貴族を狙えばいいはずだ。わざわざ危険な臥海を渡り、角の頭飾りを作ってまで、貴族の籍を抜けたオズヴァルドを狙うメリットなどない。
オズヴァルドは重い頭を枕に預け、深く息を吐いた。死にかけた思考では、どれだけ考えようとも答えは導き出せないたろう。ギルダの命が守られただけでも僥倖だ。
それから三日ほど、オズヴァルドは寝台の住人になっていた。フィデンツィオが作った薬草茶を飲み続けたことで毒は早く抜けたが、体の傷はそうもいかない。右手と脇腹の傷はまだ塞がりかけだが、そろそろギルダの顔を見たかった。
私室を出たオズヴァルドの頬を、張り詰めた空気が刺す。擦れ違う使用人たちはオズヴァルドの顔を見て安心したような表情を浮かべていたが、雰囲気はどこか固い。平穏で神聖なはずの場所で、暗殺者による襲撃事件があったのだ。フィデンツィオによれば、竜姫と伴侶が襲われるなど歴史的にも初めてのことだというから、この緊張感は無理もないのだろう。
「フィデンツィオ、あの一件は島の者たちには……」
「箝口令を敷いておりますが、人の口を縫うことはできませぬからなぁ。いずれは知られてしまうでしょう」
「他国までは伝わることはないでしょうが……注意せねばなりませんね。ところで、姫のご様子は?」
「ほほ、毎日退屈だ、旦那様に会わせろと、お元気に駄々をこねておりまする。御身の安全のため、お務め以外は私室にてお休み頂いております」
「そういえば、禊の時はフィデンツィオが護衛についていたようですが、エンリカ殿は? 彼女も怪我を負ってしまったのですか?」
オズヴァルドは何気なく尋ねたことであったが、フィデンツィオが足を止めた。彼の表情は、苦々しいものだった。
「フィデンツィオ?」
「……旦那様。姫様の私室へ向かうより先に、来ていただきたい場所があります」
フィデンツィオはオズヴァルドの返答は聞かず、ギルダの私室とは違う方向へ足を向ける。オズヴァルドは慌ててその後を追いかけた。
フィデンツィオは神殿の北側へ向かっているようだが、廊下を進んでいくごとに、擦れ違う使用人たちの数が減っていく。オズヴァルドもこちらには物置があるばかりだと聞かされていたから、立ち入ったことがない場所だ。
「フィデンツィオ、こちらに何か用が?」
「ここから先は、使用人や地位の低い神官には立ち入りが許可されていない場所にございます。……できることなら、旦那様がたにはお見せしたくありませんでした」
フィデンツィオの足が止まったのは、昼だというのに仄暗い北東の尖塔だ。ここはヴェス・ビエト火山の陰になっているため、日中も陽が差さないのだ。燭台に火を灯したフィデンツィオは、壁に沿って作られた階段を降っていった。
尖塔には時間を告げる鐘があり、北東の塔は日の出と日没を告げる役割がある。それ以外には何もないと思っていたが、階段の先に小さな木の扉が影から浮き上がるように現れた。
「これは……?」
「ここから先は、島の罪人を収監する牢屋にございます。とはいえ、捕まるほどの悪事をする者は島にほとんどおりませぬから、今はただひとりのみ――姫様と旦那様を襲った悪意の主を収監しております」
オズヴァルドは息を呑んだ。周囲の空気が、突然質量を増して肩に圧しかかってきた感覚さえした。フィデンツィオが人差し指で扉を縦に切るような仕草をすると、それまで見えなかった白く光る糸が粉々に千切れて消えていった。
フィデンツィオが扉を開けると、氷室の如き冷たい風が足首を舐める。人ひとりが通れるくらいの細い通路を進むと、無骨な鉄格子と石壁で区切られた小部屋が並ぶ空間があった。オズヴァルドたちの足音に気づいたのか、最奥の部屋で影が動いた。
フィデンツィオの持つ燭台の明かりに照らされ、華奢な輪郭が浮き上がった。
「エンリカ、殿……?」
牢の中にいたのは、夕日色の髪を男のように短く刈られたエンリカだった。憎悪の籠もった緑の目は歪み、右の口角を吊り上げて笑っている。ギルダに姉のように接していたエンリカとは思えないほど、印象も表情も変貌していた。
「話す気になりましたかな、エンリカ。なぜ、あのようなことをしたのです」
フィデンツィオが低い声で問いかけるも、彼女は唇を引き結んで顔を背けた。
その態度に、彼は杖で石床をガンと突く。温厚なフィデンツィオにしては珍しく、苛立ちと呆れが混ざった声音で言った。
「エンリカ……爺は忠告したはずですぞ。旦那様は竜姫様の伴侶……お前がどれだけ想いを募らせようと、叶うことも認められることもないと」
フィデンツィオの言葉に、エンリカは歪ませた顔を体ごと背けた。オズヴァルドだけが置いてきぼりになったような気分で、ただフィデンツィオとエンリカを交互に見るしかできない。
「旦那様、エンリカは恐れ多くも、貴方様に懸想してしまったのです」
「は……?」
「無論、そのようなことは許されませぬ。契った以上、伴侶は竜姫様のもの。たかが影従ごときが、覆せることなどありはしません」
「うるさい!」
エンリカが金切り声を上げて、鉄格子に掴みかかる。だが、フィデンツィオがすぐに杖を振り、魔法の糸で彼女の体を拘束した。バランスを崩して倒れ込んだエンリカは藻掻くが、動けば動くほど締め付けるようで苦し気に呻いた。
「アタシは、あの子の影従なんてなりたくなかった! 本当なら竜姫に選ばれるのだって、アタシのはずだったのに! 奇数角で読み書きもできなくて、島のお荷物でしかないギルダなんかより、角も立派で頭の良いアタシの方が……! なんでみんな、あの子なのよ……!」
エンリカの声は次第に湿り、涙が火に照らされて一瞬だけ煌めきながら落ちた。
オズヴァルドも、フィデンツィオでさえ、その問いの答えを持っていない。竜姫は神の意志によって決定されるものだから、選定理由は神のみが知ることだ。だが、彼女にとってはそれすらも許せないのだろう。
「やはり、それが理由であったか……」
エンリカを見下ろしていたフィデンツィオが、額を押さえて重く口を開いた。
「旦那様……あの日、中庭に現れた暗殺者は、全てエンリカの魔法で作り出した分身だったのです」
「は……?」
次々と伝えられる事柄の重量に、オズヴァルドは視界がぐらりと揺れる。
あの時にオズヴァルドとギルダを襲った刺客は、フィデンツィオの魔法で捕縛された。身柄を改めようとした時、刺客らは舌を噛み切って自害した上、突然死体が燃え上がり跡形もなく消え去ったという。だが、その一瞬の間にフィデンツィオはひとりの手の甲に十字の紋があることを見た。刺客はエンリカの魔法で作り出した分身と目星をつけたフィデンツィオが調査したところ、エンリカの部屋から襲撃に使われた杭や毒草、そして証拠隠滅の焼身に使われたフェロフォーネ製の鉱油が見つかった。
鍛冶に使う鉱油など、神殿の使用人には不要なものである。それが証拠となり、エンリカはフィデンツィオに捕縛されたのだ。
「そんな……エンリカ殿、何かの間違いであると仰ってください。貴女はギルダ姫と家族のように過ごしていたはずです。毒まで使って襲うなど、おれには信じられません」
「家族ぅ?」
エンリカが狂ったように哄笑する声が、牢獄に響いた。
「どこまでもお目出度いお方ねぇ、旦那様は。鈍感で、お人好しで、甘ったれで……ギルダと一緒ね。旦那様の言う通り、アタシはギルダのこと、嫌いじゃなかったわ。奇数角で生まれて、誰からも疎まれてた『可哀想な子』……だからアタシが面倒を見てあげてたのよ。そうすれば、アタシは『可哀想な子』を差別しない、優しくて偉い子になるでしょう?」
「他者から称賛を得るために、ギルダ姫の傍にいたと……? たったそれだけのために?」
「それの何が悪いの? アタシが構ってあげればギルダは孤独じゃないし、アタシは周りから褒められて良い気分になれる。良いことしかない関係でしょう? だからあの子には『可哀想な子』でいてもらわなきゃ困るっていうのに……竜姫に選ばれただけじゃなく、アタシを影従にして傅かせるですって……?」
わなわなと肩を震わせたエンリカが、足を石床に叩きつける――まるで害虫を踏み潰すように。
「そんなの許されないわ。ひとりじゃ何もできないあの愚図が、アタシより上に立つなんて許さない。本当なら竜姫様って崇められるのも、貴方を伴侶にするのもアタシのはずだったのに! どうして貴方の存在も、愛も、アタシじゃなくてギルダが手に入れているのよぉ……!」
吐き捨てるように咽び泣く彼女に、オズヴァルドは戸惑うばかりであった。オズヴァルドだけでなくギルダまで悪し様に罵るエンリカの姿が、どうしても信じられない。確かに彼女がギルダの我儘に手を焼いている時もあったが、オズヴァルドが見てきたふたりはいつも姉妹のように楽しそうだった。その微笑みの裏ではギルダを憎悪していたと知り、オズヴァルドの記憶にあるふたりの肖像が、黒く塗り潰されたような気持ちだ。
その時、エンリカが拘束されたまま、鉄格子に体当りするように立ち上がった。怒りと婀娜っぽさが綯交ぜになった濁った笑みに、オズヴァルドの背中が粟立つ。
「ねぇ、旦那様だって本当は不本意だったんでしょう? 王様か誰かに言われただけで、アイツみたいな子供で出来損ないの『忌み子』となんて、結婚したくなかったんでしょう⁉︎ アタシと同じ、何もかも嫌になった目をしてたものね。子供のお守りなんてって顔、してたものねぇ! 今からでも遅くないわ、アタシの方が頭もいいし、大人だし、子供だって産める。アタシの方がいいって言ってよ!」
「黙りなさい‼︎」
フィデンツィオの杖が鉄格子の隙間に差し入れられ、エンリカの腹を突いた。受身も取らずに石床を転がった彼女は、咳き込みながらも狂笑する。まるで羽化できなかった虫が慟哭しているように、オズヴァルドの目に映った。
もはや彼女には何を言っても届かないと感じたのか、フィデンツィオが首を横に振って、オズヴァルドへ振り向いた。
「旦那様、この者の処分は如何なさいますか」
「しょ、処分……?」
「旦那様には被害者として、そして竜姫様の伴侶として、罪人への刑罰を決める権利がございます」
「……それは……」
「さっさと殺せばいいでしょう。計画は失敗したし、髪を切られちゃったら、アタシはもう魔法を使えない。あは、親友のアタシを愛しの旦那様が殺したって聞いたら、あの子はどんな反応をするのかしら。この目で見れないのが残念だわ」
エンリカの乾いた笑い声を諌めるために、フィデンツィオが杖で鉄格子を強く打つが、彼女の声は止まらない。石壁に反響し、四方八方から聞こえてくるそれを聞いていたくなくて、オズヴァルドはやっとのことで「後で決めます」と小さく絞り出し、足早に出口へと向かった。
「――……甘ちゃんめ」
扉が閉められる直前に聞こえたエンリカの侮蔑と失望に満ちた声は、オズヴァルドの鼓膜にべったりと張り付いた。
牢獄に充満していた膿んだような空気を、全て押し出すように吐き出す。嘔吐感もせり上がってきたが、それは意地で我慢した。
再度扉に魔法の糸を張ったフィデンツィオに先導され、階段を上っていく。一段一段を踏みながら、なぜこのようなことになったのか、オズヴァルドは考え続けた。
オズヴァルドとギルダを襲ったのはエンリカで、彼女はギルダを見下していた。島で疎まれる『忌み子』のギルダを気にかけていたのは、自分が称賛を得たいがためであったのだ。
それが分かれば、優秀なエンリカが近くにいたにも関わらず、ギルダが読み書きを満足にできない理由も察せられた。エンリカはギルダが自分よりも劣っている『可哀想な子』であってほしかったのだから、知識をつけてしまったら頼られなくなってしまうと考えたのだろう。身勝手で許されざる思考だが、やはりオズヴァルドはエンリカの心を理解しきれずにいた。
「フィデンツィオ……なぜエンリカ殿は歪んでしまったのでしょう」
「……恐らく、彼女は冬の長子であったのでしょう」
「それは、どういう……?」
「旦那様……先日、姫様と神話のお話をなさいましたよね。爺はあの時、長子であったからインヴェルノ様は厳しい処分をされたとお伝えしました。……長子というのは、損の多い役回りだと思いませぬか」
その時、オズヴァルドの脳裏に浮かんだのは、アルフォンソだった。アルフォンソも長子としてラ・ロカ家に縛られ、幼い頃から自由のない生活だった。
「彼女は旦那様に隠しておりましたが、エンリカには母親がおりませぬ。末の妹を産んで、すぐに亡くなったといいます。漁師だった父親も数年前に病に伏してしまい、幼いエンリカが一家の母親代わりをしていたのです。恐らく周囲から称賛されることで、己の境遇を慰めておったのでしょう」
エンリカの人生を聞いて、やっとオズヴァルドも想像ができる気がした。家族を養うために働き、弟妹の模範となることを当たり前に強いられ続けた生活だったのだろう。そんな時に若いのに偉い、頑張っていると褒められたことで、幼い心は縋ってしまったのだ。
フィデンツィオが小さく息を吐く。
「称美は時に麻薬となります。自覚なく心を蝕み、気づいた時にはより大きな称賛しか受け付けなくなります。彼女も家族を助けて偉い姉だと褒められるだけでは足らず、奇数角の姫様に目をつけたのでしょう。哀れと言われれば哀れなのでしょうが、だからといって姫様を害する理由にはなりませぬ」
「……彼女は、おれに懸想をしていたとも仰っていましたが……」
「えぇ……爺は身の程を知るようにと、忠告はしたのでございますがねぇ」
最初に彼女の視線の変化を見抜いたのは、フィデンツィオだったという。エンリカはギルダの影従であるから、目はギルダを向いていなければならないはずなのに、いつしかオズヴァルドを追っていたらしい。竜姫の伴侶に影従が横恋慕するなど、許されないことだ。
正直、オズヴァルドはエンリカに好意を寄せられる理由が分からなかった。彼女のことは従者として信頼しており、艶めいた感情など持っていない。それをエンリカ自身も分かっていたから、よりギルダへの憎しみを深めていったのだろうか。
「きっかけは、旦那様がお優しいお言葉で彼女を労ったからでしょう。お人柄に触れ、惹かれるのは恋情の常にございます」
「……やはり、おれのせいなのか……」
「いいえ旦那様、それだけは断じて違いまする」
フィデンツィオは固い口調で首を横に振った。
「罪は叶わぬ想いと諦めきれなかった、エンリカにありまする。まして見下していた姫様から伴侶を奪い、優位性を取り戻したかったなど、純粋な恋情ですらない。旦那様が気に病む必要は、何ひとつございませぬ。――とはいえ、実際のところ、それが真実かは不明です。後は裁判にかけられ、明らかになっていくことでしょう」
「裁判では、何を……」
「所業を島の法に照らし合わせ、神官らによって罪が決められます。竜姫様の殺害未遂となれば、反逆罪で極刑は免れないでしょう」
「極刑になると、どうなるのですか?」
「『海流し』にございます。アロル人の象徴である角を切り落とし、腕と足を縛って櫂のない小舟に乗せ、臥海へと流します」
何とも残酷な刑だと、オズヴァルドは眉間に皺を寄せて思った。手足を縛られた状態では船を操れるわけもなく、いずれは臥海の渦に巻き込まれて死ぬだろう。運良く渦を逃れたとしても、櫂も食料もないまま漂流することになるから結果は同じだ。
「彼女のご家族は、どうなるのでしょうか」
「エンリカは成人ですから、家族への連帯処罰はないでしょう。しかし、刑が決まれば顛末は伝えられます。スク・ア・ルジェ島の中でも住民の少ない島へ、移住することになるかと。――処分は如何なさいますか、旦那様」
再度フィデンツィオから問われた言葉に、オズヴァルドは唇を噛む。
エンリカがしでかした事の大きさを考えれば、フィデンツィオの言う通り極刑が至当だ。だが、彼女を断罪する権利など、オズヴァルドには無いことのようにも思える。恋情に狂うきっかけを作ってしまったのは、誰が何と言おうとオズヴァルドだからだ。エンリカから言われた「甘ったれ」という謗りが、オズヴァルドの優柔不断な心臓に突き刺さる。
「……法の神の、思し召しのままに……」
そう、か細い声で言うのが精一杯だった。畏まりました、とフィデンツィオが了承した瞬間、オズヴァルドはエンリカを殺すことを決定したに等しい。ギルダへ向けるような愛とは違うが、オズヴァルドはエンリカのことを好ましく思っていた。常に冷静で、細かい所まで気配りができ、仕事も完璧にこなす彼女は、尊敬できる従者であった。一年も近くにいたのに、彼女の心の闇に気づけなかった自分自身に嫌気がさす。
背中にフィデンツィオの手が添えられた。労わるような、叱咤するような掌の温度に押されながら、オズヴァルドは階段を登り尖塔を後にした。
そのままふたりは言葉もなく、ギルダの私室へと向かった。
ドアへ伸ばした手が止まる。エンリカのことは、ギルダに説明できていないらしい。――だが、いつかは知らねばならないことでもある。
中途半端に腕を上げたまま固まるオズヴァルドの代わりに、フィデンツィオが横から扉をノックした。はぁい、と明るい声が中から飛んできた。
「姫様、フィデンツィオにございます。旦那様もご一緒ですぞ」
「本当? 入って入って!」
心地良かったギルダの弾む声が、今はオズヴァルドの肩に重苦しく圧しかかる。
旦那様、とフィデンツィオから呼ばれ、背中をポンと軽く叩かれた。
「暗いお顔をなさってはなりませぬ。今はエンリカのことは忘れ、姫様に安心していただくことだけをお考えくだされ」
「……はい」
オズヴァルドは深く呼吸をして、ドアノブに手をかけた。
甘い花の香がふわりと鼻腔に届く。柔らかな香りに反して、室内は肌がピリピリと痺れるような空気に満ちていた。自然と体が強張る雰囲気の中で、姿見の前に立っていたギルダが晴れやかな笑顔を浮かべて振り向く。軽やかな足取りで駆け寄ってきて、オズヴァルドに抱きついてきた。
「オズヴァルド様! もうお身体はよろしいのですか?」
「え……えぇ、ギルダ姫にもお怪我がなかったようで、安心しました」
「オズヴァルド様が守ってくださったからです。本当に、目が覚めて良かったぁ……」
そう言って、ギルダはオズヴァルドの胸に額を埋める。
彼女の声音も、笑顔も普段と変わっていないのに、オズヴァルドはなぜだか彼女に威圧感のようなものを感じた。まるで国王に謁見した時の緊張感に似ている。この場で膝をつき、平伏せねばならないという気持ちに駆られるのだ。
オズヴァルドが何も言えないでいると、あの、とギルダが続けて口を開いた。
「オズヴァルド様、エンリカを知りませんか? わたしたちが襲われた二日後くらいから、姿を見ていないんです。どこか怪我をしてしまったんでしょうか……何か聞いていませんか?」
「あ……そ、れは……」
オズヴァルドは思わず狼狽してしまった。ギルダの目や声音は澄んでいて、他意などなく尋ねているのが分かる。しかし、殺そうとしたのは姉のように慕っていたエンリカで、現在地下牢に捕らえていると伝えれば、彼女はどれだけ悲しむだろうか。
言葉が見つからず、震える下唇を噛むばかりのオズヴァルドの代わりに、フィデンツィオが朗らかに言った。
「エンリカは今、ご家族の元に戻っております。お父上の具合が悪いようで……急なことでしたから、姫様にお伝えするのが遅れてしまい、申し訳ありません」
フィデンツィオの嘘の弁明を、ギルダは素直に信じたようだ。騙すことにオズヴァルドも心苦しさを感じるが、真実を伝えることもまた同等に苦しい。
複雑な表情を浮かべるオズヴァルドからギルダの視線を逸らせるように、フィデンツィオが彼女の隣で声を潜めた。
「姫様、旦那様にお伝えしたいことがおありだったのでは?」
「あ、そうでした! オズヴァルド様、これ、見てください」
声を弾ませたギルダが、両手の甲をオズヴァルドの眼前に掲げる。
最初は怪我でもしたのかと思い、言われた通りに手を見つめてみたが、彼女の手は綺麗なもので傷ひとつない。装飾品も滅多に身に着けるようなことはないから、本当に分からないオズヴァルドはただ首を傾げた。
そんなオズヴァルドの様子に、ギルダがどこか得意気な表情で爪を指さした。
「わたしの爪、変わってきたんです。この間まで、こんな風に先が尖っていなかったのに、どんどん鋭く伸びていってるんですよ」
彼女の言う通り、爪の先端が鋭利な三角形に尖っていた。つるりとした石英のようだったが、よく磨かれた鋼の輝き方をしている。おおよそ人間のものとは思えない形状と質感に、オズヴァルドは目を瞠る。
「これは、まさか……化竜の兆候……?」
「左様にございます」
フィデンツィオがこっくりと頷き、その場に跪く。
「お喜び申し上げます、旦那様。姫様は真の竜へとお化わりになるでしょう」
柔らかく微笑むギルダの瞳の奥で、瞳孔が鋭く細まった。まるで獲物を狙う猛禽の瞳だ。化竜が始まったとなれば、いずれは彼女の体は鱗に覆われ、爪は鉤となり、巨大な翼を得るだろう――祖竜姫の彫像のように。
オズヴァルドはギルダの手を、両手で包むように握る。
「おめでとうございます、ギルダ姫。貴女はやはり、天意に選ばれた竜姫でございましたね」
「はい。それに……化竜が始まったのはきっと、オズヴァルド様のお陰でもあるのです」
「おれの?」
頷いたギルダが、オズヴァルドの右手に巻かれている包帯に目を落とす。
「中庭で襲われたあの時……旦那様がわたしを庇って怪我をしてしまったのを見て、すごく体が熱くなったんです。怒りとか、悲しみとか、そういう感情がたくさん溢れてきて……自分じゃなくなったような気がしました。オズヴァルド様のご無事だけを祈って眠って、朝起きたら爪が変わっていたんです」
「姫様の旦那様を思う気持ちが、御身の中に眠る竜を目覚めさせたのでしょうな。禍も転ずれば福となるもの……いやはや、お目出度い限りにございます」
お目出度い――その言葉に、オズヴァルドの脳裏にエンリカの姿がよぎった。
エンリカが殺そうとしたことで、ギルダは化竜するきっかけを得たなど、皮肉なことである。オズヴァルドがエンリカへ抱くのは怒りではなく、憐れみだ。突然襲ってきた劣等感に狂わされた女の末路は、ひとつ間違えれば己も辿っていたであろう道だった。もしもアルフォンソがオズヴァルドの心境に無頓着で、どれだけ願っても自分だけ与えられなかったものを見せびらかすような性格だったとしたら、オズヴァルドは今よりも捻くれていたかもしれない。エンリカを昏い道へ進ませてしまったのは、きっとオズヴァルドとギルダの無神経さだ。
オズヴァルドはギルダを抱き締める。彼女はちょっとだけ戸惑った声を上げたが、すぐに躰の力を抜いて、オズヴァルドを背中に腕を回してきた。
ギルダの化竜を言祝ぐ今この場に、エンリカの姿がないことへの罪悪感が、オズヴァルドの心をジクジクと膿ませていた。
◆◇◆
ギルダの化竜が始まったことで、神殿はにわかに忙しなくなった。影従であるエンリカの不在の理由は、使用人や神官たちには秘匿され急病ということになっている。
禊などの竜姫の務め以外の時間を、オズヴァルドはギルダと共に中庭や書庫、そして彼女の私室で過ごした。ギルダの傍には女の使用人をつけることが決定していたが、彼女はそれよりもオズヴァルドとの時間を求めたからだ。
――だからこそ、オズヴァルドもまた前に進まねばならなかった。
中庭に立つ木々に、三重の丸が描かれた木板が括り付けられている。その丸の中心からやや右上に外れた部分に、乾いた音を響かせて矢が刺さった。それを射ったオズヴァルドは、瞠目して短く息を吐いた。
「当たった、のか……?」
「えぇ、おめでとうございます、旦那様。初めて矢が的まで届きましたな」
疲労から小さく痙攣する二の腕を擦るオズヴァルドの横で、フィデンツィオが朗らかに拍手をした。
受けた傷が治ってきた頃、オズヴァルドはフィデンツィオに弓矢の修練を申し出た。エンリカがいなくなった今、誰かがギルダの影従とならねばならない。だが、新しい影従を選ぶことに、ギルダは消極的だった。
影従は起床から就寝まで竜姫の傍にいる。精神的な負担を軽減するため、気心の知れた者から選ばれるのだ。しかし、奇数角の『忌み子』と疎まれていたギルダにそんな間柄の者が多くいるわけもなく、彼女自身も警戒しているから次の影従を選べずにいるのだろう。
彼女にとっては襲撃の恐怖が拭えていない上、エンリカがいつか戻って来ると思っているのかもしれない。ならば、無理に影従を選ばずオズヴァルドが伴侶として傍につき、安心させることを優先した方が良いだろうと神殿で決まったのだ。
オズヴァルドは自分が影従の代わりとなると聞いた時、彼女を守る手段がほしいと思った。務めの時は使用人が複数人つくことになっているが、それ以外はオズヴァルドが傍にいる。もう暗殺者に襲われることはなかったとしても、身を守る手段は多ければ多いほど良いだろうと、オズヴァルドは思ったのだ。
弓矢を選んだのは、剣を振るう力がない己でも、弓なら引けると安易に考えたからだ。実際は弓を引くにも力は必要で、弦を張る力が足りず矢が的に届かなかったが。
戦争から帰還した武人、フィデンツィオに教わって十日――やっと一本の矢が的を捉えた。たった数本の矢をつがえただけで腕が悲鳴を上げるほど、己の筋力のなさに落胆する。
「ほほ、何事も修練あるのみにございます。それにしても、旦那様はやはり筋肉が少のうございますな。体質でしょうか」
「……恐らくは。幼い頃にもアルと同じ修練内容で体作りをしましたが、おれは縦に伸びるばかりで……」
溜め息を長く吐いて、オズヴァルドは項垂れる。昔から騎士となるべく父に鍛えられてきたが、同じ内容、同じ食事をしていても、たくましくなっていったのはアルフォンソの方だ。オズヴァルドは彼に比べて食が細かったこともあるが、人並みには食べていたと思う。それでも筋力も体力もつかず、背丈ばかりが針のように伸びただけであったから、フィデンツィオの言う通り筋肉のつきにくい体質なのだろう。
フィデンツィオは少し考えた後、失礼、と断ってオズヴァルドの手を握ってきた。彼の掌から生み出された魔法の糸が、オズヴァルドの手首に絡みつく。一瞬だけきつく締まったと思ったら、すぐに離れていった。羽根で肌を撫でられたような、ざわざわとした感触がした。
「……ふむ、なるほど。旦那様は魔法を持たないと仰っておりましたが、体の中に魔力はあるようですな」
「分かるのですか?」
「えぇ、他人同士の魔力は反発し合いますから、爺の魔力をほんの少しだけ流してみたのです。旦那様の中でしっかりと拒否されましたから、魔力自体はあるのでしょう」
「では、どうしておれには、魔法が使えないのでしょうか」
オズヴァルドは己の手に目を落とす。
フィデンツィオはつるりとした頭を撫で、ふむ、と唸った。
「爺にも詳しいことは分かりませぬが、もしかすれば、旦那様のお体は魔法の発現方法が違うのやもしれませぬ」
「違う、とは」
「今でこそ、魔法は己の肉体を媒介にして魔力の流れを操るものだと言われておりますが、はるか昔は発現方法も多岐に渡っておりました。体だけでなく、物を媒介にしていたともいわれております。旦那様は、体より物へ魔力を与える方が向いているのやもしれませぬ」
フィデンツィオが的に届かずに落ちた矢を拾い上げ、オズヴァルドへと差し出してきた。これを媒介にしろということなのだろうが、オズヴァルドは生まれてからずっと己の中に魔力の存在を感じたことがない。アルフォンソと練習した時は「自分の中に湖があると思って」だの「魔法を使うところを想像して」だのと助言されたが、結局よく分からなかったのだ。
多少の恥はあったが、それをフィデンツィオに伝えると、彼は笑うこともせずひとつ頷いた。
「では、少々手荒な方法になりまするが、助力いたしましょう。旦那様、弓矢を構えてくだされ」
「は、はい」
「いいですか、決して姿勢を崩してはなりませんよ」
いやに不安を煽る言い方に引っ掛かりを感じるが、オズヴァルドは的に向けて矢をつがえる。両手首に、フィデンツィオの白い糸が巻かれた。
その瞬間、オズヴァルドの全身を不快感が駆け巡った。まるで体を虫が這っているような感覚は、先刻とは比べものにならないほどに拒否感がある。思わず矢を離しそうになったが、許さないと言わんばかりに糸が腕全体に絡みついてきた。
「耐えてくだされ。そして、己の中にある魔力を感じるのです」
「ど、どうやって……」
「拒否感の中にある澄んだ流れを見つけるのです。嫌だと思うものを避け、本能的に心地の良いと感じるものに集中してくだされ」
オズヴァルドは濁流に叩き落されたような気がした。腕に絡んだ糸から、フィデンツィオの魔力は絶えず注ぎ込まれている。体の中で暴れ回るものに翻弄されながら、彼の言う『澄んだ流れ』を探した。拒絶の中に、やけに馴染むものがある――それを手繰り寄せるように辿っていくと、ある一点に着いた瞬間、不快感が霧散していった。同時に、爪先から髪の先まで澄んだ水が満ちていく感覚がした。足が地面についているのに水中を揺蕩っているような、不思議な感じだ。
弦にかけていた矢が指先から離れて、風を切って飛んでいく。狙いなどつけている余裕もなければ、力も入ってない矢はすぐ落ちると思っていた。だが、仄かな光を宿した矢は軌道を変え、的の中心に刺さった。
驚くオズヴァルドの横で、フィデンツィオが拍手をした。
「おぉ、お見事にございます、旦那様」
「フィデンツィオ、今のは……? 矢が勝手に曲がっていきました」
「それが魔法……旦那様の魔法だったのでございます。我らが使う顕現魔法ではなく、今はもはや喪われたに等しい、授与魔法にございます」
『授与魔法』――オズヴァルドも聞いたことがなければ、本で見たこともない名称だ。それもそのはずで、四百年ほど昔の書物に『異端者』として記述されて以降、ぱったりと見なくなったという。歴史書、物語、指南書――その全てから名前が消された理由は、授与魔法の使い手だった聖職者が神の名を騙って国を跨いだ詐欺を行ったからだと、フィデンツィオは言う。
元々、授与魔法を使う者は少なかった中、詐欺師のせいで『異端者』という認識が広がったことで、一般的な顕現魔法に矯正するか隠し通して魔法を使えない者として生きるしかなくなったという。次第に年代を経ていくごとに授与魔法を使えるものは減っていき、顕現魔法だけが残り『魔法』となったのだ。
「授与魔法を使う者は現代では大変に稀少な存在で、爺もお目にかかったのは旦那様でふたり目にございます。かつて爺が戦場にいた頃、同じ隊にいた者が授与魔法の使い手でございました。授与魔法のことは、爺もその者から聞いたのですよ」
「そうか――そのような魔法があることを誰も……おれさえも知らなかったから、おれはずっと……」
オズヴァルドはかすかに痙攣する己の両手を見た。体に圧しかかる倦怠感も、初めて魔法を使ったためだと思えば心地良く思える。
そこへ、芝生を踏む音が聞こえた。務めを終えたギルダが、中庭を駆けてきた。
「オズヴァルド様、今日も練習なさっていたんですね! ……あれ、どうかしたんですか?」
ギルダが丸い瞳で、オズヴァルドの顔を見上げる。化竜が始まり、より深みを増した太陽の瞳は、心の奥深くまで見透かされるようだった。
オズヴァルドは首を横に振って、彼女を抱きしめた。何となく、
そうしたくなったのだ。
オズヴァルドの突然の行動に、ギルダが驚いた声を上げた。
「オ、オズヴァルド様……?」
「……すみません。もう少しだけ、このままでいさせてください」
「か、構いませんが……」
戸惑いながらも、ギルダはオズヴァルドを抱きしめ返してくれた。彼女の速い鼓動が、布越しに伝わってくる。
魔法が使えるようになれば、ギルダの隣で、彼女を守ることができること。そして日陰馬でなかったことへの耐えられないほどの嬉しさを抱えたまま、オズヴァルドはギルダの温もりを腕の中に閉じ込めていた。
◆◇◆
十日続いた季節外れの雨が上がった真夜中に、エンリカの刑は執行された。捕縛されてから二月が過ぎた初夏のことである。
耳下まで伸びていた彼女の髪は再度剃られ、両手と両足を縛られ、古い漆黒の小舟に乗せられた。
立会人は喪服の薄絹よりも濃い黒の絹を頭から被った、神官たちである。神へ慈悲を乞う言葉を、エンリカは無表情で聞いていたという。そのまま彼女を乗せた小舟は海へ流され――夜が明けた頃、彼女が乗っていた船の破片が砂浜へ流れ着いたことを以て、刑の終了が宣言された。
――それをオズヴァルドが聞いたのは、朝のことだった。
起床後すぐ、身支度を行う前にフィデンツィオによって告げられた。滞りなく執行されたと言う彼の言葉に、オズヴァルドはただ「そうですか」と短く返すことしかできなかった。
「そのことを、姫には……」
「お伝えしておりませぬ。執行がいつ行われるかは民にも使用人にも明かされず、裁判に関わった神官のみが知ることにございます。そして、その神官も事件や裁判について言及することは罪となりますから、姫様へ伝わることはないでしょう。――エンリカのことは、ご家族の病気の関係で別の島へ移ったと、姫様にお伝えしましょう」
「……嘘をつくことに、なってしまいますね」
フィデンツィオの手を借りて頭冠を被りながら、オズヴァルドは溜め息を吐くように呟いた。
「気に病むことはありませぬ、旦那様」
平生と全く変わらない声音で、フィデンツィオはオズヴァルドの後頭部に頭冠の紐を結ぶ。
「嘘の中には、他者を傷つけぬためについていいものもありまする。そして、つき通すことで真実になることも。姫様が憂いなく竜となられることが、我らの悲願にございます。――旦那様も、お早くお忘れください。今はただ、姫様の化竜を見守りましょう」
「……はい」
オズヴァルドは小さく頷いた。執行された以上、もうオズヴァルドにできることは何もないのだ。
『揺籃の間』で朝食のために私室を出ると同時に、使用人の女が駆け寄ってきた。恰幅の良い中年の使用人は、ひどく焦った様子だ。
「あぁ、旦那様、フィデンツィオ様!」
「どうかなさいましたか」
「すぐに姫様の部屋へ。旦那様でないと対処できないことなのです」
使用人の言葉に、オズヴァルドの背中が一瞬で冷える。足早に廊下を進み、オズヴァルドの私室とは反対側にあるギルダの私室へと急いだ。
扉の前には金髪と茶髪の若い使用人がふたり、しゃがみ込んでおり、血の匂いが鼻先を掠めた。金髪の女の腕に、茶髪の女が包帯を巻いている。
ふたりはオズヴァルドとフィデンツィオを見て、安堵の表情を浮かべた。
「何があったのです。その怪我は?」
「旦那様、実は……姫様の朝の支度をしていたのですが……」
「爪が彼女の腕を掠めて、血が出てしまったのです。それに驚いてしまったのか、姫様が取り乱してしまって、私たちは追い出されてしまいました」
「なるほど、それで旦那様を呼ばれたのか。――旦那様、この者たちは爺が見ております故、姫様をお願いいたしまする。姫様は今、化竜が始まったことで不安定になられております。どうか、お気をつけて」
オズヴァルドは頷いて、ノックをしてからギルダの部屋へと入った。
「ギルダ姫、オズヴァルドです。入りますよ」
声をかけてみたが、返答はない。
ギルダは暴れてしまったのか、中は荒れていた。椅子やテーブルはひっくり返り、薄黄色のカーテンは千切れている。寝台の上で、シーツがこんもりと山になっていた。
オズヴァルドは寝台の端に膝をつく。
「姫、顔を見せてはいただけませんか」
努めて穏やかに声をかけると、山がもぞもぞと動いて涙に濡れたギルダの顔が隙間から覗いた。
オズヴァルドは笑みを作り、ハンカチで彼女の頬を拭う。
「姫、お怪我はなどはされていませんか?」
「オズヴァルド様……わたし、どうしましょう……。傷つけるつもりなんて、まったくなかったんです」
両目からぼろぼろと雫を流しながら、ギルダは顛末を教えてくれた。ギルダが茶髪の使用人に髪を梳かされていた時、朝の紅茶を淹れてくれた金髪の使用人の肩に糸屑がついてるのに気付いた。それを取ろうとギルダが手を伸ばした時、使用人が振り返って爪が当たってしまったのだ。
化竜で伸びた爪はギルダ本人の想像以上に鋭利であった。布と共に皮膚まで裂いてしまい、手についた血に驚いてしまったという。
事実、彼女の右手には乾いた赤い血がこびり付いていた。オズヴァルドはその震える手に触れようとしたが、怯えたように引っ込められてしまった。
「ギルダ姫、まずはその手を綺麗にしましょう」
「で、でも、オズヴァルド様を傷つけてしまいます」
「いいえ、貴女がおれを傷つけることなどありません。さぁ――」
オズヴァルドが差し出した手に、ギルダの手が乗せられた。ひどく熱を持ったその手を握ってゆっくりと引き寄せると、ギルダが寝台から降りた。
倒れていた椅子を立て、鏡台の前へギルダを座らせる。オズヴァルドは部屋の外で待つフィデンツィオに水を持ってくるよう頼み、待っている間に彼女の乱れた髪を落ちていた櫛で梳いた。
オズヴァルドが声をかけたことで多少は落ち着いたのか、ギルダは小さく洟を啜る。その項に櫛先が当たった時、コツ、と硬い感触がした。
長い金髪の隙間から、網目状のものが褐色の肌に浮かび上がっているのを見つけた。怪我だろうかと思ったオズヴァルドがそれに触れると、ギルダから「ひゃあ」と悲鳴に似た高い声が上がった。立ち上り振り向いた彼女の表情は、目を真ん丸にして驚く猫のようだった。
「オ、オズヴァルド様、今、何をなさったんですか?」
「えっと……項に何か硬い物がありまして。怪我かと思ったので触れてみたのですが……痛かったですか?」
「い、いいえ、痛くはないですが……何だか変な感じがしました。背中がゾワゾワってして……」
「もう一度、見せていただいてもいいですか?」
オズヴァルドの申し出にギルダが頷き、再度椅子に腰を下ろした。長い髪を避け、項を露わにすると、頭髪の生え際辺りの皮膚が変容していた。網目かと思ったそれは細かい鏃型の模様で、互い違いになっている。
「鱗にございますな」
横からひょっこりと顔を覗かせたのは、銀のボウルにぬるま湯を張って持ってきたフィデンツィオであった。
「今はまだ柔く、不完全でありましょうから、あまり強く触れませぬよう。姫様、着々と化竜が進んでおられますな」
喜ばしいことです、とフィデンツィオは眦を下げる。
ギルダの指が項に伸び、鱗に触れた。胡桃ほどの範囲しか変化していないが、彼女の表情が晴れていくのがオズヴァルドにも鏡越しに分かった。
フィデンツィオからボウルを受け取ったオズヴァルドは、ギルダの前に膝をつく。布をぬるま湯で濡らし、彼女の血で汚れた指先を包むように拭った。
「使用人の者たちは大丈夫です。すぐに手当てをしましたし、見た目よりも傷は深くないようでした。貴女も彼女たちも、突然のことに驚いてしまっただけでしょう」
「そっか……よかった……。――竜の爪がこんなに鋭いなんて、思わなかったです」
鋼の如く鈍く光る爪を朝日に透かして、ギルダが呟く。オズヴァルドも布で甘皮の境目まで拭いながら、心なしか数日前に見た時よりも厚く、頑強になっているようにも思えた。ほとんど剣や鏃のようだ。
「――では、おれが姫の爪を研ぎましょう」
「え……?」
「おれに貴女の爪を研がせてください。伸びた部分を切ることは許されませんが、滑らかにするだけなら大丈夫でしょう。そうですよね、フィデンツィオ」
「えぇ、先端だけでも多少丸くなれば、不意に傷つけることは少なくなるかと」
「で、でも!」
ギルダが己の爪を隠すように、胸の前で両手を握りしめた。
「この爪、伸びるのがすごく早いんです。オズヴァルド様に研いでいただいても、すぐに元通りになってしまいます」
「では、毎日研げばいいだけのことです。朝でも夜でも、貴女の爪を研ぎましょう」
「どうして……どうしてオズヴァルド様は、わたしなんかのために、そこまでしてくださるのですか?」
かすかに震えた声で、ギルダが問いかける。その瞳に、薄い涙の膜が張っていった。
その目尻から雫が転がり落ちる前に、彼女は両手で顔を覆って「ごめんなさい」と呟いた。
「ダメなのに、不安になってしまうんです……。オズヴァルド様は竜姫の伴侶に選ばれた義務があるから、わたしに優しくしてくれているんじゃないかって……。わたしは字も読めないし、勉強も苦手で子供っぽくて、何のお役にも立てません。だからエンリカも戻ってこないし、オズヴァルド様もいつかは嫌になって、離れてしまうんじゃないかと……」
途切れ途切れな涙声で告げられた言葉は、ギルダがずっと抱えていたことなのだろう。オズヴァルドはずっと、彼女が元来から明るく無垢な性格であるから、奇数角として生まれたことへの心無い嘲罵の中でも太陽の如く笑っているのだと思っていた。
だが、親から疎まれたことも、島民から厄介者扱いされたことも、確実に彼女の心を蝕んでいたのだ。笑顔は不安や恐怖から心を守るための、薄い仮面だったのである。
オズヴァルドは一瞬だけフィデンツィオに目配せした。それだけで彼はオズヴァルドの意図を察し、音もなく部屋を出て行った。
部屋にギルダの密やかな欷きが響く中、オズヴァルドは彼女の体を抱き寄せた。泣き過ぎてか、それとも化竜のせいでか、彼女の体はひどく熱を持っている。その熱さが、彼女の不安の大きさを代弁しているようだった。
「……正直に申しますと、おれは伴侶になったことに、あまり前向きではありませんでした。息苦しいラ・ロカ家から逃げ出す口実ができたことに喜んだくらいで、結局は別の場所でも『日陰馬』と謗られるのだろうと考えておりました。伴侶の役割は、竜姫様が滞りなく竜となられるよう補助すること……貴女のご機嫌さえとれれば、それで己の役目は果たせているとさえ思っていたのです」
今思えば、何とも失礼な思考であった。自分は属国に婿入りしてやったのだと、無意識の底で考えてすらいた。アロル人を見下していた、大陸の者共や父親とオズヴァルドは何も変わらない。――牢獄でエンリカに突きつけられた言葉を否定できなかったのは、紛れもない真実だったからだ。ギルダの機嫌を損ねぬよう振舞うことを、確かにオズヴァルドは面倒だと思っていた。
「ですが、今は違う。おれは貴女と生きたい。日陰馬の烙印を押されてからずっと、日陰ばかりを選んできましたが、貴女という日溜りの中で生きたいと思えたのです。貴女がおれのことを、どう思っていようが構いません。おれが、おれの意思で、貴女に尽くしたい」
思い返せば、婚礼で彼女に微笑みかけられた瞬間――あの時から、オズヴァルドの心は照らされていた。
スズランを差し出された時。夕餉を共にした夜。過去を打ち明け合った雨の日。スク・ア・ルジェ島でオズヴァルドが過ごした全ての日々に、ギルダという日溜りがあった。
オズヴァルドは『塩の馬』として命ぜられたから伴侶になったのではない。その温もりによって、オズヴァルドは伴侶とならせてもらったのだ。
オズヴァルドの肩が、ギルダの涙で湿っていくのを感じた。縋るように腕に回された手に、袖をきつく掴まれる。
「わたし……本当はちょっと、オズヴァルド様が怖かったんです。船から降りてきたのを見た時、他の人より背が大きくて、不機嫌そうなお顔で……。お話した時の声も低くて、笑うことも少なかったから、きっとわたしと結婚すること、嫌だったんだろうなって分かりました。でも、伴侶になるために、わざわざ故郷を離れて危険な海を渡ってきてくれたんだから、ちゃんと夫婦にならなきゃって思ったんです。笑顔でいなきゃ、良い子でいなきゃ、嫌われてしまう……わたしは奇数角の『忌み子』だから、早く立派な竜にならなきゃって、ずっと……」
オズヴァルドは震えるギルダの背中を撫でながら、胸中では後悔が押し寄せていた。
己より八歳も幼い彼女にここまで悟られ、そして気遣いを強いていたとは思わなかった。ラ・ロカ家での経験から、感情を表に出さないことに自信はあったはずだった。しかし、ほんのわずかな語気や仕草の揺らぎから、本心を感じ取るギルダの方が上だったのである。オズヴァルドなんかよりも、彼女の方が悪意に晒されていたから。
オズヴァルドは己を殴りつけたくなった――自分はなにひとつ、ギルダのことを見ていなかったのだ。愛していると宣いながら、彼女という太陽の裏で揺れる不安に気づけなかった。どれだけ親に反抗できるようになっても、魔法が使えるようになっても、紛れもなくオズヴァルドは駄馬であった。
「おれのことは、今でも怖いですか?」
オズヴァルドはギルダと少しだけ体を離し、鼻先が触れ合うほどの距離で見つめ合う。
ギルダが何と答えようと、オズヴァルドは構わないと思っていた。たとえ愛しているのがオズヴァルドだけで、一方通行だとしても、伴侶としての責務から逃げずに彼女を最後まで支えることは決めている。
ギルダは小さく首を横に振った。
「好き。低くて柔らかい声で名前を呼ばれるのも、時々お見せになる笑顔も好き。わたしが『忌み子』だと分かっても、普通の女の子として接してくれたのも嬉しかった」
どちらともなく、オズヴァルドとギルダは額を合わせる。そうすれば、お互いの瞳に映るのはお互いだけだ。澄んだ金色の中に己の黒銀が映り込んでいるのが、オズヴァルドは途方もなく嬉しい。
「わたし、優しいあなたが伴侶でよかった」
「えぇ、おれも同じ気持ちです。貴女の伴侶になれて、よかった」
ふふ、とギルダの顔に笑顔が戻る。重ね合わせた手は熱く、心地が良い。
本当の意味で夫婦となったふたりを、透明な朝陽が包みこんでいた。