半月
スク・ア・ルジェ島に短い秋が訪れた。
秋は雨が多くなる冬に向けての準備期間だ。麦を収穫し、魚を干し、果物を貯蔵する。炙られるような夏の陽射しも落ち着き、ひんやりとした石造りの神殿の中では、麻の上着を一枚羽織らねばならない日々が続いた。
使用人たちの話では、今年の冬は早足な割に長く居座るだろうという占いの結果が出ているらしい。長雨が続けば川が氾濫する危険もあるため、対策の相談で各島の役人たちが慌ただしく神殿に出入りしていた。
「オズヴァルド様、ここのは何と読むんですか?」
「『この花は雪解けと共に芽を出す』と書かれていますね」
書庫にて、オズヴァルドはギルダから差し出された図鑑の説明文を読んで聞かせた。
本の読み方を教えてほしいと請うてきたのはギルダだ。オズヴァルドと同じ本を、同じ目線で読んでみたいらしい。だが、それにはまず基礎的な言葉の勉強から始めなければならず、彼女にとって興味のある図鑑を使って文字を教えることにしたのだ。
彼女はオズヴァルドの教えたことをすぐに覚えた。『雪』のように島では聞き馴染みのない言葉はイメージがしにくいのか苦戦していたが、時間をかければきちんと理解する。
「『ゆき』ってどういうものなのでしょう。フェロフォーネでは『ゆき』は降りますか?」
「いえ、さすがに雪は降りませんね。もっと北の、ステラフェーレ山脈を超えたサリカ王国辺りまで行かなければ、雪は見られないでしょう」
「ステラ……? サリカ王国……?」
ぽかんとした表情で言葉を繰り返すギルダを、オズヴァルドは小さく笑って近くに呼び寄せた。書庫の隅に丸めて置かれていた地図を、テーブルの上に広げる。
紙面に描かれた地図に、ギルダが「わぁ」と明るい声を零す。彼女の反応は何らおかしくはない。大多数のアロル人は島から出る必要がないため、地図を見たことがない者は多いのだ。
オズヴァルドは十六の小島に囲まれた、歪な楕円の島に指を置いた。
「ここがおれたちの住むスク・ア・ルジェ島です。臥海を挟み、この三日月型の国がフェロフォーネ」
「わたしたちの島は、こんなに小さかったのですね。フェロフォーネ王国の半分もありません。オズヴァルド様がお生まれになったのは、どの辺りなのですか?」
「ラ・ロカ家の領地は、南東の内地です。広さはありませんが、セロー紅茶の茶畑を持っています」
オズヴァルドが動かす指先を、ギルダの目が追う。続いてオズヴァルドは、北の国境に沿って弓なりに指を滑らせた。
「これがステラフェーレ山脈……別名『星割りの山』と呼ばれる霊峰です。この山脈を境として、南がフェロフォーネ王国で北がサリカ王国となっています。サリカ王国は山陰になりますから、冬は太陽の恵みが遮られ、時折雪が降るのです」
「どうして『星割りの山』というのですか?」
「古くから伝わる神話で、巨人が空から落ちてきた星を槍で割り砕いたといわれているからです。死んだ巨人の体は槍と共に山となり、ステラフェーレ山脈となったと」
「そうなんですね!」
声を弾ませるギルダの瞳は、好奇心でキラキラと輝いている。オズヴァルドはその光を見るのが、最近の楽しみになっていた。
今までは日陰馬と謗られ、生んだ両親にすら見向きもされなかった。自分の言葉をまっすぐ聞いて、反応をしてくれるギルダの存在は、オズヴァルドの中で日に日に大きくなっていくのを感じていた。それを忌避ではなく歓迎していることに、オズヴァルド自身が驚いている。
「フェロフォーネ王国のことは少しだけ聞いたことはありますけれど、サリカ王国は知らないです。どんなところですか? オズヴァルド様は行ったことありますか?」
「サリカ王国は……申し訳ありません、おれも行ったことがなく、国同士の交流というのも少ないのです。ただ、良質な鋼が採れると聞いたことがあります」
「そうなんですか……」
わずかにギルダの顔が曇る。オズヴァルドの胸が針を呑んだように痛んだが、本当のことも伝えるわけにはいかず「申し訳ありません」と謝罪するだけに留めた。
フェロフォーネ王国とサリカ王国は、建国当時より敵対関係にある。国土や技術、ステラフェーレ山脈に眠る鉱物などを巡り、幾度も開戦と停戦を繰り返しているのだ。ラ・ロカ家にいた頃は騎士の父と兄が常に国際情勢について話し合っていたから、役立たずで戦争に行けないオズヴァルドにも隣国との険悪さは自然と耳に入ってきた。
現在は三十年ほど停戦しており、二年前にフェロフォーネの第四王子に、サリカ国王の姪が嫁いできたことで、歴史上もっとも友好的な関係を築いている。しかし、それもいつ壊れるか分からない薄氷の平穏でしかない。歴史書を紐解くと、小石を蹴飛ばすような些細な出来事が、後に数千の命が喪われる戦争に発展したこともある。
いずれにせよ、スク・ア・ルジェ島から出ることのないギルダには関係のない話だ。彼女が不安になるようなことは、あまり聞かせたくない。
その時、神殿の鐘の音が響くと同時に、書架の陰で控えていたエンリカがオズヴァルドたちの前に現れた。
「ご歓談中、失礼いたします。姫様、禊のお時間です」
「えー、まだオズヴァルド様から国のことをたくさん聞きたい!」
「駄目です。遅れてまた神官長様に叱られても、アタシ知らないからね!」
唇を尖らせて駄々をこねるギルダの子供っぽい仕草に、オズヴァルドは小さく笑う。
オズヴァルドが許したことで、エンリカも人目のない場では砕けた口調を使うようになった。言葉遣いなどオズヴァルドは気にしないし、ふたりが楽なのであればそれでいい。
オズヴァルドは地図を丸め、元あった箱へと戻す。
「勉強はお勤めが終わった後で、また行えばいいだけの話です。昼食を終えたら、中庭に出ましょう。今日は天気も良いですから」
「うぅ……約束ですよ、オズヴァルド様」
「えぇ、約束です」
ギルダはまだ不満そうにしていたが、諦めて書庫を出ていった。扉が閉められる直前、エンリカがオズヴァルドの方を向いて深く一礼する。使用人としての礼儀だろうが、ギルダを説得してくれた礼もあるのだろう。最近のギルダは、オズヴァルドの前でも我儘を言うようになったから、竜姫に変化するための務めへ向かわせるのにエンリカも苦労をしているようだ。
昼食まではまだ時間があるから、オズヴァルドは近くの椅子に座って読書の続きをすることにした。ギルダは『星割りの山』の伝承に興味津々な様子だったから、神話の読み聞かせをしてやるのもいいだろう。
床から天井まで伸びる書架に敷き詰められた本の中から、神話の本を探していると、書庫の扉がノックされた。入室を許可すると、フィデンツィオがやや硬い表情で入ってきた。彼は深々とオズヴァルドに頭を下げる。
「失礼いたします、旦那様。私室にて、ご軽食の準備が整いました」
「軽食?」
「はい。『黒スグリ』をご用意いたしました」
「……分かりました、すぐに行きます」
オズヴァルドは手に取っていた本を戻し、フィデンツィオを伴って足早に書庫を出た。
『黒スグリ』は使用人の間で使用されている隠語だ。他にも『レモン』や『葡萄』などの果物の色で、重要性を判断する。最も色の濃い黒スグリは、緊急性が非常に高い問題が起こったことを示している。
私室へ戻ったオズヴァルドは、机上に置かれていた水差しでコップに水を注ぎながら、フィデンツィオを振り返った。
「フィデンツィオ殿、何があったのですか?」
「旦那様。急ぎ、船旅のご支度を……――ベリザリオ国王陛下が、身罷られました」
オズヴァルドの手からコップが滑り落ち、深紅の絨毯が広く濡れた。それを拾うのも忘れ、オズヴァルドはただフィデンツィオを凝視して固まる。
そんなオズヴァルドに、フィデンツィオが一枚の手紙を渡してきた。震える指でそれを受け取り、開くとベリザリオ・オルランド=フェロフォーネ国王の急逝と国葬の日程だけが書かれていた。手紙の封蝋は、剣を携えた鷹の紋章――ラ・ロカ家の家紋だ。
「先刻、フェロフォーネからの貿易商がこれを運んで参りました。急ぎ、国へ向かわれた方がよろしいでしょう」
「そんな、陛下が……? なぜ死因が書かれていないのです!?」
「……お許しください。こちらに届いた情報は、その手紙一通のみでして……島国故に、詳細は伝わってきていないのです」
深く頭を垂れて謝罪するフィデンツィオに、混乱から八つ当たりのような口調になってしまったことを恥じたオズヴァルドは、一瞬で脳裏が冷えた。深呼吸をして、長い前髪を掻き上げる。
「申し訳ありません、理不尽なことを言いました。しかし、葬儀におれが参列してもいいものなのでしょうか。竜姫様の伴侶として、神殿を出てはいけない決まりだったのでは?」
「えぇ。ですが、島や王国に有事があった際や、ご親族にご不幸があった時などは、例外的に神殿から出ることは許されているのです。ラ・ロカ家の名義でこの手紙が届いたということは、旦那様にも参列をというご要請なのでしょう」
「……分かりました、すぐに準備いたします。フィデンツィオ殿、手伝って頂けますか?」
はい、と一礼したフィデンツィオは、オズヴァルドの着替えなどを取りに部屋を出て行った。
落としていたままだった木製のコップを拾い上げたオズヴァルドは、窓外に視線を向ける。
夏の濃い青から冬の褪せた蒼へと移り変わっていく途中の、秋の碧が四角く切り取られている。薄綿を引き伸ばしたような雲の流れる先――フェロフォーネ王国では今、王の突然の訃報に混乱しているだろう。
嵐が来る前のようなさやぎが、オズヴァルドの胸の内で倦んでいた。
◆◇◆
フェロフォーネの国葬には、オズヴァルドだけでなくフィデンツィオも影従として、そして神官らも数人ほど参列するという。スク・ア・ルジェ島はフェロフォーネの属国であるから、君主の葬儀を欠席するわけにはいかない。
とはいえ、他国からも弔問客は訪れるから、滞在するのは二日ほどだという。アロル人は洞角を持ち、滅多に島外へ出ない稀有な人種である。奇異の目を向けられるのは避けられない。余計な問題が降りかかる前に、鎮魂の祈りを捧げて島へ帰る予定なのだ。
「――それでは、ギルダ姫。しばらく留守にいたします」
知らせが急であったから、ギルダに事情を話せたのは昼食を終えた後であった。午後は中庭で過ごす約束を支えに竜姫の務めを耐えていたから、彼女の落胆ぶりは相当なものだった。オズヴァルドが神殿を出る時刻になっても、口を引き結んでエンリカの後ろに隠れ、目を合わせようとしない。
そんなギルダの様子に、エンリカが大きく溜め息を吐いた。
「姫様、子供みたいに拗ねないでください。竜姫として、妻として、きちんと旦那様をお見送りしてくださいませ」
エンリカがそう促すも、ギルダはぷいとそっぽを向く。呆れたようにもう一度溜め息を吐いた彼女は、オズヴァルドへ頭を下げた。
「申し訳ございません、旦那様」
「いえ、約束を破ることになった、おれが悪いのです。――ギルダ姫、機嫌を直してくださいませんか」
「知りません。嘘つきなオズヴァルド様なんて、もう知りません」
「姫様、そのようなことを仰ってはなりません。人の生死など、誰も手出しできないことなのですから。旦那様でもどうすることもできないのです」
エンリカから鋭い口調で窘められ、ギルダの目に涙の膜が張っていく。諫言の内容は、彼女も分かっていたことらしい。エンリカの後ろからのろのろと出てきて、手の甲で目を拭う。
「……すぐ、帰ってきてくださいね」
「えぇ、遅くとも十日後には」
「遅くは嫌です。できる限り、絶対、早く帰ってきてください」
「ふふ……えぇ、分かりました。帰りましたら、今日中庭で読むつもりだった、神話の本を読んでさしあげましょう」
「必ずですからね。わたし、それまでお務めも、頑張りますから」
オズヴァルドはギルダの頬を伝う涙を、指で掬い取る。細い体を抱き寄せれば、わずかに彼女の表情が和らいだ気がした。
「今後、貴女には嘘をつかず、約束を守ると祖竜姫様と天上の神に誓いましょう。では、行ってまいります」
「はい。オズヴァルド様、お気をつけて」
ギルダの頬を撫でて体を離し、オズヴァルドは神殿を出た。フィデンツィオと旅の荷物を持った神官らが続き、海へと続く坂道を下っていく。
オズヴァルドがフェロフォーネ行きの話をすれば、彼女に多少悲しい思いをさせてしまうだろうと予想はしていたが、ここまで拗ねられてしまうとは思わなかった。国葬になど出ず、神殿に戻りたいほど名残惜しい。
海岸には見上げるほど大型な木造船と、その下で慌ただしく荷を積む役夫らの姿があった。マストの頂点では、フェロフォーネの国旗と喪章である黒い布が、風にたなびいている。急なことだったため、フェロフォーネへ向かう貿易船に乗ることとなったのだ。
オズヴァルドは船の近くで、積み荷の確認をしていたひとりの若い男に歩み寄った。
「リヴィオ殿、今回は無理な要望に応えていただき、感謝いたします」
汗に濡れた短い煉瓦色の髪を掻きあげながら、リヴィオ・パスクィーニが振り返る。声をかけてきたのがオズヴァルドと知ると、彼は淡い翠の目を猫のように細めた。
「どうもどうも、竜の旦那様。困った時はお互い様って言いますやろ? お気になさらず」
リヴィオという男を端的に表すとすれば、ただ『異端』のひと言だ。フェロス人でありながら、スク・ア・ルジェ島に魅せられて家まで建てた変わり者。それが彼への印象だった。
オズヴァルドのような招かれた者ならともかく、アロル人は基本的には排他的である。交易もフェロフォーネとしか行っておらず、特別な事情がない限りは長期の滞在も認められていない。普通であれば移住をしたいと申し出たとしても、島長からの許可が降りることはないはずなのだ。
それでも彼がスク・ア・ルジェ島にいることを許されたのは、医者でもあったからだ。
スク・ア・ルジェ島の弱点のひとつに、医療体制が整っていないことがある。診療所と呼ばれるものは十七ある島の内、それなりに住人のいる五つの島にしかない。医者が扱う治療法も代々口伝されている根拠のないものが多く、狭い島国ゆえに採れる薬草も少ないため、病に罹れば治療を諦める者が多いのだ。
しかし、リヴィオが島に別邸兼診療所を建設して大陸の医療をアロル人に伝授していったことで、これまで医者のいなかった島へも医者を配置したり、彼自身が船で診療して回ったりできるようになった。技術や知識、物資を惜しみなく与える剽軽な彼に、最初は懐疑的だった者たちも次第に打ち解けていき、角はなくともアロル人の一員として受け入れられたという。
神殿にも時折出入りしているから、オズヴァルドとも顔見知りだ。人付き合いの不得手なオズヴァルドとは対照的な、少々癖のある若き賢人なのである。
リヴィオは上裸の役夫に、オズヴァルドたちの荷を全て運び込むよう指示をする。
「ちゃっちゃと積みやぁ。けど、旦那様方の大事なお荷物やけ、傷つけたらいけんよ。ささ、旦那様も神殿の皆様もどうぞ中へ。急拵えですが、船室も整えましたんで」
「え、えぇ、ありがとうございます」
リヴィオに促され、オズヴァルドは船へと乗り込んだ。
船内は新しい油の匂いに満ちていた。船の防水と防腐のためには仕方がないが、オズヴァルドはどうもこの匂いが苦手だ。婿入りの時も臥海を五日かけて渡ってきたが、最後まで油臭さに慣れることはなかった。
オズヴァルドが眉間に皺を寄せているのに気づいたのだろう、内部を案内していたリヴィオがどこからともなく花を取り出して差し出してきた。スク・ア・ルジェ島ではよく見る秋薔薇だ。香りが強く、鼻に近づければ油臭さがいくらかは楽になった。
「すみませんなぁ、先日船を塗り直したばっかりで、ニオイがまだ馴染んでへんのですわ。後でお部屋の方に香を焚きましょ。いますでっこ、きばいやんせ」
「い、いま……? いえ、お気遣いなく。……失礼ながら、リヴィオ殿は少々お言葉が特殊でいらっしゃいますね」
「あぁ、ボクは貿易商ですからねぇ。あちこちのお国にお邪魔することが多いもんで、言葉が移ってしもうたんです。さっきのはカーネ語で『もう少し』、チュルヴォ語で『頑張ってください』って意味です」
「そうだったのですか。無知な言動をお許しください」
「あっはっは、謝ってもらわんでもだんないわ! 真面目なお人じゃねぇ、旦那様は」
また差し込まれた異国の言葉の意味は分からないが、彼の語気から察するに怒らせてしまったわけではなさそうで、オズワルドは安堵した。
案内されたオズヴァルドとフィデンツィオの船室は、本来は船長であるリヴィオの私室らしい。乗せるよう無理を言ったのは神殿側だというのに、わざわざ部屋を譲ってもらうのは忍びない。船員と同じ船底の隅でいいのだ。そう伝えたが、フェロフォーネの貴族の令息であり、竜姫の伴侶を粗末な場所に寝かせられないと言われてしまった。
「旦那様、船旅が苦手なんでっしゃろ? ここなら開きませんけど窓もありますし、甲板へも近いんでご気分が悪くなってもすぐ潮風に当たれます。あ、狭いのと従者さんと相部屋なのは勘弁してつかあさいね」
「十分です。重ね重ね、ご配慮に感謝いたします」
「じゃ、ボクは仕事に戻りますんで、何か足りないものがあれば呼んでください。出港は日暮れ頃にはできるよう整えますから、もうしばらくお待ちくださいね」
言い終わるや否や、リヴィオは船員に呼ばれて出ていった。彼も朝からずっと段取りに追われていただろうに、疲れなど全く見られない猫のような軽快な足取りだ。
身の回りの荷物が部屋に運び入れられるのを横目に、オズヴァルドは綺麗に整えられたベッドに腰掛けた。
少し頭が重く感じる。やはり油の臭いにあてられてしまったようだ。リヴィオからもらった薔薇のお陰で多少は気も紛れるが、根本的な解決にはならない。重苦しい溜め息を吐いたオズヴァルドの眼前に、水の注がれたコップが差し出された。
「旦那様、お水を」
「あぁ……ありがとうございます」
「お辛いところ申し訳ございませんが、出港前にご確認いただきたいことがございます。――こちらをおつけくだされ」
フィデンツィオが両手に抱えて持ってきたのは、縁に銀の装飾が施された木箱だ。中に入っていたのは、赤銅色に塗られた木製の洞角がついた頭冠だった。
「フィデンツィオ殿、これは?」
「我らの角の模造品でございます。竜姫様とご結婚なされたことで、旦那様はアロル人となられました。此度の葬儀にはスク・ア・ルジェ島の者として参列なさいますから、こちらを着けていただくのです」
「ほうほう、それはなかなか興味深い文化でんなぁ」
出て行ったはずのリヴィオの声がすぐ近くから聞こえ、オズヴァルドとフィデンツィオは同時に驚いた声を上げた。悪戯の成功した子供のようにリヴィオは笑うが、その視線はフィデンツィオの手の中にある角に向けられている。
「いやぁ、すいません。旦那様の体調が随分となやましそうやったんで、香りのいいお茶をと思いまして。そしたら、なんや面白そうなお話が聞こえたものでして。その角、歴代の竜の伴侶様もつけてはったんですか?」
「えぇ、そうでございます。祭事や儀式の時にしか着用しないものですよ。旦那様には寸法の確認と重さに慣れていただくため、船旅の間から身につけていただきます」
オズヴァルドは冠を手にとってみる。角自体は想像より軽いが、雫型の水晶や銀の装飾はそれなりに重量があった。角が括り付けられているのは滑らかな馬の革で、先端には紐と留め具がついている。
フィデンツィオの手も借りて被り、左右に首を少し振ってみたが、重心が変わったからか自分の認識より大きく振られる感覚があった。葬儀ではこれに加えて黒い薄絹のフェイスヴェールも被らねばならない。これは確かに慣れるまで時間がかかりそうだった。
フィデンツィオが後頭部の紐を調整しながら、リヴィオに鏡がないか尋ねる。リヴィオはすぐに部屋の壁に掛けられていた鏡を外して、オズヴァルドの前に持ってきた。やや錆の浮いた鏡面に、角を生やした青白い肌の仏頂面が映っている。
「よーくお似合いでっせ、旦那様。ご感想はいかがです?」
「……酔いそうです」
「ほほ、こればかりは、時間をかけるしかございませんな。歩いたり物を持ったり、普段通りに動いていただいて、痛みや不快感などがあれば仰ってください」
分かった、と無意識に小さく頷く動作でも、頭が振られて視界が揺らぐ。同時に腹の中も揺さぶられて、吐き気に喉奥をつつかれた。
リヴィオが淹れたハーブティーを飲んでいるうちに、彼はまた慌ただしく部屋を出ていった。フィデンツィオからは外で風に当たることを勧められたが、船内ではまだ役夫らが忙しなく働いているだろう。万が一、体調を崩しでもしたら余計な世話をかけさせることになる。船が動き出すまでは、私室で大人しくしていることにした。
オズヴァルドがふと視線を窓の外へ向けると、化竜神殿が見えた。まだ一年も過ごしていない場所から、たった数日離れるだけなのに、オズヴァルドの胸は切なく締めつけられる。目は自然と窓の奥に、波打つ金髪を探してしまう。ギルダと別れたエントランスから近い、一階東側の窓――そこに一瞬だけ金色が見えたのは、オズヴァルドの離愁と傾いていく太陽が見せた幻だろうか。石積の目地も見えないほど遠くにある神殿に、彼女の姿など見えるはずがない。
持ち込んだ本や窓外を交互に眺めていると、大きな横揺れと共に外の景色がゆっくりと動き始めた。リヴィオは日暮れ頃にはと言っていたが、空はまだ青く太陽もある。予定より早く準備を終えられたようだ。船は徐々に向きを変え、すぐに神殿の外観は窓枠から外れて見えなくなった。
これから船は三日かけて臥海を渡る。島とフェロフォーネの距離はそれほど遠くなく、直線で航路を結べば一日で着く。だが、途中にある巨大な七つの渦潮を決められた航路で迂回せねばならないため、日数がかかるのだ。これに天候などの悪条件が重なってしまえば、海上で立ち往生することもあり、オズヴァルドが婿入りしてきた時は一日長く船に乗ることになった。
スク・ア・ルジェ島の周囲を囲うように渦潮が存在しているのは、祖竜姫が島に近づけさせないためだと伝わっている。噴火を繰り返すヴェス・ビエト火山からフェロフォーネの民を、そして角を持つアロル人を他国から守っているのだ。島の歴史書で知ったことだが、これまでにフェロフォーネ以外の国から侵略されかけたことはあった。だが、技術が未成熟だった昔の小さな船ではすぐに渦に引き込まれ、島まで到達できたものは木片と死体だけだったという。臥海を渡るには、正確な航路や渦と渦のわずかな隙間や海流の変化を見抜く知識と目、そして多少の引力に負けない強靭な船が必要なのだ。
オズヴァルドは波に酔う前に、甲板で風に当たることにした。部屋から出る時、角が扉の上枠に当たって大きく仰け反ってしまい、フィデンツィオに笑い混じりに心配された。重さだけでなく身長の変化にも慣れてかねばならないことに、オズヴァルドはげんなりと溜め息を吐いた。
慌ただしく仕事に奔走する役夫たちを避けながら、オズヴァルドは甲板へ出ると湿気を含んだ冷たい潮風に頬を撫でられた。
目に広大な空と海が飛び込んでくる。途切れ途切れの薄灰色の雨雲に、夜の紺色が覆い被さろうとしていた。水平線の淵は朱い夕日を呑み込んで、澄んだ黄金に染まっている。
蒼に滲み溶ける金色は、別れる最後に見たギルダの瞳を思い出させた。突然の留守はどうしようもできないことだとしても、自分の口がもう少し達者であれば、悲しい思いをさせずに済んだのではないかと考えてしまう。
オズヴァルドは薄れていく夕日の金色を甲板の隅でぼんやりと見送っていると、不意に肩を叩かれた。
振り向けばリヴィオが立っていた。猫のように目を細め、両手に持った盃の片方をオズヴァルドへ差し出してきている。潮風に乗ってアルコールの匂いが鼻に届く――オズヴァルドは葡萄酒の注がれた盃を受け取った。
「ご気分はどうでございますか、旦那様」
「風のお陰で、だいぶ楽になりました。――とても大きな帆船ですね」
「あっはっは! 目の前の銭ばかり追っていましたら、いつの間にか扱う品物がこじゃんと多くなりまして、小っこい船っこじゃ収まらんくなったんですわ。ま、ボチボチ稼がせてもろてます」
リヴィオは大口を開けて笑い、自分の葡萄酒を呷る。
何でもないような軽快な口調だが、彼はオズヴァルドと同じくらいの若さでフェロフォーネでは名を知らない者はいないパスクィーニ商会の会長をしている。五年前に彗星の如く突然現れ、あっという間に大商会に成長したと聞いているが、その裏ではオズヴァルドの想像も及ばない苦労があっただろう。一般的に商会は市場を仕切っている貴族に取り入る必要があるが、彼は媚びる素振りもなかったため、貴族らからは良い印象を持たれていなかった。嫌がらせをされているという噂も聞いたことがある。そんな中で、ここまで大きな帆船を持てるまでに成長させたのだ。経済に明るくないオズヴァルドでも、それがどれだけ困難なことか想像がつく。
あっという間に盃を乾かしたリヴィオが、足元に置いていたボトルから手酌で注ぎ直そうとしたため、オズヴァルドが彼の手からボトルを取って注いでやった。
「これはこれは……旦那様からお酌いただくやなんて、畏まってしまいますわぁ。あぁ、安酒のはずやのに、百年モノのようや」
「世辞が過ぎます。おれのような駄馬に注がれては、酒も味が落ちるでしょう」
「なんや、お腰の低いお方やねぇ。竜の旦那様は慎み深い方やと噂で聞きましたけど、ボクみたいな家柄も何もないケチな商人にまで気ィ遣うてくださるなんて。あてやかなお方や」
「……リヴィオ殿は貴族の出ではないのですか?」
「へ? いやいや、ボクはただの庶民です。何でそう思ったんです?」
「古語を使われていたもので……今の『あてやか』も、部屋での『なやましい』も、年配の貴族ですらあまり使わない言葉でしたから」
あぁ、とリヴィオが頷く。
「実はボク、学者もしとるんです。といっても、論文なんて書いたこともない、ただ趣味でスク・ア・ルジェ島の歴史や竜姫様の文化に興味を持った、似非学者なんですけどね。色んな文献やら昔話やらを集めていく内に、古語も移ってもうたんでしょうな」
「そうでしたか。貴族の嗜みとして教わったのかと。もしくは、夜会などで上流階級と交流があったのかと思いました」
「それも違いますね。ボクは利権とか派閥とか、心にもないおべっかとか、そういう窮屈なんは鬱陶くて嫌いなんです。一回だけ『これも販路拡大』と思って夜会に出たこともあるんですけど、もー後悔後悔、大後悔! 学校も同じ理由で嫌いなんよ。だから文字も計算も、商売だって独学です」
「それは……大変だったでしょう」
「はは、まぁホドホドには。けど、ボク天才なんで」
白い歯を見せて、ニカッと猫のようにリヴィオが笑う。
強力な後ろ盾もないまま商会を大きくできたのは、ひとえに彼の時流を読む慧眼と商才によるのだろう。彼は己のことを冗談めかして『天才』と称していたが、相応しい才能だとオズヴァルドは思う。
「ところで……もしかして旦那様は葡萄酒、お嫌いでした?」
リヴィオが嵩の減っていないオズヴァルドの盃を指差して言った。
オズヴァルドは恥入るように頬を掻く。
「あぁ、えっと――嫌いというわけではなく、苦手と言いますか……これに限らず、酒の苦みがどうしても好きになれず……」
「え、ほんまに? あー……それは失礼いたしました。貴族の方々、皆さんお酒飲んではる印象やったから、てっきり旦那様もそうかと……」
「リヴィオ殿の印象は間違ってはいませんよ。夜会などで酒が提供されるのは普通のことですから、酒が飲めねば貴族として一人前ではありません。おれが不出来なだけなのです」
「……と、いうことは。旦那様、お酒が苦手やのうて、飲めへんの?」
「あ……」
オズヴァルドは口元を押さえる。リヴィオの言う通り、オズヴァルドは酒が飲めない。風味が嫌いなのも嘘ではないが、一口飲んだだけで目を回してしまうのだ。貴族社会の夜会は立食形式が主流である。小さなグラスひとつ飲み干す前に倒れていては、笑い者になることは目に見えている。だから、どうしても参加せねばならない夜会の時は、グラスを持って壁際に置物よろしく佇んでいるだけなのだ。
酒に関しては両親に詰られたことであるから、オズヴァルドにとって隠しておきたい汚点だった。どうもリヴィオの前では口が緩みやすくなってしまう。すぐに他人の懐に入り込んでしまうのも、彼の才能のひとつなのだろう。
オズヴァルドはてっきり笑われるかと思っていたが、彼は顔の前で両手を合わせて頭を下げてきた。
「大っ変、失礼いたしました! 飲めへん方にお酒すすめるやなんて、商売人として観察力が足りませんでした。晩餐の時には別のものをお出しいたしますので、堪忍しておくれやす」
「い、いえ、貴殿のお心遣いに応えられぬ、おれが悪いのです。それに、乗せていただいている身で贅沢など申せません。食事も粗末なもので結構ですから、どうぞお気遣いなく」
「そう言ってもらえると、心が軽くなりますわ。旦那様は、まっことお腰の低いお方や。そがな優しい性格の旦那様をもろうて、竜姫様もさぞお幸せやろうねぇ」
「それは……どうなのでしょうね……」
リヴィオが船尾の方を振り向き、オズヴァルドもその視線を追ってスク・ア・ルジェ島を見た。
出航してからわずかにしか時間は経っていないため、ヴェス・ビエト火山の輪郭は、まだはっきりと見えていた。船は夜から朝にかけて、島の北側から臥海へ出る。島の南側にある神殿は、火山に隠れて見えなくなってしまったが、そこで待つギルダのことを考えると胸に針が刺さったように痛んだ。
オズヴァルドは最初こそ子供のお守りだと感じていたが、今はギルダのことを好ましく思っている。純粋で、無垢で、だが他者を気遣える優しさも持ち合わせた日溜りのような娘だ。
ギルダがオズヴァルドのことをどう思っていようが、気にはしていない。自分は伴侶として、ギルダの幸福に暮らせるよう寄り添うだけのことである。この思考はどちらかというと、夫というより影従に近いのかもしれない。
今のところは、ギルダもオズヴァルドを慕ってくれていると思う。なぜ好意的に接してくれているか理由は分からないが、彼女が「もうオズヴァルドなど不要だ」と言い出すまでは傍にいたい――そう思うようになっていた。
じっと島の方を見つめていたオズヴァルドの肩を、リヴィオが指でつついてきた。
「そういえば、ボク、噂で聞いたんですけど。今代の竜姫様が三本角ってのはほんまなんですか?」
リヴィオから耳打ちされた言葉に、思わずオズヴァルドは彼を睨めつけた。醸される冷ややかな雰囲気を感じ取ったのか、リヴィオが慌てて首と両手を振る。
「そんなおとろしい顔せんでください! ただ、学者としての好奇心が、ちょーっと顔を出しただけなんです。……でも、旦那様もお気をつけてくださいよ。そんな反応なさったら、肯定しているようなモンですから」
「……えぇ、そうですね」
オズヴァルドは眉間を指で揉み、絞り出すように言った。
竜姫が奇数角であることは、島民だけが知っていることだ。しかし、口さがない者はいるだろうし、それをリヴィオのような外部の者に聞かれる可能性もゼロではない。噂とは漣だ。一度知られてしまったことは瞬く間に広がり、波及し、誰の手にも負えない形に変化していく。
重怠い溜め息を吐いたオズヴァルドの隣で、リヴィオが大きく伸びをした。
「旦那様は、奥様のことをいっとう大事にしてらっしゃるんですねぇ」
「大事――えぇ、大事です。何にも代え難いほどに」
オズヴァルドは手の中で盃を握りしめる。
今、神殿では『忌み子』であるギルダの周囲に、味方はエンリカしかいない。それがどれだけ心細いことだろう。島にとって重要な竜姫だからという理由では収まりきらないほど、オズヴァルドの中で彼女の存在は大きくなっている。
本を開いていても、美しい空と海を見ていても、心は必ずギルダへと向かっていく。今すぐ神殿に戻って、彼女を抱きしめて安心させてやりたくなるのだ。
太陽の傾き方から考えるに、そろそろ神殿では夕餉の時間だ。ギルダはいつもふたりで食べていた広い長卓で、ひとりで料理を食べることになるのだろう――想像に耽っているとリヴィオに背中を強く叩かれた。
「いやぁ、夫婦仲睦まじいことで、けなるい限りですわぁ!」
「け、けなる……?」
「西の国の言葉で『羨ましい』っちゅーことです! ボクは独りモンですけれど、そのお気持ちは分かりますよ。この船に乗ったら、みーんなボクの家族や。気のいい奴ばっかりやから、旦那様に寂しい思いはさせません。ま、ちっくとムサ苦しいかもしれへんけど」
「ふふ……えぇ、ありがたい限りです」
肩をバシバシと叩いてくるリヴィオの笑顔につられて、オズヴァルドの頬も緩む。彼は夏の疾風のようだ。人心にするりと入っていき、虜にしてしまう。商人としてこの上ない才能だ。
空が濃紺に染まり、早起きな星が雲間に瞬き始めるまで、リヴィオのお喋りは続いたのだった。
◆◇◆
海沿いの街、リソルレードの象徴である赤煉瓦は、喪服の薄絹をまとったようにくすんで見えた。雲は純白で、空も玻璃の如く高く澄んでいるというのに、灰色の幕がフェロフォーネ全体を覆っているようだ。
国王が崩御すると、全ての国民は半年間は喪に服すのがフェロフォーネのしきたりだ。その間に貴族と聖職者で構成される議会が『王選会議』を行い、新たな王を決める。しかし、半年で新王が決まることは少ない。いつの時代も必ず跡目争いが起き、喪が明けるまで一年かかることは普通のことだった。
前王となったべリザリオ国王の時も、王に指名されるまで三年もかかったと聞いている。その間、不審な死を遂げた者たちは四十名もいる。そのほとんどが罪のない使用人だ。また同じように多くの血が流れると思うと、オズヴァルドは気が重くなる思いだった。
船を降りたオズヴァルドらを出迎えたのは、漆黒の喪服を着て顔を黒い薄絹で隠した五人の男たちだった。両手を腹の前で重ねて、深々と礼をする彼らの二の腕には、剣を持った鷲の紋章――ラ・ロカ家の家紋が刺繍された赤い腕章をつけている。彼らはラ・ロカ家の使用人たちなのだろう。
先頭にいたひとりの男が、オズヴァルドたちの前に進み出た。頭に対して、やけに大きな鍔付きの帽子を被っていた。
「お待ち申し上げておりました、スク・ア・ルジェ島の皆様」
「……お出迎えに感謝いたします」
「馬車を用意しております。船旅の後で恐縮ですが、王都フェニアタまで、今しばらくご辛抱ください」
ありがとうございます、とオズヴァルドも一礼する。
港でまだ仕事があるリヴィオに別れと感謝を告げ、オズヴァルドとフィデンツィオは黒塗りの馬車に乗り込んだ。全員が馬や別の馬車に乗ったことを確認した帽子の男が最後にオズヴァルドと同じ馬車に入り、馭者に出発を命じた。
石畳を滑るように走り出す馬車に揺られながら、オズヴァルドは窓の向こうへ目を向ける。港町リソルレードは活気と音楽に満ちていると聞いていたが、外にいる誰も彼もが黒い案山子のように俯き歩き、嵐の前のように静まり返っていた。
過ぎていく町並みを眺めていたオズヴァルドへ、男から磁器のカップが差し出された。湯気の立つ赤褐色の茶が揺れている。
「どうぞ。疲れの取れるセロー紅茶にございます」
「旦那様、爺が先に……」
毒味をしようとカップへ手を伸ばしたフィデンツィオを、オズヴァルドは手で制した。
「不要です、フィデンツィオ殿。――お気遣いに感謝いたしますが、先にどういう心積もりなのか、お聞かせ願いたい。柄にもないことをするものではありませんよ、兄上」
オズヴァルドの言葉に、目の前の男は動きを止めた。カップを傍らに置き、顔を覆っていた薄絹を捲る。
その下から現れたのは、よく磨かれた真鍮の瞳を持つ若い男――オズヴァルドの双子の兄、アルフォンソ・ラ・ロカであった。アルフォンソは悪戯が見つかった悪童のようにチラリと舌を出して笑った。
「ははは! よくぼくだと分かったな、弟よ」
「……お久し振りです。兄上、なぜ貴方が使用人の真似事などなさっているのです」
「まぁまぁ、細かいことは後にして、今は再会を喜ぼうじゃないか。ほら、ヴェールを外して、顔をよく見せてくれ」
溜め息を吐きながら、オズヴァルドも薄絹を捲り上げる。憎たらしいほどに邪気がなく、程よい肉付きの精悍な青年の顔がはっきりと見えた。
アルフォンソが大袈裟に驚いた声を上げて、オズヴァルドの頬を軽く抓んだ。
「何だ何だ、少し太ったんじゃないか? 頬にちゃんと肉がある」
「おやめください。馬鹿にしているのですか」
「違うさ。健康そうだと思っただけだよ。ラ・ロカ家にいた時は、柳の老木みたいだったからな」
アルフォンソの脱いだ帽子の中から、瞳と同じ色の髪が肩に流れる。そして彼は、隣に置いたままだったカップを持ち、口元へ運んだ。
「スク・ア・ルジェ島の方々に良くしてもらえているようで、安心した。オズは言葉足らずで、よく誤解されやすいから。これでもオズが『塩の馬』に任命された時から、心配してたんだぞ」
「日陰馬がいなくなって、清々したの間違いでは?」
「オズ。意地悪を言わないでくれ」
穏やかだが咎めるような声音に、オズヴァルドは罰が悪くなって顔を背ける。
そんなオズヴァルドの反応に、アルフォンソは小さく笑っただけだった。彼は備え付けのティーセットから、別のカップにもう一杯の紅茶を注ぎ、オズヴァルドへと差し出してきな。
やはりフィデンツィオが手を伸ばしかけたが、再びオズヴァルドが遮った。
「旦那様、お毒味をいたします」
「いいえ、不要です。……アルがおれに毒を盛ることはない。決して」
そう言い切ったオズヴァルドは、アルフォンソからカップを受け取り、躊躇うことなく紅茶を飲んだ。鼻に抜けていく柑橘に似た香りが懐かしい。
オズヴァルドの反応に、アルフォンソが嬉しそうに破顔した。
「今年のセロー紅茶は良い出来だろう。王都の別邸に乾燥させた茶葉を持って来させているから、竜姫様への土産に好きなだけ持っていけばいい」
「それはありがたい。実は色々と急だったから、出掛けに姫の機嫌を損ねてしまった。好奇心の強い方だから、飲んだことのない紅茶は気に入ってくれると思う」
「ははは、結婚生活も順調なようだな」
「……そろそろ本題に入ろう、アル。ラ・ロカ家の伝令鳩も使者も寄越さず、貿易商に手紙を預け、お前が使用人のふりをしてまでおれを迎えに来たのはなぜだ。フェロフォーネで何があった。べリザリオ王は、如何にして身罷られたのだ」
オズヴァルドはアルフォンソの目を、まっすぐ見据えて尋ねた。
自他国から柔賢王と呼ばれていたべリザリオ王は、二十三歳で戴冠してから二十五年、平穏な治世を敷いた。周辺諸国とは武器ではなく言葉で渡り合い、建国当時から敵対していたサリカ王国とも和平の道を探っていた。息子の妻にサリカ王国の令嬢を迎え入れるなどの、これまでの王がしなかったことを積極的に取り入れていった。
だからこそ、反発も多かった。フェロフォーネ国の中枢には、大別して穏健派と強硬派が存在し、政治の舵を奪い合っている。べリザリオ王は穏健派によって擁立された王であったから、他国と戦争をし経済を回そうとする強硬派とは反りが合わなかったのだ。これまで大病の噂もなかった、四十八歳という為政者としては働き盛りの王に突然の不幸が降りかかるなど、誰もが不審に思うことだ。
アルフォンソの顔から、笑顔が消える。ソーサーにカップを置き、瞬きの間に彼の瞳は鷲の如く鋭い騎士の眼光を宿していた。
「王の死は、暗殺だと断定された」
「十中八九、そうだろうとは思っていた。忌明けは遠そうだな」
「問題なのは、その犯人だ。……第四王子バルナバ殿下の妻、ツェツィーリア様が犯人だと言われている」
カップを唇に傾けていた、オズヴァルドの手が止まる。アルフォンソの言葉にオズヴァルドだけでなく、隣でフィデンツィオも瞠目して硬直した。
「お前も知っている通り、ツェツィーリア様はサリカ王国の伯爵令嬢だった。もう既に強硬派の連中は、彼女が犯人と決めつけているらしい。ツェツィーリア様を国王暗殺の犯人にすれば、サリカ王国への侵攻の理由には十分だからな」
「だが、証拠はあるのか。いくら敵国の『砂糖の鳥』だからといって、証拠も無しに断罪することはできないはずだ」
『砂糖の鳥』とは、政略結婚などで嫁ぐ女のことだ。
『塩の馬』と同じで、美しく飾られた花嫁として飛んでいくが、関係が拗れればその命は紅茶に溶ける砂糖の如く失われる。
陰謀の渦中に抛り込まれてしまったツェツィーリアは、まだ十七歳だったはずだ。オズヴァルドも伝聞でしか聞き及んでいないが、夫となったバルナバとの仲も良好で、ベリザリオ王も手厚く歓迎していた。
王は外交においては辣腕であったが、内政――とりわけ政治方針の反対派への抑制については、少々及び腰だった。和を保つことを優先したばかりに、影で蛇蝎が毒を仕込む隙を与えてしまったのだろう。
「アル、お前もツェツィーリア様が犯人だと思っているのか?」
「まさか。ラ・ロカ家としても、そしてぼく個人としても、ツェツィーリア様は犯人じゃないと考えている。王が死んだ時、彼女はバルナバ殿下と王都郊外まで遠乗りに出ていた。ぼくも護衛としてついていたから……それだけは、確実だ」
両手を強く握りしめながら、アルフォンソは顛末を語ってくれた。
ツェツィーリアという妻を得て、王族として一人前と認められたバルナバは、北西地方の一角を領主として統治するよう命ぜられていた。表向きは担い手のいなくなった領地の穴埋めだが、裏の目的はツェツィーリアを敵意から守るためであったという。本人たちもそれを分かっていたから、片田舎でもふたりで穏やかな日々を過ごせたらと思っていたらしい。
王が斃れる前日から、ふたりは統治の報告のために王都を来訪していた。三日ほど滞在する予定で、報告を終えて久し振りに故郷を見て回りたいとバルナバが言ったのだ。アルフォンソは部下の騎士たちと共に護衛として同行していた。凶事はその留守中に行われたらしい。
強硬派が提示しているツェツィーリア犯人説の根拠は、暗殺に使われた短剣にサリカ国を表す熊の意匠があったことと、現場である湯殿から逃げ去るドレスの女を使用人が見たということだ。その裾には、サリカ国特有のレースが施されていたと、使用人は証言した。
馬鹿馬鹿しい、とオズヴァルドは額を押さえて一蹴する。
「たったそれだけの根拠で、ツェツィーリア様が犯人だと? それを他の貴族共は本気で信じているのか」
「はは、そんなわけないだろう、強硬派以外はな。奴らは何が何でもベリザリオ王の面影を持つ継承者は排除して、べリザリオ王の従兄弟のエフィジオ様を王位に据えたいらしい」
「エフィジオ様を? あの方はベリザリオ王に王選会議で破れた後、ルケッティ伯爵家に婿入りして王位継承権を放棄したんじゃなかったのか」
「撤回するそうだ。強硬派の者共の甘言に乗せられたんだろうな」
アルフォンソが呆れたように吐き捨てる。
フェロフォーネ王国は、王の血が濃い男子から継承権が与えられる。現在、一位から五位は王の息子たちが占めており、順当にいけば第一王子のダミアーノが即位することになる。べリザリオ王夫婦は十代の時に結婚したが、子供ができたのは即位した後で、長男のダミアーノは先月二十二歳になったばかりだ。強硬派は彼らがまだ若過ぎることを理由に、エフィジオを王にと推薦している。
そもそもエフィジオが王戦会議で敗れた理由は、日頃の破天荒な振る舞いとその苛烈な思想にあったはずだ。由緒ある伯爵家に婿入りし家督を継いだ後も多くの婦女と浮名を流し、王族の血族であることを振りかざして各所で傍若無人な振る舞いを繰り返していた。恐らく町民にも、彼の名前は悪い意味で知れ渡っているだろう。
「もし、エフィジオ様が戴冠なされたら……」
「戦争だ。フェロフォーネは確実に、サリカ王国へ攻め入る。頭に冠を戴いたその場で開戦と派兵を宣言し、夜明けにはステラフェーレの尾根を越えるだろう」
アルフォンソの声には、嫌悪と侮蔑が滲んでいた。
エフィジオは根っからのフェロス人至上主義者で、騎士に叙任されてからは、他国からの移民や行商人に因縁をつけて捕縛し、強制的に国外追放するようになった。部下の私兵化や司法への圧力などは、当然城内でも問題となり、サリカ王国との国境警備部隊に配属されたこともある。ステラフェーレの山肌に沿って作られた警備砦は、娯楽もなければ環境も過酷で逃げ出す者も多いが、それが逆にエフィジオの気質に合っていたらしい。配属されていた騎士たちをしごき、警備部隊をフェロフォーネ王国で一番の戦闘部隊に作り替えた。
停戦期間が長く続いたことで、警備部隊へ回される国家予算は年々減少していた。エフィジオはそれが気に食わなかったらしく、べリザリオ王は国防を軽んじていると糾弾したこともある。べリザリオ王は近年多発した天災の復旧や、農作物の不作による民の生活補助に予算を多く回しており、その金の補填は民ではなく貴族から徴収されたことが、強硬派の癪に障ったようだ。
何ということ、と両手で顔を覆い、呻くように嘆息したのは、フィデンツィオだ。
「あのような恐ろしい戦争が、また繰り返されるというのですか……。先の戦争には、我が島からも若者たちが多数徴兵されました。そのほとんどが生きて戻らず、生きていても心に深い傷を負っており、日常生活もままならなくなっていました。あの血と涙しか生まぬおぞましい災禍が、また……」
「フィデンツィオ殿……」
オズヴァルドは、恐怖と失望に震えるフィデンツィオの背に手を添えた。
長く生きている彼は、戦時下のことをよく覚えているのだろう。――否、忘れられないのだ。
オズヴァルドも神殿の裏手にある墓地に、翼を広げた竜の像が寄り添う巨大な石碑を見たことがある。煌々《こうこう》とした太陽の光を全て呑み込む黒曜石の碑面には、戦没者を悼む言葉が彫られていた。この言葉に慰められるべき者たちは皆、スク・ア・ルジェ島がフェロフォーネ王国に属していたばかりに、罪もないのに戦争へ駆り出されていった者たちだと聞いた。フィデンツィオは死地へ向かう若者たちを、ただ見送るしかなかったのだろう。それは生き残った者たちが負う、癒えることのない傷だった。
すると、アルフォンソがおもむろに床に跪き、フィデンツィオへ平伏した。
「我らフェロス人の傲慢で戦争を引き起こした上、貴方がたの家族を奪ってしまったこと……アルフォンソ・ラ・ロカの名にて謝罪いたします。決して、彼の者を玉座に座らせはしない。恒久の平和のため、我が身命を賭すことを誓いましょう」
アルフォンソに倣い、オズヴァルドも頭を下げる。ふたりの行動に、フィデンツィオはひどく慌てた。貴族階級の男が異人種の使用人階級に膝を折るなど、普通では考えられないことだからだ。
「おぉ……勿体なきお言葉にございます……。信じさせて頂きまするぞ、若き鷲の御方」
「えぇ、ラ・ロカの誓いは岩より堅強だ。そもそも穏健派の王位継承者の方が数は多い。戦争が起こる可能性の方が低いでしょう」
アルフォンソの微笑みに、フィデンツィオは何度も感謝の言葉を繰り返していた。
椅子に座り直したアルフォンソが、三人分の紅茶を淹れる。オズヴァルドとフィデンツィオにそれぞれカップを渡し、彼は悠々と一口含んだ。
「ぼくがオズを迎えに来たのは、キナ臭い話ばかりをするためじゃない。別邸に行けば父と母もいて、兄弟でゆっくり話す時間など取れそうにないからな」
「おれはもうスク・ア・ルジェ島の人間です。ラ・ロカ家の別邸でなく、迎賓館に滞在することになっています。期間も二日ほどですから、別邸に寄る時間はないかと」
えぇっ、とアルフォンソは心の底から残念そうな声を上げた。
「久々に会えたのに、たった二日しかいないのか? 短すぎる! スク・ア・ルジェ島のことも色々と聞きたいというのに! ずっと気になっていたが、その角はどうしたんだ。生えたのか?」
「そんな訳がないでしょう。これは木製の模造品です。代々の竜姫様の伴侶が身に着ける装飾品だそうです」
「そうだったのか。とても美しい頭冠だ……さぞかし大事になされていたんだろう。壊すなよ、オズ」
「壊さん。落ち着きのないお前じゃあるまいし」
「ははは! 相変わらず手厳しい弟だ。……ぼくたちフェロス人にとって、化竜の島は立ち入ることができない神秘と未知の島だ。いつかぼくも行ってみたいものだな」
アルフォンソが視線を外へ向ける。それをオズヴァルドも追うと、馬車は港町リソルレードをとっくに抜けていて、林の中の街道を走っていた。
木立の隙間から青い臥海が覗いている。水平線は白藍色に滲み、ここからでは雄大なヴェス・ビエト火山の薄影すら見えない。
――島は、晴れているだろうか。
オズヴァルドの胸で生まれた問いかけに答えるように、青空から落ちてきた小さな雨雫が、窓に一本の線を引いた。
◆◇◆
オズヴァルドたちを乗せた馬車が王都フェニアタの四角い外門を潜ったのは、昼を過ぎた頃だった。街道を煙らせていた天気雨は止んだが、街はより一層退色してしまったように見えた。ステラフェーレ山脈から採れる良質な白燐石が使われたフェニアタの町並みは、夜になると月明かりで淡い白の光を放つ。その優美な様は諸外国から『真珠の街』と称されるくらいだ。
しかし、壮麗な街の中心では権力を巡って、陰惨で醜悪な陰謀が渦巻いていることを知っているオズヴァルドは、この白亜の姿こそ偽物のように思えて仕方がなかった。
ラ・ロカ家の馬車は外門からまっすぐ伸びる幅広の街道を進み、フェロフォーネ城の東側にある迎賓館の前に停まった。警備の騎士と馭者が二、三言ほど言葉を交わせば、すぐに鉄の門扉が開けられた。
エントランスで停まった馬車から、まず使用人に再度扮したアルフォンソが降車した。続いてフィデンツィオが、そして最後にオズヴァルドが降りる。
「長旅、お疲れ様でございました。感謝します、フィデンツィオ殿。短い間でしたが、スク・ア・ルジェ島について、大変興味深い知見を得ることができました」
「いえいえ、こちらこそ、有意義な時間を過ごせました。深く感謝いたします、ラ・ロカの若君様」
アルフォンソとフィデンツィオが、互いに深々と礼をし合う。移動中に互いの国の文化や歴史について教えあったことで、すっかり打ち解けてしまったらしい。
初対面であれ、誰の懐にも簡単に入り込んでしまうのが、アルフォンソの特技だ。決して相手を不快にさせず、機知に富んだ話術で老若男女を虜にする。上流社会に生きる貴族としては、まさに天性と言うべき才能だ。
冷たく乾燥した秋風に、オズヴァルドのヴェールの裾が遊ぶ。その風が運んできた匂いに、オズヴァルドは思わず袖で口元を覆って顔を顰めた。
「どうした、オズ」
「いや……この街は、こんなに酷い臭いだっただろうか」
オズヴァルドは鼻先を抓む。常に何かを燃やしているような煙たさや、食べ物が腐ったような饐えた臭いが漂っていた。白状すると、それは王都に限ったことではなく、リヴィオの船からリソルレードに降りた時から、にわかに感じていたものだった。潮風で多少は紛れるリソルレードとは違い、フェニアタは滞留して澱んでいるように思えた。
アルフォンソも鼻をひくつかせたが、首を傾げる。
「ぼくには何も感じないが……」
「旦那様は、スク・ア・ルジェ島の風と自然の匂いに慣れてしまわれたのでしょう。国の空気は住まう者によって変化していくもの……貴族らの虚栄や欲望、そして民の不安が、空気に溶けているのでしょうな」
「そういうもの、ですか……」
フィデンツィオの言葉に、オズヴァルドは荒涼とした哀切を感じた。
スク・ア・ルジェ島に来るまで、オズヴァルドもアルフォンソと同じく国の空気に不快さを感じたことはなかった。常に見えない縄で首を絞められているような、形容しがたい息苦しさを感じていたこともあるが、それも島で暮らしていく内に意識しなくなっている。
指の隙間から砂が零れ落ちるように、オズヴァルドの中からフェロフォーネが薄れていく。空白になったそこを埋めているのは、きっとギルダとの鮮やかな日々だ。
ぼんやりとくすんだ空を見上げていると、アルフォンソが肩に腕を回してきた。彼の方が背が低いから、やや背伸びをしている。
「すっかり彼の島に溶け込んでしまったんだな、弟よ」
「……悪いですか?」
「まさか。お前が日陰に隠れずに息ができるのなら、フェロフォーネのこともラ・ロカ家のことも忘れていいんだ。――さて、そろそろ迎賓館へ入ろうか……」
「アルフォンソ様」
ふたりの背後から恨みがましい女の声が聞こえて、アルフォンソが悲鳴を上げて地面に転んだ。
振り向くと、カラスの如き漆黒のドレスを身にまとった細身の女が立っていた。薄絹越しに見えた彫像のように整った顔立ちの彼女は、オズヴァルドも覚えがある。アルフォンソの妻、ベルディータだ。
オズヴァルドは尻餅をついている兄には構わず、腰を折って一礼した。
「ご無沙汰しております、ベルディータ義姉上。ご壮健のようで、何よりです」
「オズヴァルド様も、お元気そうで良かったわ。長い船旅でお疲れでしょうに、この人の我儘にまでつき合わせてしまって、ごめんなさいね」
「ベ、ベルディータ……どうしてここに?」
「決まっているでしょう、貴方を連れ戻しに参りました。お義父様が大変お怒りですよ。なさりたかったことに見当はつきますが、使用人と服を交換してまですることですか」
抑揚のない淡々とした声音で、ベルディータがアルフォンソに詰め寄る。彼女はアルフォンソより五歳年上の侯爵令嬢であった。冷静沈着で些末なことには動じない、万年氷の如く表情の変化に乏しい女だ。だが頭の回転も速く知識も豊富で、アルフォンソをよく助けてくれている。尻に敷いている、とも言うが。
ベルディータはアルフォンソが被っていた帽子を剥ぎ取り、引き攣った笑みを浮かべる彼の襟首を掴んで立たせた。
「帰りますよ。これ以上化竜の島の方々に、無様を晒してはなりません。嫡男として、邸にいらっしゃる方々の対応をせねば。お騒がせいたしました、オズヴァルド様」
「えぇ、いつも義姉上にはご苦労をおかけしてしまい、申し訳ございません」
「ど、どういう意味だオズ! 分かった、分かったから引っ張るのをやめてくれ! じゃあ、またな、我が半月。会えて嬉しかったぞ」
アルフォンソはベルディータが乗ってきたであろう馬車に詰め込まれ、迎賓館を去っていった。
スク・ア・ルジェ島の神官らは、使用人の中にラ・ロカ家の子息が紛れていたことは知らないため呆気にとられた顔をしていたが、事情を知っているであろう本物の使用人たちは薄絹の下で苦笑いをしていた。
オズヴァルドは小さく溜め息を吐いた。
「半月、か……満月と新月の間違いだろうに」
「旦那様、何か?」
「いえ、何でもありません。中へ入りましょう、フィデンツィオ殿。また雨が降りそうです」
使用人に案内され、オズヴァルドたちは迎賓館の扉を開けた。
豪奢なエントランス・ロビーは、喪服の人々で溢れていた。衣服や荷物には国章があしらわれており、この場だけでも十カ国の来賓がいることが分かる。国葬が始まって数日ほど経っているが、数はこれからもっと増えるだろう。
歩く度に、しゃら、とオズヴァルドの頭冠につけられた水晶が擦れ合って、涼やかな音を立てた。近くにいた男――鹿の国章をつけているから、チェルヴォ国の者だろう――が、その音に気付いてオズヴァルドたちの方を向いた瞬間、一歩後退ったのが横目に見えた。
同じ反応は波紋のように広がっていき、潜められた声が漣の如く聞こえてくる。
「赤銅色の角……あれがアロル人か」
「おぉ、本当に角が生えている」
「ということは、先頭にいるのが竜姫の伴侶か。此度はラ・ロカ家に声がかかったとか」
「では、あの方がアルフォンソ様?」
「違う違う。『塩の馬』になったのは、双子の弟の方だ。いつも陰鬱な『ラ・ロカの日陰馬』だろう」
オズヴァルドは喉元までせり上がってきた厭悪と不快感を呑み下す。耳が拾ったのはフェロス語のものだけだが、恐らく他国の言葉でも同じように言われているのだろう。
己が悪し様に言われることはどうでもいいが、アロル人であるフィデンツィオたちに矛先が向くのは堪えられない。彼らは温厚で勤勉な者たちばかりだ。ただ頭に角があるだけで、オズヴァルドたちフェロス人と、何ひとつ違っているところはない。しかし、だからといってこの場で声高に否定しても、逆に反感を買ってしまうだろう。アロル人の立場をより悪く傾かせかねないことは、避けたかった。
オズヴァルドが雷雲のような靄を胸中で抱えていると、同行していた神官長がふんと鼻を鳴らした。
「大陸の者共は、いつまで経っても進歩しませんな。憂悶するだけ無駄ですぞ、旦那様」
「……申し訳ない」
「なぜ旦那様が謝るのです。外界との交流の少ない我らが、奇異の目で見られるのは致し方ないこと。知りもしないくせに好き勝手を宣う者共の言葉なぞ、毒ですぞ、毒!」
強い語気で憤慨する神官長に同意するように、フィデンツィオも梟のように笑って大きく頷いた。
「神官長殿の言う通りにございます。旦那様がお優しく、素晴らしいお方であると、爺らはちゃんと分かっておりまするぞ」
「素晴らしいなど……おれは、そのような存在では……」
「世辞ではございませぬ。竜姫様の伴侶の中には、境遇に不満を持ち横柄になる者も多かったと伝わっております。しかし、旦那様は小間使いの子供にまで丁寧に対応して下さる。自らの御手で掃除をし、中庭の花の手入れまで行う伴侶は、歴史を見てもおられないことでしょう」
フィデンツィオが朗々《ろうろう》と笑う横で、オズヴァルドは眉根を寄せる。
掃除も庭の手入れも、ただオズヴァルドに余るほどの時間があるからだ。掃除は私室や書庫など自分が入り浸る部分だけであるし、手入れも水やりや雑草の間引き程度しかしていない。
こうも褒めちぎられてしまうと、その中に皮肉を混ぜ込まれているのかと疑ってしまう。これまでにオズヴァルドへ向けられた言葉は、そういうものばかりだったから。
だが、そういうことをしようと思うようになったのは、ギルダの存在があったからだ。
彼女は食事の後、給仕した使用人や料理人に必ず礼を言っていた。あなたは気が利いてとても助かります、今日も美味しいお料理をありがとうございました、と。奉仕されることを当たり前と思わず、時間があるならば自分からできることをしようと考えられるようになった。
そして、オズヴァルドが行動すればするほど、周囲からの視線も変わっていくのを感じた。突然現れた異人種に、どこかよそよそしかった神官や使用人の雰囲気も、和らいでいったのだ。
「――もし、おれがもう少し能動的に動いていたら、ラ・ロカ家の生活も変わっていたのかもしれない。……おれはそんなことすら姫に教えられなければ気づけなかった、愚鈍な駄馬です」
「しかし、今は違いまする。己を顧みることのできる謙虚な旦那様だからこそ、我らは喜んで忠誠を誓うのですよ」
フィデンツィオの手と言葉に背中を押され、オズヴァルドは俯きかけた顔を上げ、淀んだ空気の中を歩いた。
迎賓館の係員に案内されたのは、東棟三階の突き当りであった。端ではあるが、主庭に面しているため景観も良く、部屋の面積も他より若干広い。庭へ突き出たテラスもあり、他者からの視線を気にせずに過ごすこともできる。ここはオズヴァルドと影従のフィデンツィオに割り当てられており、神官たちはすぐ隣の部屋だ。
スク・ア・ルジェ島のオズヴァルドたちが他国の来賓より好待遇なのは、フェロフォーネからの畏怖もあるのだろう。アロル人は邪な呪術を使って仇を呪い殺すという古い言い伝えを、未だに信じている貴族は多い。フィデンツィオたちは、そういう不名誉な誤解を解く気はないようだ。勘違いしてくれているお陰で、こちらが要求せずとも手厚くもてなしてくれるのだから、わざわざ正す必要がないらしい。
部屋へ荷物を運び入れてくれたラ・ロカ家の使用人に礼を言って別れ、オズヴァルドは眼前に垂れ下がる薄絹を頭へ捲り上げてベッドに腰掛けた。
すぐにフィデンツィオが紅茶の入ったカップを差し出す。
「お疲れ様でございました、旦那様。王城には夕刻に参りますので、それまでお休みください」
「えぇ、ありがとうございます。フィデンツィオ殿も、腰を落ち着けてよろしいのですよ。明日の今頃にはもうフェロフォーネを出るのですから、こんなにたくさんの荷物も不要だったのでは?」
「いえいえ、いつ何時、何が必要になるかは分かりませんから。せめて筆記用具や日用品くらいは、すぐ出せるようにしておきませぬと。あぁそうだ、姫様へのお土産を入れる隙間も作っておかねばなりませんな。今頃、姫様も旦那様を恋偲んでおられるでしょう」
「……フィデンツィオ殿は、ギルダ様の奇数角については、何も思われないのですね」
オズヴァルドの問いに、彼はすぐに「えぇ」と軽い返事をした。
「奇数角を『忌み子』と謗る文化があることは確かですが、そんなもの、ただ人よりも一本角を多く持って生まれただけに過ぎません。爺も昔はあれやこれやと言われたものですが、島に『忌み子』が生まれようがいまいが、天災や不幸は訪れるものですよ」
「……えっ?」
オズヴァルドはカップを口へ運ぶ手を止め、見開いた目でフィデンツィオを見た。彼は穏やかに微笑んで、自身の左角の下を指で示す。
影になって分かりにくいが、一部分だけ肌の色が濃い。丸い、親指の爪くらいの傷痕だ。
「爺も奇数角で生まれた『忌み子』だったのですよ。それまで百年ほど奇数角の子供はいなかったため、爺が生まれた時はそれなりな騒ぎになったと聞いています。角を落としたのは六歳くらいのことだったでしょうか。角が切られる痛みより、その後に高熱で数日苦しんだことしか覚えておりませぬ」
「……気づかず、申し訳ありません」
「ほほ、よいのですよ。奇数角は落としてしまえば、自分から明かさぬ限りは分かりませぬ。今ではもう、爺が奇数角だったことを知る者はいないでしょう。……父も兄弟も友もみな、先の戦争で死んでしまいました」
フィデンツィオが、窓の外へと視線を向けた。しかし、その目は空よりももっと遠くの天上を見つめているように思えた。
「フィデンツィオ殿は、戦争をご存知なのですね」
「……えぇ。太陽の如き瞳の、若き鷲の御方には言えなかったのですが、爺も実際に戦地へ赴きました。もう、四十年も前のことです」
フィデンツィオは皺だらけの指先を擦り合わせながら、穏やかな口調で話し始めた。
それはフェロフォーネ王国とサリカ王国が、ステラフェーレ山脈の所有権を争って十五年が経った頃だった。スク・ア・ルジェ島は絶海の孤島故に、戦争とは縁遠い平穏な生活をしていたという。それどころか、母国が戦争をしているということすら知らない者もいた。それほど島は隔絶され、孤立していたのだ。
ある日、フェロフォーネ王国から使者がやってきた。騎士の装いに身を包んでいた彼らは、島の若人たちを集め、高らかに宣言した。
『戦争は終わった。だが、復旧には人手がいる。前金で給料を支払うから、どうか力を貸してほしい』
まとまった金を見せられた島の若者たちは、喜んでその誘いに乗った。騎士たちはフェロフォーネ行きを志願した若者を並べ、健康状態や魔法の力などを厳しく精査していた。そして、合格した三百人超えの男たちと、数十人の女たちを連れて、フェロフォーネへと去っていった。
「――今思えば、調べられた時に変だと思わねばならなかったのです。彼らは復旧工事の人手ではなく、人を殺す兵士が欲しかったのです。学も人を疑う心も、何もかも足りなかった爺らは、間抜けにも船に乗ってしまいました」
フィデンツィオは呻吟するように続けた。
フェロフォーネに着くなり、若者たちは工具ではなく武器を持たせられた。満足に説明もされないまま馬車に詰められ、降ろされたのはステラフェーレの山麓――死屍累々《ししるいるい》の戦場だった。そこで初めてフィデンツィオらは騙されたと気づいたのだ。
フィデンツィオには四人の兄弟がいたが、みな別の部隊に振り分けられて散り散りになってしまったという。これまで農具や漁具しか持ったことのなかったアロル人が、初めて剣を持たせられたところでサリカ王国の兵士に勝てるわけがない。アロル人を壁にして、フェロフォーネの騎士らは撤退し体勢を立て直していたのだ。一方的な殺戮によって多くの若者たちが戦死し、遺骨の大半も回収されないまま、今もステラフェーレの山肌に埋まっているという。
「フェロフォーネ王国とスク・ア・ルジェ島は、相互補助協定を結んでおります。その中には軍事的な協力規定もありますが、実際に行使されたことはありませんでした。もしかすれば、こうした惨劇を島に呼び込んでしまったのも、この年までひとり生き残ってしまったのも、爺が『忌み子』であったからでしょうな」
「そんなことはありません! 戦争の責はフェロフォーネにあり、フィデンツィオ殿のせいでは……!」
「ほほ、旦那様は本当にお優しい。確かに歴史書の上で見ればそうでしょうが、これは爺の気持ちの問題なのです。あの時、何かひとつでも違和感に気づいていれば、家族や仲間が死地に送られることはなかった……。今でも夢に見るのですよ。その罪を背負って生きることが、爺の贖罪なのやもしれませぬ」
オズヴァルドは口を開いては閉じてを繰り返す。彼は『貴方のせいではない』という薄っぺらい慰めも、寄り添いすらも必要としていないと直感した。では、フェロス人で戦争を知らない世代のオズヴァルドに何ができるのか――それも分からないことだった。
何の行動が最適なのか、駄馬の頭を動かして考えていると、フィデンツィオの方から頭を下げられた。
「申し訳ございません。暗い話をしてしまいました」
「い、いえ! 悪いのは全て騙したフェロス人であり、フィデンツィオ殿に落ち度など……!」
「もうよいのですよ、旦那様。あの時、爺らを唆した者共も、時の国王もみな死にました。恨みとは、後世まで受け継ぐものではありません。憎悪や悔恨を抱いたのなら、どこかで断ち切り、己の中で一生をかけて打ち負かすしかないのです」
「一生を、かけて……」
フィデンツィオの言葉を繰り返した時、オズヴァルドの脳裏に人影がよぎった。
撫でつけた金の髪に、侮蔑に染まった真鍮の瞳。どれだけ名前を呼んでも振り向くことのなかった、己の父親――彼のことを思い出す度、オズヴァルドは心臓を百本の針で刺された心地になる。傷口から染み出した黒い血は、腹の底で汚泥の如く溜まっていくだけだ。
知らず、カップを強く握っていた手を、乾いた掌が包んだ。顔を上げれば、フィデンツィオが目尻の皺をくっきりと浮かばせて、穏やかに微笑んだ。
「正直を申しますと、爺もフェロス人への憎悪を完璧に捨てきれたとは言えませぬ。爺がここまで長生きしたのも、巨大すぎる負の感情を捨て去ってから膝下へ侍れという、神の試練なのやもしれません」
「……捨て去れるでしょうか。おれも、貴方も」
「えぇ、きっと。愛さえ失わければ」
フィデンツィオほどの慈愛に溢れた人でも、一度抱いた感情を消すことは容易ではないと知り、オズヴァルドは気が重くなった。両親に前向きな感情を抱いていないことは確かだ。しかし、恨みや憎しみを抱えているのかと問われれば、それもしっくりとこない。ただ、怖いだけなのかもしれない。どれだけ年齢を重ね、背丈が伸びても、根の所は成長していないように思えた。
フィデンツィオから気を遣われ、気分転換にと荷の中に持ち込んでいた本を渡されて、オズヴァルドはテラスに出た。眼下には、三人の裸身の女が持つ瓶から水が流れ出る噴水を中心に、赤い蔓薔薇の咲く生け垣や白いマーガレット、そして淡いコスモスが揺れる主庭が左右対称に広がっている。その中を喪服を着た国賓らしき者たちがちらほらと、枝を飛び移るカラスのように庭を歩いているのも見えた。
オズヴァルドはテラスに備え付けられた椅子に腰掛け、本を開く。風と小鳥の音しか聞こえず、安穏とした時間は読書に最適だ。しかし、どれだけ環境が整っていても、なぜか目が滑るばかりで内容が頭に入らない。
ギルダは今頃、どうしているのだろうか――そればかりがオズヴァルドの頭を占めている。スク・ア・ルジェ島を離れて、丸四日が過ぎようとしていた。太陽が海へ向かい、空が褪せていく速度は、島の方がわずかに早い。今頃は午後の勉強が終わり、自室か中庭で休んでいる頃だろうか。真面目なエンリカが傍にいるから、追加で勉強をしているのかもしれない。
休みたいと駄々をこねては、エンリカから叱咤されるギルダの姿が目の前で見ているかのように鮮明に脳裏に描き出され、オズヴァルドは小さく笑った。
空の色に藍色が混ざる頃、フィデンツィオがオズヴァルドを呼びに来た。王城へ弔問に向かう時間だ。
衣服の乱れを正し、頭冠の上から薄絹を被り直したオズヴァルドは、フィデンツィオと神官長らを引き連れて迎賓館を出た。エントランスには、既にラ・ロカ家の馬車が待機していた。息子を『塩の馬』として婿入りさせたつながりで、今回の手配などは全てラ・ロカ家が行ったという。オズヴァルドたちを乗せた馬車は、昼過ぎに通った道を少しだけ戻って、過剰に華美で荘厳な城門を潜った。
王城は静謐で、冴え冴えとした冷たい空気が流れている気がした。オズヴァルドもここへ来た回数は片手で足りるほどしかない。特に今回は島の代表として失礼を晒せないと思うと、肌に針を当てられているような緊張感に、自然と背筋が伸びる。
通されたのは城の奥にある聖堂だ。王族専用の教会であり、貴族の立ち入りも許可されていないため、オズヴァルドも初めて訪れる場所である。三階層分を吹き抜けて緩くアーチを描く天井には、色硝子がはめ込まれており、夕日を受けて床にぼんやりとフェロフォーネの国章を描いていた。
祭壇の前に金の棺が安置されている。色とりどりの花で飾られ、フェロフォーネの国旗が掛けられていた。聖堂の両側のバルコニーを、聖職者が埋め尽くして救憐唱を吟っている。彼らはフェロフォーネ国全土から集まった聖職者たちで、国葬の期間が終わるまで交代しながら王の魂を慰め続けるのだ。国葬が終わる時は次の王が決まる時であるから、長ければ数年単位で吟い続けなければならない。いくら埋葬されるまで遺体の崩壊が始まらないとはいえ、長期間の拘束はかなり心身に負担がかかる。これまで恰幅の良かった神父が、国葬が終わると骨と皮だけになって戻ってきたという昔話もあるくらいだ。
棺の傍には、銀の冠をつけたひとりの女――王妃が影のように佇んでいた。突然の凶事から多少の日数を経ているからか、彼女は凛と落ち着いた様子に見える。元々ふくよかな体つきだったが、憔悴でかどこか線が細くなったように感じた。
棺の前まで来たオズヴァルドたちは跪き、神官長が顔を伏せたまま静々《しずしず》と進み出る。
「我らが王、ベリザリオ国王陛下へ、スク・ア・ルジェ島より鎮魂と祝福を捧げます。天上へ参られし王の御魂に、永遠の安息のあらんことを」
永遠の安息のあらんことを、とオズヴァルドたちも繰り返す。そして、オズヴァルドは後ろに控えていた若い神官からダフネの枝を受け取り、棺へと歩み寄る。ダフネは『不滅』や『栄光』を花言葉に持つ、フェロフォーネの国花だ。初代の国王が建国の際に、東の国から持ち込んだとされている。婚礼や建国祭でも飾られるが、今回のような儀礼的な場では造花を使用する。生花は枯れることから縁起が悪いとされ、紙で精巧に作られたものにダフネの精油を垂らして香りを出すのだ。
オズヴァルドは束ねられたダフネの枝で、棺の蓋を王の頭から足へと三度撫でる。これは一度目で罪を、二度目で未練を、三度目で悪縁を払い落とす、魂の禊なのだ。払い終えた枝は棺の傍らに供えられ、最終的には埋葬と同時に燃やされる。
これでフェロフォーネの葬送の儀式は終了である。役目を終えたダフネの枝を、オズヴァルドは一礼しながら供えた。最後に王妃へ礼をすると、彼女に声をかけられた。
「遠き地より、感謝いたします、化竜の島の方々。我が夫の御魂も、神の御下へ祝福と共に旅立てるでしょう」
「……王妃殿下も、御自愛くださいませ」
ありがとう、とヴェールの下で微笑む彼女の声は、やや掠れていた。
王妃の声を聞いたのは、数年前に第四王子の結婚を祝した夜会の時以来だ。まるで年季の入ったヴァイオリンのような声音をしていたが、今は張りすぎた弦をむりやり弾いているような雑音が混ざっているように思える。それは恐らく、彼女の中でもまだ伴侶との突然の別離や暗殺を受け入れられずにいるからだろう。
死者を悼む時、頭から薄絹を被るのは泣き晴らした跡を見せないためだという説もある。国父の妻としての務めを最後まで全うしようとする王妃に、オズヴァルドは月並みな労りの言葉しかかけることしかできないまま、聖堂を後にした。
馬車に揺られて城門を抜けた後も、オズヴァルドは指先まで痺れるような緊張感が残ったままだった。これまでにも王族の葬式に参列したことはあったが、国葬を経験するのは初めてだ。王の死因が事件性のない病死や老衰ではなく暗殺だからか、表しようのない異様さが漂っていた。
再び迎賓館へ戻ってきて、馬車を降りた時に馭者が一通の手紙を差し出してきた。
「アルフォンソ様より、竜姫様の伴侶であるオズヴァルド様へ、招待状です」
「……おれに?」
そこはかとない嫌な予感が背中を駆け抜けていったが、受け取らないとそれはそれで面倒なことになることは経験で知っている。兄はオズヴァルドがフェロフォーネに滞在している間、色よい返事が来るまで手紙を送り続けてくるだろう。
諦めと共にオズヴァルドが開いた手紙の中には、やはりラ・ロカ家で晩餐を共にしないかという誘いが字記されていた。手紙を開けたら了承の意と取るよう、使用人に言い聞かせているとも書いており、オズヴァルドは深く溜め息を吐く。罠にかかった野ウサギの気分だった。
ラ・ロカ家の馭者たちは夜に迎えに来るとだけ言い残し、早々に去っていった。苦笑いする神官たちや声を上げて笑うフィデンツィオの横で、オズヴァルドは暮れなずむ空を仰ぐ。
あぁ――やはり兄は太陽だ。隔てが無く、大らかで、常に自信に満ちている。
そして、呆れ果てるほどに、強引だ。
◆◇◆
ラ・ロカ家は四代続く王国騎士の家系だ。歴史としては浅い方だが、初代当主が暗殺者から身を挺して国王を守ったことで、この『瑞慧晶の邸』を賜ったという。
瑞慧晶とは王冠にも使われる稀少な宝石のことで、美しい夜空色をしている。それを惜しみなく使用したシャンデリアが大広間に吊るされていることから、この名がついたのだ。逆に言えば、特徴的なのはそれだけであり、外観や内装は他の貴族の邸に比べると素朴なのである。
見慣れていた淡く発光する石積みの壁が近づくにつれ、オズヴァルドは両肩が重くなっていく心地だった。ここには淅瀝の記憶しかない。懐かしさよりも若干拒否感が上回っている、複雑な気持ちを抱えたオズヴァルドを乗せて、馬車は軽やかな車輪の音を響かせてラ・ロカ家の門を通った。
オズヴァルドとフィデンツィオを出迎えたラ・ロカ家の使用人に案内されたのは、邸の一室ではなく庭園だった。ラ・ロカ家の庭園は、背の高い生け垣が迷路の如く入り組んでいる。左右対称が流行りだった時代に、こんな規則性も何もない庭を作るくらいなのだから、ラ・ロカ家の初代当主は相当な捻くれ者だったのだろう。
迷いのない足取りで進んでいたオズヴァルドの視界が開け、純白の大理石で作られたガゼボが現れた。染みのないクロスの引かれた長卓は丁寧にセッティングされており、既にアルフォンソが席について硝子の盃を傾けている。彼はオズヴァルドの姿を見ると、雲間から太陽が現れるように破顔して手を振ってきた。
「やぁオズ! 来てくれて嬉しいぞ」
「騙し討ちのようなことをしておいて、よく言えたものだ」
「はは、こうでもしないとお前は来ないと思ったからな。さ、早く座ってくれ。料理はもうできているんだ。フィデンツィオ殿の分も準備しよう」
「爺は影従ですので、なきものとして扱いください。ですが、お毒見はさせていただきまする」
仕方ないな、と了承したアルフォンソは、手元のベルを揺らした。どこに隠れていたのか、数人の使用人がワゴンを引いて現れ、卓上に料理を並べ始める。
フィデンツィオが小さな銀の匙で、オズヴァルドの前に並べられたスープや肉料理、添え物の調味料までを毒味する。フィデンツィオやエンリカは竜姫と伴侶の影従として、毒の知識を叩き込まれているという。ほんのわずかな毒の兆候も、舌先に伝わる小さな違和感で判断する。そういう風に訓練をするのだ。
フィデンツィオはオズヴァルドの料理の毒味が終わると、今度はアルフォンソの方にも回った。これにはアルフォンソも使用人も驚いたようだ。
「ぼくの方は毒味は不要だよ、フィデンツィオ殿」
「いいえ、念には念を入れさせて頂きたく思います。貴殿を信用していないわけではなく、爺が貴殿に万が一のことがあってはならぬと考えているからです。若き鷲の御方……貴殿は未来に無くてはならぬ存在であり、旦那様の兄君にあらせられます。どうか爺の我儘を聞いてくだされ」
深々と頭を下げるフィデンツィオに、アルフォンソがオズヴァルドへ困惑の混ざった視線を向けてきた。オズヴァルドはただひとつ頷いてみせる。
フィデンツィオの言葉には、嘘がないわけではないだろう。もし毒がアルフォンソの皿に入れられていた場合、料理人だけでなく食事を共にしていたオズヴァルドにも疑惑の目は向けられる。それを避けるためもあるだろうが、フィデンツィオが純粋にアルフォンソという個人を気に入っていることも確かだ。彼はありとあらゆる凶事の可能性を想定し、最善な行動をしているに過ぎない。
フィデンツィオの真摯な申し出に、アルフォンソも了承した。毒味はラ・ロカ家側も行っているだろうから、改めてされるのは使用人たちも良い気分ではないはずだ。料理を運んできた使用人らが、薄絹の下で不愉快そうな雰囲気を出している気配がしたが、主人であるアルフォンソの一瞥でそれらはなくなった。
全ての料理の毒味も終わり、ようやく乾杯の時間が訪れた。今は喪に服す期間であるから、月がある間の飲酒は戒律で禁じられている。オズヴァルドとアルフォンソは葡萄を絞った果汁の入った盃を目の高さまで掲げて乾杯した。
「こうして顔を合わせて食事をするのは、いつ以来だろうな、オズ」
「十八年」
「十八……そうか、そんなに昔になるか」
「おれに魔法がないと分かった日からだ。あの日から、おれの食事は目に見えて粗末になり、家族で集まっていた広間にも呼ばれなくなった」
あぁ、とアルフォンソは罰が悪そうに匙を咥えた。
純粋に過ぎた時間を懐かしむ以外に、彼に他意はないのだろう。両親からの扱いに兄弟で明確に差が出始めたのは、その頃からだと記憶している。
片や世にも珍しい魔法の二種持ちで、片や魔法をひとつも持たない出来損ない。先祖の威光を笠に着て偉ぶっている両親がどちらを優遇するかなど、火を見るより明らかであった。
自分の発言で場の空気の温度が下がったのを感じたのか、アルフォンソが目を泳がせながら匙を噛んでいる。失敗を誤魔化す時や、長考する時に手近なものを噛んでしまう子供じみた癖は、成長しても直っていないようだ。オズヴァルドは小さく息を吐いた。
「……良かったのか、アル。おれを邸に呼んだりして……あの人たちが怒るんじゃないか?」
「あぁ、それは大丈夫だ。今、父上と母上は広間の方で晩餐会の真っ最中さ。ここ数日間はずっと、親戚や懇意の貴族を呼んでおべっかの投げ合いにご執心だ」
「アルは出なくて良いのか? 嫡男だろう」
「出てたさ、最初の三日くらいは。だが、どうやらぼくがいると、逆に都合が悪いらしい。自分に与えられる賛辞が減るからな。ぼくがどうしていようと、あまり気にしていないらしい」
「相変わらずだな……」
「あぁ、まったく。だが、お陰でこうして、オズとまた食事ができる」
屈託なく笑うアルフォンソは頭の底に仕舞いこんだ記憶のままで、自然とオズヴァルドの口元も緩んだ。
その時、庭園から「おとうさま」と弾んだ高い子供の声が聞こえた。毛先がクルクルと跳ねた長い金髪の幼い少女が駆け寄ってきて、短い金髪の男児を抱いたベルディータが後ろに続いていた。パッと表情を明るくしたアルフォンソが席を立ち、少女を高々と抱き上げる。
「やぁ、ぼくらのお転婆姫。お爺様のところにいたんじゃないのかい?」
「だってぇ、お父さまもいないし、つまらないんだもの」
「ニコレッタ、お行儀が悪いですよ。まずはオズヴァルド叔父様にご挨拶なさい」
「あっ、そうでした」
ベルディータに注意されたニコレッタは、オズヴァルドの前に来て、ドレスを抓んで淑女のお辞儀をした。
「ごきげんよう、オズおじさま。お会いできてうれしいです」
「お久し振りです、ニコレッタ。大きくなられましたね。そちらはクレトですか」
「あぁ、二歳になった。クレト、オズ叔父様だぞ。覚えてるか?」
アルフォンソからふくらかな頬をつつかれたクレトは、オズヴァルドと目が合うなりベルディータの胸元に顔を隠してしまった。
「あらまぁ、この子ったら……申し訳ありません、オズヴァルド様」
「いえ、最後に会ったのは一年以上も前ですから、忘れてしまって当然です」
ニコレッタとクレトは、アルフォンソとベルディータの子供だ。四歳になるニコレッタは口が達者で、ませた言葉をよく使っていた。彼女はベルディータに似た涼やかな目元をしており、利発で大人しそうな顔立ちだが、性格はアルフォンソに似て活発だ。反対にクレトはアルフォンソの生き写しと思えるほど似た顔をしているが、性格はやや内向的なようである。
両親は話題の主役をアルフォンソに奪われた代わりに、孫たちを使って承認欲求を満たそうとしているようだ。これにはアルフォンソとベルディータも呆れているが、当主の座に父がしがみついている以上、逆らうことはできない。
ベルディータやニコレッタたちも交えて食事をすることになったが、子供の興味は簡単に移り変わる。ニコレッタがぴょんと椅子から降りて駆け寄っていったのは、ガゼボの影に控えていたフィデンツィオのところだった。
「ごきげんよう、おじじさま。頭のそれ、ヘンな形だけど、なあに?」
「おやおや、見つかってしまいました」
「こら、ニコ。失礼なことを言っては……」
「ほほ、構いませぬ。お嬢様、これは角にございます。爺はアロル人にございますから、こうして角が生えておるのですよ」
「そうなの? じゃあ、オズおじさまもアロル人になったから、おツノがはえてしまったの?」
「いや、これは……えぇと……まぁ、そのようなものです」
「おーい、説明を諦めるな、オズ。お前の悪い癖だぞ」
子供の好奇心に付き合うのは大人の役目だと分かってはいるが、文化の違いなど複雑なことを説明する億劫さの方がオズヴァルドの中で勝ってしまった。しかし、そこはフィデンツィオが上手く対応してくれたようで、ニコレッタとクレトに自身の角を触らせていた。本来、アロル人の角に触れることは家族でも非常識な行為なのだが、彼は子供の成長の助けになるならと許したのだ。
フィデンツィオにすっかり懐いたニコレッタとクレトは、彼がラ・ロカ家に初めて来たと知り、庭園を案内すると言いだした。彼の仕事はオズヴァルドの傍を離れないことであるから、これにはさすがのフィデンツィオも困惑したようだ。
「ニコレッタたちのしたいようにさせてあげてください。おれの方はラ・ロカ家の使用人もいますし、アルもいますから」
「……承知いたしました。何かありましたら、すぐにお呼びください」
「おじじさま、あのね、むこうにニコがうえたコスモスがあるの。キレイにさいたから、みせてあげるね!」
「ほほ、それは楽しみでございます。しっかりと爺の手を引いて、案内してくだされ」
ニコレッタと手をつないで、フィデンツィオは庭へと歩いていった。姉と共に行きたいクレトにせがまれてベルディータも席を立ち、ありがとうございます、とオズヴァルドに礼を言って彼女は娘たちの後を追った。
再びふたりになったオズヴァルドとアルフォンソの前に、湯気の立つティーカップが置かれた。このセロー紅茶も、先程フィデンツィオが毒味を済ませている。
「すまないな、オズ。ニコもクレトも、お前の影従が気に入ってしまったようだ」
「やらんぞ」
「はは、そんな意味で言ったんじゃない。まぁ、少し惜しくはあるがな……」
「互いが異なることを理解し、受け入れるには、実際に言葉を交わして触れ合うことが手っ取り早いだろう」
オズヴァルドは迎賓館に入った時に浴びた、無数の視線を思い出す。好奇と厭忌の籠もった目を向けるのは、彼らがスク・ア・ルジェ島やアロル人のことを理解していないからだ。理解するだけの勉強や経験を、十分に積めなかったからだ。
人間は身勝手なもので、己の理解不足の責任を相手に強いる。思い返せば、オズヴァルドも移り住むまでスク・ア・ルジェ島について無知同然であった。自分にない角があるだけで、星割りの山や臥海ほどもある、目に見えない隔たりがあるように感じていた。それは仕方のないことだと、頭の隅で考えていたオズヴァルドの価値観を覆してくれたのは、ギルダとの日々だ。
それにアルフォンソが声を上げて笑うものだから、オズヴァルドは馬鹿にされたように感じ、眉間に皺が寄った。
「……何か可笑しいか?」
「ははは、すまない、そうじゃないんだ。あんなに他人を嫌っていたお前の口から、柔らかな言葉が出てくるとは思わなくてな。人は変わるものなんだなぁ」
「変わってなど――」
「アルフォンソ!」
オズヴァルドの言葉を遮って、嗄れた怒号が飛んできた。見れば、白髪交じりの金髪と口髭を整えた初老の男――ふたりの父のアルチバルドが、肩を怒らせて歩み寄ってきた。
途端、アルフォンソの顔が引き攣る。腰を浮かせた弾みで持っていたカップが石畳に落ち、甲高い断末魔を響かせて砕けた。
「父上……なぜ、こちらに」
「いつまで待てども晩餐会に顔を出さぬと思えば、庭園で客を迎えているという話ではないか。ラ・ロカ家の嫡男としての自覚が足りん。ましてや……」
アルチバルドの歪んだ眼光に、オズヴァルドは射抜かれた。それだけで、オズヴァルドの体は見えない鎖で縛られる。背骨を恐怖が貫き、体中から汗が噴き出す。呼吸が早くなって、震えてしまうのだ。
アルチバルドが持っていた杖を石畳に叩きつけ、ふたりだけでなく周囲の使用人も肩を大きく震わせた。
「化竜の島へ追い出したはずの出来損ないが、なぜ私の邸で、私の庭で、我が家の食料を貪っておるのだ!」
「父上、オズはぼくが招いたのです。ぼくとオズは血と肉を分けた半月。たとえ手の届かぬ距離に離れたとしても、それは変わら――」
「半月? 満月と汚泥の間違いであろう! アルフォンソ、貴様には失望したぞ。当主である私に断りもなく、伺いすらなく、日陰馬をラ・ロカ家に立ち入らせるという勝手なことをするとは!」
強い語気で捲し立てられる言葉の刃に、アルフォンソは唇と拳を震わせている。アルフォンソもまた、父が恐ろしいのだ。オズヴァルドが剣も魔法も使えない駄馬だと分かるなり、兄の扱いもまた大きく変わった。日夜も天気も構わず、剣と魔法の訓練をさせられ、少しでも間違ったり弱音を吐いたりすれば容赦のない暴言と体罰が待っていた。体中がボロボロになりながらも、涙を堪え、歯を食いしばって稽古に明け暮れる兄を、オズヴァルドはずっと見てきたから分かる。
オズヴァルドは唇を噛む。アルフォンソはまたオズヴァルドを守ろうと、罪の矛先を己に向けようとしているのに、自分は以前と変わらず縮こまって嵐が通り過ぎるのを震えて待っているだけだ。巨大な雨雲が喉に栓をして、言葉が何も出てこない。
張り詰めた空気を裂いたのは、やめて、という無垢な叫びだった。恐らくアルチバルドの怒声を聞いて戻ってきたのだろう、フィデンツィオやベルディータたちが立っていた。子供は場の空気を感じ取ることに長けている。クレトは今にも泣きそうな顔でベルディータにしがみつき、ニコレッタは眦を吊り上げて祖父のアルチバルドを睨んでいた。
「おじいさま、お父さまとケンカしないで!」
「……ベルディータ殿。ニコレッタたちを連れて去れ」
「は……はい。さぁニコレッタ、行きましょう」
「イヤ! おじいさまとお父さまが、ちゃんとなかなおりするまで、ニコはここにいる!」
ニコレッタはすっかり意固地になってしまっているようだ。ベルディータの手を振り払い、地団駄を踏んで拒絶する。彼女はきっと家族のことが、叔父であるオズヴァルドのことも含めて好きなのだ。自分が好きな者たちは、当然互いのことも好きなのだと本気で考えている。子供らしい純粋無垢で視野の狭い、自分中心な考え方だ。
だが、ニコレッタが拒否すればするほど、アルチバルドの怒りも膨れていく。彼の杖を握る手に力が込められた時、フィデンツィオがニコレッタと目線を合わせるように膝をついた。彼は握られたままの小さな手を、宥めるように揺らす。
「お嬢様、ご当主様はお父上様と、大切なお話をなさっておられるだけでございますよ。そろそろご就寝のお時間でもございましょうし、邸へお戻りになられてはいかがでしょう」
「うぅ……おじじさま、でも……」
「待て。貴様、誰の許可を得て孫に触れている」
アルチバルドの低く這うような声が、鋭い錆金の瞳が、フィデンツィオに向けられる。苛立たしげに杖で石畳を突きながら、近づいていった。
「下賤な化竜の島の使用人ごときが、我が一族に触れることを許されていると思っているのか! 我らフェロス人の陰でしか生きていけぬ未開のアロル人めが……その思い上がりを躾し直してやろう!」
「父上、落ち着いてください!」
アルフォンソの制止も虚しく、頭を垂れるフィデンツィオに向かって、アルチバルドが杖を振り上げる。フィデンツィオは甘んじて罰を受けるつもりのようで、逃げる素振りはない。
その瞬間、オズヴァルドの腹の底に熱湯が沸いたような感覚がして、気づけば椅子を倒すほどの勢いで立ち上がっていた。
「おやめください! この者は我が影従です。従者の不始末は主人の不始末。御令孫様への無礼は、代わって謝罪いたします」
片膝を折って跪くのは、最大の謝意を示す行動だ。突然声を上げたことで、オズヴァルドはその場にいる全員から驚いた視線を向けられているのを感じた。思えば、こうして反抗したことなど、二十五年間の記憶を探しても一度もない。オズヴァルドの想像通り、アルチバルドの面長な顔は、ますます赤く茹だっていった。
「貴様、オズヴァルド……出来損ないの駄馬の分際で、当主の私に歯向かうのか! 誉れ高きラ・ロカ家の当主である、この私に!」
ガツガツと地面を穿ちながら、アルチバルドが歩み寄ってくる気配がする。かつて受けた体罰の痛みと罵声の辛さを覚えている体が、無意識に震えてしまう。周囲の空気さえも巨岩のように重く、オズヴァルドの全身に圧しかかっていて顔すら上げられない。
「何が主人だ。離島の嫁を宛がわれたくらいで、貴様が日陰馬であることは、永劫に変わりはしない。この頭冠もアロル人になったつもりか? どこまでも馬鹿にしおって!」
アルチバルドの手が、頭冠へと伸ばされる。折られると思った瞬間、オズヴァルドの体を嫌悪と拒絶が稲妻のように貫いた。
庭園に肌が弾き合う音が響く――オズヴァルドがアルチバルドの手を振り払ったのだ。
「触るな。角は我らアロル人の矜持。角に触れることは、たとえ国王陛下であっても罷りなりませぬ。高名な貴族の振る舞いにしては、少々不躾が過ぎまするぞ」
オズヴァルドは背筋を伸ばして立上り、アルチバルドを正面から見据える。いつしか背丈は父を越しており、オズヴァルドは彼を見下げる形になった。
恐怖がないわけではなかった。足も歯の根も震えているのに、退く選択肢は不思議とオズヴァルドの中にない。歴史的に憎まれても仕方がないフェロス人であるオズヴァルドを受け入れてくれたフィデンツィオや、エンリカ。そして無邪気に花をくれたギルダを貶されたことが、何より許せなかった。
これまでずっと疎んじていたオズヴァルドの反抗的な態度に、アルチバルドの表情が赤と青の間を乱高下して、体がわなわなと震えていた。
「き……きさ、貴様ァ……!」
「父上。これ以上、人前で無様を晒すことはおやめください」
オズヴァルドとアルチバルドの間に割って入ったのは、アルフォンソだった。彼はオズヴァルドの前に片膝をついて、深く頭を下げる。
「竜姫様の伴侶殿。こちらから招いておきながら、父の数々の非礼をお詫び申し上げます。せめてもの謝意の証として、当家の領地で収穫されたセロー紅茶の茶葉をご用意させていただいております。竜姫様やスク・ア・ルジェ島の方々に、ぜひ味わっていただければ」
「……感謝いたします、ラ・ロカ家の令息様」
「エントランスまでお送りしましょう。――おいで、ニコレッタ、クレト。オズ叔父様をお見送りしようか」
己の両脇を擦り抜けて歩いていったオズヴァルドとアルフォンソに、アルチバルドが一拍遅れて振り向いた。
「ま、待てアルフォンソ! まだ話は……!」
「父上、陛下の突然の訃報や連日の晩餐会でお疲れなのでしょう。国葬が落ち着きましたら、母上と共にデーボレの湖畔にて療養されてはいかがでしょうか」
「なッ……!」
微笑むアルフォンソの横で、オズヴァルドは気づかれないよう小さく笑った。
デーボレ湖はラ・ロカが治める領地の辺境にある。麦畑ばかりが広がる長閑な農村で、デーボレ湖の畔にはラ・ロカ家が代々療養地としていた別荘があり、終の地でもある。そこへ移り住むということは、家督を子孫へ継承し、死を待つだけの存在になったということだ。
「アルフォンソ、貴様まで私に反逆を――ぐゥッ……!」
突然、アルチバルドが苦悶の声を上げ、頭を押さえてその場に膝をついた。傍にいた使用人たちが駆け寄るが、彼は自分へ差し伸べられた手を振り払う。
アルフォンソが小さく息を吐いた。
「父上、あまり興奮なさると、また倒れますよ。――行こうか、オズ」
「あぁ」
父の変容にもオズヴァルドは不思議と何も感情も沸かず、ニコレッタの隣で片膝をついたままのフィデンツィオの肩に手を乗せた。
「帰りましょう、フィデンツィオ。我らの島へ」
「はい、旦那様」
庭園にアルチバルドを残し、オズヴァルドたちは邸の中へ戻った。テラスの扉を閉めた瞬間、アルフォンソは突然大声を上げて笑いだした。
「急にどうした、アル……」
「いやぁ、父上のあんな顔を見たことがなかったから、つい。二十五年も生きてきたが、反抗らしい反抗をしたのは初めてだな」
「そうだな……初めてだ」
オズヴァルドもつられて口元が緩む。
子供は親に従順であるべき――それが貴族では当たり前のことだった。先祖や先達を敬うという教えは大事ではあるが、己の尊厳を踏みにじられてまで従う必要は、最初からなかったのだ。そう思うと、ずっと重苦しく淀んでいた邸の空気も、どこか爽やかに感じられるから不思議だった。
「しかし、アル……あんなことを言って、良かったのか? 先に啖呵を切ったおれが言うのも何だが、明日からのお前たち家族の立場が、悪くなったりは……」
「構わないさ。デーボレの件も、両親にはいずれ言おうと思っていたところだったから、逆にいい機会だ」
「だが……」
「本当さ、オズ。むしろ、お前がきっかけを作ってくれて良かったとさえ思っている。……実は、母上が血を吐いて倒れたんだ」
「血を……?」
聞き返したオズヴァルドに、アルフォンソが小さく頷く。どこか諦めたような微笑みだった。
「医者の話では、肺に障りがあるらしい。父も強がってはいるが、血の巡りと心臓が悪くてな。興奮したり長時間動いたりすると、さっきみたいに具合が悪くなってしまうようになった」
アルフォンソが腕に抱えたニコレッタの頭を撫でながら呟いた言葉に、オズヴァルドはただ「そうか」と返した。
「おふたりのお体は、いつから悪くなったんだ」
「母上はお前が婿入りして、すぐの頃だったから……もう半年ほど前になるか。父上は母上が倒れた一月後だ。おふたりとも病身になられたことで、多少は大人しくなるかと思ったんだが……余計に頑固になっただけだったよ」
困ったものだ、とアルフォンソが吐息のような笑いを零す。一歩後ろからついてきているベルディータの表情も、ヴェールの下に疲労の影が差しているように見えた。
ふたりの母もまた夫アルチバルドと同じく、プライドの高い女であった。生家が王の外戚であることを武器に、社交界を渡り歩いてきたためか、非常に高慢な性格であった。アルフォンソとオズヴァルドが生まれてからは、そんな性格も多少は丸くなり、子煩悩で家庭的な良妻と評判になった。しかし、それも己が『善き母』と周囲に思われたいがための行動であったと知ったのは、オズヴァルドが魔法を使えないと判明した時だった。
苦い茶を舌の上で転がすような、相当酷い表情をしていたのだろう。アルフォンソが気遣うような目を向けてきた。
「会うか? 母上も今なら晩餐会を終えて、寝室に戻られていると思うが……」
「……いや、遠慮する。おれの顔を見たら、もっと体調が悪くなってしまうだろうからな」
「そうか。まぁ、オズがそう言うなら、ぼくもそれで良いと思う」
不意に、オズヴァルドの袖がニコレッタの指で引かれた。
「あのね、オズおじさま。ニコ、おじいさまもおばあさまもキライなの」
「こら、おやめなさいニコレッタ」
すぐにニコレッタを窘めるベルディータを、アルフォンソが制する。オズヴァルドは腰を屈めて、コスモスの蕾のように唇を尖らせた、ニコレッタの顔を覗き込んだ。
「おれも、父上と母上が嫌いです。一緒ですね、ニコレッタ」
「そうなの? あのね、おじいさまもおばあさまも、お父さまのこと、いっぱい怒るの。ニコにとって、お父さまもお母さまも、とってもステキな人なのに……いつも怒ってるの。笑ってるのは、たくさんのおきゃくさまがいる時だけ。だから……」
アルフォンソと同じ色の大きな瞳に、みるみる涙が溜まっていく。ころりと頬を転げ落ちた雫を、アルフォンソが指先で拭う。
「ありがとう、ぼくらの可愛いお姫様。君がそう思ってくれるだけで、父様も母様も嬉しいよ。白状しよう、父様もお祖父様とお祖母様が嫌いだ! すーっごく嫌いだ、とてつもなく嫌いだ!」
「あなた、子供の前でそのようなことを言うべきでは……」
「いいんだよ、ベルディータ。好きなものを好きと、嫌いなものを嫌いと正直に言えるのは、子供の内だけだ。ぼくとオズが二十五年かからないと言えなかったことを、四歳で言えたこの子が誇らしいよ」
父から頭を乱雑に撫でられたことで、髪が崩れたとニコレッタが怒る。彼女は仕返しにと、アルフォンソの頬を思い切り抓った。楽しげに笑い合う父と姉の声を羨ましくなったのか、クレトがアルフォンソへ短い腕を伸ばしてグズり始める。ベルディータから彼のことも受け取ったアルフォンソは、両腕に抱えた彼らから頬を引っ張られて大らかに笑った。そんな三人を、ベルディータは慈愛に溢れた微笑みで見つめている。
きっと、これがアルフォンソの理想なのだとオズヴァルドは気付いた。彼はどれだけ両腕を伸ばしても得られなかったものを、自分の子供に与えようとしている。それは言葉にするだけなら簡単なことのように聞こえるが、実践するとなると精神的に難しい。己の中にある満たされていないままの子供の心を、捨て去らねばならないからだ。隣で見ていたオズヴァルドでさえ、ニコレッタとクレトに『羨ましい』と思ってしまった。子供に嫉妬するなど恥以外の何物でもないと、頭ではわかっているのに、オズヴァルドの心の中にいる幼い己が許さないのだ。アルフォンソも同じはずなのに、それをおくびにも出さず子供と笑い合える彼は、オズヴァルドの目にはひどく眩しく見えた。
幼いニコレッタとクレトが大きな欠伸をしたから、ふたりとベルディータとは廊下の途中で別れることとなった。ニコレッタはエントランスまでオズヴァルドを見送ると駄々をこね、泣き始めてしまった。
「ニコレッタ。気持ちは嬉しいのですが、たくさん寝なければ立派な大人にはなれませんよ」
「やだぁ、まだ寝ない、まだオズおじさまといっしょにいるの!」
「おやおや、ニコは随分とオズが好きだなぁ。あまり会ったことはなかったと思っていたが……」
アルフォンソの言う通り、オズヴァルドと子供たちは交流らしいものは少なかった。出来損ないに近づいてはいけないと、アルチバルドが吹き込んでいたはずだ。
ニコレッタは瞼が半分閉じた目を擦りながら、だってえ、と間延びした声で答えた。
「オズおじさま、ニコに楽しいお話を聞かせてくれたもの。きしになったおひめさまのお話とか、お馬さんとネコさんが旅に出るお話とか、いーっぱい聞かせてくれたのよ」
「へぇ、いつの間にそんなことをしてたんだ、オズ」
「オズヴァルド様。よろしければ、本の題名を教えていただけないでしょうか。よくニコレッタに読んでとせがまれるのですが、書庫を探しても見つけられなくて」
「それは……読書をしている時にニコレッタが来たからで……本も探せば、どこかにはあるかと……」
目を泳がせて歯切れ悪く答えるオズヴァルドに、アルフォンソが何か感じ取ったのかニヤニヤと企むような表情を浮かべた。
「ニコ、どうやら君の大好きな本は、オズ叔父様が島へ持っていってしまったらしい。後で届けてくれるそうだ」
「えー、そうなの?」
「お、おい、アル!」
「可愛い姪が欲しがっているんだぞ。どんな形でもいいから送ってくれ。頼んだからな、叔父様」
腹が立つほど整った笑顔を寄越すアルフォンソの思い通りになるのが何だか癪で、オズヴァルドは断ろうと思ったが、ニコレッタからも期待に輝いた瞳を向けられてしまった。その眼差しが何だかギルダと被ってしまって、オズヴァルドは首を縦に振るしかない。
やくそくよ、と機嫌を直したニコレッタたちと別れ、三人の姿が見えなくなったのを確認したオズヴァルドは、笑いを堪えているアルフォンソの脇腹を肘で突いた。
「ふふ、ははは、痛いぞオズ」
「うるさい。勝手な約束を取りつけるな」
「そう言わずに頼む、ぼくはニコとクレトの悲しむ顔は見たくないんだ。お前だってそうだろう?」
「それはそうだが……」
「オズ。ニコは、いつか『砂糖の鳥』として、この家から羽ばたいていくことになるだろう。ぼくはその時まで、あの子たちには笑顔で過ごしてほしいんだ。家族を作るということがとても尊くて、愛に溢れたものなのだと知ってほしい。そうすればきっと、あの子が子供をもうけた時、両親がぼくたちにしたようなことはしないはずだから」
エントランスへと歩き始めたアルフォンソは、すっかり父親の顔をしていた。
――やはりアルフォンソには勝てないと、オズヴァルドは悟る。彼もまた幼い頃からずっと藻掻いてきたのに、決して光を見失わなかった。出来損ないとみなされたオズヴァルドの分まで期待と重責を負わされ、騎士となる以外の道を用意されなくとも、心根は優しい太陽のままなのだ。
「そういえば、お前には驚いたぞ」
「何がだ?」
「いつも日陰で震えていたお前が、父上に言い返すとはな。微風ほどの声量しか聞いたことがなかったから、あんなに大声を出したオズは初めて見た」
「いつの話をしているんだ、まったく……。父上のアロル人への侮辱に、我慢ならなくなっただけだ。今のおれは、スク・ア・ルジェ島の一員として来ているのだからな」
「そうか……彼の島の者たちや、竜姫様がお前を変えてくれたんだろうな。フィデンツィオ殿、弟として感謝申し上げます」
「勿体なきお言葉です……――弟?」
聞き間違いでしょうか、とフィデンツィオは耳の裏を掻く。アルフォンソは穏やかな微笑みで首を横に振り、むしろオズヴァルドの方が眉を顰めた。
「アル、それは……」
「いいじゃないか、兄上。それが真実だ。誠実には誠実で返さねば、ラ・ロカ家の次期当主は不義理者と呼ばれてしまう。フィデンツィオ殿、本当はオズが兄で、ぼくが弟なのです」
アルフォンソの告白に、フィデンツィオは目を見開いた。
二十五年前、双子を身籠った母が最初に産み落としたのは黒髪の赤子――オズヴァルドだった。問題視されたのは、その黒髪だ。両親はどちらも金髪であり、黒髪は母方の祖父譲りの色だったのだ。
たとえ双子であっても、母親の胎から出てきた順で家族の序列が高くなるのが習わしだ。本来ならばオズヴァルドが長男として育てられるはずだったのだ。しかし、誉れ高きラ・ロカ家の嫡男に他家の髪色を持つ子供がなるのは都合が悪いと、両親は自分たちの特徴が色濃く顕れたアルフォンソを兄にしたのだ。
もちろん、そんな生まれてすぐに結ばれた密約を、当の本人たちが知る術はない。知ったのは六歳の頃で、使用人が噂していたのを偶然聞いてしまったのだ。
ふたりはすぐに両親にこのことを確かめに行ったが、酷く強い口調で叱責され、二度と訊くなと頬を打たれた。いつもであれば体罰を与えられた時点で諦めるのだが、この時はなぜだか必ず明らかにせねばならないという思いが強くなり、使用人の中でも古参の家令にこっそりと尋ねたのだ。――そうして、両親の身勝手な行いを知った。
教えてくれた白髪の家令の、痛ましいものを見るような瞳が、オズヴァルドはなぜか今でもはっきりと覚えている。彼もまた、良心を欺き続けることができなかったのだろう。全てを知った一月後、ラ・ロカ家の使用人が家令から幼い小間使いまで一新されていることに気づき、夫婦の秘密は双子の秘密にもなったのだ。
「それからぼくらは、兄と弟が逆転したまま生きてきた。本当だったら『塩の馬』になって貴方がたの島へ婿入りするのも、その頭冠を被っているのも、ぼくの方だった……。竜姫様やスク・ア・ルジェ島の皆様を欺いた非礼を、お詫びいたします」
「違うだろう、アル! このままでいいと言ったのはおれだ。お前が気に病むことじゃない」
「いいや、オズ。ぼくは兄の立場だけじゃなく、母上の胎の中で魔法すら奪ってしまった。ぼくが持つ炎と氷を操る魔法……そのどちらかはオズの魔法であるはずだったのに……」
上に向けたアルフォンソの掌の上で、朱い炎と蒼い氷が生まれて消える。彼はこのふたつの魔法を使えたことで、使えたせいで、騎士になるという両親の期待に応えることになった。応えられたのは、彼が弛まずに努力をした結果だ。
目を伏せるふたりの間で、ほほほ、とフィデンツィオが軽やかに笑う。
「おふたりはとてもよく似ていらっしゃる。優しく、勤勉で、言葉が少々足りなくて誤解されやすい……鏡合わせの半月のようです」
「フィデンツィオ……貴方の目に、おれたちはそう映るのですね」
「えぇ、えぇ。しかし、アルフォンソ様。爺は『塩の馬』として島へ参られたのが、オズヴァルド様で良かったと思っております。それは恐らく、神官や使用人、そしてギルダ様も同じ想いでございましょう。誤解のなきよう申し上げますと、アルフォンソ様では力不足であるとか、そういう意味ではございませぬ。ただおふたりが天より授かったお役目が、スク・ア・ルジェ島にあるのか、フェロフォーネにあるのか……それだけの違いなのであると、年寄りは思うのです」
フィデンツィオは一歩後ろに下がって、深く腰を折って一礼した。
「出過ぎたことを申しました。お許しください」
「……顔を上げてください、フィデンツィオ殿」
アルフォンソが穏やかな声音で、フィデンツィオの肩に手を置いた。頭を上げたフィデンツィオの前に、彼は片膝をつく。
「ありがとうございます。ぼくはきっと、この人生を誰かに許してもらいたかったのしれません。オズ、良い影従を持ったな」
「絶対にやらんぞ」
「分かってるって。お互い、自分の居場所を守ろう。お前は竜姫様と……お名前は確か、ギルダ様と仰ったか。ギルダ様と仲良くな」
思わず、オズヴァルドは苦々しく顔を顰めた。どうしてか、アルフォンソにギルダの名前を呼ばれた瞬間、胸の内に鋭利な棘が生えたような苛立ちを覚えた。見ず知らずの他人でもない、兄だというのに。
その上、アルフォンソが手を叩いて笑うものだから、オズヴァルドの眉間の皺はもっと険しくなった。
「ぼくの心配は余計なお世話だったかな、フィデンツィオ殿」
「えぇ、全くもってその通りにございますれば」
「馬鹿にしているのか、アル」
オズヴァルドが渋い顔を極めれば、アルフォンソは揶揄うような表情のまま、立ち上がって背中に腕を回してきた。
「そういうわけじゃないって。オズが愛する相手を見つけられて、ぼくは嬉しいってことだよ」
「…………愛?」
「うん? 竜姫様のことを愛しているから、他の男に名前を呼ばれるのが嫌なんだろう?」
違うのかい、と首を傾げたアルフォンソの言葉に、オズヴァルドもまた同じ角度で首を捻る。
愛という感情はオズヴァルドも知っている。本を読んでいれば必ず一度はその言葉を目にし、特に物語では登場人物たちが『愛とはなんたるか』を行動と台詞で表してくれるから。だが、それがオズヴァルドのギルダへの感情と一致するかと考えれば、微妙に違うようにも思えた。
「愛とは『身の内で炎が燃えるような感情』であったり、『心の臓を鎖で縛られたような感情』であったりするものだろう。おれがギルダ様に感じるものとは、少し違う気がする」
「なにもそれだけが愛じゃないさ。例えば……竜姫様が楽し気に微笑んでおられたら、オズはどう思う?」
「……嬉しいと思う」
「逆に悲しんでおられたら?」
「慰めたい」
「要望があると仰ってきたら?」
「できる限りのことをする」
「それがお前に『死んでほしい』という願いでも?」
「叶える」
間髪入れないオズヴァルドの即答ぶりに、問いかけたアルフォンソの方が驚いていた。
この質問は、彼のちょっとした意地悪だったのだろう。少し極端な問いかけをして、弟がどう反応するのかを見たかったのかもしれない。
だが、不思議とその答えはオズヴァルドの中でしっくりと馴染んだのだ。
「ギルダ姫はそのようなことを仰るような方ではないが……もしも願われることがあれば、おれは迷わずに叶えると思う。それが姫の望みであり、必要なことであれば、叶えるのが伴侶としての最期の務めだからだ。……だが、アル。これは愛なのだろうか。情熱的で重苦しく、時には苛烈な独り善がりな感情を、相手に受け入れられて初めて愛になるのではないのか」
「オズ、それは愛という側面の、ほんの微かな輪郭でしかない。本でよく出てくるような相手を壊しかねないほどの強い想いもあれば、ダンデライオンの綿毛に寄り添うような穏やかな想いも、また愛だ」
オズヴァルドは脳裏にギルダの姿を描いてみた。神殿の中庭で、風にそよぐ樫の木の下、並んで本を読んだ時のことを。
大輪の笑顔に、転がる声。髪が揺れる度に鼻先を擽る、花の香り。肩を寄せ合った時に感じた温度が思い出された瞬間、オズヴァルドの全身を熱が包んだ。まるで体の中で溶岩が逆巻いているかのようだった。速くなった心臓の拍動が耳元で煩く響き、全身が心臓そのものになってしまったかと思うほどだ。――こんなことは初めてだった。
今、自分がどんな顔をしているのか分からないが、アルフォンソの反応からあまり良いものではないと分かった。彼は驚いたように目を見開いたと思えば、一転してニヤついた表情でオズヴァルドの肩に腕を回してきた。
「そうかそうか。オズもやっと愛を自覚したか。遅いくらいだが、まあ気づかないよりはいいだろう」
「やはり馬鹿にしているだろう、お前」
「してないしてない。ぼくはお前の成長が嬉しいだけだぞ。――なぁ、オズ。愛のために死ねるのは、何も変なことじゃない。ぼくだってベルディータや子供たちのためなら、命なんて惜しくないからな。愛の形なんて、人それぞれで正解なんてないのさ」
アルフォンソの溌溂とした笑い声が、エントランスホールに響いた。
外には既にオズヴァルドたちを迎賓館へ送る馬車が用意されており、馭者が土産用のセロー紅茶の茶葉を積み終えたことを、アルフォンソに報告した。
「今日は父上がすまなかったな、オズ。あの人はぼくのことなど忘れて、晩餐会に出ているものだとばかり思っていたから、お前を呼んでも気づかれないと思ったんだが……」
「詰めが甘いのは、お前の悪い癖だぞ」
「お? なんだ、さっきの仕返しか? まぁ、父上と母上のことはぼくに任せろ。これでも多少はあしらえるくらいにはなったし、デーボレへと移ってもらうまでの辛抱だ」
「……すまない、アル。おればかりが、この家から逃げるようなことになってしまって……」
「オズ」
アルフォンソが両腕を広げて、オズヴァルドの体を抱き締めた。背中や後頭部を優しく叩くのは、彼の幼い頃からの慰め方だ。親に叱られて、日陰で泣いていたオズヴァルドを、アルフォンソはいつも見つけ出して抱き締めてくれた。
食事を抜かれた時は親の目を盗んでパンを届けてくれたし、オズヴァルドだけ部屋から出してもらえなかった時は窓から入ってきて一緒に遊んだりした。
アルフォンソは今も昔も変わらず、オズヴァルドを日陰から連れ出してくれる太陽だった。
「ぼくはオズが生きているなら、それでいいんだ。フェロフォーネもラ・ロカ家のことも忘れて、アロル人になった方が幸せならそれでいい」
「……そうだな。おれもアルが生きていれば、それでいい。お互い、謝るのはやめにしよう。おれはスク・ア・ルジェ島で己の務めを果たす」
「ぼくもフェロフォーネで務めを果たそう。――リソルレードでは調子の良いことを言ってしまったが……戦争については、正直どうなるかは分からない。ぼくは一介の騎士に過ぎないし、ラ・ロカ家は貴族としても歴史が浅いから、どこまで口を出せるかは分からないが……」
「十分にございます」
感じ入ったような声を上げたのは、フィデンツィオだった。
「どうか、貴方様は御自分と奥方様方のご安全を第一にお考え下さいませ。政治とは、時に人の意思が及ばぬ程の大渦となることもありまする。御身を守ることもまた、ひとつの戦いであると進言いたします」
「ありがとうございます。ですが、ぼくも騎士です。スク・ア・ルジェ島にまで災禍が及ばぬよう、できる限り抵抗させていただきますよ。オズ、何かあればすぐに手紙を送ろう。お前はニコとの約束を頼んだぞ」
「……分かった」
呻吟するように絞り出したオズヴァルドの了承に、アルフォンソはまた高らかに笑って、背中を強く叩かれたのだった。
抱き合った体を離し、オズヴァルドとアルフォンソは互いの右手の甲を触れ合わせた。フェロフォーネでの別れの挨拶であり、再会を契る行為である。
「また会おう、我が半月。今度はアルにも我らのスク・ア・ルジェ島を見てほしい。ギルダ姫も、お前のことをきっと気に入る」
「あぁ、その時を楽しみにしているよ。お前をここまで愛情深い、強い男に変えた竜姫様に、ぼくもお会いしてみたい」
「……そんなに変わっただろうか」
「変わったさ。半月のぼくが言うんだから、間違いない。体に気をつけてな、オズ」
「あぁ、お前もな、アル」
名残惜しく右手を離し、オズヴァルドとフィデンツィオは馬車へ乗り込んだ。ラ・ロカ家の門を出るまで、月光を受けたアルフォンソの輝かしい金髪は、扉の前に佇んでいた。
馬車に揺られながら、オズヴァルドは右手の甲を擦る。船からフェロフォーネの地に降りた時、王都フェニアタに着いてもラ・ロカ家の別邸には絶対に寄らないと心に決めていた。理由は両親と顔を合わせたくなかったこともあるが、アルフォンソにも会いたくなかったのだ。
生まれてからずっと、冷遇される度にオズヴァルドは心の片隅で「どうして自分だけ」と泣いていた。アルフォンソだけは絶えず優しさを差し出し続けてくれていたが、オズヴァルドはそれを素直に受け取れずにいたのだ。どれだけ彼に慰められても、結局自分は剣の才能も魔法もない出来損ないのまま、ただ互いの距離だけが開いていく。兄への『羨望』はいつしか『嫉妬』へ変わり、優しくされる度に惨めさだけが募っていった。
――愛している兄を妬んでしまう自分は、日陰馬と呼ばれても仕方がない。そう気づいてからは、オズヴァルドは自ら日陰を選んで歩くようにしたのだ。
右手の甲は、まだ陽光のような熱を持っている。薄絹越しの白い月が、砕けるように滲んで滴り落ちた。
オズヴァルドは、今が喪に服す期間であることに感謝した。――赤くなった目元を、誰にも知られることはないだろうから。
◆◇◆
再び船に揺られて、オズヴァルドがスク・ア・ルジェ島に戻ってきたのは、ちょうど島を出て九日が経った夕刻だった。
柔らかな砂浜を踏み、澄んだ潮風を肺腑に満たして、やっとオズヴァルドは全身の力が抜けたような気がした。往路だけでなく、帰路もリヴィオの帆船に相乗りさせてもらったことに感謝し、彼には謝礼金とフェロフォーネから持ち帰ったセロー紅茶の茶葉を渡した。オズヴァルドの名を出してアルフォンソと交渉すれば、同じ物を売ってくれるだろうと伝えると、リヴィオは飛び上がって喜んだ。商人である彼にとっては、商売につながる情報の方が嬉しいらしい。彼にはスク・ア・ルジェ島の島民たちも世話になっているから、オズヴァルドもできる限りの協力を惜しむつもりはなかった。
リヴィオと別れ、オズヴァルドは神殿までの坂道を上る。足元が不規則に揺れる船上から不動の大地に変わったことへの違和感も気にならないくらい、オズヴァルドの目は神殿へと向いていた。
足取りは徐々に早くなっていく。何とも思っていなかった道が、随分と長く感じて心ばかりが逸ってしまう。
――帰りたい。会いたい。彼女に。
最終的に大股の早足で神殿を囲う外門まで着いたオズヴァルドは、守護していた衛兵に開門を指示した。アロル人と同じ洞角がついた頭冠を被っているオズヴァルドに、衛兵らは一瞬驚いた後、慌てて格子状の門を引き上げた。
擦れ違う神官や使用人らはみな、オズヴァルドの姿を見るなり頭を下げて道を譲る。だが、オズヴァルドは彼らに構わず、神殿の扉の前に立った。情けないほど息が上がり、心臓が早鐘を打つ。
「竜姫様の伴侶、オズヴァルド様がただ今フェロフォーネより戻りました。開錠なさい」
呼吸の整わないオズヴァルドの代わりに、フィデンツィオが朗々とした声で命じる。彼の息は、一切乱れていなかった。程なくして錠の音がして、砂を引きずりながら扉がゆっくりと開く。
吹き込む風が、屋内で焚き籠められている香の匂いを乗せてオズヴァルドの頬を擽った。扉の向こうに立っていたのは、豊かな金の髪を靡かせた華奢な娘――ギルダだった。
「ギルダ姫……」
オズヴァルドに名前を呼ばれ、ギルダは朝露に濡れた花が綻ぶように、涙目の顔で笑った。
「お帰りなさいませ、オズヴァルド様……!」
「えぇ……ただいま帰りました、ギルダ姫」
駆け寄ってきた彼女を、オズヴァルドは両腕を広げて受け止める。
この声。この香り。
柔らかな日溜まりを抱き締めているような感覚が、懐かしいと思った。
ギルダは小さく洟を啜って、オズヴァルドを見上げてきた。湖に滲む陽光のような潤んだ彼女の目元を袖で拭ってやれば、コロコロと声を上げて笑った――と思えば、急に唇を尖らせてオズヴァルドの胸元を握り拳で叩いてきた。
「遅いです、ヒドいです! オズヴァルド様、早く帰ってくるって言ったのに!」
「すみません、ギルダ姫。天候も悪くなかったので、日程は順調だったのですが……」
「姫様ったら、旦那様がお出かけになられた三日後には『お帰りはまだなの』って泣いていらしたんですよ」
溜め息混じりに言ったのはエンリカだ。周囲で旅の荷物を片付けている使用人たちからも、クスクスと笑い声が上がっている。恐らく彼女は『オズヴァルドの帰りはまだか』と、毎日のように神殿中の者たちに聞いて回っていたのだろう。
エンリカの暴露にギルダの頬は一気に紅潮して、唇の前に人差し指を立てて「シーッ」と息を吐いた。
「エ、エンリカ! 言わないでって言ったじゃない!」
「今だってお勉強のお時間だったのに、水平線に船の影が見えた途端に部屋を飛び出して行かれまして。ご自分が一番に旦那様を出迎えたかったんです。ねー、姫様?」
「言わないでってば、エンリカぁー!」
頬を真っ赤にしたギルダが、涼しい微笑を浮かべたエンリカを追いかける。まるで仔猫がじゃれ合っているかのような光景に、オズヴァルドは小さく声を上げて笑った。
「ギルダ姫がお元気そうで、安心いたしました。待っていてくださって、ありがとうございます」
「あ……は、はい。す、すみません、はしゃいじゃって……」
駆け回って少し乱れた服の裾を、ギルダが恥ずかしそうに直す。その金髪もまた自分の角に絡まっており、オズヴァルドは指で解いてやった。
オズヴァルドは船旅の疲れもあり、エントランスで話し込んでは使用人たちの邪魔にもなるからと、ひとまず『揺籃の間』で休むことにした。フィデンツィオが淹れたセロー紅茶を飲んだギルダは、大きな瞳を輝かせた。
「美味しいです! 苦すぎなくて、香りも華やかで……こんなに美味しいお茶を、オズヴァルド様のご実家で作られているのですか?」
「我が家というか、当家が治める領地に住む者たちが栽培しています。ラ・ロカ領はステラフェーレ山脈に程近いことから小さな鉱山もあったのですが、閉山した後は高低差の激しい土地を利用して、二代目の当主が茶葉の栽培を始めたのです」
「そうだったんですか。こんなに美味しいお茶を育ててくれた方々に、いつかお礼がしたいです」
「後で一緒に手紙を書きましょう。ギルダ姫のお口に合ったと伝えれば、兄も喜ぶでしょうから」
はい、と頷くギルダの笑顔が微風となって、オズヴァルドの胸の内を吹き抜けていく。
その時、オズヴァルドの背中をフィデンツィオがつついてきた。彼の差し出された手には、長方形の木箱が乗っている。小声で礼を言ったオズヴァルドは、それをギルダのほっそりとした両手の上に乗せた。
彼女の丸い瞳が、オズヴァルドの顔と箱とを交互に見た。
「オズヴァルド様、これは?」
「土産です。……申し訳ありません、姫。実は、本当であれば昨日の内に島へ帰ることはできたのですが、おれが我儘を言って一日遅らせていただいたのです。どうしても、貴女に何かフェロフォーネの物を贈りたくて」
「開けてみても、いいですか?」
オズヴァルドが頷くと、彼女は箱を卓上に置いて、蓋を開けた。中にはもうひとつ、焦げ茶色の箱が入っており、側面から一本の細いハンドルが飛び出していた。
「オズヴァルド様、これは……?」
「オルゴールというものです。一年程前からフェロフォーネで流行っておりまして、とても良い音を奏でるのですよ」
「楽器なのですか? ど、どうやって音を鳴らすのでしょう」
箱をひっくり返したり振ったりするギルダの姿が可愛らしくて、オズヴァルドは肩を揺らして笑った。ギルダからオルゴールを受け取って、細いハンドルを回す。ゆっくりと流れてきたのは、オラトリオの一節だ。鉄を弾くような高い音は素朴でありながら澄んでいて、鼓膜を心地よく震わせる。
「とても素敵な音色……フェロフォーネには、素晴らしいものがあるんですね」
「これで許してもらえますか?」
オズヴァルドが問うと、ギルダはキョトンとした後、意図を理解したようでツンと顔を背けた。
「いいえっ、許しません! フェロフォーネのこと、もっともーっと教えてくださるまで、勝手に日にちを延ばしたことを許しませんから!」
「ふふ、それは困りました。では、姫が満足なさるまでお話しましょうか。セロー紅茶を飲みながら、中庭で」
頷くギルダの笑顔が、オズヴァルドの心を満たす。もう認めるしかない――オズヴァルドは、ギルダを愛している。純粋な性格。無垢な瞳。胡桃を転がす声。日向の体温。彼女の全てを。彼女が悲しまずに生きられるなら、どんなことでもしたいと思う。その感情は、紛れもなく愛だ。
ふたりの手の中で、オルゴールは澄んだ音色を奏で続けていた。
――そして、第四王子の妻、ツェツィーリアが処刑されたというアルフォンソからの手紙が届いたのは、この六日後のことであった。