婚礼
その婚礼は暗晦な曇天の下に行われた。
重く垂れ込める黒雲を押し上げているのは、淑女のドレスの如く裾野を長く伸ばした、ヴェス・ビエト火山だ。十七の島嶼群で成るスク・ア・ルジェ島の中心にあり、島に住むアロル人たちの畏敬の象徴である。
その麓に建立されたのが『化竜神殿』だ。淡い灰色の石積みの壁や窓、太い石柱は、色とりどりの春の花によって飾り付けられていた。
四隅の尖塔からは赤、青、緑の絹が束ねられて吊り下げられ、鈍い風にそよいでいる。それぞれが心、魂、島を象徴する色らしい。晴れていればさぞ鮮やかで美しかっただろうが、生憎、この曇下では花も絹も煤に晒したように褪せている。
なんとも勿体ない――オズヴァルドは銀や紅玉、翠玉で飾られた輿に揺られながら、呑気な考えを浮かべた。婚礼の主役で、契りの儀式もこれからだというのに、オズヴァルドはもう心身共に疲れていた。
身支度は日が昇る前から始めた。背中まである黒耀鋼色の髪には香油を塗りたくられ、足首まで隠す丈の長い漆黒の婚礼衣装は薄絹を十四枚も重ねているから重く、頭には花を象った銀細工の頭冠を乗せられた。
その状態で輿に乗って、見世物よろしくスク・ア・ルジェ島を一周してきたのだ。言祝なんだか呪言なんだか分からない、島民たちの声を浴びながら。どこで誰が見ているか分からないため姿勢を崩すこともできず、もう腰と尻の感覚がすっかりなくなっている。
オズヴァルドが神殿の前に戻って来た頃には、日もだいぶ傾いたのか仄暗くなっていた。それで良いのです、と輿の下で頷いたのは、付き人となったフィデンツィオという老爺だ。
「竜姫の婚礼は黄昏時に行うのです、旦那様。光と闇が重なる一瞬に契ることで、太陽と月の神から加護を乞うのですから」
「そういうものなのですか」
「しかし惜しむらくは、この曇天……天の加護が雲に阻まれてしまうやもしれませぬ」
惜しい、惜しいとフィデンツィオは唸って、自身の鈎状に湾曲した角を撫でた。アロル人は皆、頭に赤銅色の洞角を持っている。
角のないフェロス人のオズヴァルドは彼の仕草に興味が沸いたが、ただ短く「そうですか」と返して空を仰いだ。
彼は加護だ何だと言っているが、要するに縁起が悪いということだろう。確かに、ただでさえオズヴァルドのような不出来な『塩の馬』を迎え入れねばならぬというのに、空まで歓迎してくれないとなると、彼らが不安がるのも無理はない。
オズヴァルド・ラ・ロカ――臥海と呼ばれる広大な海を臨む、フェロフォーネ王国の南西を治めるラ・ロカ伯爵家の次男だ。ここスク・ア・ルジェ島で竜姫の伴侶となるため、国王によって『塩の馬』となるよう命ぜられた。
貴族の家において、家を継ぐ長男以外の男児は総じて『塩の馬』である。他家、時には他国へと婿入りし、馬のように働いて塩のように溶けて死ぬ。それが運命だ。
オズヴァルドもいつかは婿へ出されるだろうと、物心ついた時から分かっていたから異論はない。たとえその先が七つの渦潮に囲まれた、文化も価値観も違う『化竜の島』だとしても。息苦しいラ・ロカ家を出られるのなら、絶海の島国だろうが敵国だろうが構わなかった。
神殿の前に、いっとう豪奢な金色の輿が止まっていた。純白の薄絹の天蓋には、淡く輪郭が透けている。これからオズヴァルドが契る、妻の後ろ姿だ。
オズヴァルドの輿がその横に並ぶと、楽隊の喇叭が高らかに吹き鳴らされる。男女の聖歌隊が島の古語で歌う知らない讃美歌を聞きながら、二台の輿は揃って神殿へと進んでいく。
輿が止まったのは、『化竜の閨』とよばれている長方形の広間だ。
緩やかに弧を描いた見上げるほど高い天井や、壁に嵌め込まれた色硝子は、故郷フェロフォーネの意匠を思い出させた。空中には無数の光る玉が浮いており、広間を夕日色に照らしている。誰かが魔法で蝋燭のような灯を水晶に閉じ込め、浮かせているのだ。そのおかげで、どんよりと暗い曇天でも広間は十分に明るい。
何よりオズヴァルドの目を引いたのは、中央に鎮座する竜の彫像だ。
翼を折りたたみ、尾を振り上げ、太い鎌首をもたげて入室してきたオズヴァルドを睨んでいる。鱗の一枚、洞角の溝の一筋まで緻密に彫られ、薄く開かれた口からは鋭利な牙が整列している。
見続けていればいつか瞬きでもするのではないかと思うほどの精巧さに、オズヴァルドは思わず唾を飲んだ。
気圧されるオズヴァルドに構わず、輿が床に降ろされる。運んでいた男衆が離れていき、楽隊の音も止んだ。
「これより、婚礼の儀を執り行う。伴侶オズヴァルド、前へ――」
彫像の前に置かれた祭壇の上から、神官長らしい初老の男に名を呼ばれ、オズヴァルドは数時間ぶりに地面に降りた。朝から座りっぱなしで体はすっかり疲れていたが、よろめいたり躓いたりといった無様を晒すことは意地で避けた。
儀式でどう動けばいいかは、島に来た五日間で叩き込まれている。オズヴァルドは妻の乗る輿の横に膝をつき、頭を垂れて右手を差し出した。
「竜姫ギルダ、前へ――」
あぁ、そういえば妻の名前はギルダだったか――そんなことを思い出していると、オズヴァルドの手に細い指先が置かれた。石床しか映っていなかった視界に、はっとするほど美しい純白の裾が滑り込んでくる。金糸で象形化された竜と炎が刺繍され、燭台の明かりを受けて布の中で生きているように揺らめいていた。
思わずオズヴァルドは目線を上げた。己と同じ意匠を持つ、金細工の頭冠が乗せられた金髪はきっちりと編み上げられて、マグノリアの梢のような褐色の項が露わになっていた。まっすぐに祭壇へと向けられた瞳は真夏の太陽の如き黄金色で、薄紅色の唇は貝殻のように小さい。
背後に控えていたフィデンツィオが、小さく咳払いをする。一瞬呆けていたオズヴァルドは、慌てて立ち上がった。本来、竜姫の伴侶は従属する立場であるから、祭壇まで彼女の手を引いて行かねばならない。
巨大な竜の石像が祀られた祭壇の前に、オズヴァルドとギルダは跪く。不機嫌そうに口を真横に引き結んでいた神官長が、大振りな手つきで巻物を広げた。床に落ちた紙面を盗み見るに、誓いの言葉のようだ。
「竜姫ギルダ。汝は竜姫として、ヴェス・ビエト火山の封印となり、スク・ア・ルジェの平和を守り抜くこと。伴侶オズヴァルド。汝は竜姫の伴侶として、決して裏切らず、無償の献身を忘れぬこと――」
神官長が野太い声で、朗々と読み上げる。長く仰々しい内容を要約すれば、竜姫は島のために尽くすこと、伴侶は竜姫に身命を捧げることが書かれているようだ。婉曲的で勿体ぶった言い方は、フェロフォーネ王国の結婚式と同じだ。退屈で、虚飾に塗れている。
――小柄な娘だと、オズヴァルドは横目でギルダを見ながら思った。長身な己より、頭ひとつ半は背が低いだろうか。『火山の鎮守を務める竜姫』というから、もっと大柄で健康的な女を想像していた。十七歳だと事前に聞いていなければ、十四の娘と結婚させられたと思ったくらいだ。
実に数十分は跪いていただろうか。やっと全ての誓願項目を読み終えた神官長は、オズヴァルドたちに顔を上げるように言った。
「では、竜姫より伴侶へ、誓いの口付けを」
「はい」
コロンと胡桃が転がるような声で返事をしたギルダが立ち上り、オズヴァルドの方を向く。
口付けは竜姫が伴侶の額に行う。この時初めて、オズヴァルドはギルダと視線が合った。
アロル人特有の褐色の肌には、白い樹液で雫型の化粧が施されている。瞳は琥珀の中に太陽を閉じ込めたように深く澄み、そこに自分のような駄馬が映っているのが申し訳なく思えるほど美しい。ふと、彼女の頭に角は三本であることに気づいた。竜の民は側頭部から左右に一本ずつ生える、赤銅色の角を持つことはオズヴァルドも知っている。しかし、彼女のように右に二本、左に一本持つ者は聞いたことがなかった。奇数の角は珍しいから、竜姫の特徴だろうか。
オズヴァルドが考え込んでいる間にも、儀式は進む。ギルダの顔が近づいてきて、オズヴァルドの額に柔らかなものが触れた。背中が粟立つような温度と感触に、それがギルダの唇だと理解するのに数秒かかった。
「ここに誓約は成された! 竜姫ギルダと伴侶オズヴァルドに、天と竜の加護があらんことを!」
神官長の声に呼応して、頭上に浮いていた無数の玉が一斉に弾ける。欠片は夕日色の光をまとった花や花弁に変わり、オズヴァルドとギルダの頭上に降り注いだ。
周囲の神官たちも「加護があらんことを」と、神殿がビリビリと振動するほどの声量で繰り返す。祝福というよりも威圧感を感じ、オズヴァルドは微妙な表情を浮かべずにはいられなかった。
肩に降ってきた花弁を払っていると隣から視線を感じ、見るとギルダがオズヴァルドを見上げてきていた。頬と耳を赤らめて、気恥ずかしそうに微笑んでいる。
オズヴァルドは何故か、それだけで周囲の声が一瞬で遠のいていった気がした。
◆◇◆
スク・ア・ルジェ島の竜姫とフェロフォーネ王国の塩の馬の結婚は、千年以上前の昔から行われている慣習だ。
まだ島と王国がひとつだった神話の時代、ヴェス・ビエト火山が大噴火を起こし、大きな被害を出した。火と灰に苦しむ人々を救うため、フェロフォーネ王国の姫が神に祈り竜と変化し、火山を王国から切り離したと言われている。島には何人も渡ってこれぬよう、海を横臥え、七つの渦を巻かせたのも彼女だ。
この一件以降、フェロフォーネ王国に竜の角がある子供が生まれるようになり、スク・ア・ルジェ島へと移り住んだ。それがアロル人の興りだと伝わっている。数十年に一度行われる『化竜の儀』は、火山の封印を維持するためにアロル人の少女の中から竜姫が選ばれ、その身を竜に変えるのだ。フェロス人の男を伴侶に差し出すのは、火山を鎮める謝礼のようなものだろう。
そういった歴史により、フェロフォーネ王国とスク・ア・ルジェ島は人種も文化も違えど、太古より同一国として相互補助関係にある。双方の土地では育てにくい農産物や畜産物の交易、有事の際の軍事協力などを約束しているのだ。
オズヴァルドは歴史書を閉じ、小さく溜め息を吐く。
フィデンツィオに本が大量に読める場所はどこかと尋ねて、この書庫を教えられたが、書架にあるものはほとんど故郷で読んだことのあるものばかりだった。
「所詮は属国の車庫、か……」
オズヴァルドは手に持っていた本を棚へ戻し、また長く息を吐いた。
曇下の婚礼の翌日から、オズヴァルドとギルダはここ『化竜神殿』に居を移していた。竜姫がその身を完全な竜に変えるまで、己もギルダも神殿から出ることは許されない。その割には娯楽と呼べるものは少ないようだ。
夫となる塩の馬の役割は、言ってしまえば竜姫の機嫌取りである。『竜姫の伴侶』という地位には、悲しいほどに何の権限も価値もない。
政は神殿の神官長がそれぞれの島長と連携して進めるから、オズヴァルドが特別何かをする必要もない。そもそも平和な島だから、会議の卓上に上がる議題は作物の生育状況や、雨期に向けての治水工事の計画ばかりだ。
島国だからフェロフォーネ王国のように隣国と領地争いをする心配もなく、キナ臭い話とも無縁である。
物心ついた時から戦争が身近にあったオズヴァルドには、ただ浪費するだけの日々は、ぬるま湯でジワジワと溶かされていく塩のようだ。いっそ使用人の如くこき使ってくれたら、いくらかは気が紛れようものの、働き者のアロル人たちはオズヴァルドが手を出す前に掃除も雑用も完璧に終えてしまう。
「日陰の駄馬には、置物が似合いと言ったところか……」
自嘲の笑みを浮かべたオズヴァルドは、歴史書を棚へ戻して別の本を手に取った。ろくに背表紙も読まず適当に目についたものだが、中身は料理本だったらしい。フェロフォーネでは見ない果物と野菜を中心とした郷土料理が多く載っており、これはこれで退屈が紛れるかもしれないと、オズヴァルドは窓辺の椅子に腰かけた。
眺めるように料理本を半分ほど読み進めた頃、閑寂な書庫に己以外の小さな足音が聞こえた。ここは竜姫と伴侶のために誂えられた書庫だ。入れる者は少ない上、細やかな歩幅は成人のものではない。となれば、入室者はひとりしかいない。
「……姫、何か」
「ひゃっ!」
背の高い本棚の影から、緩やかな波を打つ淡い金の髪と濃い黄金の瞳がおずおずと覗いた。
平生のギルダと会うのは、これが初めてだ。オズヴァルドは婚礼の五日前に島へと渡ってきたが、当日まで彼女との接見は禁じられていたから、顔を見たのも声を聞いたのも昨日が初めてだった。竜姫は子を宿す必要もないため初夜もなく、婚礼が終わると別々の私室へと案内されてしまい、食事も個別で摂ったから私的な会話すらしていない。
夫婦になったといえども初対面に等しいのだから、オズヴァルドを警戒する彼女の反応は正しい。オズヴァルドは胸の内で「努めて穏やかに」と己に言い聞かせながら、口を開いた。
「姫、何か本をお探しですか?」
「あ、えと、その……」
「おれがいると邪魔ですか。すぐに退出しますので……」
「いえ! あの……ごめんなさいっ!」
オズヴァルドが呼び止める間もなく、ギルダは身を翻して走り去ってしまった。
再び訪れた静けさの中、ひとり取り残されたオズヴァルドは状況が呑み込めないまま、しばらく中途半端に腰を浮かせた状態で硬直していた。本が手から滑り落ちた音で、やっと現実に引き戻される。
本を拾い上げ、椅子にどっかりと座り直す。思わず口からは重く長いが出た。
「何なんだ、一体……」
怖がらせてしまっただろうかと、オズヴァルドは自分の頬を揉む。
己は表情が乏しく、声も低い上に抑揚がないことは自覚している。笑顔のひとつでも作れたなら違っただろうかと、頬を手で揉んだ。
試しに、窓辺に置かれていた燭台を相手に笑みを浮かべてみた。結果は無様なものだ。金属に映る口角は左右非対称に上がり、目尻は小刻みにひくつき、人間の顔ではなく犬が威嚇しているように見える。虚しくなったオズヴァルドは、椅子に深く体を預けて天井を仰いだ。
「……面倒なものだ」
まさか自分が、娘の機嫌ひとつ取れないほどの駄馬だとは思わなかった。何にせよ、謝らせるほど怖がらせてしまったのだ。次に会う機会があれば、誠心誠意謝罪しようと決め、オズヴァルドは料理本を再度開いたのだった。
◆◇◆
――そして、その機会は想像以上に早く訪れた。
日が傾き、神殿中の燭台に火が灯される頃、フィデンツィオが夕食だと書庫まで呼びに来た。
オズヴァルドは書庫から出て右にある私室へと戻ろうとしたが、フィデンツィオは左へと案内する。
「フィデンツィオ殿、なぜこちらに? 食事は私室で摂るものと思っておりましたが」
「どうぞ、フィデンツィオとお呼びください、旦那様。そのような畏まったお言葉を頂いては、爺は恐縮してしまいます」
「……長年の癖ゆえ、ご容赦願いたい。それに、おれはこの島では今、どの赤子よりも新参者……先達に敬意を払うは当然のことです」
「ほほ……今代の旦那様は、随分と慎み深いお方であられる。さて、なぜこちらへ向かうのかとの答えですが、竜姫様のご意向にございます」
「姫の?」
左様にございます、とフィデンツィオは頷いた。
「竜姫様は旦那様と夕餉を共にすることをお望みです。広間へとご案内いたします」
「……なぜ」
知らず、低い声が出てしまった。オズヴァルドの声音の変化を敏く感じ取ったフィデンツィオが、足を止めて振り返る。
「お嫌でしたら、お食事は私室に運ばせますが……」
「あぁ、違うのです。その……実は日中、姫と書庫でお会いしたのですが、怖がらせてしまったようで……。おれと顔を合わせるのは、姫の方に障りがあるかと思っていました」
オズヴァルドの言葉を、フィデンツィオは朗々と笑った。
なんだか馬鹿にされたようで、オズヴァルドの眉間に皺が寄る。
「ほほ、申し訳ございません、旦那様。しかし、そのようなご心配は不要かと」
「……そうでしょうか」
「えぇ、えぇ。実際にお会いすればお分かりになると思いますよ。ささ、お早く参りましょう」
歩調を速めたフィデンツィオに急かされるまま、オズヴァルドは長い回廊を歩き続けた。
通されたのは『揺籃の間』という、普段は竜姫が食事を摂る時に使用されている部屋だ。面積は一番小さいらしいが、奥行きは大人の大股で十八歩ほどあり、ふたりで使用するには広すぎるくらいだ。
中央に鎮座する長卓の端に、ギルダは既に座っていた。入室してきたオズヴァルドを視認するなり、彼女の表情が強張って背筋が伸びたように見えた。
使用人が引いた椅子に腰を下ろし、今更ながら格好を整えた方が良かっただろうかと考える。今のオズヴァルドはゆったりとした丈の長い島の平服であるし、長髪も適当にまとめただけだ。しかし、ギルダも平服で髪も下ろしている。格式張らない日常の晩餐だから見逃してくれるだろうということにして、オズヴァルドは運ばれてくる料理を待った。
静かな食事が始まった。広間に響くのは陶器の皿と食器が擦れ合う音と、絨毯や石床を踏む使用人の密やかな足音、その衣擦れの音だけである。
オズヴァルドとギルダは互いに向かい合っているのに、言葉を交わすこともない。
レモンが爽やかな白身魚のカルパッチョを口へ運びながら、オズヴァルドはちらりと彼女へ視線を向けた。匙を使う所作も硬く、やはり緊張しているように見える。
オズヴァルドは意を決して、食器を置いて頭を下げた。
「姫、昼は申し訳ありませんでした」
「ご、ごめんなさいっ!」
ふたりの言葉が重なった。顔を上げると、呆けた表情のギルダと目が合う。突然謝罪しあったふたりに使用人たちも動きを止め、時が止まったような静寂が訪れた。
それを破ったのは、ギルダの方だった。
「あの……なぜ、旦那様が謝るのですか?」
「それはおれの言葉です。謝罪をすべき振る舞いをしたのはこちらのはず。昼は不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」
オズヴァルドは深く頭を下げる。
言いながらギルダが謝罪する理由を考えていたが、やはり見つからない。意図しなかったとはいえ威圧してしまったのはオズヴァルドであるし、結局夕刻まで書庫を占領してしまった。彼女も本を探していたのであれば、長躯なだけの男など邪魔だっただろう。
「明日は終日、私室にいるようにしますので、書庫にはお気兼ねなくお入りください」
「い、いいえ、違うんです! 逃げたのは不愉快だったわけでも、書庫に用事があったわけじゃなくて……!」
「……では、なぜ」
問い返す声がまた低くなってしまい、ギルダの薄い肩が跳ねる。
あぁ、また怖がらせてしまったと自覚する。早く何か取り繕う言葉を用意せねばと思考を巡らせていると、ギルダがはっきりとした声音で「あの」と身を乗り出してきた。
「旦那様は昼、な、何の本を読んでおられたのですか!?」
「……は?」
思ってもみなかったギルダの言葉に、オズヴァルドは目を数回瞬かせた。冗談でも言っているのかと思ったが、彼女の目は真剣そのもののように見える。
恐らく、無言の食事風景に耐えられなかった彼女が、一生懸命見つけた話題なのだろう。本来気遣わねばならない相手に、逆に気を遣われてしまったのだ。オズヴァルドは恥じ入りながら答えた。
「料理本を読んでおりました。こちらはフェロフォーネとは採れる食材が全く違いますから、眺めるだけでもなかなか勉強になります」
「り、料理本ですか……」
「あとは歴史書を少々。まぁ、それは向こうにあったものと概ね同じ内容でしたから、すぐ棚へ戻しましたが」
「そ、そうなんですね……」
――沈黙が落ちる。
オズヴァルドは背中に汗が伝うのを感じた。会話が続かない。ギルダから本について話の種を蒔いてくれたのはありがたいが、どれだけオズヴァルドが水をやって広げようとしても、彼女は曖昧な相槌だけで終わってしまうから花が咲くことがない。
とはいえ、全てが全て彼女のせいというわけでもないだろう。ギルダが自然に話を続けられるよう、オズヴァルドがもっと努力をせねばならないのだ。
オズヴァルドは小さく咳払いをひとつした。
「姫は、好きな本はありますか?」
「ほ、本ですか? え、えっと……そう、図鑑! 図鑑が好きです!」
「図鑑……ですか?」
てっきり年頃らしく恋愛小説と返ってくるかと思っていたオズヴァルドに、ギルダは満面の笑みでコクコクと頷いた。
「わたし、花の図鑑が特に好きなんです。花って、花弁の形ひとつ違うだけで、名前が変わることもあるんですよ。それが本当に面白くて、ついつい時間を忘れて眺めてしまうんです」
「あぁ……そうなのですね。時間を忘れて読書をする感覚は、おれもよく分かります」
「この島にはない植物が見れるのも、図鑑のいいところですよね。あと動物図鑑も好きです! この世界のどこかには、お家の屋根よりも長い首を持つ動物がいるらしいと知りました」
「確か、キリンといいましたか」
「そうそう、それです!」
椅子から腰を浮かせて身を乗り出してきたギルダを、横に控えていた女の使用人が咳払いで諌めた。
食事の席でする振る舞いではないと理解したのか、彼女は「すみません」と小さく謝って縮こまりながら椅子に戻った。
オズヴァルドはなんだか、姫というより町娘の相手をしている気分になった。実際、彼女は高貴な家柄の出ではないのだろう。
竜姫は天意によって選ばれるから、生まれの貴賤など関係ない。普通に暮らしていたのに突然祭り上げられ、顔も知らない異人種の男を夫にあてがわれ、姫としての振る舞いを常に求められる――オズヴァルドはギルダに憐れみさえ覚えた。
最後に運ばれてきた瑞々《みずみず》しい果物を食べながら、この息苦しい場もやっと終わりかと密かに安堵する。
人付き合いをこの世で最も苦手とするオズヴァルドにとって、ギルダの機嫌を伺いながら摂る食事は、味も感じられないものをただ腹に詰めていくだけの苦行だった。肝心な彼女との会話も、そう呼んでいいのか分からないほど短くて酷いものだったように思う。
――もっとおれが社交的であれば良かっただろうか。他者を喜ばせるために生まれてきたような、兄のように。
頭の片隅に浮かんだ言葉は、オズヴァルドの腹の底に錨のように沈んだ。あの家から離れれば少しはマシになるかと考えていたが、やはり一度根付いてしまったものは、そう簡単に消えたりはしないらしい。
食事を終えたオズヴァルドは、早々に退出しようと席を立つ。どうやらギルダの方も同時に食べ終えたようで、彼女は料理人と使用人たちに向かって軽く膝を折って一礼した。腹の前で手を重ねて行うそれは、目上の者に行う最敬礼だ。
「ありがとうございます。今日のお夕食も、とても美味しかったです」
「え、えぇ、恐縮です」
笑顔で礼を言うギルダと、戸惑いがちにそれを受け止める料理人たちの姿を見て、オズヴァルドはなんだか胸の内を針で刺された気がした。
料理の礼など、ラ・ロッカの家にいた時もしたことがない。それが彼らの仕事なのだから、雇い主がいちいち頭を下げるほどのことではないだろうというのが、フェロフォーネの貴族の価値観だ。
慣れ親しんだそれが、今はなぜか酷く恥ずかしいことのように思える。しかし改めてなんと言えば良いのかも分からないまま機会を失していると、ギルダが駆け寄ってきた。
「あの、旦那様……!」
「……なにか?」
呼び止めておいて、彼女は何やら俯いて言葉を探しているようだ。そこはかとない嫌な予感を脳裏で感じ取りながら、オズヴァルドはギルダの言葉を待った。
やっと決心したのか、向けられた瞳には緊張が満ちていた。
「ご迷惑でなければ、今後もこんな風に食事をご一緒しても、よろしいでしょうか……」
震えて尻すぼみなギルダの提案に、オズヴァルドは反射的に出そうになった退ける言葉を飲み込んだ。
オズヴァルドは彼女の伴侶だ。彼女の望むことを叶え、望むように振る舞わねばならない。己にはただ頷くことしか、道は残されていなかった。
「……えぇ、ぜひ」
オズヴァルドの承諾を聞いたギルダの顔が綻ぶ。項垂れていたヒマワリが、太陽を見つけて花弁を開くように。
あぁ、まただ――その表情を見た瞬間、オズヴァルドは全ての音が遠ざかっていく感覚がした。まるで日向の中にいるような温もりから逃げるように、オズヴァルドは足早に広間を後にしたのだった。
◆◇◆
翌日、オズヴァルドは神殿の南東にある中庭を訪れていた。
ヴェス・ビエト火山の近辺は地面の温度が高く水分が少ないからか草木が育ちにくく、神殿の周囲も砂地が剥き出しになっており荒涼としている。
しかし、この中庭だけは若々しい芝が生い茂り、太くたくましい木々がまっすぐ空を衝いている。花壇には色鮮やかな花々が咲き乱れていた。婚礼の際はここの花で神殿を飾っていたのだろう。
悠々と伸びる枝葉が作り出した木陰に腰を下ろし、オズヴァルドは書庫から借りてきた本を開く。幼い頃から何度も読んでいた冒険小説で、懐かしくてつい手に取ってしまった。
風が運ぶ潮の匂いを感じながらの読書もなかなか心地よく、勧めてくれたフィデンツィオに感謝した。最初こそ気乗りはしなかったが、外も存外悪くはない。
名も知らない小鳥の囀りに、風に遊ばれる草木のそよぎ――オズヴァルドの耳に届く全てが微かなものばかりだったから、その足音はすぐ分かった。
「……姫、何か」
「ひゃっ!」
オズヴァルドが声をかけると、ギルダがおずおずと幹の影から顔を出した。
そこはかとなく湧いた既視感に、オズヴァルドは溜め息を吐く。今代の竜姫には伴侶を覗く趣味でもあるのだろうか。昨日に引き続き猛獣でも見るかのように遠巻きにされれば、誰だって快くは思わない。
オズヴァルドは腰を上げ、ギルダのもとへと歩み寄る。彼女はまさか近づいてくるとは思っていなかったようで、慌てた様子で幹の後ろへ隠れた。
「姫、そのように物陰から覗かれては、さすがのおれでも少々居心地が悪うございます。何か用でもございましたか」
「あっ……ご、ごめんなさい……。用というものは、ないのですけれど……窓からお姿が、見えたから……」
震えながら告げられた言葉に、あぁ、とオズヴァルドは思い至る。昨日は終日私室に籠もると言っていたオズヴァルドが外にいて、不思議に思ったのだろう。
「おれも最初は私室にいようと思っていたのですが、フィデンツィオ殿にこちらの中庭が読書に適していると勧められまして。想像以上に美しく静かな庭で、火山の近くでもこのような場所があったのかと驚きました」
「わ、わたしも、こんなに緑があるなんて驚きました。ヴェス・ビエト火山には、最初の竜姫様が噴火を鎮めるために使った時間を止める魔法が今も宿っていて、周辺に埋まっていた種の成長も止めてしまったから、植物が生えないのだと聞いていましたから」
「それは初耳です。スク・ア・ルジェ島に伝わる話ですか?」
「はい。その魔法はとても強くて、この島全土の時間を止めてしまうほどのものだったんです。でも、それだと他の住民たちが困ってしまうでしょう? だから、代々の竜姫は火山の時間を止める魔法と、島の時間を動かす魔法を継承するんです。神話のお話ですから、本当かどうか、分からないんですけど」
「……初耳です」
オズヴァルドは純粋に驚いた声を零した。
フェロフォーネでは、スク・ア・ルジェ島の竜姫はその身を竜に変えて火山を鎮めるとしか伝えられていない。オズヴァルド自身、塩の馬となることが決まった時すらそれ以上のことを知らされはしなかった。
――いや、知ろうとしなかったのかもしれない。所詮は名ばかりの伴侶だから、故郷と同じようなことが書いてある歴史書だからと決めつけていたのはオズヴァルドだ。精読すれば違う記述があったかもしれないように、もっと彼女と話さねばならないのだ。神の前で契りを交わした、彼女の伴侶として。
オズヴァルドはギルダへ向かって手を差し伸べる。
「お恥ずかしい話ですが、どうやらおれは多くのことを不勉強だったようです。よろしければ、もう少し教えていただけませんか」
ギルダはその大きな瞳で、オズヴァルドの顔と手を交互に見た後、徐ろに手を乗せてきた。婚礼で見た時と同じ、先端に石英がついた梢のような、か細い指先だ。
オズヴァルドは彼女の手を引き、先程までいた木陰へと導く。ギルダは戸惑いながらも幹を背に座り、オズヴァルドも隣に腰を下ろした。
すぐ隣から、尋常ではないほどの緊張感が漂ってきた。ギルダはまるで彫刻にでもなってしまったかのように、身を固くしている。こちらの顔を見ようともしない素振りに、やはり性急過ぎたかという考えが一瞬脳裏をよぎった。しかし、彼女と話すと決めたのはオズヴァルドだ。ここで意を翻すのは男として恥ずかしいことであるし、ギルダにも失礼になる。
オズヴァルドは三回深呼吸をしてから、口を開いた。
「姫は、花の図鑑がお好きだと。では、花の名前にもお詳しいのですか?」
「あ、えと……それなりには……」
「おれはあまり花の名前は知りません。幼い頃から、あまり外には出ない性分で……例えば、この花が何という名前を持っているのか、姫はご存知ですか?」
オズヴァルドは手元に咲いている、白く小さな花に触れた。先端が鋭利な花弁が無数に集まって、丸い輪郭を作っている。同じ花はあちこちに寄り集まって咲いており、緑の中に光の球を散らしたように点在していた。
ギルダの口元が、柔らかな微笑みを作った。
「これはシロツメクサですね。どこにでもたくましく咲く草花で、クローバーの中でも神に祝福された種だけが、こうして花を咲かせることができると言われています。ご存知ですか? 植物には言葉があるんですよ」
「言葉?」
「『花言葉』というんです。本当に植物が喋っている言葉のことではなくて、昔の人が勝手に割り当てた役割のようなものなんですけれどね」
「では、このシロツメクサにも花言葉が?」
「はい! 『復讐』です!」
明るい笑顔のギルダの口から出てきた物騒な単語に、オズヴァルドは目を丸くして彼女を見た。
「何とも……穏やかでない花ですね。このような小さな花に、なぜ過去の人々は『復讐』などという役割を与えたのでしょうか」
「うーん、それは図鑑にも載っていなくて、わたしも分かりません。あ、もちろん、怖い花言葉ばかりじゃないんですよ! あっちのスミレには『誠実』や『謙虚』、ポピーには『いたわり』や『思いやり』という意味があります」
庭に咲く花々を指し示していくギルダの指先を、オズヴァルドは目で追っていく。
これまでは気にも留めていなかった色彩が、彼女の唇から名前と意味を与えられ、オズヴァルドの中で確かな輪郭が描かれていく気がした。
「あとは……あっ、スズラン!」
ギルダがぱっと立ち上り、軽やかに庭を駆けていく。花壇の一角にしゃがんだ彼女を、遅れてオズヴァルドも歩いて追った。
ギルダは花壇へと手を伸ばし、丸い小振りな花が連なって咲く、茎が細くて頼りない花を摘んでいた。
「わたし、花の中ではスズランが一番好きなんです。こんなに小さいのに存在感があって、風に揺れるところも可愛らしくて」
振り向いた彼女の手の中には、摘まれたスズランが束ねられていた。その内の一輪を抜き取った彼女は、オズヴァルドの眼前に掲げる。
「あぁ、やっぱり。旦那様の瞳と同じ色です」
太陽の如き目を細め、白い八重歯を見せてギルダが笑う。まるでふたりを包む空気すら、柔らかな黄金色に光り輝いた錯覚さえした。
オズヴァルドは思わず目を逸らした。
強い光は陰をも消してしまう。日陰ばかりを選んで生きてきたオズヴァルドに、日向は痛いほどに眩しい。
視界の端で、やや戸惑った表情のギルダがいた。いきなり伴侶に顔を背けられたのだから無理もない。
オズヴァルドは悟られぬよう深く息を吐いて、彼女へ向き直る。
「……そのようなことを言われたのは、初めてです」
「あっ、ご、ごめんなさい! だ、旦那様にご不快な思いをさせるつもりは……」
「オズヴァルド」
慌てて引っ込められる彼女の手を掴む。金の瞳はやや不安気に揺れていた。
「おれのことは『旦那様』ではなく、オズヴァルドとお呼びください。おれは姫の伴侶なのですから」
「で、でしたら!」
ギルダは一歩踏み出し、必死の形相でオズヴァルドに詰め寄ってきた。
「わ、わたしのことも、ギルダと……ギルダと名前で呼んでください!」
随分と鬼気迫る表情で言うものだから、どんな無理難題を突きつけられるかと思っていたオズヴァルドは拍子抜けした。
名前を呼ぶくらいなんてことはない――そのはずだったのに、なぜか声が喉に詰まって出てこない。たった三音の名前なのに、巨大な空気玉のようだ。
水面から顔を出す魚のように数回唇が戦慄いて、やっと掠れた声が出た。
「ギルダ……姫」
「はい、オズヴァルド様!」
風が吹けばかき消されそうなほど頼りない声音だったのに、ギルダはその長い耳でしっかりと受け止めてくれたらしい。雲間から差し込む陽光を受け止め上を向くヒマワリのような、大輪の笑顔でオズヴァルドを見上げてきた。
重ねた手から移る彼女の熱が、じんわりと体中に満ちていく。心臓を絞られるほどの懐かしさが、オズヴァルドの脳裏を灼いた。
他人の体温など嫌悪の対象でしかなかったというのに、彼女の手を離すのが惜しいと思ってしまう。その心境にオズヴァルド自身が驚いた。
やはりギルダは日向だ。全ての地平を遍く照らし、草木に恵みの光をもたらす。――日陰の駄馬には、痛いくらいの眩しさだ。
「あ、あの、オズヴァルド様……よろしければ今夜も、夕食をご一緒しても、よろしいでしょうか」
「……えぇ、ぜひ」
承諾の言葉は、するりとオズヴァルドの口から零れ落ちた。
昨日とは真逆な涼やかな微風が、胸の内を過ぎ去っていくようだった。
◆◇◆
中庭の一件から、オズヴァルドとギルダは、たまに時間を共にするようになった。
特段何かをするわけではない。中庭で樫の木の下で語らい花を摘み、広間で食事を囲む――気づけば、そんな日々が十日ほど続いていた。
言葉を交わし、観察をしていれば、駄馬のオズヴァルドでも自ずと分かってくることもある。
ギルダは言葉の通り植物が好きだ。美しい花の名前だけでなく、意識することのない雑草の名前すら知っている。食事に好き嫌いはないが、魚の内臓だけは食べられない。食事の最後に稀に出てくるケーキが好きで、目を輝かせてひと口ひと口を大事に食べる様は、年相応の娘だ。
しかし、知っていくのは日向の面だけではない。彼女はそそっかしく、何もない所でよく転ぶ。何より――これはオズヴァルドの予想なのだが――彼女は字が読めないようだ。
雨の日に書庫で共に読書をした際、ギルダは本を逆様にして読んでいたことがあった。それが小難しい法律の本であったため、指摘のついでに法律に興味があるのかと問いかけると、彼女はひどく驚いていた。笑って取り繕ってはいたが、法律の本だと分からずに読んでいたのだろう。
だからか――そう胸中で納得したオズヴァルドは、溜め息と共に体を幹に預けた。
婚礼からすぐに分かったことがある。神殿に仕える者たちが、どこかギルダによそよそしいのだ。使用人、料理人、掃除婦に至るまで、ギルダが声をかけると曖昧な表情を浮かべた後に取り繕った笑みを作る。
あれは女主人であるギルダを嫌悪している反応だ。己も故郷では同じ顔を散々見てきたから、すぐに分かった。
竜姫は天意によって選ばれる。スク・ア・ルジェ島の者の総意などではない。故に、読み書きもできぬ娘へ頭を下げて仕えることに納得しきれていないのだろう。
オズヴァルドは鼻で笑った。
「何とも幼稚なことだ」
「申し訳ございません」
独り言に返事をされ、オズヴァルドは驚いて振り返った。
もたれかかっていた木から二歩ほど下がった所に、ひとりの若い侍女が立っていた。彼女の名は、確かエンリカといったか。
エンリカはギルダが竜姫となった際、影従として指名されたと聞いている。影従とは他の使用人らとは違い、文字通り竜姫の影となる。常に傍を離れず、決して裏切らず、時には竜姫の盾となって命の限り尽くすのだ。
エンリカは恭しく腰を折って一礼する。その耳元から、夕焼け色の前髪がさらりと垂れた。
「何か、旦那様のお気に障ることがございましたでしょうか。どうかご容赦いただきたく思います」
「あぁ、いや、貴女へ向けた言葉ではありません。独り言とはいえ、酷く無礼なことを言いました。お詫び申し上げます」
「……恐縮に存じます。竜姫様が、旦那様と昼餉を共にしたいと仰せです。どうぞ広間へ」
「もうそんな時間か……えぇ、今行きます。いつもであればフィデンツィオ殿が呼びに来ていましたが、彼はどちらに?」
「島で些事があったため、神殿の外へ出ています。すぐに戻られるでしょう」
エンリカから「参りましょう」と促され、オズヴァルドは膝の上で開いていた小説を閉じ、腰を上げる。
正確に訪れる食事の時間は、曖昧になりつつあるオズヴァルドの時間の感覚を正常に戻してくれる。
料理も故郷では見たことのないものばかりで、好奇心もくすぐられた。魚と果物を甘く煮付けると、あんなにも爽やかで美味になるのかと驚いた。
食事など、今までは冷めたお零れを腹に詰めるだけの作業だと思っていたから、自分のためだけに用意された温かな料理が少々こそばゆく感じる。
エンリカに続いて回廊を歩いていると、不意に「あの」とエンリカが声をかけてきた。
「先程のお言葉を蒸し返すようで恐縮ですが……幼稚とはどういった意図で仰られたのか、お聞かせいただくことは可能でしょうか」
「……それは……」
「どうぞ、遠慮などなさらずに。我々使用人は、竜姫様と旦那様が最期の一瞬まで快適にお過ごしになられるよう、努めるのが仕事ですから」
さぁ、と真っ直ぐな語気に押されるまま、オズヴァルドは観念して口を開いた。
「使用人たちの態度が、少々……違和感がありまして。我らは歓迎されていないのかと思っていたところです」
「『我ら』……竜姫様にも、ということでしょうか。旦那様が感じられたことは、半分ほど正解しております」
「半分? ……そうか、歓迎されていないのはおれか」
オズヴァルドは溜め息を吐き出すように呟いた。
慣例とはいえ、他国の男を大切な竜姫にあてがうのだ。それが女を楽しませることもできない陰気な駄馬となれば、島の者たちの顔が曇るのも頷ける。
しかし、エンリカは首を横に振った。
「いいえ。使用人たちの態度は、旦那様へのものではないでしょう。……竜姫様への嫌悪感です」
「姫に……嫌悪? なぜ?」
「それは……――」
言葉を切ったエンリカは、一瞬周囲を気にするような素振りをした。周りにはオズヴァルド以外誰もないと分かると、声を潜めて喋り始めた。
「実は、姫様は『忌み子』なのです」
「忌み子……とは?」
「言葉の通り、生まれながらに穢れを背負った者のことです。アロル人は、奇数の角を持つ者を『忌み子』として嫌います」
彼女曰く、原罪の形貌なのだという。
普通、アロル人は赤銅色の二本の角を持って生まれてくる。しかし、稀に奇数本の角を持って生まれてくる子供もいるらしい。
エンリカはアロル人の興りである竜姫の話には、歴史書には書かれることのない異説――『嫉妬深い竜姫説』もあると教えてくれた。
原初の竜姫は人間だった時に、ひとりの伴侶がいたという。姫は愛情深い反面、嫉妬深い性格でもあり、伴侶が他の女と仕事の会話をするだけでも怒り狂ったという。嫉妬は抱く者の身も心も、時には世界すら破壊しかねない罪深い感情だ。人間の体では抱えきれないほど嫉妬心が大きくなった時、その身が竜に変わり、魂だけとなっても残り続けているという。新しく生まれてくる魂にまで影響したことで、『奇数角』の子供が生まれるのだ。
決して歴史書に載ることのない、口伝でのみ継承される真実味のない話だと、エンリカは呆れを含んだ口調で言った。
「神話はともかく、奇数角のアロル人は、五歳の時に角が偶数になるよう切り揃えます。私たちは角にも感触がありますから、かなりの苦痛を伴う儀式です。ですが、まぁ、昔よりは優しい方でしょう。かつては生まれた瞬間に殺されるのですから」
「……では、ギルダ姫も」
「もちろん、竜姫様も角揃えの儀式を行いました。……しかし、切り落としたはずの三本目の角が、なぜか再び生えてきたのです。アロル人の角は一度折れれば二度と生えてきません。ですから、余計に『忌み子』として謗られているのでしょう」
ギルダが読み書きができない理由が分かった気がした。
島民の識字率は、隔絶された田舎にしては良い。交易などで島外の者が出入りすることもあり、騙されたり拐かされたりしないためだ。簡単な字や言葉は親が教えるのが当たり前であり、農民も通える無料の学校はあちこちの島にある。例えなかったとしても神官が派遣されて文字や計算を教えることになっていると、フィデンツィオから聞いた。拙くとも自分の名前を書けない子供の方が、この島では少数なのだ。
「姫様は誰からも文字を教わる機会を与えられませんでした。奇数角が生まれると、何かしらの不幸が島を襲うと言われていますから……島民だけでなく親兄弟にも疎まれてしまうのです」
「エンリカ殿、ギルダ姫のご両親は……?」
「亡くなりました。姫様が八歳の時に、高波に攫われて……それが姫様をより孤立させてしまいました」
「……そう、だったのですか……」
オズヴァルドは己の額を押さえ、深く溜め息を吐いた。
婚礼の時、ギルダの奇数の角は竜姫の証だろうかと考えていた己の呑気さと無知に呆れ果てる。言い訳にしかならないが、フェロフォーネ王国にスク・ア・ルジェ島のことはあまり伝わっていない。あらゆる面で繋がりはあるが、基本的には互いに不可侵となっている。アロル人が島外へ出てくることも滅多にないから、文化や風習などもほんのわずかにしか分からないのだ。
ふと、エンリカが足を止めた。
ぶつかりそうになったオズヴァルドが何か言う前に、彼女が小さく息を吸った。
「旦那様は、姫様の伴侶となったことを、後悔しておいでですか?」
「は……?」
「そのご様子では、ギルダ様が『忌み子』であることは伏せられていたのでしょう。騙されたとお思いですか?」
問いかけながら振り向いた彼女の若草色の瞳には、どこか責めるような気迫があった。
オズヴァルドは息を呑む。ここで下手な返事をすれば、エンリカの信用を失うことを直感した。一瞬でも嘘が混ざったり、曖昧に迎合したりしようものなら、オズヴァルドは彼女の中で敵と認定されるだろう。
だからこそオズヴァルドは、両手を腹の前で重ねて、深く一礼した。
これにエンリカがわずかに瞠目する。これは地位の低い者が高い者へ行う謝罪の作法だからだ。
「そのような事情がおありだったとは、露にも思い至りませんでした。伴侶として許されざることにございましょうが、どうか寛大なご容赦を賜りたい。そして――誓って、おれはこの婚礼に後悔などしておりません」
オズヴァルドは顔を上げ、まっすぐにエンリカの瞳を見つめる。
告げたことは本心だ。アロル人の慣習や特性を理解していないがために、ギルダの境遇を慮れていなかった。少し考えれば避けられる何らかの理由があることに気づけただろうに、オズヴァルドが愚鈍だったばかりにエンリカにまで余計な気を揉ませてしまった。
「むしろ、相手がおれのような不出来な男で、姫に申し訳ないと思っていたところです。恥ずかしながら、おれは女性の心がよく分からず……姫には退屈な思いをさせてしまっているでしょう」
「そのようなことは……」
「気を遣って頂かなくても結構です。おれが『塩の馬』として駄馬なのは、事実ですから」
エンリカに気づかれぬよう、オズヴァルドは喉奥で自嘲する。
母国にいる時からそうだった。オズヴァルドは幼い頃から、他者と上手く会話をすることができない男だった。流行に疎く、すぐ吃り、他家の令嬢と話してもすぐ不愉快な表情をさせてしまう。
ギルダの話にも簡素な相槌を打つことしかできていない。つまらない男だと思っていることだろう。それはエンリカも感じ取っているはずだ。
「エンリカ殿はお優しい。ギルダ姫の味方でいてくださっているのですね」
話していて感じたが、エンリカからはギルダに対して嫌悪感が伝わってこない。同族からも親類からも疎まれるほど不吉な『忌み子』であるギルダのことを、彼女も嫌っていても不思議ではないというのに。
オズヴァルドは味方がひとり増えた気持ちだったが、エンリカはふいっと顔を前に向け、再度広間へと歩き始めた。
「……参りましょう。姫様がお待ちです」
「え、えぇ、そうですね」
ふたりはこれ以上会話を交わすこともなく、ギルダの待つ『揺籃の間』へと歩いた。
その沈黙が、今のオズヴァルドには苦々しい。エンリカの望む答えを出せなかったから、機嫌を損ねてしまったのかと不安になる。
やはり己は駄馬なのだという事実が、オズヴァルドの心に暗く影を落とした。
『揺籃の間』が近くなると、扉の前に人影が立っているのが見えた。夕日色の髪を項できっちりとまとめた、エンリカである。顔も立ち姿も鏡に映しているかのように全く同じで、オズヴァルドはひどく驚いた。オズヴァルドが知らないだけで、彼女は双子だったのだろうかと思っていると、己を連れてきたエンリカがヒラヒラと手を振る。
「旦那様をお連れしたわ、アタシ」
「ありがとう、アタシ。アンタ、旦那様に姫様の秘密を喋ったわね?」
全く同じ顔の者に咎められたエンリカだが、堪えた様子はないようで、肩を竦めておどけてみせた。
「いいじゃない。いつかはお知りになることよ」
「……もういいわ。後はこっちでやるから」
大きな溜め息を吐いたエンリカが指を鳴らすと、オズヴァルドの前にいた彼女の姿が砂像のように崩れて消えた。後に残ったのは、一本の夕日色の髪の毛だった。
髪とエンリカを交互に見るオズヴァルドの背後から、ほほ、と老爺の軽快な笑い声が聞こえた。振り向くと、いつの間にかフィデンツィオがオズヴァルドの背後で口元を袖で押さえて笑っている。
「エンリカの魔法を見るのは、初めてでございますか、旦那様」
「え、えぇ……」
「彼女は己を髪を依り代に、分身を作る魔法を持っております。働き者が増えることは、使用人にとってありがたい存在ですよ」
「……アタシの魔法は、そこまで褒められるほどのものではありません。かなりの量の魔力を注がないと動いてくれませんから、大量に出すこともできませんし。精々《せいぜい》短時間の雑用をさせるだけですから、全然完璧じゃないです」
「それでも十分素晴らしい魔法だと、おれも思います。本当に見分けがつきませんでした。本物かどうかは、どうやって判別すればいいのでしょう」
オズヴァルドの疑問に、エンリカが白い手袋を外す。彼女の右手の甲には、十字と丸が組み合わさった赤い紋が描かれていた。
「アタシが魔法を得た時に、これが顕れました。分身には十字の紋しか出てきませんでしたから、区別のために浮き出たのでしょう。――アタシなんかより、フィデンツィオ様の方が凄い魔法をお持ちですよ」
ご覧になりましたか、とエンリカから問われ、オズヴァルドは首を横に振った。
ほほ、とまた梟のような笑い声を上げて、フィデンツィオが皺だらけの指を袖から覗かせる。指先が指し示した先には、回廊を歩くふたりの男神官がいた。
フィデンツィオの指が横に動かされると、男神官が同時に転んだ。彼らは何に躓いたのか分からないといった表情をしていたが、オズヴァルドには彼らの足元に白い糸のようなものが張られているのが見えていた。フィデンツィオが手を払うと、糸は神官たちに見つかる前に光の粒子になって消えていく。
クスクスと笑うフィデンツィオに、エンリカが呆れたような溜め息を吐いた。
「お人が悪いですよ、フィデンツィオ様」
「ほほほ! すみませぬ、つい」
「今のが、フィデンツィオ殿の魔法ですか? 糸のようなものが見えましたが」
「左様にございます。魔力で糸を作るだけの、粗末な魔法でございますよ」
そう言いつつ、彼は糸を器用に操って壁を這っていた蜥蜴を捕まえる。動物を傷つけず外へ逃がす鮮やかな手際は、熟練したものだとオズヴァルドでも分かった。
この世界に生を受けた者は、誰もが魔法をひとつ与えられる。火を出したり水を操ったりといった自然的なものから、エンリカやフィデンツィオのような特殊的なものもある。
――だからこそ、オズヴァルドの胸の内は重くなるばかりだ。
そろそろ中へ、とエンリカに促されたオズヴァルドは、頷きながらも下唇を軽く噛む。わずかに歪んだその口角に気づいた者は、恐らく、誰もいなかった。
◆◇◆
「オズヴァルド様、午後は神殿内を探検しましょう!」
昼食を終えたギルダに腕を引かれながら、オズヴァルドは中庭を囲む回廊を歩いていた。
朝は青空が見えていたのに、昼食を摂っている間に大粒の雨が降ってきた。また中庭で読書の続きをしようと思っていたが、どれだけ枝葉を広げた樫の木であろうと完全に雨を防ぐことはできない。読書は書庫でするかと思い、ギルダを誘おうとしたが先を越されてしまった。
竜姫の願いを断るなど不敬であるため、オズヴァルドは広い神殿を歩き回ることとなった。考えてみれば『化竜神殿』に来てからは私室と書庫、そしてギルダと共にいる中庭と『揺籃の間』しか行ったことがない。ギルダが竜姫となるまで暮らす己の家となるのだから、間取りくらいは知っておいた方がいいだろう――そう軽く考えて了承したが、すぐに後悔することになった。
ギルダは常に小走りで、リスの如く止まることなく動き続けている。普段から運動をしてこなかったオズヴァルドは、すぐに息が上がってしまった。数歩先で揺れる金髪を追うのに精一杯で、内部構造を覚えている暇がない。
「ここは何の部屋かしら。あっ、また物置です。もう三部屋目ですよ。お隣は……物置ですね。こんなに物置ばっかりあって、何をしまっているんでしょう? オズヴァルド様はご存知ですか?」
「さ、さぁ……」
膝に手をつき、肩で息をしながらオズヴァルドは返す。ギルダとは八歳ほどしか離れていないはずだが、体力の差がこれだけあるとは思わなかった。
書庫に籠るだけでなく、少しは歩いた方がいいかもしれない――そう考えながら息を整えていると、ギルダに顔を覗き込まれた。彼女は眉尻を下げ、心配そうな表情をしている。
「どうかされましたか、オズヴァルド様。どこか、お加減が優れないのでしょうか……」
「あぁ、いえ、何でもありません。ただ、己の体力のなさを不甲斐なく思っていただけでして……少し歩いただけでこの体たらくとは、情けない限りです」
「わたしも、自分ばかり先走ってしまって、すみません。今度はゆっくり歩いて、休める場所も探しましょうか」
そう言って彼女は、オズヴァルドの隣に並んで歩調を合わせてくれた。年下の妻に気を遣われていることに、オズヴァルドは伴侶としても大人の男としても恥ずかしさが募る。
だが、歩みを緩めれば見えてくるものもあった。薄灰色の石壁に嵌められた窓からは、遠くに臥海が見えた。やや時化ているのか、いつもは鮮やかな蒼色の海面も今は錆鼠色をして、水平線が白くぼやけている。
「わたし、雨ってあまり好きじゃないんです」
ギルダが窓に滴る雨雫の線を、指先でなぞりながら言った。
「ずーっと暗いですし、変わり映えのない景色が続きますから。……それに、外にも出られなくて、家の中にいなければなりませんし……」
呟くギルダの声は、どこか沈んでいる。
彼女は生まれながらに『忌み子』と疎まれてきた子供なのだ。両親のいる家だが、落ち着ける場所ではなかったのだろう。
島の民家は、太い樹木を柱にして木板の壁と屋根で囲った小さい小屋のようなものだ。個室などないから、家にいれば常に家族と顔を合わせることになる。奇数角で『忌み子』のギルダには、さぞ居心地が悪かったことだろう。両親が死亡した後はひとりで住むこととなったなら、今度は親の面影が残る空間で孤独に耐えねばならない。
それがどれだけ冷たく、痛いものなのか。オズヴァルドは理解できるからこそ、目の前の少女の背中がひどく小さく見えた。
「今も、雨はお嫌いですか?」
「……実は、ほんの少しだけ、好きになれたんです。雨はオズヴァルド様を連れてきてくださいましたから」
「おれを?」
「あの日は雨が降ってたのを覚えていませんか? わたし、オズヴァルド様が海岸に着いたのを、ここから見てたんです」
内緒ですよ、とギルダは悪戯っぽく笑った。
確かに、オズヴァルドが婚礼のために島へ渡ってきた時は小雨が降っていた。乗ってきたフェロフォーネの帆船が接岸したのも、ちょうどこの窓から見える弓形の海岸である。
ギルダはオズヴァルドより先に『化竜神殿』に移り住んでおり、廊下を歩いていたらたまたま見てしまったのだという。島民の漁船より何倍も大きな漆黒の船は、神殿からでもよく見えたことだろう。
「えぇっ!」
背後からひどく驚いた声が上がった。振り向けば、十歩ほど後ろにエンリカが立っていた。昼間の無表情からは一転して、目を丸くして唇を震わせている。
彼女はギルダの影従であるから傍を離れることはできず、だが伴侶であるオズヴァルドとの時間を邪魔することも許されないため、いつも気配を消してついてきていたのだ。ギルダが呼ばない限り姿を現してはいけない決まりだったが、それも忘れてしまっているほど焦った様子で駆け寄ってきた。エンリカはオズヴァルドを通り過ぎ、ギルダに詰め寄る。
「ギルダ、今の話は本当なの? あなた、婚礼より先に旦那様を見ちゃったの?」
「う、うん……」
「信じられない! 婚礼前に伴侶を見るのは外の穢れが移るからダメだって、神官長様に言われてたでしょう!」
「で、でも、お顔をはっきりと見たわけじゃないし、事故みたいなものだから大丈夫……」
「そういう問題じゃないのよ、このお馬鹿!」
怒られて苦笑するギルダと、額に手を当てて呆れるエンリカの間で、オズヴァルドはただ固まっていた。
昼の会話で、エンリカはギルダのことを憎からず思っていることは感じていた。だが、竜姫と影従の関係にしては気安すぎる。
オズヴァルドの存在を思い出したのか、エンリカが慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ございません、旦那様! ご歓談の邪魔を……」
「あぁ、いえ、構いません。失礼ながら……おふたりはご姉妹で……?」
オズヴァルドが大真面目な声音で訊いた問いに、ふたりは一瞬ポカンと呆けた。音がするほど首を大きく横に振ったのはエンリカだ。
「ち、違います! 私と竜姫様は血縁などではありません!」
「そうでしたか。変なことを言いました、忘れてください」
「オズヴァルド様、どうしてそう思われたんですか?」
「仲が良さそうに見えたもので……」
正直に感じたことを言うと、ギルダが声を上げて笑った。間違えてしまったのはこちらだが、こうして笑われると居心地が悪い。微妙な顔が表に出てしまったようで、エンリカが再度謝りながらギルダを諫めた。
「ごめんなさい、オズヴァルド様を笑ったわけじゃないんです。エンリカとは血の繋がりはありませんが、小さい頃からいつも一緒でしたから、姉妹というのもあながち間違ってはいないかもしれませんね」
「……狭い島ですから、子供はみな兄弟姉妹のようなものです。私と姫様はひとつしか年齢が違いませんから、よく面倒を見させられていただけでございます。私が影従として指名されたのも、単にそれだけが理由で……」
「違うわ。わたし、エンリカ以外に影従になってほしくなかったの。それに、わたしのことは『姫様』じゃなくて、いつもみたいに呼んでって言ってるじゃん」
「旦那様がいらっしゃる前で、そんなことできません!」
「オズヴァルド様はそれくらいで怒るような、心の狭い方じゃないから大丈夫よ!」
「……おれのことは気にせず。楽なようになさってください」
ほら、と笑顔を作るギルダに対し、エンリカは眉間の皺を深めて大きな溜め息を吐く。そしてギルダに失礼がないようにと強めに言い聞かせ、エンリカは離れていった。廊下の角を曲がって彼女の姿は見えなくなったが、そこで立ち止まって控えているのだろう。
オズヴァルドたちも神殿の探検を再開していると、大慌てで雨戸を閉め燭台に火を灯して回っている使用人たちと何度かすれ違った。雨だけでなく風も強くなってきたらしく、鳥の鳴き声のような甲高い音が聞こえる。
「あ、ここ……」
不意にギルダが足を止めた。そこは神殿の最奥にある『化竜の閨』だ。婚礼の際、契りを行った広間である。
重要な式典や祝祭の時にしか使われない聖堂のような場だと、オズヴァルドはフィデンツィオから聞いていた。故に、普段は重厚な木扉で厳重に閉ざされているはずだが、ほんの少しだけ開いており光の帯が床に垂れていた。
恐らく使用人が掃除かなにかをしていたが、雨の対応をするために出ていったのだろう――そんなことを考えていると、ギルダに腕を引かれた。
「入ってみましょう、オズヴァルド様」
「なりません、ここは神聖な間でしょう。神官長殿に叱られますよ」
「知られなければいいのです。それに、わたしは『竜姫』ですよ。わたしもいずれここに来ることになるのですから、後で入るのも今入るのも同じです!」
「そういう問題ではないかと……あぁ、ギルダ姫!」
オズヴァルドの制止も虚しく、ギルダは『化竜の閨』へするりと入っていってしまった。さすがに問題だったのか、エンリカも物陰から飛び出してきたが、一歩遅かったようだ。
エンリカは深々とオズヴァルドに頭を下げる。
「申し訳ございません、旦那様! すぐに姫様を連れ戻して参りますので……」
「いえ、止められなかったおれに責任があります。姫様が満足なさった頃合いを見て、おれが連れ出しますが……もし何か言われるようであれば、おれが誘ったということにしておいてください」
エンリカには扉の外で待つよう伝え、オズヴァルドは『化竜の閨』へと入った。
正直に言うと、オズヴァルドも興味がないわけではない。婚礼の時は滞りなく儀式が進むことばかり考えていたから、内観をじっくり見ている暇はなかった。何となくフェロフォーネ王国の意匠を感じていたが、やはり天井のアーチの架け方や、それを押し上げる整然と並んだ太い柱は、フェロフォーネでよく見る形式だ。故郷を離れて二十日と経っていないのに、いやに懐かしく思えた。
婚礼の時は誰かが魔法で光の玉を浮かばせていたから曇天でも明るかったが、今は雨戸も閉められ、燭台の頼りない灯りだけだから夜のように暗い。そんな中でも、ギルダの金髪は夜空に浮かぶ月のように輝いて見えた。
扉から祭壇までまっすぐに敷かれた臙脂色の絨毯の上に、ギルダは佇んでいた。中央に鎮座する竜の彫像を見上げている。
「竜姫は体が竜になり始めたら、ここに来るんです」
オズヴァルドが声をかけるより先に、彼女は言った。そして蝋燭に照らされ、赤みを帯びた褐色の手の甲に目を落とす。
「化竜が始まると、肌から鱗が生えて、爪が鋭くなって、体も大きくなっていくんです。お部屋を壊しちゃうから、こっちに移るんですって。どれくらい大きくなるかは分からないですけど、祖竜姫様くらいになっちゃったら、確かに大変ですね」
「祖竜姫様……?」
「わたしたちアロル人の祖である、一番最初の竜姫様です。この彫像は、その御姿を象っているんですよ」
誇らしげなギルダに倣い、オズヴァルドも彫像を見上げる。陰影がより濃くなっているからか、以前に見た時よりもおどろおどろしい。
ふと、オズヴァルドは隣りのギルダに視線を向けた。大きな丸い瞳に、細い首と、薄い躰――それがこの彫像のような、巨大な竜へと変わっていくというのだろうか。
オズヴァルドの視線に気づいたのか、ギルダが振り向いた。彼女は野兎の如く軽い足取りで、手近な長椅子に腰を下ろした。自分の隣をぽんぽんと叩いて、隣に座るよう指示される。言われた通りにオズヴァルドも座ると、嬉しそうに微笑んだ。
「お祈りをしましょう、オズヴァルド様。やり方は分かりますか?」
「いえ……」
「じゃあ、お教えしますね」
ギルダは両手の指を組み、そこに額を付けて深く頭を垂れた。オズヴァルドも同じように祈り、しばらく風と雨の音だけが聖堂に響く、静かな時間が流れた。
祈り終えたギルダが姿勢を直す音を聞いて、オズヴァルドも背を伸ばした。
「オズヴァルド様は、何を祈りました?」
「あ……えぇと……雨が早く止むようにと……」
オズヴァルドは咄嗟に誤魔化す。祈るといっても何を祈ればいいか分からなかったため、ただ外の音とギルダの挙動に意識を向けていたのだ。
ギルダは信じてくれたようで、花のような笑顔を浮かべた。
「ギルダ姫は、何をお祈りに?」
「わたしは、お礼を言ってたんです」
「お礼?」
「天上にいらっしゃる神様と祖竜姫様に、わたしを竜姫に選んでくださって、ありがとうございます、と。――……エンリカからお聞きになったかと思いますが、わたし、『忌み子』なんです。奇数の角を持って産まれた『不幸の子』……」
雨音に掻き消えそうなほど小さな声で、彼女はポツリポツリと話し出した。
産まれた娘が三本の角を持っていたばかりに、腕のいい漁師だった父と気さくな母は島民から避けられるようになってしまった。ギルダが痛い思いをして角を落とす儀式をして、差別をされない日々が訪れた。だがそれも角が再び生えてきたことで終わり、より強い恐れと共に避けられるようになった。
「わたしの父と母は……嵐の日に船を出して、海に落ちて死んでしまいました。島で一番の漁師だった父が、そんな天気の日に船を出すのがどれほど危険か、分からないはずがありません。針子だった母も、海に出る理由もないんです」
「ギルダ姫……それは、つまり……」
「わたし、置いていかれちゃいました」
ギルダの声音は明るい。まるで子供がちょっとした失敗を白状した時のような、諦めと軽さを孕んでいた。しかしその裏には、両親が入水した悲しさと独りになった苦しさが滲んでいる。
オズヴァルドは、何となく彼女が祖竜姫に礼を言った意味が分かった気がした。
もしギルダが竜姫に選ばれていなければ、彼女は今もひとりで、島民たちに忌避されながら暮らしていたことだろう。ただこの島に、一本だけ多く角を持って生まれてきたというだけで。
――だからこそ、オズヴァルドは彼女と『同じ』だった。
その時、隙間風がオズヴァルドたちの傍にあった燭台の火を吹き消した。別の蝋燭から火を分けようと思って腰を浮かせたオズヴァルドの袖を、ギルダが掴んで止めた。
「灯りなら、ここにあります」
そう言って微笑んだ彼女は、両の掌で空気を包みこんだ。すると、指の間から柔らかなオレンジ色の光が漏れて、ほのかに発光する花を内包した水晶の球が掌の上に乗っていた。
それは婚礼の時、まさにこの場に浮かべられていたものだ。オズヴァルドは驚いて得意気なギルダを見た。
「あれは、姫の魔法でしたか」
「はい。神官様たちが『灯りが足りない』と困っておいででしたので、お手伝いを申し出たんです」
ギルダがぽんと手を押し上げると、水晶は泡のように宙へと漂う。彼女は続けてふたつ、みっつと浮かべていき、聖堂内が柔らかな光で満たされた。
ゆっくりと眼前へ降りてきた球が、オズヴァルドの鼻先に当たって弾ける。透明な破片は花弁に変わり、微光を残しながら消えていった。
「ギルダ姫は、美しい魔法をお持ちなのですね」
「はい、これだけは両親によく褒められました。貴重な油を使わなくて済みますから。オズヴァルド様の魔法は、どのようなものなのですか?」
「……おれは魔法を持たずに生まれました。この世界に生れ落ちれば誰もがひとつは持つ魔法を、おれは持っていないのです」
「……えっ?」
オズヴァルドは自嘲の笑みを浮かべ、己の傷のない掌に視線を落とす。ギルダは一瞬無表情になった後、青褪めて立ち上がり深々と頭を下げてきた。
「ご、ごめんなさい! わたし、失礼なことを……!」
「いえ、どうかお気になさらず」
「……あの、どうしてなのか、お聞きしても……?」
「さて……なぜでしょうね。恐らく母親の胎の中で、双子の兄に奪われてしまったのでしょう。以来、おれはずっと日陰で生きてきました」
『ラ・ロカの日陰馬』――それがフェロフォーネ王国での、オズヴァルドの仇名だった。
フェロフォーネ王国騎士を代々輩出してきたラ・ロカ伯爵家の男児だというのに、オズヴァルドは何も持たずに生まれてしまった。剣を振るうための筋力も、上手に他者と渡り合う処世術も。そして何より、オズヴァルドは魔法を使えなかった。
魔法は富める者にも貧しい者にも、天より平等に与えられる力だ。火を灯すなり、水を操るなり、少なくとも十歳までには何かひとつの魔法が発現する。しかし、オズヴァルドは二十五歳になる現在まで、それらしい兆候は一切ない。
反対に、双子の兄であるアルフォンソは全てを持っていた。
国王に認められた剣の腕だけでなく、魔法も炎と氷を同時に操る珍しい二種持ちである。だがそれらを鼻にかけることもなく、誰の懐にもすぐ入り込んでしまうほど性格もいい。騎士として、貴族として、模範が人の形をしているような男がアルフォンソだ。
努力をしてオズヴァルドが一歩進んだとしても、アルフォンソが十歩も先を行っている。両親も出来の良いアルフォンソだけを溺愛し、名前を出せば主人の機嫌を損ねることになるため、使用人や領民たちもオズヴァルドのことを『日陰馬』と言うようになった。
オズヴァルドは常に兄の陰にいる、どうしようもない出来損ないなのだ。
「両親には『なぜ魔法を持たずに生まれてきた』と、散々詰られたものです。跡継ぎにならない貴族の男は『塩の馬』となって他家へ婿へ入ることが一般的ですが……おれは魔法も使えない駄馬ですから、こんな年になるまで『いないもの』として放っておかれました」
「ひどいです……! 子供は天の意思で生まれてくるものだから、オズヴァルド様にはどうしようもないことなのに」
「えぇ、魔法も角も、おれたちにはどうしようもできない、迷惑な話です」
そうでしょう、とオズヴァルドが問う真意を、ギルダはきちんと汲み取ってくれたらしい。
オズヴァルドの境遇に頬を膨らませていた彼女は、一転して笑顔になった。
「ですね! ほんと、迷惑です!」
「えぇ、本当に」
胡桃が転がるような声で笑うギルダにつられて、オズヴァルドの喉奥で笑みがもれた。
オズヴァルドも彼女のように、迷惑な運命を背負わせてきた神と祖竜姫に礼を言った方が良いだろう。日陰にいたオズヴァルドを、あの息苦しい邸から連れ出し、ギルダという素晴らしい女性と巡り合わせてくれた。真夏の日向のような彼女の隣りは、とても息がしやすい。
――あたたかい。
意識に浮上してきた感情は、オズヴァルドの冷えた胸の内で小さな灯となり、瞬く間に脳天から爪先までを満たしていく。
遠雷と共に、オズヴァルドは確信した。
自分の魂は、彼女と生きることを望んでいると。