第1話 巨星、墜つ…
一八七七年、九月
黒田は、走っていた。
当時の彼は薩閥の中でも選ばれた存在であった。
公的であれ私的であれ、当時の彼は彼は馬車によって目的地、霞ヶ関にある大久保邸を目指せたはずである。しかし彼は“走って”向かっていた。走らなければ、足にじんわりと焼き付く地面の熱を感じなければ、彼は落ち着けなかったのである。
西郷 明治維新を引っ張った 一人の男が 死んだ
部下たちの静止を振りきって走りだした彼は、
大久保の自室の前についた。
「了介です。失礼しもんそ。」
覇気はなけれども、
おどろおどろしさを持った黒田の声が届く。
「いいだろう。はいりたまえ。」
大久保の声が完全に黒田に届き切る前に彼は扉を開けた。
大久保の姿は普段通りではなかった。普段なら、彼の髪や黒々とした髭に塗られたポマードとともに、常に怪しい光を帯びたはずの目に涙が溢れていた。
「天地入れざる朝敵たる、西郷は死んだ。」
普段通りを装いながらもよわよわしい声で大久保は言った。
「一蔵いちぞうどん、無理してソげなこと言わんでよか。どないしたとじゃ。ないごて京の言葉を使うとか。なして…なして…」
大久保は京に上のぼり政治的な仕事をし始めてからはほとんどを“標準語”で話していた。
それを踏まえて黒田は「なぜ西郷という無二の友たる人物の死に対する悲しみを、標準語を使い、ごまかすのか。」…と言ったわけである。
大久保は黒田の問いかけに答えず、座っていた席を立ち黒田の近くで立ち止まる。
「おはんの死と共に、新あたらしか日本が生まれる。強か日本が……」
大久保はそう静かに呟つぶやいた。黒田はそれを聞き、慟哭し膝から崩れ落ちてしまった。
皆を引っ張り、支え、戦った。西郷は死んだ。
「おいがこん話し方で話すのはこれが最後じゃ。あんしのためも、薩摩で…いや、皆で日本を作り直さなきゃならん。そんためには、おんしの力が必要じゃ。」
ふり絞しぼった声で大久保はそう言った。
「わかっちょる、わかっちょる…じゃっどん今は泣かせてくれ。一蔵どんのぶんも、吉之助きちのすけさぁのぶんも。」
黒田は泣いた。自分の先を走る二人の分まで。
そうして泣いて泣き切った彼には、鬼が宿った。その鬼は彼を日本を引っ張る総理大臣にまでならしめた。しかし鬼はその時、
“どうしても腹がすいていたのである”
明治11年9月24日、東京 大久保邸
西郷の死から、歴史は大きくうねりだす。