冥婚 其の8
「なんじゃお前ら!!」
酒井氏の興奮はピークに達しているようで、何の躊躇も無く尖った瓶をこちらに突き出してくる。
それとも1人殺してしまえば、2人も3人も同じようなものだと思っているのだろうか。
「あぶ!」
身体ごと後ろに下がり、それを躱す。
…が、足元に散乱するゴミを踏み、危うく転びそうになる。
バランスを崩しながらも何とか踏みとどまり、ついでに机の上にあった酒瓶を拝借する事にする。
勿論、こちらは瓶を割るような真似はしないが。
「調子乗るなや!」
ブンブンと瓶を振り回しながら、俺に向かい突進してくる。
だが普段から身体を鍛えてもいないオジサンの動きはそこまで速いわけでもなく、なんなく横に避ける事ができる。
その際、足元のゴミを蹴飛ばし、床にスペースを確保する余裕もあった。
「ガキがぁ!」
横薙ぎに振るわれた瓶が、腕に巻きつけた上着を引き裂く。
思った以上の切れ味に麻痺していた恐怖心が顔を覗かせるのが分かる。
「くそっ…こうなりゃこっちも遠慮はしないからな!」
「やってみい!お前らかてただじゃすまんぞ!」
「いやいや、アンタがそれだけ殺意剥き出しで襲ってきてる以上、正当防衛が成立するでしょう…ねぇ部長?」
自信満々で部長に声をかけるも、返ってきたのはあまり喜ばしくない返事であった。
「いやぁ…我々は酒井氏の家にいるからねぇ…」
「どういう事です?」
「不法侵入してきた賊に立ち向かったとでも証言されれば…途端に我々が悪者になるだろうね…はは」
「何ですかそれ!?」
「そうなるとむしろ酒井氏に正当防衛が適応されてしまうんだなぁ…」
「俺達が殺されてもですか!?」
「警察関係に信用があるとすればその可能性も高いかもしれない…」
俺と部長はしばし黙り込む。
「そっちのお前はよう分かってるみたいやな、金目的の強盗が返り討ちにされるだけや」
「これ…逃げても通報されたら俺達が悪者になります?」
「我々が先に通報したとして…警察がどこまで我々を信じてくれるかだけど…どうだろうね…」
「なんで…そんな…先に言ってくださいよ…」
「いや…私もまさかこんな事になるとは…」
なんという事だ。
現代の法律では、息子を殺害し、更に大学生を2人殺そうとしている人間が無罪になると言う。
それどころか、その事実を突き止めた俺達が悪人になる可能性も低くないと言うのだ。
「録画とか録音してなかったんですか?!」
「してた!していたんだよ!だからそれを今突きつけてやろうと思ったんだよ!」
「じゃあお願いしますよ!」
「してるはずだったんだけどね…どうもポケットに戻す際に誤って機器の停止ボタンが押されたようで…その…」
「何やってんですか!」
「不可抗力という奴さ!」
「お前等が向こうで息子の友達になってくれたらそれで幻も消えるかもしれんな…」
酒井氏の奥さんがこちらを向いてニヤニヤしているのが視界の端に映った。
それに気を取られてしまった。
ブンっと風を切る音がしたと思った瞬間、ガツンと頭に衝撃が走る。
「ぐあっ!」
酒井氏が持っていた瓶を俺めがけて投げつけたのだ。
目から火花が散り、景色がグワグワと揺れる。
不幸中の幸いであったのは瓶の側面が当たった事だ。
頭部に割れ口が刺さっていればそれこそ無事では済まなかっただろう。
「うぐ…」
映画等で瓶で人を殴った時に瓶が粉々に割れるシーンをご覧になった人も多いのではないだろうか。
あれは飴で作った偽物なので、簡単に割れるし、迫力のあるシーンが撮りやすい。
だが実際のガラスの瓶というのは思っている以上に割れ難く、重い物である。
俺の頭に当たった瓶も割れる事無く、むしろ俺の額がパックリと割れて、鮮やかな赤色が吹き出した。
ちなみに瓶を割った際に、割れ口が尖る事はあっても、ギザギザとサメの歯のようになる事もない。
これを知った人はぜひ軽い気持ちで空き瓶を人に叩きつけないように心掛けて欲しい。
「死んでまえ!!」
酒井氏はそのまま蹲った俺を殴ろうと襲いかかってくる。
「景君!!させるか!」
間に部長が割って入るも、俺の代わりに拳の乱打を喰らう。
「ぐ!うぐ!」
「部長!」
「舐めやがって!舐めやがって!」
口の端から泡を飛ばしながら、酒井氏は我を失った様に殴り続ける。
「舐め…」
だがその拳がふいにピタリと止まる。
「ぐ…むむ?」
「ど…どうし…」
俺と部長が顔を上げると、酒井氏は廊下を見つめながら完全に停止していた。
視界の端にいる奥さんも同じ様に真顔で廊下を睨みつけている。
「な…何が?」
「わかりません…廊下…何かあります?」
「廊下?」
部長が廊下に視線やるも、そこには何も無いようだった。
「いや、何も…ゴミがあるだけだよ」
俺もボヤつく視界で確認してみるが、何も変わった様子は無い。
にも関わらず、酒井夫妻は身動ぎひとつせず、廊下をただ睨みつけている。
「……なんや?文句あんのか?」
俺達に向けられた言葉ではなかった。
「お前が悪いんやろが…親に感謝もせず…それどころか恩を仇で返すような真似しやがって」
「お父さんに謝りなさい」
「何か言うてみい!いっつもいっつも恨めしそうにこっち見てきやがって!!」
夫妻は廊下に向かって怒声を浴びせる。
「…明氏が見えているようだ」
「そうみたいですね…」
「景君にも見えないのかね?」
「見えませんね…本当に…幻覚なんでしょうか…?」
「景君にも見えていないならそうなのかも…」
そう言いかけた部長の言葉が止まる。
「ええ加減に…!な…なんや!?ああ!?なんやお前!!おごっ!ぐむ!!」
突然、酒井氏が喉を押さえ、苦しみ始めたのだ。
「やめなさい!明!!」
「おま…!親に!ぐぐ…手…あげ…ごほ!」
「明!!」
「やめ…死…息が…」
「明ぁ!!!」
俺達はグニャリと完全に脱力しているにも関わらず、その場に直立している酒井氏をどうする事も出来ず見つめていた。
「あき…ら」
糸が切れたかのように、酒井氏がドシャリと崩れ落ちた後、次は奥さんの方だった。
「っか…こ…許し…お母さ…止めた…」
ギシギシと喉の締まる音と、母親の懺悔だけが響く。
「………」
「………」
俺達はそれをただ見つめる事しかできず…。
「助け…」
奥さんが崩れ落ちるその瞬間まで、指一本動かすことができないでいた。




