てけてけ 其の8
ジリジリと後退りをしながらゆっくりゆっくりとそいつと距離を取る。
そんな俺の動きをそいつはジッと真っ黒な目で見つめている。
「本当に…こいつは何なんだよ…」
俺の靴がジャリと音を立てた瞬間…そいつの指先がピクリと動いたのが見えた。
そしてそれを合図に俺はクルリと振り返り、思い切り駆け出した。
「ふっ!!」
短く息を吐き出してダンと地面を蹴る。
背後からは俺の足音とは違うジャリジャリと地面を引っ掻くような音…間違いなくアイツが俺を追いかけてきている。
「学校まで行けばいいだけだ…ハッ…ハア…」
そうは思うが、その道のりは険しい。
全速力で走ってたんじゃ、とてもじゃないがスタミナが持たない…なんせこっちは運動不足真っ盛りのグータラ大学生だ。
しかしながら実は俺には高校時代にサッカー部で散々走り込みをさせられた過去がある。
万年補欠は走り込みくらいしかさせてもらえなかったというのもあるが…
「あの辛い日々がここで活きるとはね…」
衰えたとはいえ、まだまだそれなりに体力は残っているし、走る速度だってかなり速い…
「………ハズなんだけどな…」
そう、速いハズなのだ。
同い年の人間の中でも上位に食い込めるのでは?と自負する程度には。
けれど後ろから聞こえる足音…いや手音とでも言えばいいのか…
地面を擦りながら追いかけてくるその音は一向に離れる様子がない。
ジャリジャリと爪の擦れる音だろうか?それを響かせながら一定の距離を保ったまま着いてきている。
こちらが走る速度を上げれば向こうも上がり…少し速度を落とせば向こうも少し遅くなる…
だからといって一旦止まってみるというような冒険はできなかった。
「それはさすがに怖すぎる…」
相手の正体も目的も何も分かっていない、分かっているのは人間でないてけてけもどきだと言う事だけだ。
だがてけてけの要素が僅かでもあると言う事は、捕まった時にてけてけ同様、下半身を持っていかれる…なんて事もあり得るわけだ。
「ハァ…ハァ…最悪だ…ハァ…」
曲がり角を曲がる時にチラリと視線を後ろにやる。
当たり前のように追いかけてきているそいつは、両手を同時に地面に叩きつけ、ダンッと勢いよく飛び、また両手を地面に叩きつけて…というのを繰り返しながら移動していた。
イメージしてもらうなら、犬や猫がトップスピードで走る時の前足と同じような感じだ。
そしてそれだけの激しい動きにも関わらず、その顔は相変わらずの無表情だった。
『てけてけの名前の由来は肘で這って追いかけてくる時の音らしいよ』
部長のそんな都市伝説豆知識が思い出され、心の中でブーイングをしておく。
「全然…這ってないじゃないっすか!」
姿を見たことで恐怖が倍増するのが分かる。
それと同時に後ろから一際大きなダンッ!!という音。
何が起こったのかは分からないが、ただ『ヤバい』という感覚を感じ、俺もグンと加速する。
ドシャ!!だか、ガチャ!!だか、何かが大暴れしてるような音。
直後、俺の真後ろ、本当にピッタリ真後ろ。
耳の裏に生暖かい、確実に何者かの呼吸であるフゥフゥという息遣いを感じる。
「うわあぁああぁああ!!」
恐怖心で意識を手放したくなるのを、絶叫で抑え込む。
「クソッタレ!『地獄に落ちろ』!!!」
振り向けない、当然振り向けはしないが、ありったけの声でてけてけを追い払う呪文を叫ぶ。
「…………どうだ?」
………しかし真後ろの気配が消える事は無く、耳元の一切乱れていない呼吸も健在であった。
「なんだよもう…なら…こいつは」
ポケットを弄り、千影さんに貰った飴を取り出す。
いかんせん距離が近すぎるのが難点ではあるが、走りながら呼吸の聞こえる耳元に向かって飴を投げつける。
コツン
と軽い音を立てて飴が当たったのが分かるが、やはりと言うか当然と言うか、何の効力もない。
しいて言うなら俺の呼吸が乱れてしまっただけである。
「だと思ったよ!!」
けれど1つ収穫があった、それは『相手に物理的に物を当てる事ができる』というのが分かった事だ。
その気になれば思い切り殴りつける事もできるんじゃないだろうか?
人間だけはすり抜けるとか、そんな理不尽な追加ルールがあった場合はその限りではないが…さすがにそれは無いと信じたい。
「でも肉弾戦は勘弁だ…」
あの太い腕、これだけの運動量で息も切れないスタミナ、そんな化物と殴り合って勝てるビジョンなど見えるはずがない。
成人男性の握力の平均がおよそ50kgw、ゴリラは400〜500kgwと10倍近くあるというのを聞いた事がある。
俺の後ろのこいつもゴリラには及ばないにしてもぶっとい腕をしている、掴まれたら簡単にミンチにされるんじゃないだろうか…
まぁこんな化物に常識が通用する気はしないので、もっととんでもない力を秘めているかもしれない。
ゴリラと言えば、『ゴリラの血液検査は全てB型である』とか『ゴリラの学名はゴリラ、ゴリラ、ゴリラである』なんて有名な豆知識があるが、それらはニシローランドゴリラ限定らしいので全てのゴリラに当てはまるわけではないとのことだ。
「くそ、思考が…どうでもいい事を…」
危うく現実逃避しそうになる脳みそを必死で現実に繋ぎ止める。
恐怖と疲労でどうにかなりそうだったが、視界の奥、まだ距離はあるがようやく目的地の学校の壁が見えた。
「安心するのは早いけど…ようやくだ」
後ろの息遣いはまだ聞こえている。
それが時折、クク…と短く笑っているような気がした。
年明けから辛い出来事が続いていますね。
どうか皆様が息災でありますように。




