第一話
俺は普通の会社員、稲垣 透。
今日でちょうど30歳になる。
俺は、生まれてこの方、この世に存在しない人間だった。
もちろん、実際に存在していない訳ではない。所謂比喩という奴だ。
会社では、空気の様な扱いを受けており、仕事以外の時は一切声をかけられない。
誰にも必要とされてないし、気にもされていない。それが俺だ。
影ではいつの間にかそこにいたりすることから、幽霊なんてあだ名で呼ばれているらしい。
恋人もいないし、ましては友人すらいない。人との付き合いが希薄な人生を送ってきた。
そんな、誰からも必要とされていないし、自分も必要としていない毎日を過ごしている内に、一つの疑問にぶちあたった。
【どうして、俺は生きているのだろう。】
動物は子孫を残すために。
隣の席の太田は趣味のアウトドアのために。
最近結婚した課長は、奥さんとお腹の中の子を守るために働いている。
【じゃあ、俺は?俺には何がある?】
そんな考えが頭をよぎった時、異様な焦燥感と共に、自分が歩いてきた道を振り返った。
…そう。そこには何もなかった。
何を成した訳でもない。何か目的がある訳でもない。ただ、漠然と歩いてきた道。
昔からそうだった。
優しい両親に育てられ、特に、不自由はしなかったが、同時に、希望も無かった。
常に宙に浮いている様な感覚。
どこにも足をつけていない様な感じだった。別に何が悪いわけでもない。しかし、ここは俺の居場所じゃない。そんな事をいつも感じていた。
そして、気がついてから迷い考えて一週間後。
俺は今、自らの人生に終止符を打つために会社のビルの屋上にいる。
既に、柵を背に立っていた。
家のものは全て片付けた。目的もなく溜まり続けた金は今まで育ててくれた両親の住む実家のポストの中に入れてきた。
「そろそろ、死ぬか…。し、しかし、思ったより高いな」
ビビりながら、柵を手放そうとした時、不意に声が聞こえた。
「おい。にいちゃん自殺は大罪だぞー。」
後ろから突如として聞こえてきた何やら鈴のような楽しげな声。
「え?」
思わず声が出る。今、時刻は深夜21時。
すでに会社には誰もおらず、それを見計らってから屋上に上がってきたはずなのに。
振り向いてみると、妙な格好をした少女が身長よりも大きく立派な箒を手に、ニヤついていた。
「よっ!」
少女は空いてる右手を軽くあげると、ニマッと笑った。少女というよりは少年のような印象を覚える笑みだ。
みるに、背丈は140センチほど、小学生か、中学生くらいに見える。
絹のような長い金髪に、体のラインが所々に現れる真っ黒なワンピース。そして、これ見よがしに主張する魔女帽子。
腰にぶら下げた大きなベルトにはフラスコや、試験管がいくつか留められていて、彼女が少し動くたびにカチャカチャと音を鳴らした。
「ま、魔女だ…。魔女がいる…。」
気付いたら俺はよくわからない発言をしていた。
魔女なんて存在するはずもないのに。
「よくわかったな!俺は魔女だ!」
自らを魔女と名乗った少女は可愛らしくポーズをとって軽くウインクした。
どうしてこんなところに女の子が?しかも、ここは会社の敷地内だ。セキュリティで引っかかってしまう為、この場に女の子がいる事を不思議に思った。
「な…」
そこまで言ったところで少女は俺の言葉を遮り話し出す。
「なんでこんなところに女の子がってか?
まぁ、俺は女の子って歳でも無いんだがな。」
少女はクスクスと蠱惑的な笑みを浮かべた。
か、考えを読まれた!?
「まぁ、どうでもいいや。単刀直入に聞く。
お前、【童貞】だろ?」
ニヤニヤしながら彼女は言う。
「へ?」
唐突な言葉に俺は唖然とした。
なんで初対面でいきなり童貞扱いされにゃならんのだと。
それと同時に腹立った。30歳前後の男を捕まえて「童貞だろ?」だと?そんなに経験なさそうな顔してたってか?
変にプライドのある俺にとって、童貞という言葉は妙に心に突き刺さった。
まあ、童貞なのは事実だが。
「顔見りゃわかるよ。割と整ってはいるけど、自信なさそうな顔してるもんな!こらこら、泣きそうな顔すんなって。」
少女はケラケラと笑う。
なんなんだこの子は…。俺の心を万力で潰してくる…。
俺は半泣きになって運命を呪った。
どうして死の間際にこんな小さな女の子に馬鹿にされなきゃならんのだと。
俺は女に縁のないつまらない奴だと馬鹿にされながら一生を終えるのかと。
「そんな残念なお前に朗報だ。こいつをやるよ!俺の自信作だ。」
そう言って少女は一冊の分厚い本を俺の目の前に投げてきた。
何やら立派な装飾のされた、分厚い本だ。表紙には円に囲まれた六芒星が描かれている。
「なんだこれ…。」
柵の隙間から手を伸ばし
拾い上げてみると、本は鈍く光った。
その様子を見て、少女はとんでもない言葉を言い放った。
『ふふふー。やっぱり俺の目に狂いは無かったな!
お前、魔女になる素質があるぜ』
「へ?」
俺は少女の突拍子のない言葉が理解できず、目を丸くしたのだった。