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三月八日(木曜日)
見知らぬ天井。
というわけではない。ここが病室であることはすぐわかった。
体もすぐ起こすことができた。ベッドの脇の机に誰かのスマホが置かれていた。私はそれを拝借して日付を確認する。
三月八日 十六時十三分
良かった一日しか過ぎていないじゃないか。
卒業式はとうに終わり、卒業生は浮足立ちながら二次会に向かっていることろだろう。
先輩は好きな子に思いを伝えられなかったんだろうか。
その子は先輩と付き合うだろうか。
どうせなら先輩を抱き寄せたあの時、もっと先輩を満喫するべきだった。あれっていわゆる床ドンじゃないか。結局連絡先もなにも知らないままだった。もっと冷静に、計画的になれていたら違ったのだろうか。
……でもまあ、気持ちは伝えたじゃないか。これでいいじゃないか。
だから、涙を流す必要なんてないんだ。
たとえそう思っても、私の瞳から滴る雫は留まることを知らず、ただ純白のシーツを濡らしていく。
どれだけ嗚咽を押し殺しても、無音の病室に響き、私をどこまでも孤独へと誘った。
いくら拭っても止まぬ涙にいらだち、私はふるふると首を振った。
その時だ。
ふと、視界の端に見知らぬものを捉えた。ベッドの横に備わった見舞い者用の椅子の上、自分のじゃない学生バックがあった。
色あせているのに傷が少なく小奇麗で、持ち主の几帳面さを伺える。
――一体、誰の?
私が疑問を覚えていると、不意に病室の扉が開いた。
外の喧騒が押し寄せるように部屋を満たし、私の声を消し去る。
反射的に扉の方を見ると、
「どうしたの?」
先輩が不安そうな顔で私に駆け寄ってきた。
――なんで?
思わず呆気に取られていると、先輩が笑いかけてきた。
「名乗ってくれないと、わからないよ」
「どういうこと、ですか?」
困惑する私に、ハンカチを差し出すと、先輩は話し出した。
「あの時と見た目が変わりすぎだよ。それじゃわからないじゃん」
あの時、というのは階段から落ちた時か。
私は長くなった自分の髪を弄ぶ。そういえば、肌も白くなっていた。
「だから昨日君に告白された時、君と気づけなかった」
先輩が椅子の方へと回り込む。
そして鞄をどかし椅子に座った。
「あの時は、ありがとう」
そして陽だまりのような声で、私に告げた。
「いや、助けてもらったのは私ですよ?」
「でも、僕は助けきれなかった」
「それで、落ちちゃったじゃないですか」
私の言葉に先輩は首を横に振る。
「でも、君は僕を助けてくれたんだ。僕が怪我しないように抱き寄せてくれた」
先輩はゆったりともう一度立ち上がると、一呼吸いれて言葉を紡ぐ。
「覚えているかな、あの時、君は『よかった』って言ったんだ。自分は血を流しているのに、自分は僕に乗られているのに、そんな言葉出るのってきっと本当に優しい人だけだと思うんだ」
「それに、昨日だって、自分は断られたのに『頑張って』って言ってくれた。間違えなくいい子なんだなって確信した」
そして先輩は前かがみで私を覗きこむような姿勢を取り、
「だから、付き合ってくれませんか?」
私にはにかんだ。
恥ずかしくて、嬉しくて、興奮して。
私は震える手で先輩を抱きしめた。
しかしそこでぷつりと体力が切れた私は、態勢を崩された先輩とベッドに倒れてしまう。
ああ、たぶん、あの時と同じ状態だ。
二つの笑い声が、病室を満たした。